安斎利洋の日記全体に公開

2007年08月09日
17:18
 フラット革命
写真

俎上(まないたの上)という言葉は、比喩として形骸化しているけれど、たとえば自分がイカで、生きたまま「お造り」になって、自分の目の前で自分が調理されていくのを見るのは、もしかすると至上の快楽かもしれない。

佐々木俊尚著 『フラット革命』読了。

仮にカンブリアンや、僕や中村さんのmixi日記がそこに書かれていることを差し引いても、この本は僕にとって十分に刺激的だった。このようなリアルかつ哲学的なメディア論が読みたいと、ずっと思っていたように思う。

ぐいぐいと人をひきつける魔力は、文章のうまさもあるけれど、佐々木さんが内部に巻き込まれながら、巻き込んでいる外部を問題にする巧みさに由来している。佐々木さんは、まことしやかなフレーズでわかったような気にさせる文章は書いてくれない。上手なポリフォニーの作曲家が、わかりやすい予定調和の終止(カデンツァ)を書かないのと同じだ。わかりやすいカデンツァを偽装し続けているのが、新聞をはじめとする旧来のメディアだということを、この本はまず語り始める。新聞記者だった佐々木さんが、知りつくしている旧メディアの無根虚性を暴き出すプロセスは、痛快ですらある。

戦後日本の言論は、ひとつの「われわれ」という仮想人格を基準点にして成り立っていた。言葉をかえれば、たとえ個々のメッセージが右に寄っていようが左によっていようが、ひとつの言語ゲームの中に収納することができた。「フラット」とは、それが複数の共約不能な、通じあうことが自明でない言語ゲームに散逸することを意味する。

そのようにして共約不能なブログが乱立し、よるべない心が投稿する私小説的物語があふれる。佐々木さんはそこに可能性を見ている。意味の自明な階層がない世界で、語り手の意図が聞き手に伝わる保証もなく繰り広げられる会話は、いわば「暗闇の中の跳躍」(クリプキ)だ。そして、佐々木さん自身も跳躍し、自身のブログ炎上を通して、一貫しがたい自分自身の言説にも向き合う。

佐々木さんと気持が合うのは、僕らは特定のイデオロギーに棲み続けることを極度に嫌うからだと思う。中村さんに言わせると、それは水面に浮くホテイアオイなのだそうだ。しかし、水に流されているように見えて、実は暗闇の中で危険な跳躍をし続けているのだ。暗闇の中で跳び続けることが、セレンディピティに近付く唯一の方法だからだ。


『フラット革命』の俎上に載ったもろもろ。

町の瞳
 http://anzlab.com/aich01/
星座作用
 http://cambrian.jp/03.htm
専業主婦不要論
 http://mixi.jp/view_diary.pl?id=151420739&owner_id=63253&full=1
 http://mixi.jp/view_diary.pl?id=152032291&owner_id=63253&full=1
コミュナルなケータイ
 http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0228710/top.html


写真
(写真は福岡で食べたイカの活け作り)
 

コメント    

2007年08月09日
17:37
中村理恵子
>(写真は福岡で食べたイカの活け作り)

イカは、赤くない目に見えない大量の血を流してるのだと地元の青年がいってたね。なんだか妙に響く話じゃん。
2007年08月09日
17:59
安斎利洋
赤くない血の生き物の痛みは、わかりづらいね。確かに暗示的だ。

でも、僕はときどき血の赤いイワシを大量虐殺する。
2007年08月09日
18:36
中村理恵子
人里におりてきた熊もそりゃー大量の血を流して生け捕られ死んで逝くのだそうだよ。半端じゃないんだって。神話の世界では、人と熊は、身内になりうる設定だからさ。

