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悲しい音楽全体に公開
2008年06月03日00:34
悲しい音楽はあるのだろうか、という疑問がわいてくる。
この疑問そのものの説明が、また難しいのだけれど。

楽しい音楽が誰にとっても楽しい、これはわかる気がする。
しかし悲しい音楽が誰にとっても悲しいのは、不思議な気がするのだ。

悲しい音楽がひとびとに共通するのはなぜだろう。
悲しい音楽は、生まれる前に決まっているのか。
それとも悲しい音楽は、文化の刷り込みで、生まれ育ちによって悲しい音楽はまったく異なるのか。
だとしたら、楽しい音楽を悲しい音楽として刷り込むことも可能なのか。
音楽のない国で育った人が生まれてはじめて聞く音楽に、悲しい音楽があるだろうか。

ジェロが演歌に感じているのは、僕らが感じる演歌の悲哀感と、変わらないのだろうか。
疾走する悲しさ、と小林秀雄が言ったモーツアルトの(分裂ぎみの)悲しみは、果たして僕の悲しみと同じ悲しみか。

悲しい音楽は、泣き声と類似してるのだろうか。
でも、悲しい音楽と似た泣き声を聞いたことがあるだろうか。

悲しい音楽の感情の流れ方は、悲しみの感情の流れ方と類似しているのだろうか。
もしそうなら、類似した感情をなぜ音楽がドライブできるのか。

音楽と悲しみの関係は、形に味があったり色が聞こえる「共感覚」の一種か。
じゃ、旋律や和声でなく、悲しい「音響」はあるのか。
色や配色が、音楽のように強く悲しみを喚起しないのはなぜか。

悲しい音楽の悲しみは、失恋や死別といった生活の中の悲しみと、同じ種類の悲しみなのか。

そもそも、悲しい音楽はあるのだろうか。

コメント

じゃい726live@XL22008年06月03日 00:54
>音楽と悲しみの関係は、形に味があったり色が聞こえる「共感覚」の一種か。

それもあるかもしれないけれど、なんだか、納得にいたることが出来ない。

「悲しい音楽」で思い浮かべるのは映画やテレビドラマの悲しい出来事が起こった時に流れるテンポのゆっくりなマイナー調の曲。

しかしそれらが自分にとって悲しいかといったらそうでもない。
そういうたぐいは映画やテレビドラマのイメージが拡張したものであるし。

よくよく考えてみると感情で音楽を形容するという行為がとても個人的なものだと思うのだけれど、いつもながら結論は見当たらない。

音響に関して考えても「安心」-「不安」という中でいわゆるテンションコードというものがあったと少なくとも教わったように記憶しているが、ではテンションコードを聴いて今となっては自分は「不安」には思わない。

560ヘルツのサイン波が悲しいとか言えるのはやはり個人的。
Linco2008年06月03日 01:01
長3度と短3度の違いを説明できません。
安斎利洋2008年06月03日 01:08
>テンポのゆっくりなマイナー調の曲。

近頃のテレビドラマの「泣ける音楽」は、かならずしも短調をメインにしてないような気がするんだけど、どうなんだろう。そういうこと言ってる人、研究している人、いないかな。

短三度が悲しいとか、不協和音は不安とか、これが歴史的というか流行り的に推移するのは目の当たりにしますね。だから、マイナーコードはなぜ悲しい、という問題の出し方はしたくないんです。

>長3度と短3度の違いを説明できません。

そうそう、そういうこと。


でも、悲しい音楽は、ほかの人も悲しい音楽だ、というのは不思議。
これは、コンテキスト?

>560ヘルツのサイン波が悲しい

爆笑しました。
さかい2008年06月03日 01:09
個人の感情をコントロールする、ということと、個人の思い入れなどとは無関係に情緒をコントロールする、ということは、全く別の事柄で、必ずしも同じ才能ではないように思います。

単に情緒をコントロールするだけならば、たとえばさだまさしの「防人の歌」のような曲は情緒的音楽としては天才的だと思いますが、少なくとも本当の戦争を経験した私の祖父母にとって、彼の歌っている内容は不当に美化された偽りと感じたようで、紅白歌合戦で彼が歌っている間中、言葉には出さなくとも終始不機嫌でした。

