安斎利洋の日記
2005年02月13日
16:23
アーティストという恥ずかしい肩書
未踏ソフトの発表会が終わって、一段落。終電間際まで、「原田組」同窓生と飲んだ。
砂のCGをやっている尾上さんとも話をした。プログラムの深いところに物理シミュレーションを潜ませるワザを僕は昔からやってきたが、彼のようなバリバリの専門家から見れば、まやかしに違いない。何もないところに力が生まれて、ひとりでにモノが動き出したりする。致命的なバグでも、そのほうがリアリティを生む場合は、そのままにしておく。
アーティストは、まやかしが得意だ。まやかしや論理的な不整合を、認知的な操作で体験に転調する力をもつのが、アーティストの誇りだと思う。
しかし最近思うのは、まやかしをまやかしのまま放置するアーティストが実に多いことだ。アーティストと組むとえらい目にあう、と技術者がもらす。「自分をアーティストっていうの、恥ずかしいよ」とアイカタ中村さんが言う。
肩書きなんかはどうでもいいのだが、ほんの一瞬の転調の機微をつかめない若い「アーティスト」を見るのは、ちょっとつらい。どうにかしてやりたい、という気持になる。
コメント
2005年02月13日
17:00
imochang
>「自分をアーティストっていうの、恥ずかしいよ」とアイカタ中村さんが言う。
同感です。
そういうことを言わないひとほど、ちゃんとしたアーティスト。
嫌なアーティスト、たくさん、見てきたから、安斎さんや中村さんを見ると、とても安心する。
2005年02月13日
17:08
せりん
こんにちは。少し以前ですが、2004のニューイヤーカンブリアンに参加させていただきました。
時々、日記を拝見していたのですが、最近考えていたことにひとつの見解をみた気がします。
>まやかしや論理的な不整合を、認知的な操作で体験に転調する>力をもつのが、アーティストの誇りだと思う。
私は、アーティストと言える者でもないですが、まやかしや論理的な不整合をしっていること、それを遊べる(この表現おかしかったら申し訳ありません)こと、などを考えました。
2005年02月13日
17:33
ミレイ
>まやかしをまやかしのまま放置するアーティストが実に多いことだ
こういう人と以前一緒にプロジェクトをやる機会が
あったのですが、とても辛い思いをしたことがあります。
抽象的なものと曖昧なものとを混同したことを
言い始めたら赤信号だなと、その時以来思っています。
2005年02月13日
18:59
Bambook
>ほんの一瞬の転調の機微をつかめない若い「アーティスト」
>を見るのは、ちょっとつらい〜
つらいですね。私は若手の制作者をの活動を支援などしておりますが、そのような場面に多数出会います。
多少関係もありそうな、こんなコミュニティもあります。
ほとんど私が愚痴を書いている場になっておりますm(_ _)m
よろしければ見に来てやってください。
軽々しく「アート」なんて言うな
http://
mixi.j
p/view
_commu
nity.p
l?id=1
5070
2005年02月13日
19:25
びすけっと
安斎さん
昨日はどうもありがとうございました.
僕は昨日ははっきりと「アーチスト」とご紹介することで,
「おまいら本物をちゃんと見ておけ」
というメッセージを彼らに伝えたかった.
あれで分からなかった人たちは,それでほおって
置きましょう.
> 肩書きなんかはどうでもいいのだが、ほんの一瞬の転調の
> 機微をつかめない若い「アーティスト」を見るのは、
> ちょっとつらい。どうにかしてやりたい、という気持に
> なる。
やっぱり安斎さんにPMをやっていただきたいです.
2005年02月13日
19:30
少し脇道にそれるかもしれませんが・・・
ボク自身はアート、アーティスト、クリエイター、クリエイティブ、オリジナリティー等々の言葉の意味がよく分からないので、自分のことは「絵描き」ですませています。
ボク自身の「存在の曖昧さ」を「言葉の曖昧さ」で誤魔化すのはイヤなので。「絵描き」なら「ああ、絵を描く人なんや」でしょ?(笑)
ちなみに言葉そのものに対するアレルギーはありません。発している人次第だと思っています。もっとも7〜8割は「却下っ!」と心の中で叫んでますが(大笑い)
2005年02月13日
23:43
安斎利洋
特許の話もそうですが、これだけコメントの気持がそろうのに、世の中がそうじゃないっていうのは、やはりこの場所が世界の辺境なんでしょうか。辺境、大好き。
>あれで分からなかった人たちは,それでほおって置きましょう.