安斎さんは、いわしと身内だもんね、きっと(笑)。
2007年08月09日
18:45
安斎利洋
>いわしと身内

にんべんに「弱」。
2007年08月09日
20:47
Mike
>佐々木さん自身も跳躍し、自身のブログ炎上を通して

そうだったんですか。
ますます、読んでみたくなってきました。

それと、福岡に直行して、イカ刺しを食べたくなりました。
2007年08月10日
00:02
安斎利洋
>ますます、読んでみたくなってきました。

ぜひぜひ、読んでください。損はさせませんぜ。

いまamazonのベストセラーランキングを見たら、91位!
ちなみに、僕のほうの共著本『コミュナルなケータイ』は堂々の164,565位。

>福岡に直行して、イカ刺しを食べたくなりました。

福岡でいちばん旨かったのは、なんといっても「水たき」でした。
2007年08月10日
06:20
あおいきく
昨日、近くの書店で購入しました。

専業主婦不要論、今読み返しても面白いですね。ホテイアオイに触発されて、水の中がどんどん撹拌されていく。
女性だけのコミュニティでこのような話を投げかけるのは、正直、相当な勇気が必要です。
ネットはある条件と優れたファシリテーターが整えば、言葉だけに集中できるぶん、良質の議論が生まれるという可能性を地でいく内容だと思います。
2007年08月10日
06:38
小林龍生
ぼくは、函館でイカ喰ってきた。

今、ぼくもフラット読了。

ぼくは、この本を、一昨日(8月8日)東京駅構内(エキナカ)の書店で、Suicaでもって買った。Suicaの原資は、有楽町ビックカメラのポイントだな。おっと、何だか、安斉さんのお部屋を乗っ取ってしまいそうなので、委細は自分のお部屋で。

一点だけ。
>「フラット」とは、それが複数の共約不能な、通じあうことが自明でない言語ゲームに散逸することを意味する。
以前、村上陽一郎が共約不可能性(incommensurability、共訳不可能性とも)について語ったとき、「共約不可能性の認識は、限りない相対主義に行き着かざるを得ません。そして、その相対主義の先には、ナチスドイツのホロコーストを容認するかしないか、という重い課題が待ち受けています」といった趣旨のことを言った。口頭での発言で、ぼくの記憶違いが入っているかもしれないが、ぼくは、村上陽一郎の発言を、そのようなメッセージとして受け取った。
爾来、この課題は、ぼくの中でも、常に大きな課題として思考の行く手に立ちふさがっている。
今までのぼくなりの結論は、世界に共約不可能な他者が存在する、という想像力を忘れないこと。そのためには、自分が、絶対者ではないことを常に意識すること。(そのために、絶対者としての神の存在を措定することは、比較的安易で安全な方法なのね)
ちょっと飛びすぎかもしれないけれど、佐々木さんは(そして安斉さんは)、神なき世界で、村上陽一郎の課題にどう向かい合うか(ぼくが、棄教するという意味ではなくってね)について、すごく大きな示唆を与えてくれていると思う。
2007年08月10日
15:01
佐々木俊尚
暗闇への跳躍、っていうのはとても良い響きですね。
そう、結局は無駄と危険を承知で跳躍しないと、期待していなかった出会いにぶつかることはない。インターネットはその厳然たる事実を、われわれに皮膚感覚で理解できるかたちで可視化してしまったんじゃないかと思います。
2007年08月10日
15:43
中村理恵子
>結局は無駄と危険を承知で跳躍しないと、

いま、無駄とか危険というのはすべて脳内コントロールの領域になりはてて(実際はちがうけどね)、例えばこのmixiでの大遊びも、足もとがずぶずぶくずれるようになし崩しに3年が経ってしまいました。
それを自身が止めなかった。

かつては、戦争ですべての作品失う、資料を灰にする。
衛生事情が悪いので、結核や肋膜で簡単に数年ふいにする。
わかりやすい無駄、誰にでもが納得できる無駄に、人々は足をすくわれていたと思います。
さらに寿命もいまよりは短いはずです。
自分ではどうにも抗しがたいそうしたわかりやすい「ストップ」や、「無駄」とは、われわれの生きてる時間は明らかに違いますよね。

いやならいつだって止めていい質の、種類の無駄や、危険が横たわってますよね。
避けようとおもえば避けられる?
止めようと思えば止める?