悲しさは、感傷と混同され易いようにも思います。

僕自身は絶望して自殺を真剣に検討した時、死から逃れるため、自分の身代わりとなって死んでもらうための曲を書いたことがあります。
でも僕にとっては深い悲しみに満ちたその曲が、他人にとっても悲しいと感じるのかどうか、分かりません。

http://naked-kimus.cocolog-nifty.com/blog/files/Chosi_isesaki_Live.mp3

あ、ちなみに「不安」は僕の作曲衝動の根幹を成している感情で、一度不安を潜り抜けた安定しか、僕には描けません。
安斎利洋2008年06月03日 01:14
さかいさんの不安の話は、よくわかるな。

このまえアウシュビッツのドキュメントをやっていて、いい番組でしたが、音楽が「悲し」くて、ダメだった。シンドラーのリストもそうだけど、あの甘美さと映像の不安が、どこにも接合点がない感じ。

すると、悲しい音楽、というのは情緒のコントロールで、感情のコントロールとは別である、と。
悲しさは情緒で、感情ではない、ということ?
Linco2008年06月03日 01:26
「悲しい色やね」←困ったものです。
安斎利洋2008年06月03日 01:35
けっこう、すきやねん。
さかい2008年06月03日 01:35
いえ、むしろ逆です。
感情としての悲しさこそが、描きたいのですが、たとえば、生命の生まれる瞬間を目の当たりにした時のような場面で流れる感動の涙は、感情とは別なもののような気がするのです。

ナチスの親衛隊の高官(すみません、個人名を失念しました。ヒムラーだったかな)は、何千人というユダヤ人を眉一つ動かさずに虐殺したけど、自分の愛犬が死んだ時は号泣して嘆き悲しんだといいます。



一方で、たとえばバルトークの「ピアノ協奏曲第3番」の第2楽章のように、自らの死を予見するような、生きることを諦めてしまった人が描いているかのような、深い悲しみに満ちていると感じる美しさもあります。

http://jp.youtube.com/watch?v=E7nVSrEwzJw

ちなみに宮沢賢治の「土神と狐」には、「土神はまるで頭から青い色の悲しみを浴びてつっ立たなければなりませんでした」という一文があります。
セン2008年06月03日 01:46
残念ながら私には安斎先生の諸々の問いには答えることができないのですが、「悲しい音楽」と言われてまっさきに思い浮かべるのはマーラーの交響曲第9番です(それに『大地の歌』を付け加えてもいいかもしれませんが)。

マーラーの9番ほど聴く者の心を厭世的にする音楽もないのではないかと思いますが、厭世観を駆り立てるほどに生命を高揚するという大いなる逆説が、ついには「救い」や「安らぎ」をもたらすという点は特徴的です。

僕にとっての「悲しい音楽」、それは却って生命の糧であります。しかし、それを聴くには相当の覚悟が必要です。

>悲しい音楽の悲しみは、失恋や死別といった生活の中の悲しみと、
>同じ種類の悲しみなのか。

マーラーの第9の悲しみの中には、間違いなく失恋・死別といった世俗的悲しみと同種のものが含まれていると思います。

にもかかわらず、それを超出するがごとき宇宙的な愛の海に溺れさせられもするのです。これがあの曲のテクスチュアの偉大なところです。

世俗的な感情と宇宙的な精神という、次元の異なる二つの脈動が聴く者にダブルパンチを与えるところ、あの曲の複雑化したダイナミズムですね。
チクリン2008年06月03日 01:49
> 楽しい音楽が誰にとっても楽しい、これはわかる気がする。
> しかし悲しい音楽が誰にとっても悲しいのは、不思議な気がするのだ。

実は楽しい音楽もけっこう難しいのじゃないかと思います。
楽しい音楽が「快い音楽」ということなら誰にでも快いのはあると思います。
でもこの文脈では「悲しい≠不快」なので、「楽しい≒快」とは言いにくいです。
快をとっぱらった楽しい音楽ってどういうものかという疑問もわきますけれど。

安斎利洋2008年06月03日 01:58
作曲家が自分の死と向かい合いながら書いた音楽というのは、ここで考える材料として秀逸ですね。

たとえばチャイコフスキーの6番を加えたところで、マーラーの9番とも、バルトークのピアノコンチェルトとも違うし、考えてみると、どれをとっても共通点がない。

そもそも、悲しみに「同じ」や「異なる」や「類似している」があるのか。
楽しさは、どれも似てるように思うけれど。

さかいさんのコレクションは、どれも異なることを言っていて、それらを「悲しみ」とくくることを拒否しているように思えます。
安斎利洋2008年06月03日 02:01
>実は楽しい音楽もけっこう難しいのじゃないかと思います。

