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犬を食べる全体に公開
2008年07月12日18:53
犬を食べるために屠殺する写真に出くわした。

「人間は何を食べてきたか」(NHK)というすばらしいシリーズ番組があった。この中で、飼っていた豚を屠殺し、隅々まで丁寧に調理し保存し食べる過程を追っていて、逆説的だけれど、これほどまでに生き物のリアリティを感じる映像はないと思った。

鯨を食べるのは文化であり牛を食べるのと本質的な違いはない、という意見に僕は賛成するのだけれど、一方で鯨や牛を殺して食べるリアリティがこの議論にはどこにもない。骨つきラム肉をほおばるときに、死んだ子羊の顔を想起することはない。

犬を屠殺する写真には、いろいろな視点や言葉にかき消されない何かがある。ここに直に貼りたいところだけれど、それは悪趣味だからやめておこう。

(犬好きで、心をかき乱されたくない人はクリックしないでください)
 http://www.recordchina.co.jp/group/g456.html

コメント

じゃい726live@XL22008年07月12日 19:13
movieでなかったので少し安心。
私は牛の屠殺場で取材したことあるのですが、どちらかというと、あの、聞いたことのない鳴き声にかなりやられました。

牛の屠殺写真をのせても、トリが逆さにつられクビを自動的に次々に切られ屠殺されて行くブロイラーのラインでもそれらは命を奪うと言うことは変わりなく。

だから、食べることが出来ることに感謝する。
少なからず自分で買ったものは残さず、無駄にせず。

でも、大勢で行われるパーティではどうしようもなく終わったあとの惨事に心を痛める、しかし、すべて食べることもできないし。

ま、出来ることしか出来ませんが。。。


犬は当然、食べたことがあります。
濃い味付けの鍋でした、おいしかった。


もちろん、顔見知りの犬や猫が出てきたら(出たのがわかったら)きっと泣きます。かなりいい加減。ほんとうなら、肉食べる時はいつも泣きながら食べなくてはいけないくらいのひどいことやってるのに。。。

自分勝手です。
安斎利洋2008年07月12日 19:43
鴨鍋つつきながら、「かるがもの親子かわいい」と言うのが人間ですね。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=148516611&owner_id=63253

「いのちの食べ方」
http://www.espace-sarou.co.jp/inochi/main/wmv/movie.asx
社長2008年07月12日 20:31
会社の近所に食肉市場があるんですが、
そこの近くを通る時に、
ケモノのにおいを嗅いだり、
運ばれていく牛と目があったりすると、
人間というのは命を食うものなんだなと改めて思います。

時折こういう体験をすることで
食べ物に対して大事に食べようという意識がでるなら
それは必要なんじゃないかなと思ったりします。

安斎利洋2008年07月12日 20:59
牛と目が合う食肉市場があるんですか。東京ですよね。

人間は自分が食われることがない限り、このリアリティの中に入れないのかもしれないですね。
うさだ♬うさこ2008年07月12日 23:10
犬に関しては、中国では犬を愛玩犬として飼う習慣が根付ききってなかった時期
があって、なにかのときに、それまで飼っていた犬を、食肉用として売る、と
いうことが一般的に行われたことがあったみたいですね。
そのときに、おじさんの自転車のバスケットに、縛った犬を乗っけて、運んで
いくの。やらせかどうかわからないですが、かなり悲惨な映像でした。

しかし、犬はかわいそう、クジラや牛はOKというのは、まあ、考えてみれば
あんまり理屈じゃないですよね。

ただ、私がリアリティとして思うのは、日本では戦争のときに、とくに食べる
わけではないのに、贅沢品だから(?) とか軍人さんの衣類にするから、という
理由で飼い犬を供出させて、それを殺したという過去があったってことです
ね。
思うに、この非常時に犬を飼うなんて、っていうことだったんでしょう。
そっちのほうが怖いなあ。
yfuji2008年07月12日 23:20
韓国の黄禹錫教授が発表したヒト幹細胞について、全てが偽造であったと2005年くらいに騒がれていましたが、猫の幹細胞樹立は事実であったと科学者達は信じています。
だって猫の味はいつも同じだからという理由です。

猫好きのヒトすみません。
jun@NP2008年07月13日 00:51
人間の悲しみの源泉って、なんなんだろうかとあらためて考えさせられました。
「よだかの星」のよだかになどなれないくせに、悲しみなんぞが湧き上がる不条理な精神はどこから来るんでしょう。