いまこそ「無駄」ということ「危険」ということをいかにイメージして、対するか?を問われてるときもないとおもうんですけどね。
話が少し逸れたかもしれませんが、、、。
2007年08月10日
22:23
小林龍生
ぼくは、インターネットの世界を、際限のないエントロピーの増大(=ノイズの増大)とそれに抗しての、エントロピーの減少(=秩序の維持、もしくは公共性の確保?)として、捉えてきたように思う。
佐々木さんの本のキモというかヘソの一つは、《セレンディピティー》という言葉だと思うのだけれど、その《セレンディピティー》を掬い上げる営為こそが、エントリピー減少への第一歩なのだろうな。
2007年08月11日
01:43
安斎利洋
「専業主婦」では、あおいきくさんが網野史学の話をしたとたんに、すとんとエントロピーが整理された感じがありました。お待ちかねのソプラノサックスが入ってきて、いっきにモードが変わった感じ。

「フラット革命」がインターネットという装置にかかわる話であることは確かなんだけれど、佐々木さんの本がグーテンベルクの出版システムの中に投げ込まれているように、媒体がデジタルか紙かはそれほど重要ではなく、大事なのはエントロピーを減らすことができる才能のあるプレーヤーがどこにいるかということなんでしょう。パラダイムを変えることができる人間が、どうやって(いわば)共闘できるか、っていうのが文化の正体じゃないか。

ダメなプレーヤーはどこにでもいて、自分がいま信じている正義だけが自明の正義だ、と信じて疑うことのできないような、明るく安全な場所で跳躍をやめてしまったプレーヤーはたくさんいます。とりあえず、そういう人たちとどうやって付き合わないですませるか、というのが人生のテクニックになるんだけれど、なかなかそうもいかないこともある。

佐々木さんは、古巣の「良識」が、根拠のない良識であることに気づかないことに切り込んでいきますが、僕も小林さんほと怒りっぽくはなってないとは思うけれど、芸術や知識の世界にいる人たちが「跳躍」しないのにいらつくことが、最近多すぎる。

それにしても、ここに著者がいること自体、フラット革命ですね。跳んでてよかった。
2007年08月11日
04:19
小林龍生
問題は、エントロピーを減少させる方向性が複数(というか無限に)あって、多くの人が賛同する選択肢が正しいという保証はどこにもない、ということ。というか、佐々木さん的には、そもそも《われわれの正義》などという幻想は霧消したわけで、だけれども、ぼくがささやなに《ぼくはこう思う》というメッセージをノイズの大海に投げ込んだとき、だれかが、そっと見ていて、ひそやかに、「そうだよね」と思ってくれるかもしれない。ぼくのブログは、スパム以外のトラックバックやコメントは皆無に近いのだけれど(意図的に、コメントを付けにくいような文章を書いている節もあるし)、ごく稀に、あ、読まれているな、というシグナルを感じることがある。思わぬ人が思わぬところで、リンクを張っていたりね。そんな微弱なシグナルが、ある種の《共感》に感じられてね。ああ、少なくとも地球上に一人は、ぼくに《共感》《反応》してくれる人がいるのだ、と思えるわけだ。
そういう思いって、佐々木さんが書いていた瑞穂さんの物語と、全然違っちゃいない。

>僕も小林さんほと怒りっぽくはなってないとは思うけれど、
ぼくも、昔ほどはいらつかなくなったけどなあ。
ま、もう、あきらめたのかもしれないし。
2007年08月11日
12:19
佐々木俊尚
母集団であるインターネット総体としては、エントロピーが増大している状態が望ましいと思うんですよね。ノイジーであればあるほど、情報の総体としての信頼性は高まるという逆転性がある。たとえばアマゾンの書評やグルメクチコミで、すべてのレビューが☆5個になっているような本、レストランは信用できない。逆に☆5個と☆1個が混在している状態の店の方が信頼できる。プラスに対するマイナスのアンチテーゼが存在する方が、乱雑さを高めて結果的に情報の総体としての信頼性を高度化できる。