何かを伝えたいと思う人もたくさんいる反面、こてんぱんにしたい人や、かかわりたくない人も、たくさんいるな、そういえば。
2005年02月13日
23:54
安斎利洋
フナさんの日記が、真摯で面白い。
http://
mixi.j
p/view
_diary
.pl?id
=87611
23
>アーティストも自分にとって「アートって何だろう?」ということを
>手や身体・道具・頭を使って必死で探しているのかなと思うと一気に
>現代アートの作品が面白くなりました。
この点、まったく同感です。よく考えてみると、面白い小説というのは、どこかに「小説ってなんだろう」というメタレベルの問いがある。音楽も、「音楽ってなんだろう」という探究心のないものは、つまらない。びすけっとが面白いのは、「コンピュータってなんだろう」という問いを喚起するから。「料理ってなんだろう」ということを考えている料理人は、やっぱりすごいレシピやバランスにたどりつくし、「スポーツってなんだ」と考えているアスリートは魅力的。「人間ってなんだろう」ということ考えてないヤツは、たぶん表面的以上の友達には絶対になれない。
2005年02月14日
00:21
社長
>特許の話もそうですが、これだけコメントの気持がそろうのに、世の中がそうじゃないっていうのは、やはりこの場所が世界の辺境なんでしょうか。
最近よくそう思うんですよ。
アートだけじゃなく、政治とかも。
そういえば、
音楽業界の人と話してると、「アーティスト」って言葉が「商品」って聞こえることがありますね。
2005年02月14日
00:36
gilli
もう何年もアーティストと名乗っていないですが、恥ずかしいです。どのぐらいまで極めると恥ずかしくないところへ行くのだろうか?
2005年02月14日
00:38
安斎利洋
>音楽業界の人と話してると、「アーティスト」って
>言葉が「商品」って聞こえることがありますね。
馬券と思っている業界人も、いますね。破れた馬券が、いっぱい。
デジタルデータのせいで、音楽産業が瀕死の状態というのは、音楽文化のためには由々しき問題だと思うんですが、業界人を死滅させるためには、一度音楽産業が焼け野原になったほうがいいんじゃないかとも思う。
2005年02月14日
02:18
社長
>デジタルデータのせいで、音楽産業が瀕死の状態
デジタルデータだからというのは、彼らの言い訳に聞こえます。
急激な変化を柔軟に受け止めて、よいほうに生かすとか、
時代に即した営業努力をするとか、
アーティストを育てる文化を創るとか、
そういうことをしてないわけですからね。
●●SRACサンなんて、インディの著作権なんか守っちゃくれませんから。
2005年02月14日
09:52
imochang
>軽々しく「アート」なんて言うな
「アート」や「アーティスト」という言葉の定義が、根本的にできてないんだと思います。
でも、流通だけするから、ファッションになってしまう。
商品や馬券になってしまう。
いろんな文化をすぐさま吸収するのは、昔からの日本の特徴だけど、最近では、あまりに咀嚼しなさすぎる。
まあ、かといって「ゲージュツ」とか「デザイン」とか「イラストレーション」とかの定義ができてるわけでもないけれど。
現代美術は「アート」だったりするのに、いわゆる日本画は普通は「アート」とは呼ばれない。認識されない。
現代美術よりも、新しいことにチャレンジしている人だって中にはいるのに。
フナさんの日記は、たいへん興味深く拝読させていただきました。
こういう文章に巡り会えることは、MIXIの素敵なところです。
2005年02月14日
10:03
Bambook
>現代美術よりも、新しいことにチャレンジしている人だって中にはいるのに。
少なからずいらっしゃるようです。
日本画とも呼ばれないか、認識されない場合も少なくないようです。
2005年02月14日
10:17
>>日本画とも呼ばれないか、認識されない場合も少なくないようです。
ジャンルの垣根はまだ必要でしょうか?ボクには無意味なモノにしか感じられません。どんな画材、道具を使おうが、それほど重要ではないような気がします。もちろん、画材、道具に関する知識は真摯に学ぶべきだとは思いますが、それ以上のモノではないとボクは考えています。
2005年02月14日
10:42
imochang
ジャンルの垣根を必要としているのは、ほんとうの「もの」をつくっているひと以外の中に存在します。
商品や馬券を必要としているひととか。
いいものは、ジャンルを超えて、いいものです。
でも、たいしたものでもないのに、いいものを商品にしようとするときに、ジャンルと呼ばれるものが前面に押し出されてくるときがあるように思います。
ジャンルの枠なんて、ぶっとばして、宇宙の塵にしてくれるような「いいもの」が好きです。
2005年02月14日
11:43
Bambook
>ジャンルの垣根はまだ必要でしょうか?
