芝居は好きだが、芝居がかったやつは嫌い。森山直太朗が、どうも好きになれないのはそのためだ。
森山直太朗『生きてることが辛いなら』
http://jp.youtube.com/watch?v=mXNHjTx7UPk
この曲が話題になるのは、話題を喚起する罠が曲に仕込まれているからだ。
「死にたければ死ねばいい」とショッキングに始まり、最後に「死にたければ嫌になるまで生きればいい」と反転する。要約すればそれだけの、陳腐な歌詞だ。
この歌詞は、自殺したい人に向けられている体を装うが、実際は、怒りを共有する仲間にだけ、向けられている。「いっそ小さく死ねばいい」の真意を理解できない人々への怒り、「逆説を受け入れられない硬直な連中」という仮想敵がないと、この罠は成立しない。ネット上の直太朗問題の反応の多くは、このような「マイナーな正しさを守る怒り」の物語類型をなぞろうとする
しかし実際、マイノリティはマジョリティだし、メディアがこの曲を自主規制することはなかった。唯一、怒られる筋書きにはまったのは一部のコンビニだ。短時間に出入りする客が多いため「歌詞の一部だけ耳にする可能性がある」として、店内で流さないことを決めた。
日刊スポーツが、「直太朗新曲の詞に賛否、コンビニ放送規制」という見出で
記事にする。放送規制という言葉は、権力がメディアにかける圧力のことで、営業的判断は放送規制とは言わない。日刊スポーツの頭の弱さ丸出しだが、タブロイド紙の記事はテレビのワイドショーやmixiニュースみたいなポータル経由で世にばらまかれる。
かくして罠は、まんまと罠として機能しはじめる。
直太朗型の罠類型は、いろいろと正義の形を変え、潜行して流行ってるので、恰好のサンプルだ。免疫を作っておく必要がある。