そのエントロピーの増大したノイズの海の中から、体系だって情報をすくい上げることによって初めて情報エントロピーは低下するわけで、この<母集団−すくい上げられた体系>という二重構造でエントロピーは逆転すべきだと思うのです。
2007年08月11日
12:24
佐々木俊尚
もうひとつ。

無駄や危険を意図的に作り出す、というのは世界の生々しさを取り戻すために必要な行為のような気もします。
カスタネダでしたっけ? 「イクストランの旅」でドン・ファンが正しい世界認識の方法を「見ないことだ(世界を直視しないで、横目で見る)」と言ったみたいに。客観的、かつ冷静に世界と向き合っている間は、いつまで経っても生々しい世界認識は取り戻せないので、だからこそ横目で見たり、跳躍したり、無駄や危険に身を投じたり、という作業が必要になるんじゃないでしょうか。おそらく中世までは人々は意図するしないにかかわらず、そうした行為を強制的にさせられていたんだと思いますが。

2007年08月11日
14:46
安斎利洋
情報のエントロピーという言葉は、情報をどう読むか、ということにかかわる概念で、そんなに簡単な話じゃありません。生命は、情報とその読み方が組になって、エントロピーの減少系を作っているわけで、ネットの情報も同じことです。

「フラット革命」で、いちばん大事なWeb2.0の概念はロングテールだと書いていますが、僕も同感。だけれど、僕はロングテールという言葉は安易だと思っています。

ロングテールは、トールヘッドからの眺めで、平坦な(エントロピーが大きいノイジーな)状態に見えるのは、自分がグローバルヘッドにいるからです。テールに降りてくるとそこには無数のローカルヘッドが立ち上がっていたり、その中にローカルテールがあったりする。そのような構造が見えてくると、そこはエントロピーが低い状態になっている。

無駄という概念も、ロングテールと同義で、自分が「有益」の内部にいるから、「無駄」という概念が出てくる。テールからテールを読む、というのが、フラット革命ではないか、と。
2007年08月11日
19:41
小林龍生
>情報のエントロピーという言葉は、情報をどう読むか、ということにかかわる概念で、そんなに簡単な話じゃありません。
ここが問題なんだな。
じつのところ、ぼくは、情報のエントロピーと熱力学のエントロピーとの対応関係が、いまいち、よくわからない。
たとえば、炊かれた赤飯の小豆と米の混ざり具合と、おはぎのあんこと餅米の関係で言えば、おはぎの方がエントロピーが低い、というのは、自明のことのように思える。一方、「ノリメタンゲレ」と「ノリノリメタメタ」のどちらの方が、エントロピーが低いか、というと、これは、情報を読む側の背景知識への依存関係があって、一意には定められないと思う。ちなみに、「ノリメタンゲレ」というのは、復活のイエスがマグダラのマリアの前に現れたとき、すがりつこうとするマリアに対して、イエスが言った「わたしに触れてはならない」という言葉のラテン語なのだけれど、フィレンツェのサンマルコ修道院にあるフラ・アンジェリコの壁画の題名でもある。
このように考えると、佐々木さんの
>エントロピーの増大したノイズの海の中から、体系だって情報をすくい上げることによって初めて情報エントロピーは低下するわけで
という発言の中での、《体系》というのは、結局は、情報を読み取る側にしかないのかなあ、という気もする。
それとも、おはぎの方が赤飯よりもエントロピーが低い、という言説そのものが、ぼくの頭の中だけの問題なのかしら。
2007年08月11日
23:00
安斎利洋
小林さんの言う「よくわからな」さは、情報は読まれる対象であると同時に、読む装置でもあることに起因するんじゃないか。

たとえば本を読むのは、自分内部の情報世界に情報をひとつ付け加えることであるけれど、同時に世界を解釈する装置を拡張することでもある。

本を読むのは、マルチメディアプレーヤーでコンテンツを再生することでもあるし、マルチメディアプレーヤーに新しいコーデックを追加インストールすることでもある。

たとえば芭蕉の発句や、デュシャンの「泉」は、その作品を知ったあとで世界を見ると、世界の情報エントロピーが極めて減少する。まあ、それは人によるわけで、インストールが可能な場合とそうでない場合がある。

