カンブリアン詩学 waseda2023


早稲田大学文化構想学部の学生42名による、リアル・生成AI混成カンブリアンセッション早稲田2023
樹が育ったあと、連衆それぞれが、自分のリーフを含むフローと含まないフローを選び、セッションの感想を述べた
(2023年6月5日)

AkaneY

フロー

食べられる?


内から外へ


感想

今回AIとともにカンブリアンゲームを行ったことで、より面白い表現をしたいという感覚が生まれました。これは、ほかの人のフローの中で予想もしなかった変化が起き、それぞれのタイトルの中で遊びが生まれていたからだと感じます。最初のうちは、元の画像にどれくらいかぶり、どれくらいずらした写真が手元にあるかを探すことを楽しんでいました。そのうちに、自分の画像に連なるものが予想外であればあるほど面白いと感じるようになりました。後半では、先端のほうにある新たに足された画像のほとんどがAI画像だったため、あえてリアル画像で対抗しようと思って試みましたが、なかなかつなげられる画像がなく苦戦しました。これは、AIの出力する画像が極彩色のものが多かったからだと思います。構図も独特なため、リアル画像ではつなぎにくかったです。AIで画像を生成する際に、自分がイメージした画像が出力できたことはほとんどありませんでした。しかし、想定外だからこその面白さがありました。想定していた画像ではなかったためなかなかカンブリアンゲームに組み込むことはできませんでした。自分の想定していた画像ではなかったものの、突拍子もない画像にはならなかったため、もっと予想を裏切るような画像を生成できるプロンプトを研究できればと思いました。また、Stable Diffusionで生成する際にはスタイルに非常に左右されるため、この感じで出したいと思ってもかなり形式に引っ張られて出しづらかったです。特に、漫画やアニメっぽい線画風の絵で出したいときにも、2010年代のラノベ風の絵で出力されてしまうことには困り、あきらめてしまうことも多かったです。風景画はかなり想定通りのものが出力できましたが、想定通りゆえに面白さに欠けました。わがままな要望だとは思いつつも、自分の想定する路線で想像を上回った作品を出力することの難しさを感じました。ほかのフローをみると、「集合体」というつながりのリーフが多かったのが印象的です。

interstate

フロー

嘆きからの誕生


ビルのケーキ


感想

誰か他の人が投稿した画像につづけて投稿しようとした際に、最初のうちはAI生成による画像を投稿することに若干の抵抗があった。事実、最初の数日は現実の画像を投稿することが多かった。しかしながら、講義を通して半ば強制的に毎日投稿を義務づけられるようになると、現実の画像ー自分が撮影した画像の中からでは、自分が思い描くような特徴をもつ画像を見つけ出せなくなっていった。そこでAIを使った画像を投稿し始めたのだが、いざ使い始めると面白さに気づき、フローに投稿した画像以外にもさまざまな画像を生成した。ロナルド・レーガンがサーフィンをしている画像であったり、フェラーリ・ローマとF355のデザインを融合させた画像を作ってみたりなど、脳内でつくりだすしかなかったイメージが、実際に画像として出てくることに感動した。一方で、自分の思い通りに行かないことも数多くあった。例えば、愛・地球博の公式キャラクターであるモリゾーとピッコロを蓑虫風にした画像を生成しようとしたが、うまく行かなかった。AIがまだ認知できていないようなワードがまだ数多くあるのだなと実感した。加えて、自分が脳内でイメージした画像が出てこなかった場合、少しイライラしてしまい、何度も同じプロンプトを行ってしまうこともあった。また、プロンプトをする際に意識していたことがある。日本語でプロンプトするよりも、英語でプロンプトすること。できる限りプロンプトするワードを絞ること。形容詞的表現もなるべく絞ること。名詞は3つまで。この数点は、プロンプトする際に特に気をつけるようにしていた。あまり多くの情報を入れすぎると、自分がイメージした画像が生まれにくい傾向があった。
一方で、とあるフローにつなげようと思い作成した画像が、自分の想像とは180°違うものだったことがあった。これはこれで面白いと思いその画像を保存した所、全く違うフローに繋げることができた。こういった一種の偶然性も、フローを作成する中で面白いと感じた。

knmr_2

フロー

細胞の輪廻


ガラス越しの仮想


感想

現実と仮想は交わらない。交わらないからこそ、仮想は仮想としての存在が担保されていると思っていた。しかし、このカンブリアンの世界の中ではそれらは簡単に混ざり合い、相互に影響を及ぼしていく。それが少し怖くもあり、新鮮でおもしろい環境であった。
私はページに上げられた画像を眺めながらR(現実)の写真を上げたいと考えていると、今までに自分が鑑賞したことのある美術作品が頭に連想されることが多かったため、私が制作したのではない芸術家の作品の写真を上げたことが何度かあった。ここには、芸術作品に対して常にその裏にあるメッセージ性や意義を読み取る行為と、カンブリアンゲームにおいて存在する写真からその先を連想する行為における関連性があるのではないかと推測した。
そういった意味で、カンブリアンゲームに掲載された写真はページに載った瞬間、ひとつの作品としてのメッセージ性を持たざるを得なくなるというのが面白い場所であると感じた。何気ない瞬間を撮った深い意味のない写真であれ、ここではその画像の持つ意味を深掘られてしまう。その「深読みのし合い」が連なっていく様子が、フローを生成することで可視化されるのがこのカンブリアンゲームの魅力ではないだろうか。
また一方で、私はAI画像を繋げたいと思った場合は、細かい具体的なイメージを想像することを放棄し、カンブリアンゲームに掲載された画像から想像したワードだけをAIに命令し、その言葉からのアウトプットはAI側に全てを委ねることで、自分の想像の中では起き得ない斬新なイメージが出ることを狙って生成した。このゲームにおいてAIを使う意義とは、人間の常識的な想像の範疇に収まらない非現実的な世界をR(現実)写真と繋げて介入することで、現実に今までにない視点をもたらすことだと考える。実際に私は自分の投稿したR写真(フロー①羊の作品の写真)にAI画像(砕けていく人)が繋げられたことにより、この作品に対して生命の有限性、破壊されていく命としての視点を初めて持つこととなった。
このゲームを通して、現実と仮想の混同は時に危険をもたらすこともあるが、既存の視点の破壊・創造という点では非常に魅力的で、新たなアイデアや考えを生み出すのに効果的な行為であるのだと知ることが出来た。

rinsato

フロー

火は燃ゆる


mikan pop



感想

カンブリアンゲームに参加するにあたり、初めは何も考えず手持ちのリアル画像ばかり投稿していたのですが、AI生成に手を出し始めてからは、圧倒的に枝を伸ばしやすくなりました。この画像にこういう画像を繋げると楽しいだろうな、と思ったときに、AIの力を借りれば、限りなく近い画像を作り出せる。そこがAIの革命的な点だということを、頭では分かっていましたが、実際に使ってみるとその便利さに恐ろしさすら感じました。絵を描くのとは違って、「見たまま」を写せるカメラを超える機械はもう現れないだろうと思っていたのですが、AIは「見たまま」を超えて「思い描いたまま」を作り出せるということが、その恐ろしさの根源なのではないかと思いました。
AI生成時、私は比較的、思い通りのものが作れてしまいました。というのも、他の学生に比べて、おもしろいものが出来上がりそうな、ひとひねりあるプロンプト(Umeboshi guy、オタマトーンなど)が全くもって思い浮かばなかったからです。そのため、思い通りのものができない!言うことを聞いてくれない!と思った回数はそう多くなく、AIを調教することの難しさよりも、自分の発想力の乏しさを痛感しました。AIを使ってこの世にないものを生み出すには、それを操る人間の発想力や芸術性の高さも必要であるということを学びました。 プロである先生が提示してくださった過去のAI生成画像を見ても、その傾向はあると感じました。面白い画像を生成するコツ、プロンプトは、ぜひ先生や他の学生から学んで、これから始まるであろうAI時代に備えたいです。
余談にはなりますが、今回のカンブリアンゲーム中、何度も「いいねボタンが欲しい!」と思いました。自分が投稿したリアル画像のオタマトーンに、他の学生がAI生成のオタマトーンを繋いでくれたのを見た時とてもうれしく、AIの使い方のうまさに感動したのですが、こちらからアクションを起こすことが出来ずもどかしい思いをしました。各々が芸術作品を繋いでいく場において、他人からの評価が数字で可視化されてしまうのは、あまり良くないのかもしれませんが…SNS的な交流の仕方に慣れてしまっているので、何度かいいねボタンを探してしまいました。