個人的には鯨ベーコンを食べる時より、
タタミイワシやチリメンジャコを食す時の方が、かなり罪悪感は強いですが、
どちらも全然悲しくはないのもなんだか不条理。
安斎利洋2008年07月13日 00:53
>しかし、犬はかわいそう、クジラや牛はOKというのは、まあ、考えてみれば
>あんまり理屈じゃないですよね。

「情」がコネクトするかどうか、というのは、理屈じゃないですね。
ヒトだって、死んでください、ってのがいるわけで。

>だって猫の味はいつも同じだからという理由です。

三味線の音色が安定しているのも、そのため?
もっとも、最近は犬の皮を使うそうです。
安斎利洋2008年07月13日 01:02
>タタミイワシやチリメンジャコを食す時の方が、かなり罪悪感は強いですが、

個体数でいくと、タタミイワシは罪深いですね。
「一人の人間の死は悲劇だが、数百万の人間の死は統計上の数字にすぎない」 スターリン
あ っ こ2008年07月13日 01:48
サンフランシスコあたりの筋金入りのベジタリアンによれば、
『穀物中心の食事をし、人によって白砂糖は一切摂取せず、ともすれば牛皮の靴も拒絶して合成洗剤なんて絶対使わないでベジタブルオイルでのみ作られた石鹸で身体を洗い、化粧品にいたっては動物実験をしていないものをつかうか自分でつくる』生活はこれ以上ないまさに「生きる」ってことだそうです。

個人の趣味としては色々でいいと思うのですが、割とアジア人って宗教的な理由以外で自分の「食文化」を自分の考え方でチョイスするひとは少ないとおもったり・・大体自分の考え方ってのがアジア的じゃないかも・・

筋金入りの人たちは、それが偏っていようと周りとちがっていようと激烈に屠殺したくない!という「感情」をもっていることがおおく、それはリアルに彼らの日常だった(身近に見ていての感想も含めて)

一説によれば穀物を主体的に食べる食文化にくらべて肉食中心の食文化のほうがその社会全体で消費する穀物の消費量は当然肉食文化のほうが多くなる・・・・とそんなことも彼らの菜食の大きな理由になりうるわけです。

付け加えると、私の知人の筋金いりの方たちの多くはけっして植物が生きていないなんていわないです。その上で私たち人間は他の生命力をもらって生きるしかないというリアリティをそれも強烈にもっている場合が多かった。
あそこまでゆくと、選択の理由である中心的な考え方が豊かなイマジネーションの産物という意味でやや信仰にちかいものを感じるけど・・
あ っ こ2008年07月13日 01:49
追加:日本ほど外食で肉を食いたくないときい困る国はありません。
安斎利洋2008年07月13日 02:43
いわゆる「自然食品」は、100年くらい前をさして自然としているわけですが、そもそも農耕も畜産も「不自然」なんですよね。人間はとうの昔に、反自然を決意してしまっているわけで。

とはいえ、マーガリンみたいなもんは食いたくないね。不自然にも限度がある。

外で野菜が食いたいときは、大戸屋を探して「蒸し野菜」を中心に選ぶといいよ。
中村理恵子2008年07月13日 06:20
わたしは、ふたつ父に感謝してることがあります。

1)一緒に連れてゆけない飼い犬の行方
東京にきて、雑種の犬を飼いました。中学になった頃、引っ越さねばならなくなり、犬を飼えない環境だということがわかった。にもかかわらずるずる引越し当日まで、犬のことは後回し。
最後、父と犬を残して一足先に新居に向って出発したわたしたち家族はバタバタした慌しさにまぎれながらも、しっかりそれぞれ犬に思いを残し、彼の処遇が半端なことは十分に解っている。
翌日、父と合流して第一に聞いたのはだから、犬のこと。
びっくりするようなエピソードを話します。
「電気メーターを止めにきた人が、”いい犬だな”といってもらっていった。」

わたしはこのとき13歳でしたが一瞬の安堵と同時に、大きな「?」もありました。
しかしそのままこの事は、封印。
将来どこかで、うっかり父が油断しているときにこの話の「ホント?」を聞こうと誓ったのです。


