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t-Room 未来の主観全体に公開
2008年06月04日01:39
人間の五感のなかで、視覚はいちばん客観的だ、と思われている。
匂いや味や音は、あいまいで主観的で、情緒や体調に影響されやすい。

しかし実は、視覚くらい主観的なものはない。

なにしろ、見ている人それぞれが、自分だけ欠けた映像を見ているわけだ。誰ひとり同じ像を見ることがない。複数の人が居合わせてお互いに見ている風景は、視点の数だけあることになる。

それに対して、音と匂いや気温は、同じ部屋にいればだいたい同じ体験になる。

なぜ、視覚が客観的だという誤解が生まれるのだろう。

視覚よりも一段上位の層にある像を、人間は共有できる。別の場所にいても、同じ地図をイメージできる。

メディアを通した視覚は、どこで見ようと同じ。テレビ、映画、インターネット、何を見るかは人それぞれだが、見る手順をそろえればいっしょの体験が待っている。

視覚が論理的で主観を排しているという誤解があるから、視覚にまつわる技術も誤解されやすい。

ARは、装着するAR装置によって、同じ現実が異なる体験として現れる。だからARが拡張するのは、対象のリアリティというより、視覚の主観性でなくてはならない。

マイルスさんやびすけっとさんが作っているt-Room(未来の電話)は、表向きリアリティを追求しているけれど、どっこい隠れた顔があり、同じ視覚を共有すれば自分が空間にあらわれるパラドックスに本領があると思う。幽体離脱のようなアンリアルな拡張体験が未来的だ。

主観の拡張が、視覚の行くべき未来、だと思うわけだ。

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写真

コメントで参照している図

コメント

Ken☆2008年06月04日 02:16
映画なんかでも、
 字幕を観ているだけで、そうしゃべっているように聞こえてしまう。
 外国語は耳に入っていながら、空耳アワーだったりしますよね。
H.耕馬2008年06月04日 04:11
> 視覚くらい主観的なものはない。

そりゃあ、「目の玉で物を見ている」
という思い込みから起こる、幻想でしょうね。

実際、人間は、脳味噌で物を見ているのだから
主観的になるのは自明。
安斎利洋2008年06月04日 04:45
>字幕

字幕は、ARにちょい似てますね。

>実際、人間は、脳味噌で物を見ているのだから

その通りなんですけど、脳の処理以前に、視覚は他人と同じ入力でないようにできているのが、ちょっと驚きじゃないですか? 匂いや音は、感覚器レベルでは他人とかなり近い信号が入ってくる。
中村理恵子2008年06月04日 06:15
>同じ視覚を共有すれば自分が空間にあらわれるパラドックスに本領があると思う。

それよ。
この装置にはいった被験者たち、つい自分の姿を追っちゃったりしないのかな?。
向こう側の誰かと同室感を得て、会議でもしましょだなんて理知的な話しじゃなくてさ。

わたしは、恥ずかしくもなく、自分の姿ばかりが出現するタイミングをわくわく待ったけど。
↓(笑)・・・。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=712826318&owner_id=64544
びすけっと2008年06月04日 12:26
前田太郎さんがt-Roomに入って,自分の背中を正面の画面に見て,それを0.1秒くらい
遅らせて表示させたらどんな気持ち悪いことが起こるか,試してました.

日産の車を上から見て車庫入れできるやつ
http://techon.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20071004/140195/?ST=AT_PRINT

それと「XXXXX」.えっと特許書き終わったら書きます.まさに主観と客観の入れ替えです.
メンタルスタッフ2008年06月04日 18:51
> なぜ、視覚が客観的だという誤解が生まれるのだろう。

これ、面白い問題ですよね。いわゆる「クオリアの不思議」なんかも、この問題を解決することで、不思議でなくなったりするんじゃないかと思うんですが。

「色」については、それが主観的なものだという視点を取ることはそれほど難しくなさそうなのに、なんで「形」の方は主観的なものだという視点が取りにくいんでしょうね。

自分の心の中に湧き起こる感情などに比べても、自分の大脳なんて、だれも直接見たこともないはずなのにそっちの方がずっと客観的なものに思える。。。

視覚に基づいて作られたモデル(表象)を「世界」の基本モデル(markedなモデル、有標モデル)として生活しているからという説明はどうでしょう。

> 主観の拡張が、視覚の行くべき未来、だと思うわけだ。

「見たいものを見えるようにする」という時、何が「見たい」かを決めるのは、主観のほうでしょうからね。




安斎利洋2008年06月04日 23:48
>つい自分の姿を追っちゃったりしないのかな?