Kouki

フロー

命で眠る


意図されたキメラ


好奇心の先


感想

リアルもAIもよく似通っていた。それらは必ずしも製作者が意図したものではなく、偶然性が光っていた。ただその性質は異なっていて、リアルの画像ではその写真を見た人が偶然見出したものであるのに対し、AI画像では製作者は文字を入力する以外に力はなく偶然意図とはそれた画像ができる。そのような点でリアルとAIは似通っているが、偶然を作り出す対象が違っていてとても面白かった。特に私が腐心したのはAIによる制作である。最初は自分が狙った画像をどうすればAIは汲み取り作り出してくれるかと勤めていたが、次第に対照的なワードを組み込みAIに身を任せるようになった。特に「真っ白な墨を吐くイカ、水銀」とMemeplexに入力して出来上がった画像は自分の中でも傑作であった。水銀と入れたことでイカに今以上の軟体性を獲得させることは意図したものであった。しかし真っ黒な空間に渦巻く白いイカの姿は厳かで、私こそがイカだと思わせられたため題名も「The イカ」と名付けた。AI画像制作に熱が入ったのはその瞬間である。また、概念をAIに描かせることも非常に楽しく興味深かった。著作権の絵を描けと人間に指令すれば、「法律を守ろう」みたいな標語スローガン的なものが出来上がるだろう。しかし、AIに描かせて一発目に出てきたのは壮大な円環と黒の異形であった。何個か作らせてピックアップしたのではなく、作らせたのはそれだけであり、AIの偶然性や非人間性が伺える。私がAIに腐心した理由に本質を尖らせたものが見られるといったものもある。AIは私たちが入力した文字列をそのままに受け取ってしまう。そして彼らはそれを文字通り受け取り、画像を作り上げる。それは本質に切り込んだマティスのようであった。マティスは写実的な絵が描けるにも関わらず、本質を描くことを目指しあえて簡略化した絵を作った。対してAIは画像を構成する文字を本質的に再構成し、そこから画像を作り上げる。文字から本質的な絵を、本質的な文字から画像を、と2つは作業こそ反対であれ共通した部分がある。だからこそAIの画像は魅力的なのであろう。写実的なものからは感じられない圧倒的な意志をダイレクトに伝えてくる。また、投稿の場面において私たちは意図して流れを作るが、その時も偶然が重なり合った。ピンポイントにつなげるために画像を作ったわけではないのに、何故か画像が繋がってしまう。偶然が偶然を呼び、自分と他者、そしてAIが交わるこのカンブリアンゲームは決して自分のみでは作れない感動を呼んだ。

WakanaTakahashi

フロー

道が拓ける


夢の世界


感想

私は似たような作品でリーフを繋いでしまっていたが、マップを見ると似たような繋がりからきたのに突然全く違う画像が繋がっていることもあって、「なぜこの画像からここに繋げたのだろうか」と尋ねたくなるものも多くあった。でも、同じように突然画像の雰囲気が変わる繋がりなのになぜか理解できる繋がりもあって、不思議だなと思った。人が持つ感性はそれぞれ違うし、理解できないこともあるけど、自分の中にはない新しい発見に繋がると共に分からないことを考えることも面白いなと思った。逆に理解できる部分があると自分と近い部分を感じて親近感が勝手に湧く感じがして、画像から画像を繋げるということだけでも、その人について興味を持つきっかけになることは非常に現代的で面白いと思った。
AI画像生成については、リクエストから画像がなかなか出てこないこともあって私はあまり使用しなかったけど、少し言葉を変えるだけでまた違う画像が出てくるから楽しくなって、つい同じような内容で何度も試していた。顔や指の作りがありえない形や向きになっていたり、現実では絶対に見ることが出来ない状況が現れたり、驚くことも多かったけど、自分の思っていることを文字に起こすことで脳内だけじゃなく画像で形として現れることは非常に面白く、初めての経験ができた。またRからAのリーフを見ると、色彩が鮮やかになっているものが多く、これも現実にはあまり見られない画像に見える特徴だと思った。

KirariOgihara

フロー

形と色の認識


食物連鎖


感想

リアル画像とAI画像双方を用いながら、自分の作品に題名をつけたり、他人の作った作品にインスピレーションを受けたりする中で、果たしてリアル画像とAI画像どちらがより優秀なのか、という引っ掛かりを感じた。私が思うに、AI画像はプロンプトによっては、リアルにあり得ないものを形にしてくれる、そしてリアルにあり得るものも形にしてくれる、という点で、もはやリアルをカバーし、その上で超越できるところまで来ているのではないか。現在は、『まだAI生成は完璧ではない、よく見ると欠陥(違和感)があることも多い(=だからリアルには勝らない)』とも言われるが、そもそもこの『欠陥(違和感)』とは、リアルとは異なる、またはリアルではあり得ない描写ということであり、そもそもなぜリアルじゃないといけないのか、果たしてリアルは正義なのか?と私は反感を抱く。AIは生成するためのプロンプトを与える私たちのイメージを時に凌駕し、想定していた以上のものを与えてくれることさえある。確かに、リアリティに欠けるものも多いが、そのこと自体はアートにとって大した問題ではないと私は感じる。しかしながら、リアルを切り取った作品にしかない強みというものもやはりあって、それはそれがリアルであるということだと思う。現代の技術、例えばAIだけでなく、合成やCGの発展も相まって、空飛ぶシロクマの画像は観客にさほど驚きを与えず、AIや合成の類だと思われて終わるだろう。しかし、その画像がリアルを写しただけの写真なら話は別である。これが、リアル画像に成し得てAI画像に成し得ない、リアル画像特有の価値なのではないか。よって、今後リアル画像がAI画像に対抗していくには、『”リアルなのに”こんなことが起きるなんて』『”リアルなのに”こんな瞬間が捉えられるなんて』という、人々のリアルの常識を覆すような作品が求められると考える。また、もう一つのリアル画像の活路として、観客も普段から見ているようなものを写した何の変哲もないリアル画像に、あっと驚くような新しい見方(題名)を与えるというものがある。これは、作者の審美眼やセンスによって成せるという点で、前者より努力のしがいがあるかもしれない。私はAI画像によって、リアル画像が脅かされており、またそれも仕方のないことだと感じているが、それでもリアル画像にしかない強みを忘れず、むしろAI画像と比較されるからこそ際立つようなリアル画像の作品が作れたらいいなと思う。

KaichiWatanabe

フロー

美しさの変遷


荘厳なミルフィーユ


感想

私は自分のRの作品に対して他の人がAでつなげてくれた瞬間が好きである。自分が現実世界で見て、感動して、カメラに収めたものを他者が見て、新たに自分のイメージをAIによって表現してくれる。その作業の裏にはその人が写真フォルダーを見てつながるものはないかと考えてくれたり、写真から得たイメージを言葉によって表現し、AIを使って再現しようとする姿が想像できる。そう考えると自分のリアルとそこにつなげてくれた人のリアルと、その人のイメージを通したヴァーチャルの3つがまじりあっているような感覚になる。その感覚が好きである。今回上げたフローの1つ目はまさにその感覚にぴったし当てはまった。私が張った作品に対して1つ目のフローでは私の感じた自然、庭園といったイメージは残しつつ、古風なイメージと近未来感なイメージの二つが加わっていた。これにはAIを使って作品を作られた人のイメージとともに、AIの持つイメージが加わっているような気がした。2つ目のフローは私の図書館の大きな本棚の作品に全く関係のないように感じてしまうAIによって作られたミルフィーユの作品がつながっていた。これにはつなげてくれた人のイメージが強く出ているような気がしてとても興味深かった。なぜ食べ物でつなげようと思ったのかは純粋に気になった。また、全体の流れを見ていて感じたのはいきなり発想が大きく変わるのはAであるということだ。私たちがRでつなげる作品のつながりには目で見てぱっとわかるものが多い。例えば海の写真から海の写真であったり、太陽の写真から太陽の写真に行ったりしている。しかし、今回の2枚目のフローのように図書館の写真からミルフィーユ写真に行くのは私たちが目で見てぱっとわかるものではない。そこには、つなげる人が持つイメージだけではなくAIが解釈するイメージの二重で解釈が生まれるからだろう。今回のカンブリアンゲームがここまで盛り上がったのは人間の解釈だけではなく人間とAIにおける二重解釈が行われていたからであるなと感じた。