私個人には必要ないと思います。
ただある程度の分類をしないと、作品のコンテンツやその周辺状況を理解しにくい方々も現実にはいらしゃるので、何らかの分類が必要でしょう。
日本画の文言すら、明治12年(1879年)に結成された伝統美術保護的な団体「龍池会」にてフェノロサが行った「美術真説」講演以前には存在しなかったのですが、他の技法と分類するためには日本画と言う曖昧な言い方をした方が判りやすいでしょう。
2005年02月14日
11:59
安斎利洋
美術の世界は、マテリアルやメソッドが、内容的なスタイルの棲み分けと密接に結びついていたということだと思います。テンペラの様式というような、方法が内容を規定することはありますから、一概には否定できない。
でも、ときどきキュビズムとダダイズムについて話すのと、エアブラシとアクリル絵具について話すのと、まぜこぜになっている場合がありますね。
2005年02月14日
12:02
>>他の技法と分類するためには日本画と言う曖昧な言い方をした方が判りやすいでしょう。
この曖昧さはいま話題になっている「アーティスト」という言葉の曖昧さにも似ていますよね?換骨奪胎した言葉ほど忌まわしいモノは無いと思うのですが、我々はいつまでこの愚行を続けなければいけないのでしょう?
2005年02月14日
13:46
imochang
なんとなくですが、井上有一の「愚徹」という言葉を、ちょっと叫んでみたくなりました。
井上有一は、一応、「前衛書道」という枠組の中に整理されたりしてますが、「書」というジャンルをこっぱみじんにうち砕いた、とってもカッコええじいさんです。
墨と筆でも、コンテでも、井上有一は井上有一、衝撃の出会い以来、20年以上、惚れつづけてます。
惚れたら、すべて!
ジャンルも理屈も関係なしっ!!
そういうものに、いっぱい出会いたい。
結局、みんな、そうじゃないのかしらん・・・
2005年02月14日
13:50
imochang
あ、追伸。
でも、井上有一は、辺境の天才でした。
国際的に認められた数少ない日本のアーティストでありながら、日本での認知度は、ものすごく低い。
つまらない書の世界も、もちろん延々つづいてます。
ジャンルに固執しながらね!
2005年02月14日
14:28
gilli
反省します。
恥ずかしくても、カッコ悪くとも、ドロドロしてても何でも、
自分の肩書きをむしろちゃんと『アーティスト』と提示しなければいけなかったですね。
あいまいに逃げていちゃいかんのでした。>自分。
2005年02月14日
15:25
Bambook
imochangさん
>惚れたら、すべて!
>ジャンルも理屈も関係なしっ!!