佐々木さんの本が売れるのは、新しい情報を欲しがっている人が、情報をひとつ追加するために買う、ということもできるけれど、佐々木さんの本に書かれた「世界の解釈方法」を自分に装填することによって、混沌として見えていた世界がすっきり整理され、世界の情報エントロピーが減少するので、そのために本を買う、といえる。

佐々木さんの本を、自分の解釈装置の拡張にすることができる集団があり、それがひとつのパラダイムを作る。多くの人を飲み込むパラダイムもあり、ばらばらに散逸したパラダイムもある。そこにも、エントロピーがあてはまる。

安定したコーデックがひとつである世界(戦後の日本のような)であれば、確率的なエントロピーを考えることができるけれど、コーデックそのものが複雑に授受される世界では、エントロピー概念はあまり役立たない。

mixiがだめになっているのは、単純にトラフィックの増加を望んでいるからだと思う。人が熱力学的に行動すると考えているんじゃないか。逆に、単純にトラフィックの増加を望んでいるメディアは、人を確率的な動物にする。

なんてことを、実は最近考えていました。
2007年08月12日
04:43
小林龍生
>小林さんの言う「よくわからな」さは、情報は読まれる対象であると同時に、読む装置でもあることに起因するんじゃないか。
卓見だね。
《マックスウェルのデーモン眼鏡》なんちゃったりしてね。いろいろ種類があってね。《赤デーモン》《青デーモン》《われわれデーモン》《フラットデーモン》。
《フラットデーモン》は、じつは素通し眼鏡なの。
《佐々木デーモン》というのもあって、これは、偏光レンズになっていて、この眼鏡をかけると《赤デーモン》や《われわれデーモン》を通した風景と何の眼鏡も通していない風景の違いがわかるようになるの。
2007年08月12日
05:14
Yamahige
>本を読むのは、…、同時に世界を解釈する装置を拡張することでもある。
あぁ、その表現いいですね。

本を読んだり原稿をチェックするときに赤ペンで傍線を引くことがあります。
本を読み終えたり原稿をチェックし終えたとき、その傍線は「世界を解釈する装置」拡張プロセスの「痕跡」となっているのではないか。
で、紙とペンの世界では「痕跡」でしかないが、この拡張プロセスを電子化すると、簡易「世界を解釈する装置」として、傍線…の「枠組み」を再利用できるのではないか。
…というソフトを、7/27(金)にはこだて未来大学で小林さんとぼくが発表したのでした。
具体的には、
・線を引く観点と、その観点での評価という2階層で傍線を色分けし、
・観点を軸とした表形式で、本や論文の内容にクロスフィルターをかけることができます。

例えば、BENNIE Kの「青い鳥」を「世界」という観点で聴いてみる。「世界」の「厳しさ」、「世界」へ「挑戦する心」を表した部分にそれぞれ線を引く。さらに「青い鳥」の「大切さ」と、「青い鳥」に結局たどり着いたのか?「帰ったのか?」を表す部分に線を引く(「ただいま〜」って…帰ったのか?)。
それで、なんらかの納得がいったとき、ぼくは次のような解釈装置を得た、と:
世界 { 厳しさ、挑戦する心 }
青い鳥 { 大切さ、帰ったのか?}

で、この解釈装置を持って、今度はEvery Little Thingの「nostalgia」や中島みゆきの「ホームにて」を聴いてみる。聞き比べながら、自分の解釈装置に修正が入ったりもする。

…ってか、早くひとに渡せるようにしなさい
σ(^^ ;
2007年08月12日
10:26
中村理恵子
>…ってか、早くひとに渡せるようにしなさい

とは、ここに連なる何人かにささる、それぞれにとっての宿題催促か?(笑)
2007年08月12日
14:23
安斎利洋
人間の脳の中で世界の解釈コードが変わるとき、「感動した」なんていう場合もあるけれど、たいていは何の表現もしないで黙っているから、工学的対象になりにくい。