それが野生ってもんですね。

>日産の車を上から見て車庫入れできるやつ

鳥瞰の視点というのは人間の認知として自然だと思うんですが、t-Roomは包囲感があるから、いわば新しい共同主観のありかたを目指していると思うんですよ。ARは個人の主観を拡張するけれど、t-Roomは間主観を拡張するAR、というか。

>まさに主観と客観の入れ替えです.

天下とってください。
安斎利洋2008年06月05日 00:20
>視覚に基づいて作られたモデル(表象)を「世界」の基本モデル(markedなモデル、有標モデル)として生活しているからという説明はどうでしょう。

なぜ視覚がそのような優位性をもつのか、という説明が必要なのだと思いますが、単純に考えて情報が多いということがあると思うんですが、逆に情報を圧縮しやすいから、という考え方もできるんじゃないでしょうか。

立方体はどこから見ても歪んだ形しかないし、誰も違う方向から見てるのに、誰もが頭の中に同じ立方体を構成する、というような。

もしかすると、視覚が心の理論と強く結びついていることも、これに関係があるのかもしれません。遠近法の消失点のように、他人と自分の差をキャンセルする処理がやりやすい。

>「見たいものを見えるようにする」という時、何が「見たい」かを決めるのは、主観のほうでしょうからね。

ここは、重要ですね。見るというのは、意図とかかわりなくやってくるようだけれど、実は思い出すことと同じだし、検索とも同じです。何を思い出そうとしているのか=何が「見たい」かを決める、というのが、見ることを起動するわけですね。
あい組31番2008年06月05日 02:23
某IT企業のエグゼクティブの言葉として、「一番有効な communication tool は jumbo jet だ」ということ聞いたのは元上司のイギリス人から。
つまり、飛行機に乗っていって会って話す事が重要だといういうこと。
やはり、face to face でないと気持ち、感情を含めて通じない。これはどこでも同じではないか。
安斎利洋2008年06月05日 02:31
>「一番有効な communication tool は jumbo jet だ」

t-Roomは、まずその需要を狙うんでしょうね。石油を燃やさないでコミュニケーション、ってのは売りになりますよね、NTTとしては。

「一番有効な discommunication tool は karaoke box だ」
ってのは、だめ?
H.耕馬2008年06月05日 03:27
その昔JCGL時代の事。NYから来た、すっごく気難しい技術者がいたんだけど、あるとき彼を接待で吉原に連れて行ったさ。
結果、その次の日からは「大親友」だった。

「一番有効なcommunication tool は吉原」じゃね?
Bodyっつか、Physicalは強力です。(ズラシてすまんです^_^;)
安斎利洋2008年06月05日 04:02
藤子・F・不二雄の『気楽に殺ろうよ』って漫画があって、ある日眼がさめるとまわりの様子が変わっていて、食欲が恥ずかしいことで、性欲が普通に公然の世界。
「朝からぶっとおして腹ペコなんだ」「まぁ、いやな人!」‥‥‥みたいな。

耕馬さん、そちらに引越したら?
H.耕馬2008年06月05日 08:33
それだったら、タイトルは忘れたケド、手塚治虫のマンガがあって、「服を着るのが恥ずかしい世界」。
街を歩く人々は、みんなマッパで、絶対に布を羽織ったりしない。
夜眠る時に布団に包まる姿は最高に恥ずかしい瞬間で、好きな人にしか見せない、だったかな?

