悲しい音楽はあるのだろうか、という疑問がわいてくる。
この疑問そのものの説明が、また難しいのだけれど。
楽しい音楽が誰にとっても楽しい、これはわかる気がする。
しかし悲しい音楽が誰にとっても悲しいのは、不思議な気がするのだ。
悲しい音楽がひとびとに共通するのはなぜだろう。
悲しい音楽は、生まれる前に決まっているのか。
それとも悲しい音楽は、文化の刷り込みで、生まれ育ちによって悲しい音楽はまったく異なるのか。
だとしたら、楽しい音楽を悲しい音楽として刷り込むことも可能なのか。
音楽のない国で育った人が生まれてはじめて聞く音楽に、悲しい音楽があるだろうか。
ジェロが演歌に感じているのは、僕らが感じる演歌の悲哀感と、変わらないのだろうか。
疾走する悲しさ、と小林秀雄が言ったモーツアルトの(分裂ぎみの)悲しみは、果たして僕の悲しみと同じ悲しみか。
悲しい音楽は、泣き声と類似してるのだろうか。
でも、悲しい音楽と似た泣き声を聞いたことがあるだろうか。
悲しい音楽の感情の流れ方は、悲しみの感情の流れ方と類似しているのだろうか。
もしそうなら、類似した感情をなぜ音楽がドライブできるのか。
音楽と悲しみの関係は、形に味があったり色が聞こえる「共感覚」の一種か。
じゃ、旋律や和声でなく、悲しい「音響」はあるのか。
色や配色が、音楽のように強く悲しみを喚起しないのはなぜか。
悲しい音楽の悲しみは、失恋や死別といった生活の中の悲しみと、同じ種類の悲しみなのか。
そもそも、悲しい音楽はあるのだろうか。