太鼓の皮のように腹が張る「水腫」に苦しむ父親に、医師が薬を処方する。家族は父親のために遠方の薬屋まで、太鼓の皮を破って作ったその薬を買い求めにでかける。
この話をどこかで読んだ記憶があって、気になってググってみたら、太宰治の『惜別』だ。
青空文庫に、
全文がある。この非科学的な医療への憤りが、若き魯迅を医学へかきたてた、というエピソード。
太鼓のようだから、太鼓の皮を破って薬にする、という医療は、効き目はなさそうだが駄洒落ではある。シニフィエではないがシニフィアンではある、という言い方もできる。科学的ではないが、認知的ではある。
これと同型の「秘薬」はほかの文化圏にもあるようで、たいてい手に入れにくい薬を、身内が何日もかけて手に入れるというような構造をもっている。
何日もかかるから、いたわりが形になり、癒される時間が流れる。魯迅の父親の病は治らなかったが、プラシーボ(偽薬)が効く病には効果がある。決定的に機能が壊れていない心身症的な病には効果があり、しかも多くの病気はある部分で心身症の回路に繋がっている。
シニフィアンの裾野に広がる病は、広大だ。最近、母親を通して老人の話をきくにつけ、病の多くがその裾野にあるように思えてならない。自分の病を観察することが病を作るような、プラシーボでも治る病がどんどん実体化していくような、そういうまずい回路がはびこっているように見える。メタボとか悪玉コレステロールとか血液さらさらの影で、病気が豊かな物語と接続できないからだと思う。