検索フォーム

メディアアートの終わり方全体に公開
2008年06月23日23:25
1980年代、コンピュータ・グラフィックスの揺籃期のことを思い出すと、CGはいかなる「アート」かなんていうことは、正直言ってどうでもよかった。

CGの技術そのものが、なんの前置きもなく、見る人の認知や感情を変えていくすごさに比べれば、現代アートなんていうのは地方都市の名産品ほどの意味しかもたなかった。

アートが人間をバージョンアップするのに必要なコンテキストの多さは、鬱陶しい。それに比べて、CGの生成アルゴリズムを書くことが、アートをいくら生産することより、クールだった。

もし、漢字が「新しい漢字」を勝手に作っていいような生きたシステムだったら、書くことは、メッセージを作っているのか漢字を作っているのかわからなくなるはずだ。自分が何をめざしているのかわからなくなる目眩は、生きたシステムの内部にいるとき特有の感覚だ。

CGがアートらしい顔を持ち始めた頃、CGは目眩を失った。CGは、超越性を失った。詩は作れても漢字が作れなくなった。CGは感覚器に染み込んで、もはや感覚の対象ではなくなった。あるときそれに気づいて、作品ひとつCGで作っても意味ないな、と感じた。

それと同じことが、驚くほどの速さで、メディアアートにも起こったのだろう。
smiさんの今日の日記を読んで、それを強く感じた。いわく、

>もう○○アートの作品なんかにはぜんぜんドキドキしない。
-----------------
>マネーの量でいえば、石油先物のほうがはるかに《ART》のように見える。
-----------------
>どきどきするのは Tec. & Sci.
>どうか最先端を行く研究者たちには、○○アートにすりようるような《後退》はしないでほしい。
>ただ、ただ、前を向いて最先端をつっぱしってほしい。
-----------------
>もしアートが死んでいないとするなら。
>それは、いま「○○アート」とだれからも呼ばれていない未踏の地にあるんじゃなかろうか。
>だれもそれをアートだと認識できていないアート。
-----------------
>でも、ぼくは決してそれを「○○アート」と呼んだはしない。
>そう、呼んだ瞬間にそれは死んでしまうだろう。


とりあえず、目眩のなかで跳躍しようとしている仲間の気配をキャッチ。

コメント

大和田龍夫2008年06月23日 23:39
今日の夕刊の日経新聞に
松下奈緒を女優・アーティスト
と紹介していました。

幼稚園の頃でしょうか。私の描く絵を見て「ピカソみたいな絵を描くねぇ」と何人かに言われたことがありました。いえ、二科展で入賞するような絵を描いていた神童だった(筈)なんですが・・・。(笑)

ICC始めた頃(1992年)に藤幡正樹さんにことある毎に言われたのは、「銀行のロビーに展示するわけではないんだから・・・」ということであり、確かにどのように日常と結界を敷くかに当時四苦八苦していた気がします。とっととその結界の意味はなくなるわけですが。
安斎利洋2008年06月23日 23:55
NTT・ICCは、NTT vs ICCという闘争機械だったと思います。

NTTはもちろんのこと輝かしくき現代アートを飾り立てたかったわけで、自分ちの研究所でやってるのと同じような楽屋ネタみたいなことは出したくなかった。輝かしい箱物が出来たとき、NTTはICCを飲み込んだんでしょう。

ICCローカルの問題だけじゃなくて、メディアという入れ物そのものを問題にして、無限に開いていけるはずだったメディアアートが、あるとき、閉じた部屋になったときがありました。

インターネットそのものが、アートだったからですね。
大和田龍夫2008年06月24日 00:34
過去形として語っていい頃だと思いますので、少しだけ。

ICCって何をやりたかったかというと、
グーテンベルクの活版印刷以来の革命であるデジタルテクノロジーが人間の知覚をどのように変容させるのか?
というところにありました。
NTTの人は案外面白いことに、これは理解の範囲外にあるのであろうと、コミッティは30代で組織しろという命題が下ったわけで、そこに何か可能性があったのだと思います。

一方、ある時から揺り戻しがあって、現代美術こそが「アート」である。というお題目のもと、10年時計を戻す運動が起きたわけです。時代はそう急速に変容しはじめた95年にその転換点があるのも面白いところです。

ICC自体は空間を持たない時代こそ魅力的であるかのように言われる事も多いようですが、実はプロジェクトの始まりこそ、オペラシティに文化施設を作るということが命題で始まったあの企画は、場所なしには完結できないというこれまた矛盾に直面しました。

はじまりは「次世代のコミュニケーションの可能性を探究するセンター」であったはずのものは、いつのまにか偶像(常設展示)を持つようになり、その展示してあることに安心感を持つようになりました。