ごもっともだと思います。
井上有一さんの作品などが国際的に認められていながらも、日本
の書の世界ではその作品世界を認知度がものすごく低いのは、国
際的な場と日本との評価するアートの文脈が異なったための結果
かも知れません。
評価される方々を井上有一さんの作品世界への導入が巧く行われ
ていなければ、ありがちなことかも知れません。
惚れられば良いのですが、そこにまで至らせることができなかっ
たのでしょう。
そこに至らせるための手段としてジャンル別けや理屈を使った方
が良いかも知れないと感じています。
ことごとく反論をしているような書込みですが、悪意はありませ
んので何卒ご容赦ください。
2005年02月14日
16:48
imochang
すごく単純な言い回しになってしまって、また誤解をよんでしまうかもしれませんが、ここで「戦略」という言葉をつかってもいいでしょうか?
そういう意味で、ほんとうに素晴らしい作品をつくっておられるのに、「戦略」に長けていないがために、また、その「戦略」を編み出してくれるパートナーがいないがために、うまく作品が認知されていない例は、私も死ぬほど見てきています。
そのためのジャンル分けや理論づけは、あっても構わないと思います。
デビューのチャンスに使用してもいいと思います。
私も実際にそういうことをしています。
ただ、踊らされるのではなく、自分で自覚的に踊ることが重要であって、いちばん最初に問題になったのも、無意識に踊らされているアーティストが多すぎるのではないか?ということだったような気がします。
ただ、私がこの前のコメントで言いたかったのは、惚れきれる作家さんや作品に、たくさん出会いたいということです。
そして、惚れる瞬間には、何の理屈も関係がないということ。
その貴重な瞬間が大好きだということ。
ジャンルという窓口は、ときに重要な役割を果たすことは、Bambookさんのおっしゃるとおりだと思います。
ただ、惚れる惚れないは、男女の好みと同じなので、全員が全員、同じ作品に惚れ込むわけではないというのも、ミソじゃあないでしょうか。
なんか安斎さんのページで口論じみたことになってしまって、申し訳ありません(しかも文章、長いし・・・すいません)
でも、私も悪意はないです。
安斎さんの問題提起にいろんな意味があるから、いろんな考え方の持ち主が集うし、MIXIも生きてくる。
アートという「もの」や「語彙」の多角的側面を、もう一度、しっかり心に刻みたいと思います。
2005年02月14日
17:16
miyako/玉簾
>アーティストは、まやかしが得意だ。
>まやかしや論理的な不整合を、認知的な操作で体験に
>転調する力をもつのが、アーティストの誇りだと思う。
いい得て妙ですね。
音楽のライヴでもそうですよ。
「モニターが悪いと、自分の音が聞こえない。
ああ、きっとすごいミストーンしてるんだろう。
こんなんじゃダメだ!」とステージで思うことがある。
だけど、客席から見ていると大切な事はそういうことばかりではない。
多少演奏がイマイチでも、余計な力を抜いて、呼吸と鼓動と音楽をシンクロさせながら、場の空気を素早く見て、(ほんの一瞬の転調の機微をつかむこと/by安斎さん)それに合った音やうねりやアクションを素早く投げてオーディエンスと輪っかを作ってぐるぐる回すことの方がずっと大切だったりします。
そんなふうにみんなと一つになる為に「場」のエネルギーの操縦を「音」を使ってアップダウンさせながら上手くまとめるのがミュージシャンなんだと思います。マテリアルは違いますが、舞台役者さんも似ているのではないかと思います。
ですが、ミュージシャンという肩書きは大袈裟っぽくて心地がわるいので、自分では「歌を歌います。」とか、それでは通らない場合のみ「ボーカリストです。」と言います。
(音楽でご飯をたべていないけれど音楽はずっとやっています)
>デジタルデータのせいで、音楽産業が瀕死の状態というのは、音楽文化のためには由々しき問題だと思うんですが、業界人を死滅させるためには、一度音楽産業が焼け野原になったほうがいいんじゃないかとも思う。
あまり悪くない末端の方々には気の毒ですが「音楽産業焼け野原」に賛成です。純粋な音楽をレイプするような業界の方法は一度崩壊した方がいいです。音楽文化は放おっておいても自然に出てくるはずですからきっと大丈夫です。
あと「ジャンル分け」という問題がありますが、imochangさんの言われるように、困っているのは、ショップの方々だったりしますね。
線引き、レッテル貼りの枠を越えた作品がいっぱい存在しま
す。最近私の周りではとりあえず「電子音楽」というくくりで説明している友人が多いようです。
すごく長くなっちゃってすみません。
2005年02月14日
22:48
匿名希望中・おーもり
鑑賞する側だけで感じることは。
人が嫌いな「表す人」の作品は、難しくて楽しめないです。
人が好きで、興味関心が在って、出来あがる作品を見せていただいたり、「表した人」に出会うと、もう どきどきします。
2005年02月15日
09:37
imochang
おおもり。さんへ
素敵なことばですね。
そう、この、「どきどき」が私も大好きです。
2005年02月17日
12:34
mi
安斎さんこんにちは。
そっか!原田組で飲んでいたのですね?
