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駄洒落としての医療全体に公開
2008年05月09日01:59
太鼓の皮のように腹が張る「水腫」に苦しむ父親に、医師が薬を処方する。家族は父親のために遠方の薬屋まで、太鼓の皮を破って作ったその薬を買い求めにでかける。

この話をどこかで読んだ記憶があって、気になってググってみたら、太宰治の『惜別』だ。青空文庫に、全文がある。この非科学的な医療への憤りが、若き魯迅を医学へかきたてた、というエピソード。

太鼓のようだから、太鼓の皮を破って薬にする、という医療は、効き目はなさそうだが駄洒落ではある。シニフィエではないがシニフィアンではある、という言い方もできる。科学的ではないが、認知的ではある。

これと同型の「秘薬」はほかの文化圏にもあるようで、たいてい手に入れにくい薬を、身内が何日もかけて手に入れるというような構造をもっている。

何日もかかるから、いたわりが形になり、癒される時間が流れる。魯迅の父親の病は治らなかったが、プラシーボ(偽薬)が効く病には効果がある。決定的に機能が壊れていない心身症的な病には効果があり、しかも多くの病気はある部分で心身症の回路に繋がっている。

シニフィアンの裾野に広がる病は、広大だ。最近、母親を通して老人の話をきくにつけ、病の多くがその裾野にあるように思えてならない。自分の病を観察することが病を作るような、プラシーボでも治る病がどんどん実体化していくような、そういうまずい回路がはびこっているように見える。メタボとか悪玉コレステロールとか血液さらさらの影で、病気が豊かな物語と接続できないからだと思う。

コメント

Mike2008年05月09日 04:38
病は身体の異変、異常という「こと」ですが、それを直すのに、お払いや祈祷などの「こと」で対応するのと、薬といった「もの」で対処しようとするのと両方があるんでしょうね。
 どこかで、そのどちらかが効けばそれで良しとし、そうでなければ、あくまでもさらなるものを追い求め続ける。したがって、難しい病、治りにくい病ほど、より深い祈祷や「秘薬」を追い求めてゆく。
 実は最も効果的なのは、ちょっとしたストレスから解放されるとか、バランスの崩れを元に戻すだけだったりとかでしょうが、そういう風になかなかいかないんでしょうね。
 「病」とか「症状」と名前を付けたとたんに悪くなるということもありそうですし。

 私の知り合いで、咳やくしゃみが出ても、自分では花粉症だとは認めない、と言っている人がいますが、それも立派な態度だと思います。
中村理恵子2008年05月09日 09:44

では、

「痛いの痛いの飛んでけー。」は、妙薬ですね。
「ちちん、ぷいぷい、ぱ〜。」は?
これって家庭の常備薬レベルですが、
かつて馴染んだ町医者の、消毒薬のしみうついた手が小気味よくぽんぽんぽーん!と打診してくれて、「なんでもなーい。」って云われただけで一気治った経験もあります。

でもさ最近は、
こんな話もありますね。
「精密検査をしましょう、結果は2週間先です。」
と云われた人が、2週間後には、立派な病人もどきになるとも云われますもんな。



びすけっと2008年05月09日 09:49
この仕組みをうまく,高齢者医療費の削減につかえないかなぁ,と考えてて,いいアイデアが
浮かばないです.
安斎利洋2008年05月09日 10:40
>「病」とか「症状」と名前を付けたとたんに悪くなるということもありそうですし。