チョット設定に無理があるけど、「if」はいつでもシナリオの原点です。(さらに話題をズラシてすまんです^_^;)
yfuji2008年06月05日 11:01
>なぜ視覚がそのような優位性をもつのか
他の知覚よりもシグナルが強度だからではなかろうか。
一度見たものは忘れにくいが、一度食べたもの、一度聴いたものよりも印象が明確である気が致します。
とりもなおさずシグナルが強度とは言い切れないのだけど。
たんぎー2008年06月05日 13:53
見ただけで材質や時間経過が推測できたりするので、視覚はメディアとしてかなりすぐれています。でも言葉と違って道具を使わないと伝達できないっていう欠点がある。視覚が客観的だ、というのは「絵」「文字」「写真」などが発明されて以降の感覚じゃないでしょうか。文字を持たない社会ではむしろ「言い伝え」「証言」が客観性のトップですよね。
安斎利洋2008年06月05日 14:12
>一度見たものは忘れにくいが、一度食べたもの、一度聴いたものよりも
>印象が明確である気が致します。

一度見たものは忘れない、というより、忘れてない記憶はそもそも見た瞬間に忘れていて、つまり見ていないんじゃないでしょうか。
逆に、昔の友人の声は顔のように想起できるし、プルーストじゃないけど、ある香りが過去のある瞬間をぱっと引き寄せたり、ってことはありますよね。
記憶の強さは、モダリティの問題じゃないですね。
安斎利洋2008年06月05日 15:01
視覚は、視覚的なメディアや装置に依存しますよね。鏡が日常にあるかないかで、「鏡像段階」の意味だって違ってくるだろうし。紙と筆記具、あるいは砂地に棒、そういうものも、視覚と記憶の関係に影響を及ぼすでしょう。

たんぎーさんに、前からお尋ねしたかったことがあります。シベリアの少数民族が残した、「絵ことば」とも言えるようなものを見たことがあります。ある女性が、他の女に男をとられて、その気持ちを人間関係の図のようなものに託してあらわしている。それがコードを共有した記号なのか、私的な絵なのかわかりませんが、「シベリアのラブレター」として紹介されていました。手元に本がないんだけれど、タイムライフの図鑑のような本だったような。

こういうものって、もっと確かな資料が、どこかにありますか?
なにか、ヒントが詰まっているような予感をもちました。
たんぎー2008年06月05日 16:04
トゥゴルコフによるユカギールの民族誌『オーロラの民』でラブレター、エヴェンクの民族誌『トナカイに乗った狩人たち』でも絵記号にふれられています(ともに刀水書房刊)。私も詳しいことは知りませんが、シベリアではアムールに比べて絵記号が発達していますね。両書を読んだ限りではある程度のコードの共有がなされていたようです。前者はヨヘリソンの報告にもあるそうです。Иохельсон В.И. По рекам Ясачной и Коркодону. Древний и современный юкагирский быт и письмена. Сиб., 1898. Приложение V.だと思います。
たんぎー2008年06月05日 16:18
連投失礼します。Юкагирыで画像検索をかけると、すぐにロシア語wikipediaでヨヘリソンの採集資料がひっかかってきますね。Юкагирские языкиの項目にあります。改めて見ると奇妙ですね。初めてこれを見ても、「人間関係を表している」とは思いもしないでしょうね。まるでモミの木を並べたような図です。槍先のような図像が人間を表しているとは驚きです。
安斎利洋2008年06月05日 17:41
たんぎーさん、長年の疑問に明かりがともりました。、
ロシア語がまったく読めないまま、あちこちクリックすると、出てきますね。

