安斎利洋の日記全体に公開

2006年02月15日
04:12
 他者のリアリティ
昨日の囲碁の話のつづき。

生きている人間のリアリティは、相手の身体が目の前で動いていることだ、という結論に落ち着く向きもあるんだけれど、僕はどうしてもそうは思えないんだな。

会ったこともない人同士がネット上でケンカをしているのは、どうして?
手紙やメールやSNSで交わす言葉のやりとりは、二次的な体験なのか。

反対に相手の身体が目の前にあったとしても、セールスマン相手で真剣になれるか!と思うし、風俗業界から擬似恋愛体験を買おうとも思わない。

このあたりに、技術やアートの陥る罠があるような気がしてならない。やっぱり人とはリアル空間で会わなくちゃね、っていう言葉は一年に20回くらい聞くけれど、ある意味それに同意しながら、それってきわめて幼児的だと思うんだよね。
 

コメント    

2006年02月15日
04:24
godzi2
ネットを始めて十年以上。
で、この間初めてオフ会もどきをしました。

出席者は、福岡から来た若い女性と還暦超えた(かな?)伝説の音楽プロデューサー、そして自分。
まわりくどい挨拶や何やかやを全部すっ飛ばして、いきなり友だちになってしまいました。
初めて会うのによく知ってる。
なんか不思議な体験でした!

で、もう1個書くと。
現在、私がすごく大切に思う人がネット上にいるのだけど、その人のことはまったく知らない。本人も明かさない。
その人は私が書いた物を読み、私はその人の書いた物を読むだけでつながっている。
その人は性別=女性と書いてるのだけど、好きなものがゲイ関係のものばかりみたいで、私はもしかすると男なのではないかと疑い始めていたりする。

私にとっては、どちらもリアル。
2006年02月15日
05:41
Mike
安斎さん、
 それはまた条件が違ってきますよね。
生身の人間でも、非常に機械的な対応をされたときと、メールや掲示板でもエモーショナルや部分、人間の機微に触れるようなものには、人間はかなりの反応をしてしまうでしょう。
 だから、パラメータを変えすぎないで、変数を最小限にして,他はできるだけ同じにする、というので比較しないと良くないのでは?
 身体性の話をするときも、言葉の部分はできるだけ同一条件にして、身体部分だけを変える必要性がありますね。身体が1次的で精神が2次的ということは無いし、その逆もないでしょう。
2006年02月15日
08:47
ikeg
好きな話に、何年もメル友をしてた相手がプログラムと分かったときになんていうか?というのがあります。多分デネットだと思うけど、「だまされた」でも「何だ、プログラムか」でもなくて、「なんで言ってくれなかったの?」ではないかと。だから僕は志向性の問題と考えたい。
2006年02月15日
10:22
うちやん
 初めて訪れました。
 他者のリアリティーに関する考察、なるほどと感じました。
 若い方は知らないかもしれませんが、今で言う「メル友」を昔「ペンフレンド」と呼んでいました。もちろん紙に書いた「手紙」を通してというわけですが、ペンフレンド募集とかペンフレンドから恋が芽生えたとか・・よくありました。「メル友」と「ペンフレンド」の違いは何なのでしょう?おそらく文章という抽象性の中でカッコつけたりとか、自分を"粉飾したり?"とかすることは共通していると思うのです。確かに細かく違いを挙げようとすれば、それこそいくらでもあるでしょう。特にやり取りのスピード性とかは。例えば昔は少年雑誌も月刊誌しかなくて、現在のように週刊誌になってから連載を「心待ちにする」というような切ない心情が希薄になったように、郵便受けを見に行くほど「手紙を心待ちにする」というような気持ちも、やはり「メール」では考えられないことですよね。
 そうした時代の変化は、あらゆる面で、わたしたちの心情や喜怒哀楽の深度を揺さぶってきているかとは思いますが、一番違うなと感じることは「メール」やこのMIXIの書き込みもそうですが、一方で自分の日常や趣味嗜好などを臆面もなく暴露しながら、一方で匿名性の中にいつでも逃げ込みたいという「引き裂かれた自己表現」に陥っていることだと思います。
それは同時に社会のあり方の反映かもしれません。一方でプライベートを限りなく侵蝕させながら(暴きながら)一方で個人情報保護を叫ぶ。人間や社会自体がデジタルという究極の記号性に置き換えられ、抑圧された曖昧なる闇=アナログが逆襲してくる・・そんなサイクルに陥ろうとしているのかもしれません。奇異な犯罪の多くも、ひとりの人間の内で「デジタルとアナログが分裂している」かのような様相を見せています。 
 わたしとしては、こんなちっぽけな一個体が隠さなければならない匿名性などあるもんか・・という覚悟です。ただ、だからといってネット上でなくともそうであるように、本来照れ屋ですので「昨日はヴァレンタインのチョコを3個もらいました〜!」なんてことは公表する気にはなれませんけど。
 長くなってすみませんでした。
2006年02月15日
10:33
チクリン
この手の話がまぎらわしいのは、ネット上の対話と直接の対話との違いが「身体性」にあるように見えてしまうところじゃないでしょうか。