悲しいと楽しいを別にする必要はないのかもしれませんが、しかし、楽しいというのは、たいていの場合「僕らの・楽しさ」なんじゃないか。楽しさは、音楽と同じように、アンサンブルを指向するように思うんです。

それに対して、「僕らの・悲しみ」という共通の体験が、どこかにあるのか。
また逆に、「僕の・悲しみ」といえるまったく私的な体験は、どこかにあるのか。
ちゃ〜り〜(tatmos)2008年06月03日 02:08
悲しい音楽・・・ からまったくの個人的な印象と分析なのですが、
マイナー調の曲で、ベースが下がって行く進行。そこにゆったりとしたメロディーが乗る。
切なくなりますし、時には涙さえ流しますが、それは一時。すぐに収まってしまいます。でも、これで盛り上げられると泣いてしまいます。
この刷り込みは、そういう演出の劇や舞台があるからだと思うのですけど。

どこまで、下がって行くんだろう・・・でも7で戻ってきて。

ここで出会った。さかいさんの曲が満たしているのに驚いています。(ギターが素敵です)
あ、音響だけの分析です。歌詞は僕にはまだ未知な存在だったりします。
安斎利洋2008年06月03日 02:18
>どこまで、下がって行くんだろう・・・でも7で戻ってきて。

刷り込みっていうのは、聴き手の中に期待の軌道を立ち上げることですね。だから、ツボを作って泣かせることもできる。
聴き手に、もしそういう軌道の記憶がなかったら、悲しい音楽はなくなるのだろうか。
それとも、簡単にその軌道をブートストラップできるような、生得的な軌道の痕跡みたいなものがあるのか。
そこが知りたい、のかな。
安斎利洋2008年06月03日 02:21
>マーラーの第9の悲しみの中には、間違いなく失恋・死別といった世俗的悲しみと
>同種のものが含まれていると思います。

僕らはもはやマーラーの伝記的知識から自由になれませんが、もし仮に、作曲家に関する知識をまったくもたずに9番を聞いたらどうなんだろう、という思考実験をしてみたいんですね。

熱中して聞いたあと「誰が作ったか知らんけれど、10番の残りの完成も期待してまっせ」そんなところかもしれない。そこに実生活的な悲しみとのリンクをもつのは、また別の層なんじゃないか。

いや、何も知らなくても、これは必然的に、死の隠喩をもった音楽なのだ、とも思える。
miyako/玉簾2008年06月03日 02:47
音楽なんか全く聞きたくないぐらい心が弱っている時、心の奥で鳴るのは哀しい音楽。でもそれは人には聴こえない。もしくは、木の葉の音も、靴音も聴こえない「密閉された空間の無音」は哀しい音楽だと思う。もし「無音」も音楽としてとらえるのであれば。うーん、抽象的にしか答えられない。
戦場で銃を撃っている米兵のヘルメットの中で鳴っている洗脳デスロックは哀しい音楽だと思う。それはまさしく聴こえる音楽なんだけれど。
安斎利洋2008年06月03日 02:51
僕は最近、あんまり音楽を聴きません。ゼロのキャリブレーションみたいな感じで。でも、短時間、きわめて集中して聴くことはある。
音楽のゼロ度が悲しい音楽、というのは美しい話ですね。
チクリン2008年06月03日 03:18
> 楽しさは、音楽と同じように、アンサンブルを指向するように思うんです。

なるほど。
とすると、「悲しみ」が人に共通するところがあるとすれば、アンサンブルから遠く離れること、みなさんが言うように「死」に近づくことなんでしょうか。
たとえば、と言えるかどうかわかりませんけれど、私にとってマーラーの9番はかんぺきな安眠の音楽です。
安斎利洋2008年06月03日 03:24
そうか、ほぼすべての音楽には「最後」というか「最期」があり、すべての音楽は終わる悲しさをもっている。
マーラーの9番くらい、「終わる」ということについてナイーブな音楽はないかもしれませんね。

安らかな眠りを>チクリンさん
SOYA2008年06月03日 03:41
悲しみを上手に表現している音楽っていうのはありますな。
ウマい作曲家や演奏家の手にかかると、悲しみや絶望も、美しいので聴いてて楽しくなります。
不快さや雑っぽいのは、悲しみの表現には大きなマイナスって気がします。
心地よい悲しみ。心地よい絶望。
私も悲しみを表現する時、美しく歌い上げるように描こうと思っておりやす。
あんまりそういう機会はないけど。。。
安斎利洋2008年06月03日 03:59
雑っぽい悲しみ、ってのは笑えます。