僕が見た図は、Wikipediaにあるものとほぼ似ています。
http://ru.wikipedia.org/wiki/Юкагирские языки
この木の先端から出ている〜みたいなのが、気持なんでしょうか。

http://ilin-yakutsk.narod.ru/2000-4/28.htm
ここに、なにかいろいろ書いてありげですが、狩猟をしているような図もありますね。

http://tsu.tmb.ru/culturology/journal/3/romah.htm
ここにも図がある。
たんぎー2008年06月05日 17:54
なんと、ネット上にたくさんあるんですね。残念なことにあまり細かい説明はないようです。トゥゴルコフの説明だと、錘状(というか三角形というか)の人間マークの間に直線で橋のように何本も引かれているのが「気持ち」で、「相思相愛を表す」とあります。Wikipediaのヨヘリソン図はもう少し複雑で4人の人間関係なんでしょうが、やはり詳しい説明がない。
安斎利洋2008年06月05日 18:49
4人の人間関係は、なんかすごいですよね。子どもが二人いるし。

http://ilin-yakutsk.narod.ru/2000-4/28.htm
ここにある女性の服装が、図の中の形と関係ありそうに見えます。
安斎利洋2008年06月06日 04:23
昔みた本を、発見しました。
図は、↑の本文に加えてあります。
wikipedia にある図と、同じ構造ですね。どちらかが、スケッチなのでしょうか。

以下、引用
OCRなので、間違いがあるかもしれません。
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シベリアのラブレター

 絵を用いて表記する原始的な手法は、現代にまで生きながらえている。これと同じ形式を用いて、人類は実際の手紙の最古のものを生み出Lた。この絵は、若い女から移り気なかつての恋人にあてた実際の手紙である。この手紙は今世紀のはじめにユカギール族の娘が書いたもので、この部族はシベリア北東部に居住し、今日ではその数600人あまりを数えるだけであるが、今ではこうした伝達方法を用いている者はほとんどいなくなっている。
 ふられた娘の手紙は、驚くほど痛切である。スカー卜をはき弁髪姿〔スカートの上部近くの点線〕の彼女〔A〕はひとりで家におり〔B-C〕、彼女の苦しい状態は、彼女の上部に記された線の交錯〔D〕て示されている。彼女のかっての恋人〔E〕は左にいて〔F-G〕、この娘が知っているように、現在の彼の愛情は自分のものだと主張している、ゆったりとしたスカートをはいた弁髪姿の恋敵〔H〕といっしょに住んでいる。この娘は彼らの上部にある四角の中に記された十文字〔T〕で象赦される彼らの親密なつながりを認め、その恋の成果としてふたりの子どもの誕生〔JとK〕を予知しているが、娘が惜別の辛さを感じていることが、恋敵の頭上から出てこの絵文字の中央を縦に走っている強い綿〔L〕で表現されている。もうひとりの男〔N〕が彼女に愛を寄せているが、今なお彼女は自分の思いをこらえていて、その心情は彼女の頭上に浮かぶ渦巻き〔M〕ではっきりと示されている。

『文字の誕生』ロバート・クレイボーン著 五十嵐雅子訳 より
(ライフ シリーズ 人類100万年)
メンタルスタッフ2008年06月07日 19:54
>...ふられた娘の手紙は、驚くほど痛切である。
 解説があることが図の魅力を増しているのかもしれません。「痛切」な図に見えてきますね。
Mixiの絵文字を眺めてみると、げっそりが痛切に近いかもしれないけれど、だいぶ違いますね。本当の痛切はMixiには似合わないのかもしれないけれど。
メディア技術の中に、過度の単純化、幼稚化などが意識しにくい形で潜んでしまっている可能性がありますね。


安斎利洋2008年06月08日 01:33
>過度の単純化、幼稚化などが意識しにくい形で潜んでしまっている

「真実は単純に表現できるはずだ」や「心をつかむメッセージは短い」は正しいわけですが、「単純な表現は真実だ」や「短いメッセージは心をつかむ」は、正しくないわけです。そこを勘違いしている人が非常に多い。テレビのディレクターは、大方この勘違いをしています。

心をつかむ短いメッセージは、パラドックスを含んだアポリアであったり、再帰的表現だったりしますね。複雑なことを単純に言うことが、言語なんであって、そういうことができる表現形式がだんだんなくなってきています。ケータイも、それに手を貸してるんだろうな。

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