dinyuuki

フロー

構造、視覚、心情


電子走る


感想

最初の授業で習ったように自分の投稿した作品を見ることで、自分の傾向を視覚的に把握することが出来て興味深かったです。リアルの場合、私は元の作品に似たような構図で、また自然の写真を繋げることが多かったです。AIの場合は元の作品を見て、違う見方が出来ないか模索して制作していました。このようにどちらの場合も、視覚的なイメージに頼って作品を制作していたように思います。
また個人的にはリアルの写真を作品として投稿する場合、思い出を参照していて、AI画像を投稿する時は自分の言語をプロンプトするため、AI画像作品のほうが深層心理が現れている作品が多いのではないかと思いました。私のAI画像作品を見てみると、ポップな作品もある一方、モノクロで描かれた何か陰惨な世の中を思い出すような作品も多かったです。
AI画像を制作する際、私はある画像を想像した上でプロンプトを打ち込んでいたため、思ったような作品が出なくて困ったこともありました。例えばミームプレックスに「空に浮かんでいるコロシアム」と打ち込んでも、青空を背景にクローズアップしたコロシアムしか出て来ませんでした。「リアル×リアル=ありえないこと」よりも、最初から空想的なものを打ち込んだほうが面白い作品が出るイメージでした。そのような頭一個外れた発想力があまりなかったです。

Miyu Nonaka

フロー

タコから花嫁に


四つ葉


感想

これまでの7回の授業の前半では手書きイラストでカンブリアンゲームを行ったため、イラストがシンブルだった分、比較的簡単にフローが作れていた。それに対して、リアルな写真とAI画像による今回のカンブリアンゲームは、リーフがシンプルなイラストから大幅に複雑化するため、初めは漠然とフローをうまく作り出すことが難しいのではないかと思っていた。しかし、実際にゲームを始めてみると、自分が持っている写真やAI画像によってさまざまな切り口でフローが作れると気づいた。一見つながってなさそうな画像でも、一部を切り抜いたり、どこか色味が似ていたりと共通点があることで画像を並べたときになじんでいるように感じる。また、自分が投稿した画像に対して、自分では発想できないような面白い切り口で画像をつなげてくれているのを見たときに、とても感動した。AI画像生成では、初めは具体的な設定を入力して生成していたが、他の受講生の方々の作品を見ながら、むしろ抽象的な質問をするほど出来上がった画像を見るのが楽しいと感じた。例えば、「the most ~」といったフレーズなど、個々人によって価値観が違うはずの事象を生成させている人がいたので、私もそのような曖昧な設定を入力したときに、AIがどのような画像を生成するのかをもう少し自分で試してみたいと思った。

MireiSuganuma

フロー

食用と非食用の花束


心の奥底に重い何かを抱えている者たち


感想

リアルとAI作品を制作し、投稿していく中で、感じたことが2つあった。一つ目は、前の作品のどの部分に着目して次の作品を繋げていくのかが人によってさまざまで、自分では思いつかないような視点で制作された作品が溢れていたということだ。ある一つの青い空の中にある太陽を映した写真があったとして、とある1人はその青い空に着目して、空から見た青い海と陸の写真、また別の1人は太陽が丸いことに着目して丸い透明な和菓子の写真をつなげていた。ただただ太陽を映したシンプルな写真から、青い空なのか丸いという形なのかというように、着目するポイントを少し変えるだけで、全く雰囲気の異なる写真が繋がっていったことがとても興味深かった。二つ目は、AIによる画像生成において、思ったような写真を作ることができなかったということだ。最初の1週間は、AIの写真を投稿することに少し抵抗があり、リアルな画像を多く投稿していた。しかし、途中からAIを使った思わず笑ってしまう、大喜利とも言えてしまうような題名の画像が多くつなげられるようになり、自分も面白い写真を生み出していきたいと思うようになった。そこで、フローにも載せてある「ギリ食用花束」という作品がとても印象に残り、反対に「ぎりぎり食べられない花束」をAIに描かせたらどうなるのだろうと思い、作成してみた。しかし、出来上がった作品はただコンクリートの上に花束がおかれているだけに見える画像で、想像していたものとは違う作品が出来上がった。私としては、もう少し食べ物が花束の中に紛れ込んでしまっている画像が出てくるのかと思っていた。どの言葉をチョイスして、AIにプロンプトすれば、自分が思い描いたような画像が出来上がるかというところまではこの二週間の間では辿り着くことができなかったため、今後自分の時間でAIを使って、良い方法を探っていきたい。

kotone

フロー

reptile world


氷溶けて生き物が露わる!


感想

昨今話題になっているAI生成画像だが、私はこの授業でカンブリアンゲームに投稿する画像をつくるために使うまで一度も触れたことがなかった。今回のカンブリアンゲームでもはじめのうちはリアル画像ばかりを投稿していた。それは単純に機械の仕組みに慣れるまで時間がかかったからというのもあるが、私のそれまでの偏見も少し作用していたと思う。「AIに仕事を奪われる」といった話をよくニュースやネットで目にしていたこともあり、あまりAI生成画像に良い印象を持っていなかったのだ。しかし、この作品制作を通してだいぶそれに対する考え方が変わった。AIによる画像生成は、人間がこれまで育んできたアートという分野に全く新しい要素を取り入れ、進化させることに繋がるのではないかと思うようになった。AIは、自分の考えたことをただただ伝えたのではなかなかイメージ通りの画像を出してはくれない。工夫、試行錯誤を重ねることで、少しずつ自分のイメージに近づけていくことはできるが、はじめに自分が頭に思い描いた画像と完全に同じものが出力されることはない。その点が、もどかしくもありながら、それと同時に可能性と魅力も秘めていると思う。AIによって自分のイメージが意外な形で出力されるのは、「カンブリアンゲーム」で他の人が自分の絵から新しく発想した絵をかいて繋げていくのに類似したものであるように感じる。それがリアルなものであれAIにつくられたものであれ、自分では全く思いもよらなかったイメージが突然外部から現れ、それらが集合体として作品となることが、カンブリアンゲームとAI生成画像に共通した魅力なのではないだろうか。
私が今回のカンブリアンゲームでAI生成画像を作るときは、まずほかの人のフローを見て、そこから自分が頭に浮かんだ言葉をそのままmemeplexに落とし込んで画像を生成していた。それが自分の思い浮かべた画像になっているかどうかはあまり気にしなかった。はじめは頭に作りたい画像の予想図を何となく思い浮かべ、それに近くなるように文言を英語にしたり文章から箇条書きにしたりして工夫を凝らしていたのだが、途中から全く自分の予想と違う画像が生成されてくることのほうに面白さを感じるようになったからである。他の人のAI生成画像のフローでは、形や色が共通しているものが多くみられるので、クラスメイトがどのように画像を生成していたか知りたい。
AIの画像生成では、人間の画像では手の向きや指の本数がおかしい画像が多々見受けられたが、恐竜の場合は顎の下にもう一つ下顎がついている、足が6本ある、といった画像になることが多かったように思う。私は恐竜が好きなこともあり、発送の糸口が恐竜になることが多かったのだが、この点について他の動物はどうなのか知りたい。例えば犬や猫でも、どの特定の体の部位がおかしくなる傾向がある、といったことがあるのか興味がある。

DaikiGoto

フロー

幻想的


人ではない人


感想

ほかの大勢の人とカンブリアンゲームを行う上で、自分が考え付くフローになるだけではなく、自分が思いつかないようなつながり方が多く見ることができた。自分が投稿した作品からほかの人がつなげていくと、最初とは違った作品になっていくということがとても興味深いと感じた。リアルとAI画像生成作品を制作したり、投稿するはざまで感じたことはいくつかある。リアル作品とAI画像生成作品が一つのフローとして出来上がるということがこのカンブリアンゲームの面白いところであると感じた。リアル作品を制作するときには、普段何気なく撮っていた写真が作品として扱われるという点が興味深いように感じた。いい景色だから、おもしろいからという何気ない理由で撮っていた写真がカンブリアンゲームでのリアル作品になるということが、元々考えていた目的とは異なった意味を持たせることになるということが、おもしろいと感じた。逆にAI画像生成作品を制作しようとするときには、おもしろいと思うフローを見つけて、それに合わせた作品作りをするということが、自分が行ったリアル作品の制作とは異なってくる部分であった。AI画像生成では、このような作品を制作したいという考えがもともとあってから、それに合わせてプロンプトを考え、自分が考える作品にできるだけ近づけるようにプロンプトを推敲していくということが難しい点であると感じた。そんな中で、AIに画像を生成させる際には、共通認識を持ちやすいものが自分の考えるものと生成される画像が近くなるのではないかと感じた。

