昔、心根のあつい友人がいて、先に電車から降りると、姿が見えなくなるまでホームで見送ってくれた。まるで女の恋人のようだけれど、女でも恋人でもなかった。
人間は放っておくと、どんどん相手に優しくなり、しまいには暴力的なまでに優しくなる。その点「人でなし」は、優しくしない優しさがある。連画のアイカタはきわめて「人でなし」だから、彼女が先に電車から降りて、電車が発車するまで姿をとどめたのを見たことはない。「しかと」が基調になると、実に心地よい。2ちゃんねるが流行ったのは、「しかと」が環境だからじゃないかと思う。
小学生がメール中毒になるのは、「しかと」されない・しないためだ、という調査が出てきた。3分以内に即レスしないと、「しかと」とみなされる。最後のメールに自分が返信しないと「しかと」していることになるから、誰も最後のメールを放っておくことができない。
これは贈与論的な問題で、ポトラッチが起こっている。正確に言うなら、起こりはじめている。繰り返し行われるポトラッチは持続可能なレベルを見つけているけれど、始まったばかりの贈与回路は不安定で、破綻するかもしれない。
子どものやることだけじゃなく、mixiのお作法も基本的にポトラッチだ。足あとやら、コメントやら、コメントのターミネイトやら、小学生のメール問題とまったく同じことが起こる。
こういうのは人間の生まれつきの習性じゃなく、構造の問題なのだ、と教えてくれたのはレヴィ=ストロースだ。つまり、人間関係はメディアの構造が作るということだ。だから、この正帰還を安定させるのは、メディアを作る技術の役割だと思う。そういう工夫を、子どもからケータイをとりあげる前にするべきなのだ。
携帯電話会社の研究開発部門は、ここに眼をつけなくちゃ、というメッセージでした。