安斎利洋の日記
2006年01月22日
13:20
Cマガジン
が休刊になるそうだ。昨年と今年は情報技術系の雑誌にとって、カタストロフになってしまった。良い雑誌がつぎつぎなくなるのは、オーラのある建物が壊されて更地になるような感じ。
著者がブログを書き、RSSリーダーをもった読者がそれぞれ編集者の役割を果たせば、雑誌の意味はどんどん希薄になる。しかも雑誌は印刷と販売の遅延があるので、どうしてもWeb上の情報に遅れをとる。
じゃあ、逆に雑誌にあってWebにないものって何なんだろうと考えると、やはりそれは編集の緊張感なんだろうな。
コメント
2006年01月22日
13:31
godzi2
たまに見ている雑誌社のサイトでこんなことが起きてます。
テレビのあり方について書かれたコラムに対して、読者が反発。巻き起こる批判コメントの嵐!
http://
nikkei
bp.jp/
style/
biz/to
pic/tv
_to_do
/
紙媒体であれば「しょうがねえなあ!」で済んでしまうことが、ネットだとこういう反応となって返ってくる。
おもしろい(恐ろしい?)ケースだと思いました。
2006年01月22日
13:39
安斎利洋
Webにあって雑誌にないもの: 著者と読者がいまここで対面している緊張感
雑誌にあってWebにないもの: 著者が未来と過去に向き合う緊張感
ということなんじゃないかな。ネットには濃密な現在しかない。
2006年01月22日
13:41
悠
> 雑誌にあってWebにないもの
雑誌は、本とWebの中間みたくなっていましたが、PDAがモバイルノートと携帯電話の間で居場所を見出せなかったように、雑誌もどんどん居場所が少なくなっていくのでしょうか?
でも、まだ、本はなくなる気配はありませんね。
2006年01月22日
14:02
Ken☆
>コラムに対して、読者が反発。
私は、コラムって賛否あっていいもんだと思うんですよね。むしろ無きゃいけないとすら思ってるくらい。書き手にとっても、自分の考えを出すための記事であって、単に事実を伝えるための記事じゃない。そもそも誰もがそうだよねって思える記事であったら、逆にコラムにする意味もなくなっちゃうし。書いた本人は反応を楽しんでると思いますけどね。
むしろ、ニュース媒体は事実を伝えるだけで、ジャーナリストの主観はいらないと考える読者が多いということの方が問題ですね。……って書くと、思いっきり叩かれそうだけど。やはりニュースキャスターも本来のキャスターではないし、新聞も記名記事はほとんどないし。ニュースに対する責任所在がはっきりしてないことの弊害で、メディアリテラシーに育っていかないことが原因でないかなぁと思う次第。
>雑誌にあってWebにないもの
>やはりそれは編集の緊張感
手軽だからといって安易にブログニュースを始められるようになってしまいましたからね。確かに雑誌と違ってコストもかかりませんけど、雑誌が発行部数と発行タイミングで読者が制限されるのに対し、WebはWorldWideで無期限に検索できるということが忘れられているような気がします。その分、Webに書いた内容については文責を持つべきだというのが、私のスタンスです。
2006年01月22日
14:12
安斎利洋
雑誌がPDAのようだとすると、W-ZERO3のようなニッチがあるかもね。
2006年01月22日
17:25
びすけっと
ネット上の一般人の意見は読んでいて面白いんだけど,
全部読むには時間がもったいないですね.編集というか
要約の技術が欲しいです.紙にはこだわらないけれど,
要約のサイトだったらお金を払うかもしれない.
要約を趣味にしている人もいるだろうから,その人の
アクティビティを共有する仕組みがあればよいのかも
しれません.
2006年01月22日
18:29
H.耕馬
>編集というか要約の技術が欲しいです.
事象の切り口というか、ある視点をもった要約が無いとね、読んでいても面白く無い。
逆に、あの人が要約(集約)した内容だから、という事で読まれるサイトも多いんじゃ無い?
そう言えば、日経ゼロワンも無くなりましたね。。。
2006年01月22日
20:20
安斎利洋
編集者の大きな仕事は、いまある情報をフィルタリングすることだけじゃなくて、いまない情報に対して著者を探して依頼して、あたらしい領域を作ることだと思うんだけれど、そういう優れた編集がネットの中から出てくるなら、紙にこだわることはないんですけどね。
2006年01月22日
21:14
Stone
編集工学研究所の松岡正剛さんにいわせると『このように、あれこれの情報が「われわれにとって必要な情報」になることを、ふつうは「知」といいます。情報をそのような「知」にしていくことが編集なのです。』ということで,フィルタリングではなく,一つ高い次元に情報を持ち上げるのが編集者に求められる仕事なんでしょうか.