って・・・ん?それって12日じゃなくて13日?
プレゼンテーションルーム、もっと前に気づいて遊びに行けばよかった。。。。うー。
2005年02月17日
12:51
安斎利洋
13日でした。
miさんたちも合流した打ちあげを、またやりたいですね。
未踏に参加していちばんの収穫は、よい友達ができたことかもしれない。
2005年02月18日
13:53
mi
そうでしたか。。。12日だったら、なかむらさん、ずいぶん辛そうだったからどうしたのかなぁ〜?と思ってました。
>miさんたちも合流した打ちあげを、またやりたいですね。
ね。
>未踏に参加していちばんの収穫は、よい友達ができたことかもしれない。
本当に、私もそう思います。とっても。
2005年02月18日
23:57
あ っ こ
>惚れられば良いのですが、そこにまで至らせることができなかっ たのでしょう。
そこに至らせるための手段としてジャンル別けや理屈を使った方 が良いかも知れないと感じています。
ここまで皆さんのお話を拝見してきて更に思います。ジャンルって意味がないと。理屈も跡づけ理屈では「理屈」にしかならない。的を得た美術評を書く人がどれだけいるか??本質的にあとずけって成立するのだろうか?疑問です。
井上さんが日本で認められない事実は日本が始まってこの方違う形で延々と続いてきた歴史です。浮世絵を荷物の梱包剤に使ったり・・日本人がもし自分の文化を認識できないのであれば、その問題を省みることがないのであればそこまでの話しなのでしょう。むしろこの場合の問題はは教育とか文化水準とかの話しなのかなと思います。
ジャンル分けしないと伝わらないものはあるのかな??と根本的な疑問が残ります。
「うわ」と体のそこから湧いてくる、作品との瞬間てき関わりは双方(見る側と・)の問題で、作品のジャンルの問題ではないと思うのです。くどいですが理解にいたる仕掛けがあることは認めますが、それがジャンルに強く結びつくとは思えません。
2005年02月19日
00:28
Bambook
あっこさん
正しくはジャンル分けは作品世界に導くための手段の一つに
過ぎません。
何らかのジャンル分けをしてあげないと不親切だと思う方々
もいらっしゃるようです。
平面か立体かまたはその他か判別が困難な表現もあり得そう
です。
具象や抽象で判別が困難な表現もあり得そうです。
作品か行為か表現か現象かすら判別が困難なこともあり得そ
うです。
何らかのジャンルを分けなくても作品世界に入って行ける方
には、ジャンル分けは不要だと思います。
でも、多くの方は作品世界の入り口周辺で戸惑ってしまうの
が現実だと思います。
作品世界の入り口からその中へ導くための様々な手段などの
必要性を私は各所で記しておりますが、ジャンル分けはその
一つの手段でしかありません。
安斎利洋さんのマイミクシィになっている私たちには不要の
ことですが、私たちほどアートなどに接する機会の無い方々
を作品世界に導くための手段だと解釈いただけると幸いです。
2005年02月19日
06:53
あ っ こ
>安斎利洋さんのマイミクシィになっている私たちには不要の
ことですが、私たちほどアートなどに接する機会の無い方々
を作品世界に導くための手段だと解釈いただけると幸いです。
ゴメンナサイ、意味が分かりません。すみません。
2005年02月19日
22:43
あ っ こ
パリの美術館で良く見かける光景がとても印象的でした。
小学生くらいの小さい人たちがグループで先生に連れられて見学にきています。先生は「ねぇ フランソワ、この絵について思ったことをお話しして」と友達に自分の感想をお話しするよううながします。それを聞いたほかの人も自分の意見を言う・・
彼らの目は輝いていました。「驚き」「憧れ」「挑戦」「疑問」そして「感動」。
あの小さい人たちが一枚の絵、一体の彫刻の前に立つ瞬間は一対一の関係以外見えてこなかった。もちろん彼らは「素人」です。
2005年02月20日
00:01
安斎利洋
版画家のヘイターがパリで開いていた「アトリエ17」には、ミロやカンディンスキー、ピカソ、エルンストなどが集い、日々技法を研究していたと聞きます。あるメソッドやマテリアルに人が集まるというのは、本来そういう創造的な「座」であるはずだと思います。
