jirohさんの日記は、元気が出る。
「多摩美の1年か2年の時に「建築概論」という授業がありそれを講義していたのが早稲田から来ていた今井謙次先生だった。情熱的にガウディーを語った。日本におけるガウディーの紹介者だ。ゲーテアムのルドルフ・シュタイナーを知ったのもこの講義だ。ガウディー70%シュタイナー20%エストベリー5%ルコビジェ5%の強烈なる偏向的「概論」が何よりも印象的で」
とあり、jirohさん自身の、
「「メディアアート概論」も偏向に満ちたものである事を構わなくなった」
とある。偏りが大事だ。
近ごろ、テレビのニュース解説なんかで見た人が、すこしすると大学の先生になっていることがよくある。大学は、リタイアの回収装置みたいになっている。
カント以前の哲学者は、大学と関係なかった。大学はその当時から、哲学という学問そのもののリタイアを引き受けたのかもしれない。
岩波講座「文学」の30年前のシリーズをのぞくと、そうそうたる作家が書いているが、現行のシリーズはほぼ大学人が書いている。文芸批評の死を予見した変化に違いない。
全体を鳥瞰しようとすると、departmentという仕切りの罠にはまる。墓穴を深く掘ることになる。
あちこちでマンガやアニメを大学が引き受けているのは、マンガやアニメの終わりの始まりを暗示するのかもしれない。マルチメディアとか情報とかいう部門も同様か。
墓場化にあらがうのは、ただひたすら「強烈なる偏向」だ。jirohさんの学生でなかったことが、悔やまれる。