悲しい音楽の悲しさは、たしかに快い悲しさです。悲しい心の表現として音楽があるわけじゃなくて、音楽の悲しさが、形のない感情に悲しさを与える喜び、というとアリストテレスのカタルシス論ですが、その通りなんだと思う。だから「音楽の悲しさ」は、「日常の悲しさ」の子ではなく、親なんだと思います。

それを認めたうえで、やはり謎なのは、なんである音楽の集合だけが悲しいという感情の形を与えるのか。詩や劇が悲劇を表現するのは、言葉で構成されている以上、わかりやすい。悲しいことの原因を説明するだけで、悲劇的ですから。

でも、音楽って、たとえばロミオが死んじゃった、みたいな情報を乗せられませんよね(歌はさておき)。

人生の悲しい事態と、ある種の音楽が、なんで関係するのかは、やはり謎です。
あ っ こ2008年06月03日 04:04
ハンガリーの作曲家(レジェー・セレシュ)が1933年にかいた曲「暗い日曜日」は実際に世界中で100人以上の人間を自殺させた音楽として有名になってしまった。
しかし未だに説明がついていないところがたくさんあるのも事実で、一種の都市伝説ともそういう時代だったとも諸説あるみたい。
その後日本を初め世界でカバーされたけどあのときのような事態はおきていないようです。

その当時自殺した人々は住まいもブタペシュト、ニューヨーク、イギリスなどとことなり、曲が発表されてこの事件が起きるまでだれも自殺ソングだなんて前知識もなかったわけだからそのつもりで聞いたりしていないはずで(ただ歌詞があまりに悲痛だけど)そのてんが興味深いとおもうところ・・・・

ともあれ当時各国の放送局が放送禁止楽曲に指定したのにはこの曲に対する共通の恐怖があったからじゃないのだろうかと思う。
BBCは現在にいたってもまだ放送禁止楽曲の指定解除をしていない。

・・と変なことを思いだしてしまいました。

それとは別に人は悲しいことは直ぐに忘れよう(早く治癒させようと生態がはたらく)としますが楽しいことはいつまでも覚えていたり(蓄積しても生きられる)します。
このことから「悲しみ」と「楽しさ」は身体の異なる器官が司っているのではないかしら?と思うことがあります。

または人は「悲しみ」を無意識に回避する本能を持っているとすれば「楽しさ」よりもより複雑に表れる可能性がある・・・とすれば「悲しい音楽」があるのかという問にもどってしまう・・・ぅぅ
あおいきく2008年06月03日 10:15
そういえば帰省するたびに、町のスピーカーから流れる時報の曲を、子どもが耳を塞いで転げ回って嫌がります。悲しいような、怖いような気持ちになるからいやだそうな。ドボルザークの「家路」ですが。
その様子を見ると、いつも伊藤潤二の「サイレンの村」を思い出します。

ここにそのサイレンのコマの絵が↓
http://mitleid.cool.ne.jp/siren.htm
にしの2008年06月03日 12:35
泣けるジャグリング、というものをずっと模索しています。

笑わすのは多いのですが、悲しいジャグリングはほとんどありません。無理かも。。
安斎利洋2008年06月03日 14:23
あー、思い出した。子どものころ、怖い音楽がありました。曲は思い出せないけれど、怖さは覚えています。
黒板にチョークが軋む音で鳥肌がたつと同じで、あるいは、強い風の日は一日中怖かったのと同じで、なにか根源的に回避したい音に結びついた音楽が、あったような気がする。『家路』が怖いという感覚と、死別の悲しみは、同じだと思う。

「悲しい音楽」は、実は「悲しさを癒す音楽」で、「悲しさをもたらす音楽」は、すでに忘れているのかもしれませんね。

『暗い日曜日』は、ある仕事でダミアの歌を毎日聞かされていた時期があったけれど、誰も死ななかったな。歌詞を聴いてなかった、ってことかもしれないけど、音楽に根源的な怖れを感じる受容器を、閉じてしまっているのかもしれない。

>泣けるジャグリング

ペーソスのあるジャグリングは、パントマイムと組み合わせて、ありそうですね。
玉やバトンやらが観客に当たる「泣けるジャグリング」、という領域もありそうです。
安斎利洋2008年06月03日 18:33
耳をふさぎたくなる悲しい音楽の記憶、もしかすると『太陽がいっぱい』だったかもしれない。