RinOkada

フロー

レベル2のモンスター兄弟


すくすく成長しました


感想

画像一覧やマップで画像を見るときは、一つ一つの画像の細部を見ることはできない。そのため、その時点ではAI画像に見えていたものが開いてみるとリアル画像だったり、リアルだと思って開いたらAI画像だったり、ということが頻繁に起きた。拡大してみると、AI画像には、おかしな点や現実ではありえない箇所があると分かるが、小さい画像では分からない。逆に、リアル画像の中にリアルではないような光景を写した画像もあった。このように、リアルに近づいていくAI画像と、「不自然」なリアル画像が生み出すグラデーションのようなフローがとても興味深かった。今回の制作を通してAIの可能性を感じると同時に現実にもまだまだ私の知らない世界があることを実感した。
画像を生成する際に、登場人物が複数いるとAIが混乱してしまう印象を持った。私が「サンタがトナカイとオセロをする」という文章を入れたときに、サンタにはトナカイの角が生え、逆にトナカイはサンタの衣装を着ているという画像が生成された。Withという単語を入れたことも影響しているかもしれないが、二人の要素がミックスされたビジュアルは衝撃的だった。そのため、AI画像生成の際はメインとなる登場人物を一人に抑えることで自然な画像ができると考えた。また、Dream Studioで画像生成をおこなう際はコミックやアニメ、粘土など様々なスタイルがあるので、自分の生成したいイメージに合わせてスタイルを変えるとうまく生成できる。ぬいぐるみなどの可愛い、丸みを帯びたものの画像を生成する際は粘土スタイルを用いると上手に生成できた。

SUBARU

フロー

全体像


成長


感想

私はカンブリアンゲームを行うにあたって投稿した画像はすべてAI生成画像を使っており、特に無料で制限なく使えるというところに惹かれてmemeplexをずっと使用していた。しかしmemeplexでは自分の思った通りの画像がうまく出てこないことが多々あった。「イケメン」でリクエストしたのに毛むくじゃらの犬のような顔の人間らしきイラストが生成されたときは少し笑ってしまった。結局今までmemeplexを使って思った通りの画像が一発で生成されたことなどなかったと言える。このとき私は無料のmemeplexを使っているから目当ての画像が出てこないのであり、有料の他サイトだったら思ったような画像が出てきたのだろうかと疑問に思った。そして、AIを使って画像を作るという点は同じであるのに、有料と無料のサイトがあるのはどんな違いがあるのかとも思った。使っていて感じたmemeplexの印象としては、なんとなく古臭いようなベタッとした画像が生成されるような気がした。透明感のあるキラキラしたようなきれいな画像ではなく、あまり細かいところは描かれていないような、たとえるならトムとジェリーのアニメーションに出てくるような絵のタッチだった。個人的に透き通るようなイラストが好きなのでmemeplexのこの画風はあまり好きではなく、なんとか好みの画像に近づけようと設定を変えて試行錯誤したが、思ったような画像は生成されなかった。どうにか自分好みの画像を作りたくて気になって調べてみたら画像生成サイトにはそれぞれ得意とする絵柄に違いがることがわかったので、他の好みの画風がつくれるサイトを試してみたい。

Xu Leyan

フロー

りんごが如何やって鳥になった話


クラゲの神様


感想

初めてAIで人物を生成する時何か不気味な現象が見られた。例えば人体構造学に相応しくない歪んだ指や目鼻立ち。その説明としては、写真では手が小さな面積を占めることが多く、見えなくなってしまったり、半透明になってしまったりして、手が占める画素のディテールが少なくなってしまうということだった。また、手は手のひら、親指、人差し指、中指、薬指、小指を正確にラベリングする必要があり、この部分をアルゴリズムで自動化するのは極めて難しい。 つまり、手や足のように小さくて複雑なものは、AIでは正確に再現することが難しいなのだ。
美術の世界における「手」の表現の話について、先日友人からもらった「ヴィーナスの誕生」の絵が描かれた絵葉書を思い出した。 ルネサンス期、画家は人体の構造を正しく復元することよりも、人物を装飾し理想化することに傾倒していた。その結果、画家が比率よりも感覚を重視し、本来あるべき正常な形を犠牲にして体のラインをより優美にするために、首が長く、下半身が大きく、肩幅が狭く崩れたという、解剖学的にあり得ない人体構造になったのである。
また、これらの画像を作成する際に、現実に特定の大学をイメージさせたかったのだが、例えば早稲田大学ならとても象徴的な大隈講堂があるが、私が説明した固有名詞通りに表示するのではなく、AIは嘘をついて、見たこともない校舎を無から作り上げた。どれも学校の写真なのに、なぜAIは「学校」というキーワードを認識しているのに「早稲田」というキーワードを認識していないのか、という疑問がうっかり湧いてしまった。
いずれにせよ、AIが生成した映像が世に出るのは今年くらいからで、科学技術が発達すればAIは間違いなく賢くなり、そして私たちはそれをうまくコントロールする方法を考えることができるようになるだろう。

RinaMatsudaira

フロー

へびの溶け込み


色の共生


感想

カンブリアンゲームを通して自分の中に隠れていた想像力や発想力のようなものが少し開花できたような気がする。カンブリアンゲームを始めた当初は元々自分の持っている写真の中から関連づけさせているだけだったが、現実世界の切り抜きだけで続けていくことに多少の限界を感じてAIを使うようになった。AIでは現実世界のものを画像の中で再現できるだけでなく、現実ではあり得ないもの同士の組み合わせをも描き出すことができることにとても魅了された。また、リアル→AI→リアル→AIの連続から、現実と仮想空間が一体化しないまでも交差する感覚を常時感じ、とても不思議だった。例えば、AI画像生成で「ポップアート 草間彌生」と検索するとあたかも本人のタッチで作られたかのような作品が生まれる。このように、現実と仮想の狭間にいる状態は、リアルと仮想空間の間にある共通性を感じさせるようであるが、やはりどこか違和感を感じは異質なものであることを痛感させる。
画像生成する際にうまく生成させるコツとして、私は画像を大雑把に捉えることを意識していた。画像の細かい点を見てしまうとどうしてもその画像で頭が洗脳されてしまいそれ以上の発想が生まれない場合がある。それを避けるために、画像の第一印象を思い浮かべた上で自分の思いつくイメージとのリンクづけを行うことができれば、想像力の促進につながるだろう。
カンブリアンゲームを通じて世界の広がりを感じることができた充実した2週間を過ごすことができた。

ayu

フロー

新しい生物が生まれるまで


たぶん、ジブリ


感想

AI画像を生成するにあたっての率直な感想として真っ先に上がるのは「なぜこうも気持ちの悪いものしか生成されないのか」だ。例えば先日私が苦し紛れに上げたカタツムリの画像だが、まず一つ前の作品を見てみると「ふわふわのメレンゲ」とある。メレンゲかと言われれば確かにメレンゲなのだが実際に手で作ってはつかないような鋭い筋が入っている。真ん中にある鈴カステラのようなものは食べられそうではあるが特に下二つはどう頑張ってもの食欲はわかない。そしてこの妙な形がカタツムリに見えて仕方なかったのでdreamstudioにカタツムリの大群と打ち込んでみたわけだが、なぜカタツムリの大群を「たくさんのカタツムリが並んでいる」ではなく「たくさんのカタツムリが連結している」と考えたのだろうか。そして何をどうして一匹だけはぐれてしまったのか!またこの画像に続くAI画像もまた奇妙でカンブリアンゲーム、とこのセッションの名前が冠された絵にはアンモナイトのような古代生物とも見えるたくさんの生命体が波のように蠢いている。自分の作った画像がこの世に新たな変な生き物を生んでしまったような気がして若干の申し訳なさを感じつつももう少し前に投稿された作品に遡ってみるとegg cloudと題された写真にたどり着く。これはたくさんのゆで卵を上から映した写真なのだが、写真の真ん中で卵の殻がぱっくりと口を開けてこちらを見ているのがわかる。その4つ先で謎の古代生物が誕生したのを見ると、ただのゆで卵の殻も「何かが生まれた後」のように見えてとても興味深く、そして少し恐ろしくも感じた。