2)モチーフは、牛骨頭部
1980年前後、ムサビでは角の立派な牛骨というモチーフを描くことが流行ってました。しかし購入すると超高い。そこで、ちょっと賢い先輩が、屠殺場から頭だけを複数購入。ひとつ500円だったと思いますが、それを大学絵画棟前面にあった畑(かつてあった・笑)に埋めて、骨ばかりになるのを待つという寸法です。
夏の暑い盛りに、穴を掘りました。
数週間して掘り出した代物は、ちょっと大変な状態。
しかし、希望に満ちた美大生にとっちゃすごいお宝です。そんな惨状をものともせず家にもち帰りますが、一般家庭という環境で一晩たってみると憑き物が落ちたというのか、その非日常性;悪臭と生き物がまさに壊れてゆく過程の凄さに、わたしすっかり怯んでしまいました。

父は黙って、毛布に包んで洗車スペースにもってゆき、最初の洗浄を始めます。
途中から「お前さんのもんだから、手伝え。」とそれから約2週間内部に残るお臓物やこびりついたたんぱく質を洗い流し乾かしを繰り返して、牛骨つくり@家庭編がつづきました。
そしてめでたくモチーフに使える白骨牛頭ができました。
わたしは、レオナルドダビンチのように、死体置き場には通いませんでしたが、真夏の太陽の下での、この牛骨製造で哺乳類頭部の構造を少しばかり理解できたかもしれません。

何回か静物のモチーフとして描きましたけど、しかしその絵、残ってたかなぁ?

最近めっきり弱ってきた父です。
いまがその時だと思い、あのときのこと聞いてみました。
「本当に電気メーターの人に犬あげたの?
ホントは保健所にいったんじゃないのかな?
嘘はだめよ、墓場まで持って言っちゃ。」

その答えは、曰く「ホント、ホント。」
ホントかな??
(笑)

人の軒先で長くなりました、失礼、失礼。
日記本文より長いや、さよなら、さよなら。
うさだ♬うさこ2008年07月13日 09:33
私、なかむらさんのコメントにコメントしたいところがいっぱいあるのですが、
ここじゃあなんだから、ウチでやろうかな。
安斎利洋2008年07月13日 10:40
きっと、ホントにホントだったんだよ。
あ っ こ2008年07月13日 15:33
すこしとぶかも・・なんですが。
なにも虐殺シーンばかり日常的露出させることも、屠殺場面のビデオを肉屋で流すことも必要ないとはおもいますが・・死に際にちゃんとたちあってもらうなり、おくるなりという日常的に当然あった場面が最近とみに減少しているようなきがしています。そのことが直接原因とも思いませんが遠からじ「無駄に大量に虐殺したり屠殺したり・・」につながっているような気もします。すくなくとも「食えるだけとる」仕組みって技術的にも社会システム的にもどうにかできそうなきもしないでもなく・・・

どこかの小学校で豚を一等みんなで食べるって授業をやっていたね。


ティム・バートン 監督でやっていた、ジョニー・デップのスイニートッドをうっかり観てしまったのでした・・・・ぁぁ
ああいうリアリティってのもあったりします・・・・

それから昔昔の映画で名前を忘れてしまったのですが、荒廃した地球(もうすでに食料を生産する大地さえないような)で自分で自分の死を選択できる社会の物語でした。
死に方を色々選べて結構明るい場面で和やかに「いったらっしゃい」なんですがその施設の裏に食肉工場があって毎日そこから運び出される大量の食肉は・・・・ってストーリーだった。
「●●グリーン」とか「グリーン○○」とか緑って文字がタイトルにあったように記憶してるけど・・・完全に思い出せない・・ぁぁぁ

>>>>大戸屋
そうですか!便利ですね。蒸し野菜トライします。
実は最近鶏肉食えます。でも自分ではまだ狩にゆけません!だはは

じつは私の幼少時代ってまだ庭に飼っている動物を食うために飼ってたりする時代で・・・・遠縁の親戚の家へ夏休みに遊びに行ったとき、「よくきね====!!〜」ってさっきまで一緒に遊んでいたウサギが食卓にでてきて「うさぎうまいよ!」って言われた瞬間火がついたように泣きだした私(4歳くらいかな)のこといまでも語り草・・・くそ〜大人って嫌いだよ、ふん!