サイレン、家路、太陽がいっぱい、、、
じゃい726live@XL22008年06月03日 23:36
>「悲しい音楽」は、実は「悲しさを癒す音楽」で、「悲しさをもたらす音楽」は、すでに忘れているのかもしれませんね。

私が体験した最大の悲しいことは肉親や友人の死ではなく仕事を遂行しなくてはならなかった大震災だった。

なぜかそのころ聴いていた音楽やそこでどんな音がしたのかが希薄になっている。

未だに夢に見たりするのだが、必ず音がない、サイレント。

さまざまな動き、口の動き、身振り、炎それは静寂の中にある。

もしかしたら、自分はその「悲しさ」を無意識に封印してしまったのかもしれない、いや、せねばならなかったのか。

でも、映像は悲しい限りにリアルで、そうでもないのか。。。

1995年に何を聴いたのか、
安斎利洋2008年06月04日 00:35
言語的に構造化するより前の音楽の中には、恐ろしいトラウマが含まれているのかもしれません。幼児期にはそういう音に包まれていて、だんだんそれを整った音楽で封印していく。

音楽にさらされ続けた大人は、封印された音を弓でこすりだして、悲しい音楽を聴いているのかもしれません。
安斎利洋2008年06月04日 00:43
↑いいかげんな仮説ですが。
TOSHI2008年06月05日 06:21
植物にモーツアルトを聴かせると元気になり、パンクロックかなにかを聴かせるとしおれてしまう、といった研究報告がなかったっけ?
空気振動が細胞液振動につながっている?
たぶん、僕らは音楽を細胞レベルで観賞しているんじゃないかな?
安斎利洋2008年06月05日 15:11
モーツアルトの話は、どこかでベートーベンでも同じだし、風を送っても同じだった、という実験を見た記憶がある。それは、たんに外部からの振動が、植物内の物質の移動を早めるって結論だったけれど、ロックで枯れた、って話が本当なら面白いね。

もし、振動パターンによって、物質の移動が違うとすれば、それは、心臓の鼓動の速度や、息の速度が、音楽のパターンと関係するのとどう違うのか、という議論になるね。つまり、植物は音楽を聞き分けている、といえる。

それを感情と呼ぶかどうかは、昆虫に意識はあるのか、と同じ問題かもしれない。
マイルス2008年06月06日 20:04
安斎さん:
> 刷り込みっていうのは、聴き手の中に期待の軌道を立ち上げることですね。だから、
> ツボを作って泣かせることもできる。
> 聴き手に、もしそういう軌道の記憶がなかったら、悲しい音楽はなくなるのだろうか。
> それとも、簡単にその軌道をブートストラップできるような、
> 生得的な軌道の痕跡みたいなものがあるのか。
> そこが知りたい、のかな。

常に最近読了した本↓に感化されやすい性格なので済みません.
http://item.rakuten.co.jp/book/3643739/

すでにお読みかも知れませんが,
音楽という行為は「是認の身振りのゲーム」と「音を持続・反復させるゲーム」と「美のブラックボックスのゲーム」と「変更のゲーム」から成っていて,
音楽の美は,これら言語ゲームの効果として説明できると言っています.
「悲しみ」も同様に扱えるのではないかと思います.
音楽はゲームであるという主張からは,生得的な軌道の痕跡は無い
という結論が導きだせそうですが,
そもそもゲームを遂行するだけの音認知能力とか発声能力とか発音能力は
生得的に備わっていないといけませんね.
安斎利洋2008年06月07日 01:55
マイルスさん、この本は知りませんでした。ぴったりですね、この話題に。

『哲学探究』だったと思いますが、子どものある状態を見て大人が「痛い」という語を教える。すると子どもは、自分自身の事例から「痛い」という事態を学ぶ、というような部分がありました。「痛い」を「悲しい」に、「語」を「音楽」に置き換えても、いいんじゃないでしょうか。

実生活の「悲しみ」は私的な感情のようだけれど、「悲しみ」は「悲しい音楽」や「悲しい話」を介して生まれるもので、言語ゲームが回っていないと「悲しい」も「音楽」もなくなってしまう、ということなんでしょう。すると、無人島で生まれた孤児が、あるとき音楽を聴いたらどうなるかみたいな実験、誰かやらないかな、なんて思っちゃいます。

しかしやはり、マイルスさんと同じところを回ってしまいますが、どこかにゲームでない根拠とか、生まれる前から鳴っている音楽とかがあるのだろうかという思いは、捨て切れません。
マイルス2008年06月07日 09:29
> 実生活の「悲しみ」は私的な感情のようだけれど、「悲しみ」は「悲しい音楽」や「悲しい話」を介して生まれるもので、言語ゲームが回っていないと「悲しい」も「音楽」もなくなってしまう、ということなんでしょう。すると、無人島で生まれた孤児が、あるとき音楽を聴いたらどうなるかみたいな実験、誰かやらないかな、なんて思っちゃいます。

その実験,興味ありますね.
僕は音楽が音楽に聴こえない方に 100 カノッサかなぁ.

