1980年代、コンピュータ・グラフィックスの揺籃期のことを思い出すと、CGはいかなる「アート」かなんていうことは、正直言ってどうでもよかった。
CGの技術そのものが、なんの前置きもなく、見る人の認知や感情を変えていくすごさに比べれば、現代アートなんていうのは地方都市の名産品ほどの意味しかもたなかった。
アートが人間をバージョンアップするのに必要なコンテキストの多さは、鬱陶しい。それに比べて、CGの生成アルゴリズムを書くことが、アートをいくら生産することより、クールだった。
もし、漢字が「新しい漢字」を勝手に作っていいような生きたシステムだったら、書くことは、メッセージを作っているのか漢字を作っているのかわからなくなるはずだ。自分が何をめざしているのかわからなくなる目眩は、生きたシステムの内部にいるとき特有の感覚だ。
CGがアートらしい顔を持ち始めた頃、CGは目眩を失った。CGは、超越性を失った。詩は作れても漢字が作れなくなった。CGは感覚器に染み込んで、もはや感覚の対象ではなくなった。あるときそれに気づいて、作品ひとつCGで作っても意味ないな、と感じた。
それと同じことが、驚くほどの速さで、メディアアートにも起こったのだろう。
smiさんの
今日の日記を読んで、それを強く感じた。いわく、
>もう○○アートの作品なんかにはぜんぜんドキドキしない。
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>マネーの量でいえば、石油先物のほうがはるかに《ART》のように見える。
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>どきどきするのは Tec. & Sci.
>どうか最先端を行く研究者たちには、○○アートにすりようるような《後退》はしないでほしい。
>ただ、ただ、前を向いて最先端をつっぱしってほしい。
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>もしアートが死んでいないとするなら。
>それは、いま「○○アート」とだれからも呼ばれていない未踏の地にあるんじゃなかろうか。
>だれもそれをアートだと認識できていないアート。
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>でも、ぼくは決してそれを「○○アート」と呼んだはしない。
>そう、呼んだ瞬間にそれは死んでしまうだろう。
とりあえず、目眩のなかで跳躍しようとしている仲間の気配をキャッチ。