なんか、似たようなことが2千年レベルで起きているのが不思議なような、なんというか、、、、。

豆腐ってのは固める器があって始めて豆腐となるわけで、当事者ってのはそんな言い訳考えてやっているわけではないので、第三者(もしくは外側にいるひと、もしくは、観察者)が器なるものを作って置き場を考えてあげないといけないのかもしれません。

かれこれ5年ほど「メディア論」と称して表現する器のことをあれこれ考えているのですが、まだよくわかりません。
安斎利洋2008年06月24日 01:04
「メディア」を問題にするのは、「メディアはメッセージである」というパラドックスが効いているうちだけ意味があるんですが、いつからそれがパラドックスに聞こえなくなってしまったのか、思い出すとやはり箱が出来たあたりですね。偶然ですが。

CGと同じで、深く人間システムにメディアアートが染み込んだということでしょう。連画の問題群=SNSだったり、メガ日記=ブログだったり。

始まったときに終わりを内蔵してしまう、というのは、人間もそうですし、宿命ですが、いかに次を指し示しながら終われるか。

メディアというと、表示装置だったりケーブルだったりしますが、そんな「偶像」はもうどうでもいいから、計算機の計算過程そのものを純粋に相手にしていきたい。そういう、次のコアが作れないかと夢想しています。
じゃい726live@XL22008年06月24日 01:18
泥酔しております。
だから外れたこと言いそう。
それでも引っかかるところがあってコメントします。
ICCで2000年に「サウンドアート展」を開催した。

これに関して自分の感覚を言うと、それまであったもののカタログだったと思う。

しかし、現在、そのカタログをなぞるようなインスタレーションが多い。
なにかを認知することが、それによって認知した存在の可能性を無くしているような気がするのは気のせいだろうか?

もう、だめなので明日、いや、今日。
ikeg2008年06月24日 01:24
カオスを研究したカリフォルニアの4人組は、カオスが通常科学になると、さっさと大学をやめて予測会社つくって、大体株の予測がうまく行きだしたので、今度は「生命」をつくろうとしたり。
 フロンティア・スピリットは科学でもアートでも大事ですね。
しかし、「最先端をゆく研究者」はいても、学者はいなくなりましたね。アインシュタインは、つねに最先端をゆく研究者、なんて安っぽくなかったと思うけど。
安斉さんのいう、
>自分が何をめざしているのかわからなくなる目眩は、生きたシステムの内部にいるとき特有の感覚だ。

これですね。それがあれば、サイエンスとアートの差はないし、意味を考え始めた時は終わりですね。そういう意味ではALIFEはほんとに終わってるな。
安斎利洋2008年06月24日 01:45
>これに関して自分の感覚を言うと、それまであったもののカタログだったと思う。

カタログが息の根を止める、っていうのは、その通りですね。ポストモダン批評が文学部のカリキュラムを網羅したとたんに、なにかの息の根が止まりました。CGも、検定とかなんとかが臨終だったかもしれない。
安斎利洋2008年06月24日 01:48
>それがあれば、サイエンスとアートの差はないし、意味を考え始めた時は終わりですね。

意味など考えずに始まってる「次」はなんでしょうね。気づかないうちに、意識・無意識と同じ計算過程が作れちゃった、という「そのとき」でしょうか。

>カオスが通常科学になると、さっさと大学をやめて予測会社つくって、

終わる前に次の資金を作るってのは、かっこいいなあ。
smi2008年06月24日 08:38
朝、起きたら、もうだいぶ議論がすすんでるじゃありませんか、
ちょっと、時間がないのでまたきます。
[・・]
ってことで。
アイ2008年06月24日 10:18
安斎さん、お久しぶりです。
実感で同じようなことを感じたので、おじゃまさせていただきました。

○○アートがとってもカッコよく見えた時がありました。コンピュータでつくられる世界にドキドキしたりもして、その世界にどうしたら入っていけるか、本気で考えていました。

今、○○アートな世界からは遠ざかってしまい、かなりスローな天文の世界にいます。そこでの研究者はとってもカッコよく見えます。自分だけでは到底分かりっこない宇宙を地道な日々の研究で次世代に繋げる。ステキだなぁと思います。
smi2008年06月24日 12:53
自分としては、
とにかく、一区切りつけようという思いで、あの日記を書いたわけですが。
じゃ、ピリオドをうったあと、「次はこれ!」というのがないのがなんともいい加減なところなんですが、
とりあえず、おもろそうな場所があればそっちに跳躍していくしかないかなとは思っています。
個人的には具体的には「運動(Motion)」だったりとか。
飛び先はしょぼかったりするんですが、自分のできる範囲なんでしょうがありません。
跳躍するにも、遠くまで飛ぶにはそれなりに体力がいるわけで。