例えば,増4の和音が,今我々が聴く増4の和音として聴かれるようになったのは
18世紀とかそこら辺あたり以降らしいです.
紀元前の人々に増4の和音を聴かせても,ふーんとか言うだけじゃないかなぁ.
それは,「悲しい」とか「崇高な」とかいうレベルより低位の認識ですけれど
低位の知覚が異なっていたら上位の認識も異なってくるように感じます.

> しかしやはり、マイルスさんと同じところを回ってしまいますが、どこかにゲームでない根拠とか、生まれる前から鳴っている音楽とかがあるのだろうかという思いは、捨て切れません。

その問いは「音楽」の定義にもかかわってくるかも知れませんが,
その問いをヴィトゲンシュタインが聞いたら「全部ゲームです」って答えるのかなぁ.
安斎利洋2008年06月07日 14:39
>僕は音楽が音楽に聴こえない方に 100 カノッサかなぁ.

同じ方に100カノッサ、じゃ賭けになりませんね。

「痛み」は、学習する前に生理的苦痛がもやもやとありますが、音楽は音響の上位に立ち上がってくるものだから、見えない裸眼立体視みたいな状態になるんじゃないでしょうか。

ただ、鳥や虫の出す組織された音響が、孤島の孤児になにかを育てちゃっている可能性はありますね。単音や単和音、あるいは和音ふたつの進行くらいになると、自然の音響との類推で、好き嫌いがあるかもしれない。そのあたりが、音楽以前の「音楽の根拠」ということなのか。

ウィトゲンシュタインは死ぬ間際に色彩について考えていて、「全員色盲の部族に、色盲はない」みたいな、言語ゲームやアスペクトのことを書いてますね。しかし、色のロジックは自然的生理的な制約に接地しているので、そのあたりどう考えていたのか、ちゃんと読み返してみます。
にしの2008年06月07日 16:48
>>僕は音楽が音楽に聴こえない方に 100 カノッサかぁ.
>同じ方に100カノッサ、じゃ賭けになりませんね。

音楽という言葉が通じない、に200カノッサ。


便意とその制御をはじめとして、身体にごく近い感覚・感情も社会的に作られるものかなと感じてます。
「悲しい」は共有できないけれど、悲しい場は共有でき、それをどう感じるかは別としてゲームとしての「悲しい」を理解したうえで、もういちどそのときの身体反応を覚える。これによって再生可能な悲しさを理解するのではないかと。

だれかが生得的に「悲しい」と思う音楽はあると思います。
別の人もおなじ身体反応をすると思います。でもその反応を「悲しい」と思わない可能性も高い。恋の吊り橋理論でドキドキ感を恋愛のドキドキ感と勘違いしてしまうのと根が同じじゃないでしょうか。
にしの2008年06月07日 17:55
言葉が足りませんでしたが、
低位の知覚が人によって異なっていても、上位の認識が一致することはあるかなと思うということです。というか、それが言語ゲームですね。
安斎利洋2008年06月08日 01:22
>低位の知覚が人によって異なっていても、上位の認識が一致することはあるかなと思うということです。というか、それが言語ゲームですね。

ひとそれぞればらばらの制約から始まっても、言語ゲームに巻き込まれていくうちに、共通の「悲しい表現」の領域が作られてきて、「悲しい表現」が「悲しい気持ち」を作る回路ができる、というような、これはオートポイエーシスですね。

子どもが店で「買ってくんなきゃやーだ」とごねるのを今日見ましたが、あのあたりから悲しみゲームは始まるんでしょう。だんだん「悲しみは私的である」というのは幻想だという気がしてきました。

葬式のときに来るプロの泣き女は、音楽家と同じ機能をもった職業じゃないか。われわれは、悲しみ方に対価を払って購入していることになります。

排泄が言語ゲームである、ってのは独創的ですね。

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