傍線を引く行為は、受容の痕跡だから、情報そのものより一段メタではありますね。でも、線を引くというのは引用と同じで、ノイズから別の要素が創発することがない。

芸術家や文筆家は、ある作品から自分自身の解釈コードの変更を受けるような感動を得たときに、自分自身の次の創作を始めるから、影響を与えたもの以上のものを作りだすことがある。そこに目をつけたのが連画・カンブリアンだということができる。

フラット革命というのは、すべての鑑賞者が芸術家や文筆家であるということで、線を引く行為=自分のブログを書く行為、ということになるんじゃないかな。つまり、本に線を引くように、自分の解釈装置を表象できるソフトウェアを作れないでしょうか。
2007年08月12日
16:03
小林龍生
>つまり、本に線を引くように、自分の解釈装置を表象できるソフトウェアを作れないでしょうか。
イヨッ、Yamahigeクン、キミの出番だ。
2007年08月12日
17:17
安斎利洋
ロッカービデオ効果というのがあると思うんですよ。

以前日記に書いたことがあるんですが(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=183948087&owner_id=63253
「映画『MIB』で、ロッカーの中に住んでいる宇宙人が、たまたまそこにあった腕時計を祭壇とし、レンタルビデオの会員証に書かれた規約を教典として、ひとつの宗教を形成する。で、これがロッカービデオ効果、というわけだ。」

movabletypeなどの設計がロッカービデオになって、ブログ文化が生まれたと考えられる。mixiの足あとがロッカービデオになって、mixiのソサエティが生まれる。

実は、新聞というメディアもひとつのロッカービデオで、旧メディアと新メディアは速さや量的な差異が質的な差異を作っているけれど、原理は変わっていないんじゃないか。

文化を作る装置のシステム設計は、文化そのものとイコールだということになる。メディアやプログラムを設計する人間は、そこに気づいていない。

Yamahigeさんが書いているソフトも、もちろんロッカービデオとして機能しはじめるはず。カンブリアンもそうです。

デジタルドキュメントの問題って、そこにあるんじゃないでしょうか。
2007年08月12日
20:27
小林龍生
ははは、ようこそ、マクルーハンの世界へ。
というか、安斎さんのロッカービデオ論は、マクルーハンの《メディアはメッセージだ》というメッセージと完璧に同値だ。
2007年08月12日
22:18
安斎利洋
それはそうなんですが、むしろ焦点は、メディアは牢獄でもあるということです。
2007年08月13日
05:06
小林龍生
あっ、そうだね。自分が牢獄に入っていることに気づいていないこと。
話が、輪舞になるけれど、そういったメディアのロッカービデオ効果が普遍的なものだとすると、その外側の世界への想像力、というか、ロッカーの外の世界があるのだ、という自覚が必要になる。水越伸さんのメディアリテラシーもその問題。佐々木さんのセレンデプティも、安斎さんの跳躍も、ロッカーの内側と外側の問題、というわけだ。
いやはや。
2007年08月13日
12:59
安斎利洋
「メディアはメッセージ」は、語るためにメディアがあるんじゃなくて、メディアのために語る、という構造を言い当てていて、メディアはここから逃れることはできないんじゃないか。

佐々木さんが糾弾するのも、新聞がこの逆転を自覚しないで、「純粋な良識」という幻想をもっているいやらしさで、ロッカーに住んでるとロッカーは見えなくなるんですね。僕らもきっと、無自覚にいろんなロッカーに囲まれている。

いま、人知れず人類を囲い込んでいるロッカービデオは、パワーポイントじゃない?
2007年08月15日
21:02
Yamahige
あぁ、やっぱり黙ってられない (^_^;)

>ロッカービデオ効果

「プラダを着た悪魔」でメリル・ストリープ編集長が、アン・ハサウェイ秘書見習いに向かって「あなたの着てるその青、あなた自分で選んだつもりでしょうけど、それは…」って、似たようなことを言ってたような。

ぼくはここ数ヶ月のソフトを、大げさに言えば、パラダイムを疑って打ち破るときに強みを発揮するもの、と称している。
「罪を憎んで人を憎まず」から「記録を称えて人を称えず」というバリエーションを作って、そのパラダイムを皮肉ってみたり。
与えられたリストに基づいてチェックするより、リストそのものを疑って作り直してみたり。