・・・・・・ぁあ 長い!すみません ぺこり★
にしの2008年07月13日 22:02
藤子不二雄に目覚めた安斎さんへ、
「カンビュセスの籤」
「ミノタウロスの皿」
たんぎー2008年07月13日 23:03
「生きるためには他の生き物を殺さねばならない。だから感謝して食べよう」という考え方は、かなり普遍性を持つと思うのですが、それを「人間の罪」として捉えるのはすごく仏教的(場合によってはキリスト教的)だと感じます。例えばユーラシア極東の北方諸民族の間では動物の狩猟文化が発達していますけど、「正しい手続きで行った動物殺害は罪ではない」と考えるのが普通だと思いますね。

サハリンのニヴフ民族の伝統文化には「魚やアザラシを殺さずに切ってはいけない」というルールがあります。これを破ると魚やアザラシ(と海の神)は怒って、もう捕れなくなります。逆にいえば、頭を叩いて殺してからなら、切って料理して食べても怒らない。殺しそのものは罪にはなりません(動物は再生すると考えられていたので)。なお、これは個人的な感情とは別です。「動物を殺すのは嫌」というニヴフ人もいます。

>あ っ こ さん
その映画は『ソイレントグリーン』ではないでしょうか。
miyako/玉簾2008年07月14日 00:40
伊豆半島出身の人に聞くと昔はあたりまえにイルカを食べていたそうだし、鯨は私達の給食に出ていたし、他の国の食文化にどうこう言えないなあ。

40年程前まで八重山でも犬を食べていたらしいです。昔、南西諸島は貧しい島だったので、豚などが食べられない時に犬を食べたのではないかと思います。私が知る限り、昔ここでは犬は家畜であり、イノシシを追う役目や牛小屋の番犬として飼われていたし、愛玩として飼われている犬は少なかった。
昔、豚は高価で王朝の食べ物だったから貧しい人は犬をたまに食べて精力剤にしたのではないかと思います。もっと遡ると「骨噛み」の話まで行ってしまうけどこれは割愛。

畜産の人に聞くと、牛舎や豚小屋から売りに出される時、牛も豚も前足つっぱって抵抗するそうです。トラックに積まれた牛は、最後の挨拶を仲間にするらしい。それを聞いた仲間牛も「モ〜」と悲しい返事をするらしいです。その後「屠殺」は公開されずに、パック入りの肉になって目の前に登場するのでありがたみが薄れるんだなあといつも思います。できれば屠殺は一度は見た方がいいと思います。きついけど食べているのだし。
あ っ こ2008年07月14日 01:37
たんぎーさんへ 

ありがとうございます・・・♪ 
安斎利洋2008年07月15日 03:10
↑あっというまにこれだけの知見があつまるんですね。ズン類はすごい。

ミノタウロスの皿は、大好きです。ズン類とウス(人類と牛)の逆転した世界は、たんなるアイロニーじゃなく、人間主義を無にする思考実験が徹底していて、藤子不二雄はすごいです。同じ世界にいながら言語ゲームが共有できない。「言葉が通じるのに話は通じないという、これは奇妙な恐ろしさだった」という件はリアルに身につまされます。「カンビュセスの籤」も読んでみました。にしのさんには、一度しっかりマンガ指南をうけたいところ。

百科事典によると、家畜飼養の起こりは宗教的な目的であるとありますが、魂に起源をもちながら、しだいにカロリー源へ移行したということなのかもしれません。ヒトがヒトを食う話って、デリカテッセンにしてもハンニバル・レクターにしてもソイレント・グリーンにしても、魂の問題とカロリーの問題が「私は他人のカロリーでもある」というところで交差しています。

中村さんの飼い犬と牛骨の話は、なかなかのエッセイでぐっときました。父親のこういう話には弱い。そういえばBSEが言われはじめた頃、牛の話からはじまった連画がありました。
http://www.renga.com/archives/global/holly_j.htm
「来世では何に生まれ変わりたいかと聞かれたら、緑の草と答えるでしょう。そう、たぶん、牛のご馳走になるような広大な芝生に・・・」

福岡伸一さんの動的平衡の話は、システム論的には古臭いけれど、自分の体が、他の生物の分子の海を取り込んでは分解して高速で進む波みたいなものに過ぎないというイメージが強烈でした。食うという行為は波が進むことにすぎない。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=578305625&owner_id=63253