KawamotoYuki

フロー

浮かぶ放円


円ノ縁


感想

今年の冬から生成系AIには着目していて、生成系AIで起業を考えている人や実際にソフトやアプリを開発しているエンジニアの方々ともお話をしたことがある。ピッチなどにも参加して、現在の生成系AIの進歩に驚いた。
今回のこの授業で特に生成系AIに関しての友好かつ有効的な使用方法がなんとなくわかったような気がした。各人が頭の中でイメージすることや作りたいイメージをプロンプトとして載せる生成系AIは、連画や他人とのコミュニケーションツールとして優れているなと素直に感心した。
自分の作品として世に出すのは著作権や様々な問題が結びつくために難しい部分も多いが、このようなイメージの連想によって育まれていくおおきな木のようなものを全員で作っていく一体感も素晴らしいと感じた。
また、リアルとAIの融合という点に関しても相乗効果が生まれていると感じた。生成系AIは時に自分の意図していない物が生まれるが、それもそれでまた面白いし、リアルに結びつくAIが、もう既に遜色なく違和感なく馴染んでいることに驚かされた。
自分とは違う感性を持ったアーティスティックな方々が紡いでいくAIとリアルを融合させた大きな1つの作品として、とても見応えがあり尚且つそこに自分も一員として参加出来ていることに喜びを感じた。
生成系AIは自分の手で書いていないから自分の作品とは呼べないだろ!と訴えているひとも世界には少なからずいて、物議を醸していることも否定は出来ない。だが、このようなアートや教育の一環として生成系AIに触れ、友人などとの交流を深めるツールとしては
秀でているものがあるなと素人ながらに感じた。

ina

フロー

夢から覚める


嵐が生まれ、街を攪拌して染め上げた


脱出成功


感想

正直なところ、私は当初カンブリアンゲームにAIを用いることに対して違和感を覚えていた。カンブリアンゲームにおいてリアルの画像こそが何気ない日常を思い起こすきっかけとなり、そこから他者との共通点を見出す面白さがあると考えていた上に、制作にAIを用いること自体人の手を借りているような嫌悪感を感じていたからだ。このような意気込みで臨んでいたが、先週聞いた安斎さんのお話は新たな発見ばかりで、ようやくAIの可能性に少し近づけたような気がしている。特に、歴史上の著名なアーティストの要素をAIに抽出させた作品やリアルな画像をもとに何度も出力させることで変化する様子が印象に残っており、人間の想像力と時にそれを超えるAIの組合せの面白さに気がつくことができた。それより前はある程度予想がつくようなプロンプトばかり行っていたが、あるアーティストを関連づけたりどう生成されるかわからない文章を入力したりすることをだんだんと習得しているように思う。ただ、私はまだ「AIはこんなことを理解できるのか」「ここはAIとリアルがズレているところだ」と気がつき始めている段階で、安斎さんや他のカンブリアンアーティストにはまだまだ及ばないと感じる。AIに慣れ始めて、AIを使いこなすには完全にAI任せではなく人間の知識や発想も動員させることが肝心なのだと思い至ったため、AIの付き合い方をさらに磨いていきたいと思っている。
このゲームに参加して面白いAI画像に出会った時、これはどのようにプロンプトしたのか、なぜそのタイトルをつけたのか、など参加者に聞いてみたくて仕方がないと思うことが非常に多くあった。そこが謎に包まれているのもこのゲームの面白さなのかもしれないが、ゲームの謎解きをする交流会のようなものがあれば別の楽しみ方ができるのではないかと思った。

mameko

フロー

無性生殖の星


鳥の進化


監視することされること


感想

AI画像の生成をしている時に考えていた思い通りに画像を生成するコツは、AIの表現の引き出しを把握することだと思う。例えば、私は自分で絵を描くこともあるのだが、特に現実ではありえないような絵を描くときに自分の発想や表現の引き出しに一定の傾向があることを実感することが多い。これと同じようにAIにも一定の癖や傾向がある。このワードを入れたときはこのような表現が出てきやすいとか、この表現はたぶん引き出しにないだろうから別の方向から作ってみようとか考えながら作っていた。まるでひとつの人格と向き合っているような感覚で新鮮だった。カンブリアンゲームはほかの人の画像に繋げて、それに対してどのような反応が返ってくるのか見ていくのが楽しい。しかし、反応が返ってきた画像と返ってこない画像がある。思いがけず多くの反応が返ってくるものもあれば、返ってくると思って投稿して音沙汰ないこともあり不思議だった。カンブリアンゲームはいわば連想ゲームであるから、連想しやすい要素があると反応が返ってきやすいのではないかと思う。例えばアイコニックな形があるだとか、テーマカラーがあるだとか。「集合体」「浮遊」「空」などといったキーワードで連想しやすくなることもある。傾向でしかないので、これにあてはまらなくてもたくさんつながっている画像もあってその不規則さや混沌とした感じが面白くもあった。たまにいい画像なのに連想しにくくてつながっていないものがあったりすると、何とかそこに繋げたくて画像を探したり作ったりした。形や色や画像の置かれた文脈など、要素を抽出してそこに新たに自分の発想を加えてみたりすると、案外うまくつながったりした。

Risa Akachika

フロー

ちりも積もれば


丸、四角、白、黒


感想

AI画像に関して感じたことは、どの写真も元としているものがあり、私達の頭の中で思い描くものが前提にあるからか、少し違和感があって、不思議でもどこか馴染めてしまうというか、「面白いもの」「見たかったもの」として受け入れてしまうように感じました。なのでリアルとAIでどちらか分からないような写真も多くありました。AI生成アプリではキーワードをプロンプトさせて元の画像に変化をもたらすものもあれば全く新しいイメージを作り出しているものもあり、想像力とは言えないこの機能が少し怖くもありました。チャットGPTでも話題になっていますが、人間を超えられないように私たちはうまく使う側に回らなければならないのかなとも思いました。またAI生成アプリを利用する中で、「日本、オタク、春」と適当にプロンプトさせると、秋葉原やオタク文化の象徴みたいなのが出てくるのかなと思ったんですが、春の江戸っぽい街並みがアニメっぽく描かれたイラストが出てきて、日本のオタク=アニメ・漫画であり東京=江戸というものが世界のイメージなのかなと思い、自分が打ったキーワードの外からの見方を知れるようで興味深かったです。AI生成のときにありきたりな言葉しか打てずにすごい度肝を抜くような写真をあまり出せなかったので、上手な方におもしろい画像の出し方をぜひ教えてほしいです。

Mao SASAKI

フロー

夕暮れの幸せ


進化


感想

この画像にあのとき撮ったあの写真をつなげたいと頭の中ですぐにフローが完成することもあれば、つながりそうな写真が思い当たらずひたすら自分のアルバムとカンブリアンゲームのマップを行き来し、納得するフローが完成するまでに時間がかかることもあった。どちらの場合でも、良いフローができたかもしれないと感じたときはとても嬉しかった。また、どうして撮ろうと思ったのかわからないような写真がつながることもあり、自分が撮った写真の無限の可能性に気が付いた。この画像にこういう画像をつなげてみたいと思いAI画像を生成しても思い通りになることは少なかった。何度か言葉をかえてみても思い通りの画像にならないこともあった。しかし、失敗作にも思えるその画像がつなげたいと思っていた画像とは別の画像につながることもあり、これがAI画像生成のおもしろさなのかもしれないと思った。思い通りの画像をだすためにどうすればいいのかわからず苦戦したが、うまくいかないことで見つかるおもしろさもあるということに気が付いた。絶対にこの画像につなげたいと試行錯誤することはもちろん大切であるが、他の画像にはつながるかもしれないという広い視野をもつことも大切であると思った。

JunnosukeOhira

フロー

中にいるのは何者?


収穫完了


感想

カンブリアン詩学を通して、たくさんの気づきや疑問が生まれた。画像と画像を繋げるにあたって、私は前の画像の一部分を切り取ったり、前の画像に似ているものを想像して繋げていたが、他の人の画像の繋ぎ方を見て「なぜこの画像をくっつけたのだろう」「どうやってこのAI画像を生成したのだろう」と様々な疑問が浮かび、それらをあれこれ考えるのが楽しかった。またAI画像生成の際、自分が思い浮かべているような画像がなかなか出てこない時があったが、自分の想像の範囲内では決して作れないような画像をAIが生成してくれて、新たな視点を獲得できた気がする。
AI画像をたくさん生成してみて、「(動詞)する(名詞)」という(例えば「踊るブロッコリー」のような)パターンが面白いAI画像を生成するコツなのかなと感じた。何度か「恐怖」や「「わくわく」といった具体的な物ではなく感情や概念をプロンプトして画像生成を試みたが、文字が生成されたりその言葉とは全く関係のないような画像が生成されたりと、上手くいかなかった。「(動詞)する(名詞)」のように可視化できる具体的な物をプロンプトに含ませることが、自分の想像とAIの創造を上手く操るコツなのではないかと思った。

Rio Furuya

フロー

美味しそうな卵、美味しくなさそうな卵


目から目にもどる?