一方で、それを設計してるぼく自身はというと、
それらソフトを「人々がみな、頭の中でやってる概念操作を外在化したものだ」と説明してる。
でも、ホントに「みなが頭の中でやってる」のかどうか、証明する気はさらさらないんです。
なぜなら、5年経ってこれらのソフトが普通に使われるようになったときには、みんな「わたしたちが頭の中でやってることを、外に出したものだ」と思うようになってるに違いない。
使われるなら証明不要だし、使われないなら証明しても無駄。…学会向きじゃないんですね、ごめんなさい。

それで、
傍線ソフトは、STORYWRITERって名付けたんです。READERじゃない、はず、なので、…まだ人に渡せないんですわ。
ちょっとくじけてるんですけどね。でも、傍線は「違和感」や「敵意」の痕跡でもあるので、せめてSTORYARRANGERにできないか、と。
2007年08月16日
19:10
安斎利洋
Yamahigeさんの目指しているのは、メタファーの力を借りてロッカーの扉を内側から開けることで、僕が目指しているのとまったく一致するのですが、それをアートと呼ばずにやるのは非常に困難がともなうんじゃないでしょうか。

というのは、工学に期待されているのは目的合理性だからで、合目的的である前に目的がなんだかわからない道具に対して、経営者や学者は恐怖を覚えます。

たとえばゲームなんかは、手段=目的であることを「遊び」という言葉でくくって、目的の罠から逃れているから、産業として成り立つ。企業にとってゲームの目的は、人がゲームソフトを買うことで、ゲームの目的という問題の立て方は、たぶんしないでしょう。

傍線ソフトに恐れを抱く人、あるいは僕らのやっていることに恐れを抱く人は、「遊び」と呼んで安心しようとします。

そういう人は、まあ、遊びで失敗するわけだな。ロッカーの外の怖さを知らないから。
2007年08月20日
22:23
satoカエル子
ごぶさたです。この本、すっごい面白かった! 作者本人には、まず、書店営業みたくどこの書店で扱いがいいとか悪いとか、タイトルがイマイチだとか読む前にいろいろ言ってしまったし、会う予定もあるので感想はそれまでとっておこうと思ったのだが、友人に勧めまくってたら逆に「安斎さんのmixiで話題になってるよ」と教えてもらい、久々に来ました。
この本、第四章からうっかり読んでしまい、次に一章、二章、三章と来たので安斎さんたちが出てくるのは最後に知り、それがまた、リアルを彷彿とさせるやりとりで面白いというオマケまで私にはついた。ちなみに二月の上旬に作者とご飯しつつ、「専業主婦、早くも脱退しようかと」って話してたら、彼らしく、専業主婦がいいとも悪いとも言わず「そもそも専業主婦という制度自体、日本すら戦後わずかな時期しか存在していない。江戸時代だって自営でお店とかやってたので、女性だって仕事してたんだし」とスルスルと自論を展開したのを思い出す。長かったこの本の執筆佳境の時期だったのではないかと、今にして思われ…。
と、作者が知り合いであるゆえの個人的な面白さも加味されつつ、ビジネス書でこんなに一気に読んだ本は久々な。
しつこいけど、タイトルがわかりづらい…けど、これは自分ではやらせましょう!
議論のねたとしても面白み満載だけど、やっぱ取材ねっとりな二章と四章は特に秀逸!! もっと皆読もう!
2007年08月22日
22:55
安斎利洋
>この本、第四章からうっかり読んでしまい、次に一章、二章
>三章と来たので安斎さんたちが出てくるのは最後に知り、

僕は、第三章を先に読んでから、1,2,3,4と読みかえしたので、まったく逆ですね。佐々木さんは、作曲家だったら交響曲を書く人だね。
2007年08月22日
22:57
安斎利洋
あおいきくさんの日記、
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=537983709&owner_id=464033

佐々木さん、こういう深い共振は、うれしいでしょうね。

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