でも、実際にはいわゆる「身体性」による制約の話と、ネット上の対話/直接の対話の区別はあんまり重なってなくて、どっちにも制約がかかっているわけなので。
2006年02月15日
12:01
ササキナルアキ
リアリティーって、イマジネーションが作り出すものだと思うんですよ。 そしてイマジネーションって、直感的に訪れるものと、ある種のプロセスを経て成立する場合もありますよね。 大好きな女の子の写真やアイドルのポスターを部屋にかざるのに仮想的思考してるわけじゃなく、その媒体から換気されるイマジネーションを求める。メールを読むことで立ち上がるイマジネーションに他者は存在してくれる。「我思う故に他者もあり」ってことだと思います。それゆえ本質的な部分でコミュニケーションにおいて身体は後付されても、それほどの支障はないってことかもしれません。また「我あり」と感じることにおいても、他者や外部をリファレンスしなきゃ作れないってこともやっかいな話ですが、外界が情報の即時性と流通量でこれほどふくれあがって肥大化すると、いかに自己をイマジネーションできるかといった問題も当然だれもが疑問に思うはじめてしまうし、外部と同じくメタ・イメージが内部的に肥大化しちゃうと、身体のこと考えてる暇もなくなるってのももう一つのジレンマが発生してくるのかも。
 
2006年02月15日
14:58
安斎利洋
「なんで言ってくれなかったの?」の話、いいですね。他者とつながるというのは、そういう状態におちることですよね。

Mikeさんの意見はもっともなんですが、人間相手の囲碁のほうが脳を活性化させる、みたいな話がどうしても幼稚に思えるのは、意識とオブジェクトが単純に結びついていて、オブジェクトを豊かにすると、意識も豊かになると思っているところなんですよ。

他者とつながるというのは、意識が対象にも意識があることを想像している状態で、そういう入れ子になった複雑な運動の中では、連続したパラメータ空間を想定してあれこれ調べ上げてもあまり意味はないと思う。
2006年02月15日
16:32
安斎利洋
>郵便受けを見に行くほど「手紙を心待ちにする」

これ、ツボかも。郵便配達のバイクの音の夢を見たことがあります。
2006年02月15日
16:38
安斎利洋
>「身体性」による制約の話と、ネット上の対話/直接の対話の区別はあんまり重なってなくて、

たぶんこの話が混乱するのは、囲碁の対戦というきわめて蒸留された対話の形式と、身体の話を結びつけているところですね。囲碁の名人だったら、棋譜を見るだけで相手のため息まで聞き取っちゃうわけで。
2006年02月15日
16:53
安斎利洋
godzi2やササキナルアキさんは映像作っているときに、キャラクターの人格が立ち上がってくるための工夫とか、するんでしょうか。ふたりとも劇映画ってわけじゃないんで、質問が筋違いかな。
漫画を読んでいると、なかなかキャラが覚えられなくて混乱するものがあったり、反対に強烈に人格が立ち上がってくる作品もある。
人格のリアリティを形作るための、映像業界的ノウハウ(たとえば服や髪型を変えないというのも含め)ってあるんでしょうか。
2006年02月15日
17:11
H.耕馬
>やっぱり人とはリアル空間で会わなくちゃね、っていう言葉は

お酒の席では必須でしょヽ(^.^)丿
2006年02月15日
18:18
安斎利洋
>お酒の席では必須でしょ

それはその通りです。でも、昔マスターネットでチャット大会が流行ってたときって、みんな飲みながらやってたんじゃないかな。skypeで宴会やったらどうなるか、ってのを実験してみたい。
2006年02月15日
22:23
中村理恵子
>昔マスターネットでチャット大会が流行ってたときって、

たぶん立てひざして、パジャマかジャージきて、左手にペットボトル、右手にポテチーという臨戦態勢。
トイレだけは、どうしても回避できずモドカシイメッセージ;「ちょっち落ちます。」残して数分でチャットラインに復帰という風景。
毎夜、毎夜、寄り合いの日々ですね。
2006年02月16日
11:21
MATANGO
>映像業界的ノウハウ...
ちょっと先輩をさしおいてナンですが、キャラを立てる工夫以前に、とくにテレビの世界では「キャラで見せる工夫」をしてるな、と思ったので...。

タレントを立てる...というがそれで、みんなのよく知ってる人にレポートさせたり、そんなお金のないときはスタジオに呼んできてVTRを見せる。

それで「すごいですねえ!」とか「うっ」と涙ぐんだりさせる。
そうすると、見てるこっちは「伝えられてる」そのものではなくて、その人たちにつられて「うっ」となるという...。

