以前、バレーボールの三屋裕子さんと某雑誌上でお会いしたとき、「目標設定」をめぐって印象的なやりとりをした。こんな話だった。
M:アートを何人もでやるときに、勝つっていうことがあるのか。
A:それはある。ただ、勝つことを目標にはしない。
M:アートの目標って、なに?
A:目標はもたない。最初にぼんやりと完成のイメージは持つが、たいてい達成しない。
M:よりよい作品を作るとか、評価されるとか、そういう目標設定はないのか。
A:なにが「よりよい」かわからないから、目標がわかりたくて、手をうごかす。
M:私はずっと、目標に向かってまっすぐ進むことしか考えてこなかった。
A:僕は、途中で軌道が折れ曲がることに、喜びを感じる。
M:そういう生き方は、理解できない。
A:何年も直線で生きるのは、無理。
ほかにも、模倣は利き手で独創は逆がいいとか、電話はエロいとか、コンピュータが道具ならボールって道具?とか、天才はイチローしかいないとか、三屋さんは素で話が深まるタイプの人で、胸のすくロングラリーだったのだけれど、そのときの雑誌を探し出してみたら、短くまとめてあって面白いところはほぼ落ちている。
テレビでアスリートを見ながら、三屋さんのことを思い出した。かえずがえす自分は、目標、闘争、上達、勝つ、といったキーワードと無縁に、無軌道に生きてきたなあと思う。そういうことに熱くなれない。しかし「人類を超えたい」という思いは、たぶん彼らと共通している。
北島が泳ぐ手の先に、CG合成の緑色の線が世界記録の速さで移動していたけれど、自分にとってあの線はなんだろう。どうやったら、可視化できるのだろう。