大きな声では言えないけれど『篤姫』を欠かさず見ている。ホームコメディからピグマリオンまで、物語類型のカタログのようで楽しいのだけれど、将軍家定が「徳川家を守りたい、家族を守りたい」と言う前回の「サビ」は、思わず笑ってしまって泣きそこねた。
「〜を守りたい」は自己犠牲が組み合わさって、物語の正義軸を形成する。時代や場所によって、「〜」は「武家」だったり「のれん」だったり「会社」だったり「国家」だったり。正義は「〜」を必要とする。
たぶんいまいちばん人の心をとらえる「〜」は、「小さい自分の家族」だ。配偶者と子供を守るための行動は、ともかく正しいのだ。家族を大事にするために、家族を大事にする他人も尊重する。すばらしい。家族主義的なプロットを含んだハリウッド映画もめちゃくちゃ多い。かつて、国家を守るために家族を犠牲にすることが真善美であった頃にくらべると、なんと良い時代に生まれたことかと思う。
しかし、「〜」が「国家」から「家族」に降りてきたなら、これから先「〜」は「家族」であり続ける保証はない。「守るべきもの」は不動でも絶対的でもない。国家も将軍家も核家族も、大きさが違うだけだから、この相似形を未来に重ねれば、行き着く先に「地球を犠牲にして人類を守る」も、「人類を犠牲にして地球を守る」もありうるし、「自分を犠牲にしてでも自分を守りたい」なんて面白い解だってありうる。
いまのホームドラマを戦前にやったら非国民なわけだから、いま善でないものが未来の正義になる可能性があるわけだ。だから、そんな未来から見たいまの家族主義は、かつての国家主義のように奇妙だろう。子供のためなら学校も敵にまわすモンスターペアレンツも、家族主義のひとつのあらわれなんだから。