検索フォーム

直太朗全体に公開
2008年08月20日02:48
芝居は好きだが、芝居がかったやつは嫌い。森山直太朗が、どうも好きになれないのはそのためだ。

森山直太朗『生きてることが辛いなら』
http://jp.youtube.com/watch?v=mXNHjTx7UPk

この曲が話題になるのは、話題を喚起する罠が曲に仕込まれているからだ。

「死にたければ死ねばいい」とショッキングに始まり、最後に「死にたければ嫌になるまで生きればいい」と反転する。要約すればそれだけの、陳腐な歌詞だ。

この歌詞は、自殺したい人に向けられている体を装うが、実際は、怒りを共有する仲間にだけ、向けられている。「いっそ小さく死ねばいい」の真意を理解できない人々への怒り、「逆説を受け入れられない硬直な連中」という仮想敵がないと、この罠は成立しない。ネット上の直太朗問題の反応の多くは、このような「マイナーな正しさを守る怒り」の物語類型をなぞろうとする

しかし実際、マイノリティはマジョリティだし、メディアがこの曲を自主規制することはなかった。唯一、怒られる筋書きにはまったのは一部のコンビニだ。短時間に出入りする客が多いため「歌詞の一部だけ耳にする可能性がある」として、店内で流さないことを決めた。

日刊スポーツが、「直太朗新曲の詞に賛否、コンビニ放送規制」という見出で記事にする。放送規制という言葉は、権力がメディアにかける圧力のことで、営業的判断は放送規制とは言わない。日刊スポーツの頭の弱さ丸出しだが、タブロイド紙の記事はテレビのワイドショーやmixiニュースみたいなポータル経由で世にばらまかれる。

かくして罠は、まんまと罠として機能しはじめる。

直太朗型の罠類型は、いろいろと正義の形を変え、潜行して流行ってるので、恰好のサンプルだ。免疫を作っておく必要がある。

コメント

ユミ2008年08月20日 03:08
そんな、評論家のような事言われてもなぁ。。。
直太郎くんは、ま、こんな「くそ歌」でも、表現者ですから、
その意味ではrespectするに足りうると思います。


それよりも、うさこさんの言わんとするところを素直に読み取らないばかりか、こんなところでカウンターで足をすくうなんて、卑怯者だぁ!

などと、、、
「逆説を受け入れられない硬直な連中」にもなってやろうじゃないかという気にさせる本日の安斎さんです。

まんまと罠にハマったのでしょうか。。。わたくし。
安斎利洋2008年08月20日 03:20
いやいや、うさこさんの日記に端を発しているようですが、うさこさんをせめているわけではなく。

>直太郎くんは、ま、こんな「くそ歌」でも、表現者ですから、
>その意味ではrespectするに足りうると思います。

いや、一度死んだほうがいいと思います。
さかい@9/15宮代Live2008年08月20日 06:28
あー、なるほど。


実は僕も直太朗が苦手で、なぜ苦手なのかということについてずっと考えていたのですが、僕が多年にわたって、なぜさだまさしが嫌いなのかという理由の一つと同じですね。


さだまさしというソングライターは、理性と無関係に人の情緒を操ることの出来る、「悲しい/思わず涙が出て来る」曲が書けるということに関しては天才的で、映画「二百三高地」の主題歌「防人の歌」でその技は遺憾なく発揮されました。

「すべての命に限りがあるならば/海は死にますか/山は死にますか/風はどうですか・・・」

この曲は大変ヒットして、その年の紅白歌合戦でも歌われたのですが、帰省していた実家で一緒に聴いていた祖父・祖母の不快そうな様子は、忘れがたく僕の記憶に刻み込まれました。


この曲は、彼らが実際に体験した戦争の悲惨と無関係な、単なる人の感傷に訴えかけるヒット商品としての罠だ、と、祖父母は見抜いていたようです。


そして、祖父母はそうした罠が、商品としてではなく、国策として大量に用意されていた時代を体験していたのだろうと、歳月を経た今では思います。


真実をより真実に見せるため、まことしやかに嘘をつく、というのならば立派なのですが、それを技巧として用いて人の心を操り「商品」として売る、というのは耐え難い。


作り手は単に技巧として人の心をもてあそんではならないのだと、当時まだ作曲者ではなかった十代前半の僕は、あの時学んだ気がします。
うさだ♬うさこ2008年08月20日 10:01
私は、森山直太朗って、じつは「さくら」(だっけ?) くらいしか知らないし、曲自体にはまったく関心がないのですけど、、、
安斎さんをして、「くそな曲」とか「一度死んだ方が」といったような、ピュアな発言をさせるあたり、ただものではないのかもしれませんね。
遼 遠 ☆2008年08月20日 11:13
世界には
森山直太朗の小説家バージョンとか
プログラマーバージョンとか
営業マンバージョンとか
マーケッターバージョンとか
オレオレ詐欺師バージョンとか
居るんだろうなと思うと、ぞっとしてきました。
にしの2008年08月20日 13:14
>仮想敵
なるほどと思いました。
安斎利洋2008年08月20日 14:03
>海は死にますか/山は死にますか
>帰省していた実家で一緒に聴いていた祖父・祖母の不快そうな様子