去年の夏、九州でさんざんイカの活け造りを食べましたが、「魚やアザラシを殺さずに切ってはいけない」は、まいりました。箸が伸びてくるのを彼の目は見ている。ミノタウロスの皿にある、自分が食べられるのを見るために脳を生かしておく、というのはこれなんだろうな。

僕もあっこさんのように、母の里帰りのたびに、祖母が鶏をしめるのを見ました。いろんな形をした臓物の煮物は、独特な匂いがしました。

前足をつっぱって抵抗する獣を殺して食う、というのは、体験すべきかもしれませんね。豚ロースの切り身パック500円が半額、ってのを今日買いましたが。
うさだ♬うさこ2008年07月16日 00:13
きょうはこんなMixiニュースがありました。

http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=547775&media_id=20


生後4ヶ月のチワワが怖くて、けり殺したおやじ。

これを読むと、食べるために屠殺するのはまだ「人間的」?

人間は狩りとかもやるし、食べるためにだけじゃなく生き物を
殺すことができるんですよね。
安斎利洋2008年07月16日 01:03
>食べるためにだけじゃなく生き物を
>殺すことができるんですよね。

犬を蹴り殺すのも、肉を食べ残すのも、地獄の一丁目では同罪でしょう。
ペコルン2008年07月18日 09:07
牙だけを採られた象の死体を見ると、不味くても食べつくす、
利用しつくのが礼儀だろうって思うんですが・・・
象牙の印鑑を使う人も、同罪でしょうね。
たんぎー2008年07月18日 21:50
「草に生まれかわる」ってのはいいですね。ニヴフ人のおばあさんによると、「死後の世界」は4つほどあって、順番にめぐったのち(つまり死後もう4回死ぬと)、最後はこの現世に草になって生まれかわるんだそうです。
安斎利洋2008年07月18日 23:54
>象牙の印鑑を使う人も、同罪でしょうね。

ごく簡単にイメージすると、現代人というのは地上に突然あらわれた「きちがい」ですね。意味なく、殺す。殺したあとで、利用方法を考える。
安斎利洋2008年07月19日 00:02
>順番にめぐったのち(つまり死後もう4回死ぬと)、最後はこの現世に草になって生まれかわるんだそうです。

草が、カオスのアトラクターのような、どうめぐってもそこに帰って、そこから再スタートするような基準点なんですね。こころやすらぐイメージです。

自分を分子として考えると、自分の一部だった分子は、きっと自分が生きているうちにまわりまわって草の一部となり、生きているうちにまわりまわって再び食っているかもしれない。
にしの2008年07月19日 00:31
アースという映画で、シャチがシロナガスクジラの子供を襲う様子をみました。
親クジラとの戦いもありいろいろ壮絶ですが、
ともかくも数時間かけてしとめたクジラの、あごと舌(タン?)のおいしいところだけ食べて去って行きます。子供とはいえでっかいクジラなので90%くらい食べ残し。海真っ赤。

ノラが捕まえた鳥やネズミの食べ残しとか、
リアルは結構グルメです。ヒトのほうが我慢してしっかり食べてるのかも。
動物でも理解不能な殺し合いやイジメもけっこうあるのがリアルで、野生は無益な殺生しないというのは作られたイメージに思えます。
安斎利洋2008年07月19日 01:44
そうなんですよね。「人間だけが〜」、というのはわかりやすいけれど、攻撃は動物として通常の行為をやっているだけの話ですね。むしろ、食い物に「同情」できるのは、人間だけです。

しかし、なんで人間だけが狂っているのかというと、ホメオスタシスに回収できそうにないことをしているから。動物の逸脱行為を、資本主義がエンハンスしているから。簡単に言えば人口問題なんだと思います。
安斎利洋2008年07月19日 16:14
よく考えてみると、やりたい放題食い散らかし、どんどん肥えて繁殖し、しまいに大絶滅で退場するというのは、肉食草食を問わず天敵をもたない種の進化パターンですね。

一方で、分をわきまえて食えるものだけ食い、自然と調和し長い時間生きながらえるという戦略は、ゴキブリ型。

人間はやりたい放題繁殖して、にもかかわらず大量死を回避する狡猾な戦略をもちはじめたところに特殊性があって、だから地球システムにとってやばい。

ということは、新型インフルエンザの対策を打たない、というようなのが、本当の意味のエコなのかも。

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