感想

リアルとAIの画像は、一見して区別がしやすいと感じた。特に、わたしは食べ物の画像を投稿することが多かったが、AIで食べ物を制作すると色が鮮やかであったり、形がはっきりとしていたりし「美味しそう」とはあまり思えない画像が多く制作された。AIの食べ物、特に調理後の食事の場合、よくみると使われている野菜は切られたりすることなくそのまま用いられていたり、なんだかよくわからない、得体の知れないものが入っていたりした。人間は食事を「視覚で味わう」ことがあるように、「いかに美味しく見えるか」をとても大事にするけれども、食事を味わうことのできないAIには、見た目でおいしさを表現する、ということができないのではないかと思った。AIで作られた食べ物は、一見存在しそう、でもよくみると存在しない、だから妙にゾッとするのかもしれない。
また、AI画像の中にはたまに本当にありそう、言われないと現実のものだとわからない、という画像もあった。このゲームの中で、AIにも得意とする画像、苦手とする画像があるのだと感じたし、AIが苦手とする画像だと思う部分にこそ人間が大切にしている価値観が反映されていると思った。また、カンブリアンゲームをやっていたなかで、一度通り過ぎたモチーフがまた戻って、循環していくことができるのが非常に面白いと思った。

AoiKAGEYAMA

フロー

発展


漂うもの


感想

今まで私は、写真を撮る、なにか作品を生み出す、といったことをあまりしてきませんでしたが、今回のカンブリアンゲームをする中で、自分が想像したもの、思いついたものを表現することの面白さがよく分かりました。どんな人なのかも知らない、話したことすらないような他人の作品を見て、それに刺激された自分の作品も繋げる行為は、その人の頭の中を覗いているような、非常に不思議な感覚がしました。自分の投稿した作品に、他の人の作品が繋がっていくことは、なんとも嬉しい気持ちで、もっと作品を投稿したいという思いになりました。私が思っていたのと異なる色の作品が繋がることがあったり、作品とその題名、コメントが現実にはありえないものであったり、どうやってそれが思い付いたのだろう、と何度も疑問に思いました。しかし、その作品、題名こそがその人を表現しているものであり、想像したものを言葉ではなく一枚の画像で伝え、繋げていっているだけだと分かりました。自己表現の連鎖がカンブリアンゲームであると感じ、リアルの作品だけでは表現できないことをAIが可能にしている、一種の表現方法になることが面白かったです。
手持ちのリアル画像だけでは足りなくなって、AI画像を生成する時、全く思ったような画像が作れなくてかなり苦戦しました。例えば、サーターアンダーギーの画像を生成したかったのですが、そのまま入力してもなぜかボウルに材料が入ってテーブルに並べられている、料理前の画像しか作れないといったことがありました。何度か入力する言葉を変えてみたのですが全く上手くいかず、悲しいですがボツにしました。自分の中でそこまで具体的にイメージを持っておらず、単純な言葉を並べた方が変にこだわって何度もやり直すようなことがなく、生成しやすかったです。

あいり

フロー

サナギからうまれた


モノクロの世界


感想

カンブリアンゲームを通して、写真の場所とか撮影した人とかに繋がりは全くないのにここまで大きなつながりが生まれたことがすごく面白いと感じた。AIの画像を作成して繋げることができるので、自分の考えが広がったと思います。しかし、ここに繋げたいと感じた時に自分が持っている写真がうまくつながらそうでない時に、AI画像を作って繋げるか、他の画像を見て自分が繋げやすそうなものを探すかで迷ってしまうことが多いように感じました。投稿を見ているとやはりリアル画像が多いのはそのような理由もあると感じた。さらにはAIの画像は色や構図が独特であまり現実の写真で繋がりやすいものが手元にはなく、うまく自分の発想でフローをつなげていくことが難しいと感じた。
AIを用いるとき、自分の頭で描いていることを細かく文章にしてしまうと逆に混乱して、言葉の組み合わせがぐちゃぐちゃになっている画像が生まれてしまったので、作成する側もある程度頭を整理して端的に言語化した方が自分の求めている画像を得ることができるのではないかと感じた。
自分は、写真全体の色彩感が似ているものをつなげていこうと思い写真を投稿していたが、みんなが投稿している画像を見るとなぜこれをつなげたのだろうと疑問に思うものが多くて、今回はネット上で行われているが、何回か前に付箋を用いて行った時みたいに対面で話しながらつなげていくと、他の人の繋げる「基準」のようなものがわかって自分の発想の幅も広がるのではないかと思ったので、もうこのような機会はないかもしれないが人と何かをつなげるという観点は大事にしたいと思う。

chitoton

フロー

列と時間(歴史、エスカレーター、酒の熟成)


分裂


感想

カンブリアンゲームでAI画像生成で遊ぶようになってから、変な夢を立て続けに見ることがあった。僕の夢の場合、特に多かったのは、自分の体の腕や脚などが知らないうちに他の誰かのそれと付け替えられちゃっている、みたいなパターンのものだった。どうして、こんなことが起こるのか考えてみて、1つ思い当たったのは、AI画像生成で遊ぶようになってからの、自分の脳内のイメージが撹拌されている(それも言葉を伴って)ような感覚だ。プロンプトするとき、漠然としたイメージが頭にあって、それを言語化して打ち込むことが多い。その時、出てきた画像が思い描いたものと違ったり、ただ漠然としていたイメージに妙なディティールが足されたりということがよく起きる。その際、打ち込んだ言葉と頭の中で結びついているイメージが更新されたり、更には、出てきた画像からまた新たに頭の中のイメージや言葉が引っ張り出されている、まさにイメージが撹拌されるような感覚が、なんとなくではあるが、確かにある。
また、普段生活していて目にするものの見え方も、変わった実感があったりする。普段気にならなかった鉢植えの植物の葉脈が気になったり、洗濯ばさみの構造に感心したり、「そういうもん」として見えていたものらの、ディティールが迫ってくるような感じだ。はなから「そういうもん」たり得ないAI画像を見るときの、違和感→違和感の原因発見、のプロセスをたくさん浴びたからか、「そういうもん」的な見方ではない見方をするようになったのかもしれない。
また、もう一つ実感したのは自分のプロンプトの癖、あるいはAIの癖というものが、あるにはある、ということだ。先に書いた夢の話、あれもここ2,3日は見ないし、「物の見え方が変わった!」的感覚も今はだいぶ薄れた。たぶん、それはAI画像に対しての慣れも「そういうもん」的な視線が出てきてしまったことによるのかもしれない。なぜ慣れるのかといえば、自分のプロンプトにはやはり好みや癖があって偏りがあり、AIにもたぶん癖や傾向があるからだ。固定化する前の興奮を思い出したい。
しかし、カンブリアンゲームは自分の画像に誰かが思いもよらない画像を繋げてくれたり、そこが常に刺激になった。これは1人、あるいはAIと1人ではできないことだった。そういう意味で、とても刺激的な2週間だった。
(追記、夢の話をSNSでつぶやいたら、同じような経験をした人が何人かいた!気になる)

FuyukaTakehara

フロー

救出作戦


進化の過程


感想

作品を投稿する中で、自分の作品に対する他の人からのリアクションが想定していたものとは全く異なるということも度々起こり、思うようにいかないもどかしさと、次はどんなものが出てくるのかとワクワクする気持ちに挟まれ、毎日真顔でパソコンの画面に向かっていた。また自分が(解釈の幅が広いのではないか、という意味で)面白いと思って投稿した作品、ある意味「受け」を狙って投稿した作品よりも、全くそういうのを考えていなかった作品の方が他の人からの食いつきがいいことにも驚かされた。画像生成については、私は主にmemeplexを使用していたが、描いてほしい画像について詳細に条件を出すより、大雑把な条件を入れて何度もプロンプトしていく方が狙ったものに近い画像が出てくるのが面白いと思った。条件を入れれば入れるほど反応も遅くなる上、入れた指示のどれか一つに比重がかかった画像がでてくるので、AIにも「色々言われて何をすればいいのかわからない」ことがあるのか、疑問に思った。また、中国の工芸茶や蚕の繭玉、(屋台で売っているような)りんご飴等、AIにプロンプトしても全く違うものが出てくる、おそらくは以前紹介されていたオタマトーンの様に、AI自体がそれを認識していないものが少なからず存在していることに、AIもまだまだ完璧ではないのだと実感した。他には、例えば「モンスター」とプロンプトしたとき、人型で毛むくじゃらで口が裂けているというようなイメージの生き物が量産され、ヴァリエーションに幅がないように感じられた。異形頭だったりキメラ型だったりはただモンスターと打つだけでは出てこないのが、そういったものがモンスターという枠の中に入れられていない、もしくはメジャーではないのだろうというのも興味深かった。

