実家の近くにある、とある私有地の路地を久しぶりに見て、はっと思い当たったのは「アフォーダンス」という用語に感じていた違和感のわけだ。
自由な人間はどこにでも行くことができる。自分が移動可能な地図上の位置に赤い印をつけると、それは蟻の行列のような線になり、線はどの街にも通じている。しかし一方、赤い印のない地面に、僕らは立つことすらできない。
かつてその路地は、こどもにとって特権的な蟻の道だった。これから先、僕がそこに踏み込むことはまずないだろう。入り口の閉じた、途絶した蟻の道。
環境は行為をアフォードする、というメッセージは、あまりに選択肢の多い複雑性を縮減することによって行動が可能になる、というルーマンの肯定的な論理と同様、いわば感謝がこめられている。しかし僕の頭の中ではむしろ、身体は環境に「調教」されているという語彙のほうがしっくりくる。