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解剖仲間8全体に公開
2007年12月14日02:58
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松井貴子さんから、彼女が最近翻訳した『人体解剖図--人体の謎を探る500年史』(ベンジャミン・A・リフキン他)を送っていただいた。

松井さんからは何ヶ月か前にメールをいただいていて、ヴェサリウスに関するあるタームをググっていたら、僕の日記にたどりついたというのだ。まるで、ほとんど客のいない古本屋で旧友に再会したみたい。「勝手ながら、安斎さんをわたしの心の中の解剖仲間No.8に位置づけさせていただきました」という栄誉をいただいたが、7までが誰かは明らかでない。

この本、松井さんも指摘しているが、ルネッサンス以前やイスラム文化圏はすっかり抜け落ちていて、いわば西洋における人間観の確立史だ。自分の中の編集本能が頭をもたげて、下にあげたような図像まで含めた、身体のメタ認知史に拡張してみたくなる。

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デュビュッフェ『誕生』

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フリーダ・カーロ『乳母と私』

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光島貴之『肩こり』

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光島貴之『胃潰瘍』

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13世紀の解剖図

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ヴェサリウス 解剖された解剖学者

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透視前の『棘を抜く少年』

コメント

あおいきく2007年12月14日 12:08
まだ本じたいは読んでいませんが、小林昌廣さんのブログに抜粋されていた加藤秀一『<個>からはじめる生命論』(NHKブックス)の一節

<いまさしあたり乱暴にいうなら、「生命」とは科学が拠って立つ平面であり、倫理が繋留すべき場所ではないと私は考えているのだ。「生命」という概念が妥当するような存在があろうとなかろうと、それは、それだけでは、倫理への問いを起動することはない。(…)倫理にとって重要なのは「生命」でも「いのち」でもない。そうではなくて、私たちが互いに呼びかけあうとき、あるいは呼びかけようとするときに、その呼びかけが差し向けられるべき点としての<誰か>であり、そのような<誰かが生きている>という事実こそが、守るに値する唯一のものなのだ>

解剖学上の人体を見る時と、魂も命もある人間の体として感じる時の、言いようのないギャップを埋める言葉として目から鱗でした。
あおいきく2007年12月14日 12:16
それにしても、光島貴之さんの『肩こり』、なんて的確!
見ただけで、神経がこの絵の状態に固まってくる感じです。
中村理恵子2007年12月14日 12:49
松井貴子さんってさ、ほかにも面白そうな本に、関わってるんだね。
知らなかった。
水越さん、強力な秘書さん頼んでるなぁ。

tsuge2007年12月14日 13:59
どうも、松井です。
安斎さん、表紙まで載せてくださってありがとうございます。
「人間観の確立史」とはまさにその通りで、今さらながら帯に入れたいと思いました(笑)。

解剖仲間の詳細はひみつです。
中村理恵子2007年12月14日 14:01


 松井さん、毎度!
amazonの松井貴子をクリックすると、いろんな本でてきます。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/search-handle-url/249-3400090-9001969?%5Fencoding=UTF8&search-type=ss&index=books-jp&field-author=%E6%9D%BE%E4%BA%95%20%E8%B2%B4%E5%AD%90

安斎利洋2007年12月14日 14:47
あおいきくさんが引いてくれたテキストを読んで、それからまた『人体解剖図』を眺めてみると、解剖図のまわりにある冗長ともいうべき風景や、骸骨をとりまく日常の小物が気になってきます。倫理をつなぎとめることができない対象としての身体と、呼びかけが差し向けられるべき点としての<誰か>と、そのふたつの界面がここにあるような気がする。

そういう意味で、解剖図の歴史は後退の歴史でもありますね。この本の最後はCGによる人体の可視化なんですが、これがいちばん界面から遠い。逆に言うと、CGによる解剖図は、まだまだアートとしてやるべき領域だと、気づかせてくれます。
安斎利洋2007年12月14日 15:12
>amazonの松井貴子をクリックすると

ディップとダ・ヴィンチは、明らかに松井さんの仕業だ。mixiに潜んでいたのですね、tsugeさん。

松井さんとは「本とコンピュータ」からのおつきあいですが、もしかしてあおいきくさん、お知り合い?
安斎利洋2007年12月14日 15:23
>それにしても、光島貴之さんの『肩こり』、なんて的確!

