DEATHNOTE(デス・ノート)は、「キラは誰か」をめぐってゲームが進み、キラの正体である夜神月(ライト)が滅び行く物語だ。
しかしこれは表層的な読み方で、キラという姿のない一神教が顕現する物語である、と読むこともできる。すると、夜神月はキラと世界をつなぐべく雇われたパートタイムにすぎず、夜神月は魅上輝と同格だ。
DEATHNOTEはひとつの思考実験であって、アンチ一神教でも、一神教礼賛でもない。大場つぐみという絵の下手な哲学者が、自分の分身たちの繰り広げる思考ゲームを、絵のうまい語り部を得て顕現させたのが、この作品だ。だから主な登場人物たちは、同じ人間に端を発するカテゴリーに属している(ラッキーマンのように)。
DEATHNOTEにはほころびがない、という。それは、一人から発するひとつの論理が研ぎ澄まされているからで、そこには絶対的な他者がいない。絶対的な他者というのは、ゲームそのものを理解せず、あるいは別のゲームに所属している者だ。従って、DEATHNOTEはバフチンのいうポリフォニー小説ではない。
冷戦時代の戦争ゲームは、まるで通じ合えない他者同士の戦いのようでいて、実はみな同じ論理階梯の上にいた。ゲーム理論を研ぎ澄ませて作られた国対国ゲームのディフェンスは、テロリストの攻撃には脆弱だった。アルカイダが他者だったからだ。
DEATHNOTEに、もし絶対的な他者が混入したらどうなるか。どんなに推論を研ぎ澄ませても、相手の行動は予測できない。ときに、他者はゲームに関心を示さない。そのような他者が、物語に作用を及ぼすところにいるとき、この作品はどうなっただろう。いや作品というより、一神教はどうなるだろう、という疑問だ。
近代オリンピックは、世界を一つにするためにはじめられた。ポリフォニーをモノフォニーにしようと意図された。オリンピックを、まだ顕現しない一神教の祭典であると考えると、ちょっと不気味で面白い光景だ。
インドに住んでいるsatokonさんの日記によれば、今回のオリンピックでメダルをひとつだけとったインドの街中で、オリンピックの話題はまったくないんだそうだ。中国に次ぐ人口第二位の国の話だ。
インド人の理性の顕現なのだろう。