みなさんどうなんでしょう?
安斎さんの

「計算機の計算過程そのもの」

とか
ikegさんの「ALIFEはもう死んでいる…。」のその先に見ているものはなんなのか?
天文も、最近の天文はずいぶんおもしろい展開になっていそうですねぇ。
安斎利洋2008年06月24日 13:08
>アイさん

天文学の現場に入れば、博物館は書き割りのようなものに見えるでしょうね。
書き割りといえば、このまえWorld Wide Telescopeにはまりました。
安斎利洋2008年06月24日 13:23
>その先に見ているものはなんなのか?

CGは、網膜に結像する過程をそっくり計算でおきかえて、人間のベーシックな視覚に食い込んだから、覚悟のないすべての人に衝撃を与えることができました。自分のコードが、全人類の感覚のどこかに作用する可能性を、みんな感じて仕事をしていた。

計算機はそもそも、「演繹的な思考」に食い込む機械として登場した。

現在、そういうものって何かというと、検索エンジンが「思い出す」ということに食い込んでいる。

「これから」は、「帰納的な思考」や「発見的な思考」に食い込む機械じゃないか、と、漠然と思います。

見たことのない未来は、原理的に見えないから、サッカーで視界にない仲間にパスを出すようなものですが。
smi2008年06月24日 14:33
>「帰納的な思考」や「発見的な思考」に食い込む機械じゃないか
あ、なんか…。
いま、ちょっとmocapのデータが1万motionsくらいあって
そいつから統計的に…。
という人工運動系の大法螺を吹こうかと一瞬考えちゃったんですが。
統計的処理と帰納的処理は厳密にはちがうんでしょうか?
安斎利洋2008年06月24日 15:58
それは、アマゾンのレコメンドみたいなことですね。アマゾンのデータベースの中では、すべての本と本の間の距離が測れるようになっていて、ユーザーの動きによって刻々と類似度が更新されているわけですが、そこから気づけることは、誰でもいずれは気づけることにすぎません。
見えない仲間からパスを受け取るような発見をするためには、どうしたらいいか。

>いま、ちょっとmocapのデータが1万motionsくらいあって
>そいつから統計的に…

ここから出てくるものって、人間はみんなどうサボってるか、であって、人間はどう骨を折れるか、じゃないわけです。
smi2008年06月24日 16:24
ある研究者に同じようなことを言われたことがあります。
言われた言葉は別で、そのときはまったく言われていることの意味がわからなかったのですが。

>ここから出てくるものって、人間はみんなどうサボってるか、であって、人間はどう骨を折れるか、じゃないわけです

見当もつきません。どうやればいいのだろう?
ikeg2008年06月24日 22:59
Artificial Life のあとにくるのは Life Argumentationというのは? AIが作り出したのが言語でありインターネットであるならば、ALIFEがつくったものは、spore的なものもあるが、もっと強力なものがつくれるかもしれない。
安斎利洋2008年06月24日 23:52
ikegさんは、「寄生獣」って、読んだことありますか? 20年くらい前のマンガです。
寄生生物と闘争的しながら、しだいに両方の意識と感情が変わって共生的になっていく。というような話。
Life Argumentationというと、そんなイメージでしょうか。
アイ2008年06月25日 11:27
書き割りもWorld Wide Telescopeやgoogle skyになってしまうと、もうそれはそれでひとつの世界のように感じます。
こういうコンテンツを見ると、文化や天文も包括的じゃなくっても楽しめるので、素晴らしいなぁとおもいます。
「寄生獣」とても好きなマンガです。横槍、すみません!
安斎利洋2008年06月27日 01:27
>書き割りもWorld Wide Telescopeやgoogle skyになってしまうと、
>もうそれはそれでひとつの世界のように感じます。

自分で持てるどんな望遠鏡より、高精細なんですけどね。でもなんか、この絵のように
http://commons.wikimedia.org/wiki/index.html?curid=318054
向こう側を見たくなります。
ikeg2008年06月27日 23:44
寄生獣はもちろん。だけど、ここで言っているのは、そうですね、カンブリアンゲームのようなもの、ですね。
安斎利洋2008年06月28日 02:16
カンブリアンゲーム!なるほど。