漠然とした不調は、なにかの病気に固定することで安心するんでしょう。病名があると、安心して苦しめるから。

>「痛いの痛いの飛んでけー。」は、妙薬ですね。

あれは、子どもの前で、飛んでいった人が痛がってみせるのがポイントですね。
一種の鏡みたいに、自分の痛みが映像と同じように映る、というか、移るんでしょう。

>この仕組みをうまく,高齢者医療費の削減につかえないかなぁ,

年寄が病院に集まるのは、医者が病気を生産しているからですね。たぶん、医者の診断は、誤診でもなんでもプラシーボ効果になっている。いったん医学の知識がひろまったあとで太鼓の皮を信じるのは不可能だから、医者が心理的な治療を意識的にやればいいんだと思います。
たんぎー2008年05月09日 10:41
サハリン・北海道の伝統文化では「秘薬」の話はあまり聞きません。代わりに「巫術」とか、いろいろ用意して神に祈る、とかです。「何日もかけて薬を取りに行く」という「修行」の文化と、「巫術」「儀式」の文化の差なんでしょうかね。
安斎利洋2008年05月09日 10:48
秘薬は、環境に野生のドラッグがあるかないかが影響しているのかもしれませんね。シャーマンの儀式は、脳内麻薬と関係がありそうだし。
僕の母は、子どものころ、シャーマンのもってきた御札を舐めると、いろいろな病気が治ったと言っています。墨で書かれていて、おそらくなんか混ぜてあったんじゃないか、と。
あおいきく2008年05月09日 10:59
昔は「かんの虫」とか名付けて、症状を虫型に固めて追い出すような風習もありましたね。今でいうデトックスのような?
(そういえば『蟲師』の作者の漆原友紀は、宮本常一ファンとか)

病気自慢をやや楽しそうにしているご年配を見るにつけ、これも治療の一つと思いたいですが、プラシーボで治るような症状に何種類も薬が出されているのは問題でしょうね。
うちの母もたいした症状でもないのに、こんなに薬を出されたと言って見せてくれましたけど(そして飲んでない)。
安斎利洋2008年05月09日 11:47
微生物が認識されていなかった時代に、病気の原因を寄生虫に求めるのは自然ですね。
つぎに、メタファーとしての「菌」がその役割をになっていったんでしょう。癌も、かつては「新生物」だった。いまは、病が対象としてイメージしにくい時代なので、「毒」が活躍するってことか。
対象が見えると、それを排除するイメージが、自律訓練法として機能するのかもしれません。もらって飲まない薬も、無意識のエリアで機能しているのかもしれない。
にしの2008年05月09日 17:33
>微生物が認識されていなかった時代に、病気の原因を

さらに、
多くの病が栄養不足によるものであったので、
見たまま足りないものを摂取するとよくなる、
というのは自然な治癒法だったはずです。

栄養学的な係り受けの構造知識があって、
太鼓の皮の駄洒落が、その先にあるのも自然な気がします。
あるいは皮のタンパクになにか(別の病気に)有用なものが、
ほんとにあったのかもしれないなぁなどと思ったり。

ひるがえって、
現在のデバッグ技術は太鼓の皮くらいの
魔法が闊歩しているように思えてなりません。
プログラミング技術も。
安斎利洋2008年05月09日 22:35
>栄養学的な係り受けの構造知識があって、

料理の組み合わせを、色で考えるなんてのもその構造なんでしょう。

>プログラミング技術も。

プログラムにも疫学的階層がありますね。文字や符合の間違いは虫って感じだけど、いろんな相互作用でタイミングが外れたり固まったり、みたいなのはデバッグっていうよりデトックスですね。
smi2008年05月10日 15:28
「病」や「痛み」が一個の閉じた身体のなかで完結しているものとして、これを治療するのが近代以降の医療なのでしょうが、
ウィルスの伝染のようなフィジカルな伝染から、精神病のような情報伝染性のものから、寝たきりの介護のような社会経済的な影響だとか。
個ががクローズして病んだり、痛んだりすることはないんじゃないんでしょうか?ウィルス感染患者を隔離するだけでも集団の病は癒え、境界型人格障害を持つ彼氏から彼女を切り離すことでDVという関係の病は治癒し、お百度を踏むことでも。
あるいは、統合失調症の人間が満員電車で次の駅で降りるだけでも。
崖に咲く一輪のエーデルワイスの花びらについた朝露をとってくるだけでも。
安斎利洋2008年05月10日 15:46
そうなんですよ。医療の思想は、近代的な個を写していて、だから「感染」や「遺伝」はそのモデルにぴったり合致しているんですね。

だけど心身症は、病が他者との共振の中で発生するモデルだから、痛みもまた相対化できるのが面白い。自分が痛いのか、他人の痛みを自分が負っているのか、わからなくなる。

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