Shu

フロー

吸い込まれる :


ハナヒラク :


感想

今回のカンブリアンゲームを通じて、私は毎日投稿を成し遂げることはできませんでした。でも反対に、カンブリアンゲームのことをふと思い出した時、印象に残る風景に出会ったときにそれに似ているフローを探すというやり方で参加することもでき、当初普通だと思っていたフローに合う流れの画像を探すという手法とは逆のカンブリアンゲームが出来て興味深かったです。
その際に全体のマップで見たときにこれはリアルかな、と思ったものがAI生成だったりと、本当に人間から見て区別がつかないほどに2種類が混ざり合っていて、またその特徴を紡ぎつつ広がっていて、投稿するのはもちろん、人のものを眺めるのにも夢中になりました。
また、先ほど特徴を紡ぎあって画像が広がっていくと書いたのですが、私はキャプションにも着目しました。実際に自分の前後のフローでも数度起こったことなのですが、2人分のキャプションを繋げて読むと一つの文章になるようなフローがあり、それこそ本物の連歌のようだと感じました。自分の作品に紡がれることに抵抗感があるかもしれない、と模造紙での宴会カンブリアンゲームの際に言及がありましたが、日本には古来より人の作品と自分の作品を繋いで一つと見る連歌の文化や、自分の気に入った作品を覚えておいて引用するという詩歌の「引き歌」のような文化も存在します。さらに、自分の印象に残った風景を作品に反映させることができるという点も、和歌と良く似ているのではないでしょうか。よって、カンブリアンゲームというのは実は現代の和歌文化と言えると思いました。
ただ、カンブリアンゲームには和歌と決定的に異なる部分があります。それはAIによって自分が拡張すること、そして飛躍的に多くの人と交流できること、そして莫大なデータがきちんと保存されることです。現代の人々が古文をその時代の常識やライブイベントを学びその作品に表された心情を推測って研究しているように、数百年後、数千年後の未来ではこのカンブリアンゲームも研究の対象になるかもしれないと思うと少し怖くも楽しみだと思いました。

shuri2562

フロー

目力


野菜のようなものが出来るまで


感想

R(リアル)の作品は自分がこれまで何の目的もなく、若しくはある意図を持って撮影した写真を対象にし、あるフローに色や形などの視覚的に類似しているもの、そのフローにされている物に関係する、ある種の「言葉遊び」のような形で選出される。一方で、A(AI)の作品は、自分である程度条件を設定するが、最終的に描くのはA I自体であり、そこに自分の意志は含まれない。絶対に相容れないはずのRとAが交わっているカンブリアンゲームはその不自然さに面白さがあるのだと分かった。また、Rの作品に関しては全く関係なさそうな画像を持ってきて、半強制的に共通点を見つけることで、それまで何も意味を持たないただの風景画や食べ物の写真が、大きな意味を持った写真に変化することが分かった。個人的に疑問が残ったのはA I作品を作るときに、「早稲田大学」と指定し作品を作らせると、決まって中国系の学生が現れていたことだ。「日本」などの条件を設定しても同様な画像を生成していたので、A Iの中には早稲田大学とは何か中国と関係のあるものだという認識があるのかと疑問に思った。

なまはげ

フロー

骨みたいな


壮大で繊細


感想

AIで画像生成をしてみて、想像していた画像が生まれることがない点が興味深かった。そもそも、打ち込んだキーワードだけで数十秒あればクオリティの高い画像が複数枚できあがることにはじめは戸惑いをかんじた。わたしの頭の中では写真風に想像していた完成図が、AI生成すると二次元的なものから立体的なもの、絵画風なものから写真風、CG風なものまで幅広く画像が生まれるのは、AIがわたしの創造力を拡げる可能性をもっているのではないかとも感じた。結果的に、打ち込んだキーワードとは異なるタイトルをつけることになる場合が多くなったし、他の人が作った作品を見て「すごいな」となんとなく思ってしまうことの背景には、キーワードを打ち込む→AI生成→タイトルをつけるという、人間とAIが混ぜってつくる偶然性みたいなものも関係しているのかなとも思う。カンブリアンゲームではそれが個人にとどまらず集団に発展していて、リアル写真とAI画像が交錯しているようすを見て、自分が投稿したリアル写真の次につながる写真や画像の繋がり方などを想像するたのしさと偶然性がおもしろいと思った。

Rinko

フロー

世にも奇妙な動物たち今昔


そこを抜けたら明るい新世界


感想

AI画像は最後まで自分の思い通りのものを作ることはうまくできなかった。欲しいものを詳しく書いて、それを書いて欲しい位置まで指示したりもしたがなかなか難しかった。前の人の作品から着想を得て、マカロンが通貨としてレジに普通に入っている画像を作りたいと思ったときに、レジ全体をどうしても写したくて「マカロン」と「レジ」、「全体」の言葉の順番を入れ替えたり文章を変えたり色々したが毎回マカロンばかり丁寧に描かれて他がお粗末になってしまうみたいなことが何度も起きた時は段々とAIが嫌になった。逆に、自分が考えてもいなかったイメージを出されると、多少変でも面白いと思うこともあった。結局プロンプトのコツは見つけられなかったが、本当に欲しいものがある時はAIが察してくれることはおそらく稀なので丁寧に細部まで言葉で伝えないといけないのかなと思った。作品を投稿する際、前の人の作品を見てつなげそうなものがあるか一通り自分のカメラロールを見て、いまいちピンと来なかったらAI画像を作ってみるというような流れで取り組んだ。他の人の作品を見るにも自分の作品を作るのでも面白いとか綺麗だとか思うものはAIでもリアルでもあまり関係ないが、AIで普通見られないものを見るのは楽しかった。AIが想像の中のものを形にして出してくれることは分かった。投稿していないが、一度自分の言葉ではなく、格言をプロンプトしてみたらめちゃくちゃな絵が出てきたのも面白かった。

threadhorsemonkey

フロー

繋がる


永遠に終わらない道


感想

投稿している時にはあまり感じなかったのだが、今こうして形になったカンブリアンゲームを客観的に見てみると、投稿者の着眼点がどんどんと変化していく様が見ていて非常に興味深いと思う。私がお気に入りのフロー①としてあげた例で言うと、一枚目ではAIで生成した花の画像から、次の投稿者はその「色」に着目して「カラフル」という共通点のある風船の画像を投稿しており、次は、その画像の「風船」そのものに着目し、その風船が空に飛んでいく写真を私は投稿し、今度はその風船の写真の背景に写っている「ビル」(早稲田大学33号館)に着目し、似た画角でビルを撮った写真を投稿している。人によって、色に着目して繋げるか、その写真の内容に着目するか、形に着目するか、写真を撮った際のカメラの画角に着目して繋げるか、全く着眼点が異なるのである。このように、画像と画像のつながりの共通項のようなものが写真が投稿されるたびに変化していく様が、見ていてとても興味深く、このカンブリアンゲームの面白いところなのではないかと感じた。また、自分がその写真のどこに無意識に着目しているか、については、AIでの画像生成をやっている際も感じた。とある画像から着想を得てAIで「首を寝違えて痛がっている人」の画像を作りたいと思い「首 寝違えた 痛い」などとプロンプトして入れてみたところ、AIは痛がっている犬の画像を生成してきた、確かに「人」と入れていなかったので犬が出てくること自体はおかしくないのだが、私は無意識に寝違えて首を痛がるのは人間だけだからAIも人間の画像を出してくるはずだと仮定していた。その予想に反してAIは犬が首を痛がっている画像を作ってきたので、その時にはじめて自分の中に「首を寝違えて痛がるのは人間だけだ」という前提があることに気付かされた。このように、AIが作ってくる画像を見てはじめて自分がなにを無意識のうちに前提としていたかに気付かされるのも非常に面白かった。AIで作ると思っていたのとは違った画像が出てくるのは、このことが原因にあるのではないかと思った。

