藤子・F・不二男の「流血鬼」が面白い。
吸血鬼に噛まれた人間は吸血鬼になり、日光と十字架を嫌い、人を噛むためにさまよい始める。この連鎖がパンデミック(感染爆発)を起こし、世界中が吸血鬼になってしまう。
ただひとり残った少年が、人類のために戦う。
しかし追い詰められ、ついにガールフレンドに噛まれてしまう。
結末がすごい。
吸血はウィルスを感染させるための手段で、感染した「新人」は、未感染の「旧人」にくらべてはるかに優れている。新人に生まれ変わった少年は言う。
「今から思うと、おれ、ばかみたいだよ。どうしてあんなに新人になるのをいやがったのか。」
「気がつかなかった、赤い眼や青白い肌の美しさに!」
「気がつかなかった、夜がこんなに明るく優しい光に満ちていたなんて。」
永井均は「マンガは哲学する」でこの作品をとりあげ、絶対的な悪だと思っていたものが、彼らの視点にたってみればはるかに良い世界なのかもしれない、として、こんなことを言っている。
「ひょっとしたらオウム真理教がそうかもしれないなどと言うと、またひんしゅくを買いそうなのでやめておこう」
仮に、ナチスが世界を制覇していた場合の現代史を想像してみる。逆に、いま僕らがいる世界を「〜が制覇してしまった世界」と考えることもできる。「享楽的なイデオロギーによって人口が50年で3倍にもなってしまう世界は、案外すばらしいかもしれない、などと言うと、またひんしゅくを買いそうなのでやめておこう」なんて書かれる別の可能世界を考えることもできる。
悪は善の補集合に過ぎないから、善に「悪いに決まっている」と思わせられているだけだ。その善も悪の補集合に過ぎない。善悪の棲み分けが違う公理系Aと公理系Bがあるとき、一方の正しさから、もう一方の間違いを言うことはできない。
でも、そうやって遠い鳥の視点から見ることは、さほど重要じゃないんだと思う。大事なのは、自分のOSを変えるときの体感だ。旧OSの内部に居て旧OSの上で作動しながら、新OSの種がインポートされ、作動を開始するまでの、嫌悪、不安、怖れ、恍惚。
新しい世界観を知ることは、なにかしら近しい者に噛まれることだ。僕らは、何度この恍惚を味わってきたことか。
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「流血鬼」 昭和53年 週刊少年サンデー52号掲載
藤子・F・不二雄少年SF短編集 (2) (小学館コロコロ文庫)
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