まあ、囲碁の番組でそれをやる人はいないでしょうが、でも盤面はひとつも見せないで、タレントが「おっ、やりますねえ」「なかなか...」「わっアブナイ!」なんて言ってるだけでたぶん番組はできる...。

中身なんかどうでもいい、よく知ってるキャラが「ああ」とか「うう」とかいってる顔を見せてマネさせればいいという...。

...この手法、日本ではおなじみですが、アメリカにはほとんどない...という話を聞いて「そんなもんかな..」と思ったことがあります。

マイケル・ムーアのを見たりすると、キャラでやってるじゃないか、とも思うんですが、ともかく日本で言う「テレビタレント」という職業が存在しないんだそうです。
2006年02月16日
13:11
H.耕馬
>中身なんかどうでもいい、よく知ってるキャラが「ああ」とか「うう」とかいってる顔を見せてマネさせればいいという...。

日本人は、「人まね小猿」って事か。。。
2006年02月17日
00:08
安斎利洋
>その人たちにつられて「うっ」となるという...。

これを見ている視聴者にとって、画面の中でうなずいたり飯くったりしているタレントは二人称や三人称というより、一人称の他者なんでしょうね。
2006年02月17日
03:40
MATANGO
>日本人は、「人まね小猿」
まさにそうだと思うんですが、それが「悪い」とはあんまり思ってないんです...。

ちょっとまた「脳」の話ですが、ミラーニューロンというのが、猿ほかニンゲンなんかにもあるというのが確かめられているそうで、これは、大ざっぱに言えば「マネする」能力をになっている...。

生身で出会う...もしかしてそれは映像でもいいかもしれないんですが、「人のフリ」を見ると、体は動いていないのに、それをやっているのと同じような脳の箇所がそのニューロンを介して発火する...ということらしい...。

これがあるおかげで、おたがいに物理的につながっていないにもかかわらず、「伝達」とか「学習」とかができる。

これがそのときその場だけでなくて、世代をこえて伝わる学ばれる...てなことになると、わしらニンゲンが文化とか歴史とか呼んでるものが、はじめてカタチづくられることになる...という壮大な話があるようなんですが....。

...だからマネは大事...。
でも、そっくりそのままマネしてるだけ....というのもナンだな...とは思うんですが....。
中途半端ですいません....。
2006年02月18日
07:17
Archaic
ネットだけの会話でつつがなく継続している場合は本当にありがたいのだけれど、リアルを少しでも知っておきたいと思う私は、
相手が同じ言葉を発している時でも、或いは同じような表現をしているときでも、リアルで接触している時がたくさんあれば、その重さを理解しやすい、という他者に対する情報量という意味合いであることが多いです。
普段からかなりはっきり物を言う人だけれど、後に引きずらないタイプだとか、何も言わないけれど、色々ずっと考えている人だとか。
その違いを少しでも把握してると同じ言葉に託された意味と重さを慮りやすい、そのぐらいです。
勿論、それは慮るの域を出ることはなく、正確に理解しているとは言い難いのですけれど、傾向と対策のような感じです。
2006年02月18日
09:38
MATANGO
>きわめて幼児的
ちょっともとに戻るんですが、「生身に反応する」というのが幼児的だ...というの、わかる気がするんです。

具体的に「表現の場」というようなことでいいますと...。
たとえば音楽なら音楽をつくって、音楽そのものより、歌ってる本人のキャラでウケてしまうとか...、作曲家の「性格」を研究して音楽を研究したことになるとか....。
音楽そのもののでも、「ここには人間の希望(絶望)が表現されている、その思いがとうとい」...みたいな...。

音楽をすっとばして、人間どうしがわかりあったりして....だからなんなんだ、というような...。

映像表現では、「人間」とか「人間の顔」を、まあ出さないわけにいかないんですが、そんな「人間どうしのじか取り引き」を嫌うという人もいます。

「有名俳優はぜったいに出さない」「演技はさせない、モデルでいい」「怒る、泣くというような極端な感情表現はいっさい必要ない」...。
ロベール・ブレッソンという人が、そう自分でも言っていて、実際にそれをやってるんですが...。

...じつは、「怒る、泣く」という場面がいっさいないかというと、ごくたまにあるし、そこがじつに感動的で...。
それに、この人の映画を見ると、どういうわけか登場人物のフリをしたくなってしまうんです。

「スリ」というのがあるんですが、大学生の素人を使ったというその主人公の、無表情で、力を抜いた、それでいてまわりで起こる事にひどく敏感...そんな「風情」を、ことに地下鉄に乗るとどうしてもマネしたくなってしまう....。

...そんな複雑な事情はありますが、でもともかく「じか取り引き」は、やっぱり幼児的...ではあるなと...。

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