ジャンルにある違和感を覚えるというのは、その背後にある権威や画壇の空疎化に対する嫌悪があるからです。力の弱った作家の逃げ場としてのジャンルという閉域は、そんなものは放っておけばいいわけです。まだ権威などどこにもないCGの世界にだって、そういう弱い作家の逃げ場が出来たりします。僕は「アトリエ17」のような切磋琢磨の空間に、強くあこがれます。
2005年02月20日
00:10
gilli
こんばんは。今日は二年ぶりに学環の人達に多く会ってなつかしかったです。
2005年02月20日
05:40
miyako/玉簾
>ジャンルにある違和感を覚えるというのは、その背後にある権威や画壇の空疎化に対する嫌悪があるからです。
ああ、これに少し近いような、凄く遠いような事を最近、宇宙人好きな人と話していました。以下は、そのときに出たサマリーなフレーズです。
-----------------------------------------
(いきなりですが)
@もし、世界中がテレパシーでコミュニケイトできるようになったら様々な作品鑑賞の仕方が変わるだろう。
@そうすると、作品から感じる作家の魂や、その時の心理状態などもわかっちゃうのかな?こわいなあ。
@それらを総合して、鑑賞者にとってその作品がどのように分けられるかが変わる可能性大。もしかしてAというジャンルの中に「絵」「音」「書」「舞」「綴」等々、いろいろな表現が混在することになるかもね。
@そんな時代になったら「宇宙愛」とか「??宇宙理念??」を軸にジャンル分けされる事になる かもしれない訳で。うーー。
@そうなったら人間の表現はどんな事になっちゃうんだろう?というか、そうなったら表現の必要があるのかなあ。うーん、そうなってみないとわからない。
@きっと、それを巡って「テレパシー賛成派」と「反対派」に分かれるだろうね。
@よくわかんないなあ、どうしよう。
(↑これは当然私の台詞)
@海面上昇とか、氷河期にならないんだったら、そっちの方法に従いますからそれでいいにします。
という事で、私にとっての究極のジャンル分けは、『「地球が宇宙の一つの惑星として平和で仲良し星になる努力をする派」の分け方に委ねます。』
という結論になりました。
2005年02月20日
08:38
imochang
えっとー、思うんですが、要は、ジャンルが必要なひとと、必要でないひとがいる・・・という、結局、そういうことなんではないかと思います。
ジャンルのいるひと=例:「印象派」という言葉に惹かれて、美術館にやってきて、「まあ、やっぱりルノワールはいいわねえ」って言いつつ、カフェでお茶を飲んで帰るおばさん。
名画の名画という表面だけをみて、それ以上のことを感じることができない。
こういうひとは確実にいますね。
基本的には、そういうおばさん方は、美術館の休館日とか、特定の日を設けて、その日だけに来ていただきたいものですが、ただ、そのおばさん方が、仕方なく一緒に連れてきた子供たちが、もし、「この絵、綺麗!素敵!!」って思って、目を輝かせるのであるならば、それはそれで、もしかしたらジャンルはジャンルで意味をもつものになれるかもしれない。
そして、このおばさんだって、もしかしたら、何かの拍子に目を開くことがあるかもしれない。
ま、一生、ジャンルやネームバリューなんてものにとらわれて、「今、目の前にあるもの」をきちんと感じ、どきどき、わくわく、できないひとがいるのかもしれないわけで、かつて専門学校で非常勤講師をしていたとき、口からツバとばしながら授業して、それでも、ああ、こいつには、なにを言っても、一生、どきどき、わくわくは、無理かもしれない・・・と思わざるをえない生徒なんかもいて、がっくりした経験は多数あります。
そして、こういう、どきどき、わくわくを感じて、胸をあつくできるひとは、私は「単なる観るだけのひと」でも「単なる素人」でもないと思っています。
ここから、必ず、何かにつながっていくから。
私の基本は、この、どきどきに、わくわく。
そういう意味で、あ っ こさん、子供は、決して「素人」ではないです。
彼らこそ、どきどき、わくわくの「天才」!