まさにその構造ですね。どんな表現も、人をより巻き込もうとする戦略をもっていて、そこに異議をとなえるつもりはないのだけれど、安っぽいヒューマニズムはその先にあるリアルを不当に隠すのがいやですね。
安斎利洋2008年08月20日 14:34
>>仮想敵
>なるほどと思いました。

仮想敵は、たぶんポピュリズムの文法なんでしょう。

「僕の言っていることは、一ひねりしていてわかりづらいけれど」
「でもキミはわかってくれるよね。」
「キミだけは、頭の固い連中とは違うよね」

という複合した意味を、一気に発するメッセージです。「頭の固い抵抗勢力」を作って人気を博した小泉劇場も、おなじ文型だし、ヒトラーもこれを多用していた。

これが難しいのは、たとえば女子高校生が理解しがたいメイクに走るのも、同じ文法だということです。スラングを作るのもそう。また、衒学的な書物も同じメッセージを放ちます。

自戒をこめて考えるべきことなんだろうけど、しかし、仮想敵を羊飼いの道具にするか、ネットワークの道具にするか、ということなんでしょうね。

>ピュアな発言をさせるあたり、ただものではないのかもしれませんね。

彼自身は、ふつーの人だと思います。
安斎利洋2008年08月20日 14:49
>森山直太朗の ...
>プログラマーバージョン

これは、新ジャンルかもね。
SOYA2008年08月20日 15:38
絵本作家にも多いんだ。
そういうの。。。
安斎利洋2008年08月20日 16:01
そういえば、「良さげな絵本のステレオタイプ」を追ったのが、多いですね。
子どもと言語が通じるのは、SOYA先生みたいなほんものの悪魔だけ。
菊地 海人2008年08月20日 19:54
ずいぶんと思いきった詞を歌ったものだなぁと、そう思って聞いておりました。
聞きながら、村上隆さんの
批評性がヒットの法則だという言葉を思い出しました。
最近では崖の上のポニョにも同じ言葉を思い出しました。
安斎利洋2008年08月20日 22:58
>批評性がヒットの法則

それは理想的な、創造と受容の相互作用ですね。
しかしたいてい、批評性よりも物語性が、人の心を掴むように思います。
smi2008年08月21日 08:00
物語に反応しちゃう回路が自分の中にあって、件の曲も普通に楽しめてしまいます。
批評性も物語性もとらない、表現の極北で作業をつづけて、
ときどき発狂しそうになるのを正気につなぎとめるために
マッチ売りの少女がマッチを擦るように、陳腐でもなんでもつい物語りを口にしてしまいます。
それで、またはじめからやり直し状態に。
まだまだ、鍛錬がたりません。
安斎利洋2008年08月21日 16:00
>マッチ売りの少女がマッチを擦るように、
>陳腐でもなんでもつい物語りを口にしてしまいます。

よくわかります。マッチ売りの少女は似合わないけどね...

以前、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問題で、日本が沸いたことがありました。

TBSの番組で、ある学生がこの質問を発したのがきっかけで、大江健三郎が「この質問に問題があると思う」と反応した。

永井均がニーチェについての本の中で「問うた若者は、少なくともそこに真正の問いがあることを直視できているという点で、誠実さと真理への意思において、大江健三郎より優位にあることを誇ってよい」と、大江を批判している。

死のうとしている人間に言葉をかけるというのも、これと同じことなんだと思うんですよね。結局、どんな倫理も無効なわけで、無効だけれど「誠実さと真理への意思」というのは可能だ。

「小さく死ねばいい」と語り始めたものは、死なない理由は究極的にはないのだというところに立って、「真理への意思」を貫く誠実さがあるべきで、半端な物語でお茶を濁すのは、ほとんど退屈なそこらの大人たちの世間話と等しい。

物語性を目の敵にすることはないんですが、つまらない物語を語るよりは黙ってほしいときがある。

 安斎利洋mixi日記 一覧へ