共役不能な他者との対話の問題は、哲学がぐだぐだいろんなことを言うより、ikegさんのモデルのようなALifeで語らせたほうが、ずっと簡単に本質をつかみますね。それが googleのような実用的な顔をもったら、すごいことになると思う。
ikeg2008年06月28日 09:28
サイエンスにもアートにもなっていないもの。の中に次世代の動きがあると思うけど、、 プログラムカンブリアンとかやって出来上がった巨大なプログラムが生命になるってことはないよね、、、、
安斎利洋2008年06月28日 15:37
「意識とはなにか」の答えは「意識とはなにかを問うもの」、であるとして、
「〜とはなにか=〜とはなにかを問うもの」の「〜」を、まず作ってみる。
しかし、「〜」が意識なんだかどうかは、「〜」になってみないとわからない。
しかし、同じ形式をもった複数の「〜」が闘争と対話を繰り広げる様子は、痕跡から観察できる。そういう、「〜」の闘争システムを目指してみる。
そんな感じでしょうか?
ikeg2008年06月28日 19:19
対角論法の方法そのものが、無限を定義する可能無限。それに対し実在としての無限が実無限。同じ意味で、人工生命は可能生命からはじめて、それを実生命に接続しようとしている。「実」に接続できる「可能ななにか」を探す、よく分からない活動を展開しましょうぜ、といいはじめると、とたんに世界が冷たくなる。
安斎利洋2008年06月29日 04:17
それは、ikegさんが世界を滅ぼすのではないか、と?
実生命の無限の濃度にわたりあうためには、情報が情報の入れ物の内側に閉じている計算機ではだめ。しかし必ずしも、リアル生命と干渉しあう物質でなくてもいいですよね。
ikeg2008年06月29日 15:46
しかし人間とは干渉しないといかんのでは?
安斎利洋2008年06月29日 16:22
4が、概念的な4という数としてのシニフィエと、先がとんがっている数字の4のというシニフィアンにわかれていると考えたときに、シニフィエとシニフィアンが干渉しあうので無限がひらけてくる。人間のシニフィアンと人工生命のシニフィアンがどう干渉しあうかというときに、同じタンパク質である必要はないんじゃないか、という意味です。かといって、液晶上の濃淡じゃだめなんですね。
中村理恵子2008年06月29日 17:19
目
smi2008年06月30日 06:43
わたしのへっぽこ日記が、このような議論にまでいたる過程をリアルタイムで体験するという大変貴重な経験をさせていただいています。安斎さんとikegさんに感謝。
と、へたなコメントが議論の腰をおらないことを祈りつつ。
ikeg2008年06月30日 22:07
生命があるレベル以下が取り替え可能かどうか、そいつが人工生命の問題。matter & mind の差異はいつ進化したのか。それに少しは答えたいじゃないですか。アーティストあたりが生命いきなり作っちゃうということはないのか。残念。
安斎利洋2008年06月30日 22:48
ikegさんたちの構成論的な手法は、ほとんどアートとおなじ戦略をとるわけですが、しかしやはり、わずかな違いがありますね。誰が見ても「これは生命だ」と思えるモノを作ろうとするのは、科学者の伝統的な習性。アーティストは「これを生命というなら生命ってなんだ?」というアポリアをまず目指すでしょう。
だから、いまや過去のものかもしれないけれど、格子点の濃度分布だけを「生命」と主張する非日常的なセンスこそ、いぜんとしてアーティスティックにかっこいいわけですよ。
ikeg2008年06月30日 23:24
安斉さん、僕も最近つかれて、ひよったか。
新しい非日常をめざしてるのかもしれないし、交通事故にもあわないロボットに辟易としているのかもしれない。
  
安斎利洋2008年07月01日 01:58
事故と接することができる領域は、またたくまにエンジニアリングが飲み込もうとするでしょうね。そこも戦場としてはすごいけれど、ikegさんには「音だけで生命をつくっちゃったよ」みたいなところにも、いてもらわないと。
ikeg2008年07月01日 09:10
たしかに他人の芝生は青く見えるからね。今度大阪のSAB(simulated Adaptive Behaviors)の会議のパネルで intimate interface というのやるんだけど、もし大阪に来てたら覗きにこないですか。題目普通になっちゃってるんだけど。

http://www.ukjapan2008.jp/events/20080708_000347e.html


interface に生命は宿るか、ってことで。
安斎利洋2008年07月01日 15:04
インターフェースは、ついマンマシンをイメージしてしまいますが、コードを共有しないシステム同士が相手のツラを誤読しながら発展していく問題だとすると、計算機の中で唯物論を展開してもいいですよね。

>たしかに他人の芝生は青く見えるからね

芝生の中に、地雷をうめてきてください。
ikeg2008年07月02日 00:16
 ソウシマス。強力なやつ。

 安斎利洋mixi日記 一覧へ