彼らの目を曇らせることなく、美術館に連れて行くフランスの教育姿勢は素晴らしいと思います。
ちなみに、私は、保育園で、近所のアートカフェの展覧会の宣伝をしまくった人間ですが・・・
安斎さんのおっしゃるとおり、ジャンルの裏側には、権威や画壇の問題があるし、それは、とても嫌なもので、ときに、素晴らしい若い才能の芽を摘んでしまう。
美大で、先生に作品を見てもらおうとした学生が「君は『某々会』に出品しているのだから、そっちの会の先生にみてもらいなさい」と言われる例があるくらいですから・・・(実話多数)
ということで、私は、玉簾さんの、
『「地球が宇宙の一つの惑星として平和で仲良し星になる努力をする派」の分け方に委ねます。』
という結論に激しく同意することにします。
美術といわれるものも、音楽といわれるものも、小説といわれるものも、料理といわれるものも、みんな、みんな、人間をどきどき、わくわくさせて、ひとりひとりを輝かせるものでなければならない。
私は一児の親として、子供に、そういう、どきどき、わくわくのシーンをたくさん与えてやりたいと思っています。
ま、しなくても、勝手に、どきどき、わくわく、してるんで、ほったらかしにしてますけど・・・不良母、再び長文で失礼しました。
2005年02月20日
12:35
miyako/玉簾
わー、imochangさんうれしいです。
2005年02月20日
18:54
あ っ こ
>美術といわれるものも、音楽といわれるものも、小説といわれるものも、料理といわれるものも、みんな、みんな、人間をどきどき、わくわくさせて、ひとりひとりを輝かせるものでなければならない。
同感です!あと地球宇宙論にも!!
imochangさんへ
>そして、こういう、どきどき、わくわくを感じて、胸をあつくできるひとは、私は「単なる観るだけのひと」でも「単なる素人」でもないと思っています。
ここから、必ず、何かにつながっていくから。
コチラにも同感です。
えと、2.19.06.53と2.19.22.43の間にあったコメントが消されていて、そこにあった「素人」という言葉に呼応する形でカッコつきで素人という言葉をしようしました。むしろ素人ではないという意味で。(一生懸命読んでお答えかいたのに消しちゃうなんて・・・シュン)すみません、ちょっと流れが変になってしまっていたので。
2005年02月20日
20:53
imochang
>玉簾さんへ
だって、素敵ですもん。
「地球が宇宙の一つの惑星として平和で仲良し星になる努力をする派」だなんて!
いい意味でのカオスが楽しい。
そこから、何かが生まれてくる。
そのために、みんなで、どきどき、わくわくするのがマイ・ポリシー!(あまり物事を考えてないとも言う・・・)
>あ っ こさんへ
いえいえ、とんでもないです。
こちらこそ、意味が読みとれていなくて、すいませんでした。
けれども、あまり外国の美術教育のことについては知らないので、フランスで、こんな素晴らしいやりとりが、美術の最先端の現場でなされていることを教えていただいて、とっても嬉しかったです。
うーん、さすが芸術と哲学の国。
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