若者がますますプログラムを書かなくなった、というのはかなり前から聞く声なわけだけれど、僕がいま十代だったらと想像すると、やはりプログラムは書かないと思う。
中学生のときにFORTRANの本を読んで、FORMAT文の事務機臭さがなんかウザイと思った覚えがある。いま、新しい開発環境の分厚いマニュアルを開くと、XMLだのUIだのっていうのは、いわばFORMAT文なわけだ。
「計算機」という宝箱が「プログラム可能性」という黄金を詰め込んで、そこら中で蓋をぱかぱか開けているのに誰も手を出さないのは、99.99%が計算機の本質をとりまく「詰め物」のようなもので、黄金は砂金ほどしか見えないからだ。詰め物が好きな連中が、プログラムを書いてくれるから、それを使えばいいわけで。
なんだかんだ言って、僕らは詰め物も好きなので、プログラムを書かない人の気持がわからない。そしてここ十数年の計算機は、入出力の多様化と整理にだけ血道をあげてきたわけだ。
こういう流れは後戻りできないので、量子コンピュータかなにかが詰め物のない状態であらわれる次世代を待つしかないのかもしれないけれど、一方で過渡期の若者のためにも、詰め物を遮断したプログラム環境が欲しいな。マニュアルが数ページですむような。