#Cマガの定期購読を今年は更新しなかったら,こんなことに.
#だって,最近Winodws関係の記事ばかりで
2006年01月22日
21:25
N_apostrophe
WEBだと分散してしまうように思います。あっちこっち訪ねないといけない。コミュニティーにそこまでの集合力も無いし。どうでしょう?
2006年01月22日
21:45
びすけっと
もともとブログって,いろんなリンクを引用して,
コメントを書く,というのじゃなかったでしたっけ.
今度はメタブログですかね.
2006年01月22日
22:45
俳胚
マガジンだけではなくて、”webにあって?に無いもの?”
で検討すべき対象は多様です。
例えば、大学。
今、大前インタネット大学もはじまりました。
小生も昔、大学を卒業しました。
そこで、何を得たか?
あの退屈な授業?、友人?、その間の特権的自由時間?
ひょっとして、それはその学校のネームバリューだけ?
世間が学校の名前の価値を評価しなくなれば?
先生、教授は今どんな思いでいるのだろう?
2006年01月23日
01:17
安斎利洋
中心も権威もない分散した一冊の本があり、誰でもそこにページを加えることができる、という革命だったわけですよねWWWは。しかしどうやら、「知」は人や場所の中心がないと、大きな結晶に育たないんじゃないか。
Webマガジンは、どうして紙のマガジンのような磁場がないんだろう。なくなっていく雑誌のかわりになるような、編集の仕組って、できないんでしょうかね。
毎月ひとり、優れた才能をもった誰かが責任編集して、PDFをアウトプットにした雑誌を作るなんていうシリーズをやったら、どうなんだろう。
2006年01月23日
14:52
悠
> WEBだと分散してしまうように思います。あっちこっち訪ねないといけない。コミュニティーにそこまでの集合力も無いし。どうでしょう?
(正しいけど、冗談です。笑ってください。)
デリダの本は分散しているように思います。あっちこっち訪ねないといけない。ポストモダンに集合力は無いし。どうでしょう?
2006年01月23日
15:15
安斎利洋
生物のシステムって、開放と閉鎖のきわどいかけひきのなかで設計されていますよね。たぶんそういうところに、ポスト-ポスト-モダンの解があるんじゃないか。
たとえば、散在している優れたブログを編集する権威が現れる、というような発散と収束の運動が起きてくるんじゃないか、と。
2006年01月23日
17:28
悠
> 発散と収束の運動
面白いですねぇ〜!
でも、それって、もろにポストモダンの発想だと思います。
ポスト−ポストモダンは
・ロボットが何でもやってくれるようになって、人間のやることがなくなったとき
・バイオ技術が発達し、死というものがなくなったとき
片方もしくは両方達成したとき、生まれてくると思います。
そうなると、人間、人生の目的と存在理由と方向性を失い、何のために生きているか、本当に分からなくなります。特に、死がなくなると、辛いと思います。自我が拡散し、波となりそう。
でも、まだ、そんな時代を議論するのは、早すぎると同時に思います……
2006年01月23日
22:26
安斎利洋
生命科学が死を乗り超える前に、神経接続で人間の個の融解が起こり、個体の死はどうでもいい問題になるという筋書きじゃないかな。するとそれは、数十年後かもしれない。
2006年01月25日
07:32
N_apostrophe
知の接続もいまのところ結構面倒。マスカットで会った興味深いモロッコの文化学の友人が送ってくれた彼の一文を簡単には読めません。アラビア語だからです。
それに系統の違う知が一人の頭脳に同居したら、これ以上アンビバレンツになったら、どうしよう。
2006年01月25日
16:13
安斎利洋
これ、面白いビジョンですね。毎日スパムメールのように、違う文化や習慣や思想が神経接続で飛び込んでくる。
もし確実に戻ってこられるなら、いろんな思想に一時的に侵される体験をしてみたい気もしますが。
2006年01月29日
16:54
N_apostrophe
>毎日スパムメールのように
学年末で学生が提出したレポートを読んではコメントを書いていると(こんなことは滅多にしないのですが)彼・彼女の文脈に入っては出てくるうちに、だんだんこっちがわからなくなる。
「確実に」は戻れないのでは。
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