Hikari

フロー

この街に遺る神話


うねるAとRの世界


感想

今回のカンブリアンゲームで、AI画像にリアル画像を繋げ、リアル画像にAI画像を繋げ気づいたことがいくつかある。
まず、AI画像の色彩の豊かさである。日常生活を撮った写真からはえられないような非日常的な風景、絵が瞬時に生み出せれる。
そして、AI画像の形の面も注目したい。AIが生み出す歪な形は現実世界の生活では決して目にすることのないアンバランス感、不可思議さ、気持ち悪さ、興味深さを持っている。
もう一つAI画像の面白い点として無作為性がある。人間の制作物はどれも(どれだけ無意識的にしようとしても)どこかに必ず意図が存在する。意図的に出来上がったものではない自然(木や空や海など)を撮るにしても、その写真にはその写真を撮った人の意図がどうしても入り込んでしまう。人工物を撮った写真はもっと複雑に意図が絡み合っている。建築物を撮った写真にはその建築物を作った人の意図と、その写真を撮った人の意図が混じり合っている。意図的ではなくなんとなく取れてしまった、撮ってしまった写真にも、写真を撮るという行為をしている以上、写真を撮った人の意識が存在しない写真などありえないだろう。
一方、AIによる画像生成は写真から意図を剥ぎ取ることができる。こんな絵を出したいと意図しても全く違うものが出てくる。意図しても意図的にならない。AIは自分の思い通りになってくれない。これは言い換えれば、自分の思考の外側に出ることができるということではないだろうか。
以上のような点により、AI画像生成の使用は、固定観念・ステレオタイプに縛られない思考の飛躍を促し、現実世界の外へ飛び出すための扉を開く鍵になると思った。

do91don

フロー

宿る生命


未来飛行


感想

AI生成画像は、直感的に選んだ画像に自分の作った画像を繋げることができるので、比較的楽でした。一方、リアルの画像では手持ちの写真を何度も見返し、どの画像が繋げられそうか、写真のどこを切り取るかなどを考える必要があり、少し手間がかかりました。
また、他の参加者たちの発想の転換やAI生成画像のクオリティの高さには驚きました。一目見ただけではAIが生成したものか実際のものか分からないものもありました。そうしたAI生成画像から着想を得た何かが現実の世界で制作されたら、面白い作品が生まれるのではないかと思いました。
AI生成画像はすべてmemeplexを使用しましたが、キーワードをいくつも入力すると、一部のキーワードしか反映されないことが多かったです。キーワードを変えたり、何度も生成してみたりしましたが、理想通りの画像を得るのは困難でした。しかし何度も生成していく中で、キーワードの数を減らすと、自分が思い描くイメージに近い画像が生成されることに気づきました。AIを使った画像生成は初めてだったのですが、このカンブリアンゲームを機に、これからも活用していけたらいいなと思います。

shimizuna

フロー

どこでもドア


成長


感想

このカンブリアンゲームを通じて、私は多くの気づきを得られた。まず、私は投稿しなかった画像も含めて20枚近くのAI画像を生成したが、どの画像も思い描いていたものとはかなり違っていた。最初の方は思い通りの作品が出てこないことに不満を感じていたが、数を重ねていく内に、これは裏を返せばAIが未知の世界に連れていってくれているのだということに気がついた。AIが新たな知見を与えてくれること、これこそがAI画像生成の醍醐味なのだと思う。また、AI画像はいい意味でぶっ飛んだ作品が多数で、SFや異世界といったノンフィクションな世界観にいるような高揚感を感じることができた。一方で、リアル画像は馴染み深い作品が多く、言ってしまえば特に面白みのない惰性的な感覚で眺めていることがほとんどだった。カンブリアンゲームは、AI画像とリアル画像が複雑に繋がることで、一瞬にして相反する感情がいったりきたりする刺激的な空間であることは間違いない。また1番目にあげたフローの通り、自分が嵐山で撮影したみたらし団子が、AIとリアルが繰り広げる複雑な展開を経て今度は浅草で撮影したみたらし団子に変わるというフローがあった。このような現実と現実を無意識にAIが繋いでいったこの状況に私は「どこでもドア」的なニュアンスを感じ取り、同時にこれからの社会を示唆しているのではないかと感じた。最後に、自分なりの画像生成のコツについてだ。まず、お風呂の中でその日にあった出来事や聞いた話、感情を一通り思い起こす。そして、その中からランダムに抽出したキーワードを、AIに責任転嫁するような気持ちで並べていく。すると大抵意味不明な画像が生成されるが、意味不明な方が実は見方や捉え方が増えるため、その分繋げられる画像の選択肢が広がった。
今回のカンブリアンゲームという課題は、小さかった頃の忘れかけていた創造力を思い出させてくれるような、刺激的で豊かな経験となった。

YoshikiWatanabe

フロー

未来あるいはパラレルワールド


歩き続けて縁が生まれる


見上げる首の動きを想像してみる!


感想

カンブリアンのリーフを繋げる過程で、次第に自分のイマジネーションの限界が問われる局面になってくることが何度かあった。ケーキの「円」や、建築物の「立方体」のような形状の抽象解釈ではなく、物語や概念を画像化したリーフが多いとそうなる傾向にあった気がする。その理由は、Realのリーフは撮影者の「撮るぞ」「投稿するぞ」という『意図』が存在する一方、Artificialなリーフは各サービスの学習データの反復学習によって得られた『傾向』が出力をつかさどるため、リーフを『解釈』する際にはAとRでは全く異なる遡上が行われているからだと考える。誰かが意図を持って撮影したリーフには「共感」というつながりが生じるが、個人の感覚外にある表現を可能にする自動生成画像の場合はリーフに対する責任があいまいになり、その結果リーフどうしのつながりは二枚の画像にたいする自分自身の解釈の間にのみ生じるのではないか。
個人的に面白いと思ったのはクラゲ人気である。フワフワした浮遊感とぼんやり発光する様子や、たくさんの個体が均一に群れているランダムな様子は深層学習の過程に存在する「ノイズ化」を思い起こさせた。クラゲのイメージには本来的にさまざまなものを想起させる懐の深さがあるのか?
先ほど自動生成画像では意図が重視されないような書き方をしたが、表現を「狙う」ことについても発見があった。自分の絵の腕前にあまり満足しておらず、ペイントツールで最もよく使うコマンドはCtrl+Zな私にとって、「描き手の意図しない結果が現れる」という現象は日常的なものである。だから偶然上手くいったストロークの集合体である自作品を見ても、どこかで「自分の絵」ではなく「自分の絵の上澄み」のような気分になる(底にはCtrl+Zで消された無数の「自分の絵」が沈んでいる)。手というものもある意味で自動生成のツールの1つなのかもしれないと考えた。

YuniKuno

フロー

ブロッコリー


未来はピンク色


感想

今回、AIを初めて触ったが、私はリアルな写真からリーフを繋ぐよりも、AIを使って繋げる方が難しいと感じた。例えばいくつかのキーワードを入れても、そのうちの一部だけに偏って反映されてしまうことがほとんどだった。例えば、「音楽」「破壊」「宇宙」というキーワードを入れると、「破壊」が全面に出された画像ばかりが生成された。全てをバランスよくというのは難しく、どれか一つに引っ張られてしまうのは、人間的だなとも感じた。しかし、文として入力すると、割と上手く反映されることが多いのが興味深かった。その文が、現実ではありえないものだったり、時制や文法が不自然なものだったりしたとしても、ストーリーがあるものの方が反映されやすいのだと分かった。また、AIの画像生成サイトの種類によっても大きく差が出るのが面白かったが、どうしてそのような違いが起こるのか、どのように起こるのかをもっと知りたいと感じた。
クラスメイトたちのAI生成への適応力と、作品のクオリティの高さにはとても驚かされた。私は、AIに入力するキーワードや文を一から考えることの時点でかなり難航していたのだが、皆自然に不自然な文を作るのが上手で、発想力の違いを見せつけられた。ただ、私は元々ある画像を見て、自分の記憶の景色を辿り、元の画像を応用させるような写真を持ってくることは得意なようだった。自分の得意不得意が分かったという点でも、有意義な取り組みであった。