おまけに『胃潰瘍』を追加しました。
あおいきく2007年12月14日 15:49
>お知り合い?
存知上げておりませんでしたが、多彩なジャンルの本を翻訳されていらっしゃいますね。

>そのふたつの界面
小林さんのブログはここですが、
http://green.ap.teacup.com/april/
成功したという「人体の不思議展」、概要や一部写真などを見て、プラスティネーションされた遺体を見せ物にするということに、どうにも違和感が拭えなかったのです。
「解剖学の天使」からも遠く、オブジェにすらならない、思考も中ぶらりんのままの展示のあり方に恐怖さえ感じて。

臓器移植も然り、違和感をもっと言葉を尽くして埋めていく必要があるとつねづね思っています。
tsuge2007年12月14日 16:02
はい、tsugeは潜んでました。仮死状態ですが。名前面倒だから本名においおい変えようかな。

あおいきくさんとは初めてだと思います。あおいきくさん、どうぞよろしくお願いします。わたしも『肩こり』に感動しました!
tsuge2007年12月14日 16:03

>解剖図のまわりにある冗長ともいうべき風景や、骸骨をとりまく日常の小物が気になってきます。

つっこみどころも満載です。原書は学術書で、図版キャプションが退屈なのが残念でなりませんでした。う、裏バージョンを出したい。
安斎利洋2007年12月14日 23:41
>>>解剖図のまわりにある冗長ともいうべき風景や、骸骨をとりまく日常の小物が気になってきます。

「気になる」というのは肯定的な意味です。骸骨が風景の中で日常のポーズをとり、日常声をかけている人間たちが臓器をさらしている不思議さをどうしても描きたかったんでしょう。その違和感が、なんか面白い。

解剖図が日常から遮断された標本になってしまったとき、解剖図は違和感を失い、アートと同形のメッセージは効力を失うんじゃないか。

以前、東京の凹凸にはまったことがあります。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=316009927&owner_id=63253
このあたり。

この感覚に馴染んでくると、たとえば山の手線のマップは標本箱のように思える。
凹凸と、路線図の滑らかさの間にある、違和感を引き起こす界面が面白い。

あおいきくさんの抱いた違和感は、ES細胞を完全に操るようになれば、ますます僕らから遠のくでしょうね。だんだん標本箱や、パーツ箱の中に、身体の質感は消えていくことになる。
安斎利洋2007年12月14日 23:42
>裏バージョンを出したい。

翻訳家ってたいへんですよね、自分で書き換えたり書き足したりする衝動を、どう抑えるんだろう、って思いますよ。
中村理恵子2007年12月15日 07:45

ねーねー松井さん

 しかし、この表紙は、古代ギリシャ彫刻の「棘を抜く少年」;Spinario (カピトリーノ博物館蔵)
でしょ?
骸骨にしちゃったんだ?
http://www.bluffton.edu/~sullivanm/italy/rome/capitolinemuseumone/spinario.html

これって内容にどこか響いた一流の洒落かな?
受験のとき、これの石膏でぬいたレプリカあって、美大専門の、受験予備校にあったけど人気なくてねー。絶対試験にでそうにないから(笑)。
安斎利洋2007年12月15日 12:43
>「棘を抜く少年」

なるほど、本歌どりだったんだ。気づかなかった。
ヴェサリウスのなかに、骸骨に手を置いて考えている骸骨があります。いわば解剖された解剖学者。洒落ですね。メタな遊びです。

この図版、↑に追加しておきました。

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