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アフォード全体に公開
2008年04月11日03:53
実家の近くにある、とある私有地の路地を久しぶりに見て、はっと思い当たったのは「アフォーダンス」という用語に感じていた違和感のわけだ。

自由な人間はどこにでも行くことができる。自分が移動可能な地図上の位置に赤い印をつけると、それは蟻の行列のような線になり、線はどの街にも通じている。しかし一方、赤い印のない地面に、僕らは立つことすらできない。

かつてその路地は、こどもにとって特権的な蟻の道だった。これから先、僕がそこに踏み込むことはまずないだろう。入り口の閉じた、途絶した蟻の道。

環境は行為をアフォードする、というメッセージは、あまりに選択肢の多い複雑性を縮減することによって行動が可能になる、というルーマンの肯定的な論理と同様、いわば感謝がこめられている。しかし僕の頭の中ではむしろ、身体は環境に「調教」されているという語彙のほうがしっくりくる。

コメント

中村理恵子2008年04月11日 10:34
>身体は環境に「調教」されている

それでね馴らされるでしょ。→しかしいくつかのトンマで果敢な個体は、環境に飽きてある日、日ごろ口にしない筍を食べる。→一瞬胃袋が異常な興奮を示す。→おもわず目の前の同じ行動した個体の様子をみる。→目目→何頭かはもう二度と筍を口にせず、数頭はその後も春ごとに筍の新芽を決死の覚悟で食べる。→そのうち、パンダになる?。
(あ、パンダは、筍食べないか・・・・笑、いずれにしてもそこに飛躍というか、進化というかが起こるかな。)
そしてまたその慣れた馴らされた環境にも飽きて・・・・(安斎さんの日記とは、つい関係ない話題になってしまいました。)
Mike2008年04月11日 11:08
確かに。アフォーダンスの元は、アフォード(余裕がある・手に入れることができる)ですからね(笑い)。真逆のようにも思います。
 「無理矢理そこに行かされた/誘導されてしまった」って感じでしょうか。
「調教された」も良いかもしれないけど、
environmental seduction とか、psychological abduction が適切でしょうか。
安斎利洋2008年04月11日 12:35
>psychological abduction

これはすごく面白いですね。「拉致」といっしょに、推論の「アブダクション」がだぶります。パースは、あたらしい発見はすべてアブダクションによると言ってます。
つまり、拉致は、アブダクションなんですね。
つまり、調教=アフォーダンス か! 大発見だ。
安斎利洋2008年04月11日 12:39
>そのうち、パンダになる?

もし人間動物園を調教する神様がいるとしたら、いちばん手ごわい相手だと思うよ、その筍パンダ族。
miyako/玉簾2008年04月11日 17:16
>自由な人間はどこにでも行くことができる
20代真っ盛りの頃、西表で一ヶ月サバイバルキャンプしていました。
人が誰もいない場所でしたから、思考がどんどん野生化して、鉄条網があると『誰がこんな意地悪をするんだろう。地面はみんなのものなのに。』と、鉄条網をどんどん越えて、鉈で道を切り開き、海までの近道を作りました。
調教にagainstするとcrazyにカテゴライズされますね。国が違えば撃たれるところ。人の手が入っていない薮の中は素晴らしい植物の世界でしたけど。
安斎利洋2008年04月11日 17:58
>鉄条網をどんどん越えて

いまから思うと、(僕も30歳になる前ですが)命を晒すようなことをやっていた記憶があります。
大それたことをしているつもりはないんだけれど、「この違法は合法」と、勝手に思う回路がある。

タミフルや、ある種の抗うつ剤を飲んで、車道に飛び出したり屋上から飛んだりするニュースを聞くけれど、あれは狂気が降ってくるっていうより、調教が外れる感覚だと思うんだよね。
アフォーダンスの考え方からすると、あたらしい感覚は得るものだけれど、逆に身体に杭のようにささった何かを外していくってのもあるよね。
miyako/玉簾2008年04月12日 01:20
>あれは狂気が降ってくるっていうより、調教が外れる感覚
そうかも知れませんね。普段から調教を認識しているかそうでないか、または調教を外した感覚と調教内に居るときの感覚の折り合いについて準備がないと(あっても)やっぱり危険ですねえ。

>逆に身体に杭のようにささった何かを外していく
そうですね。「アフォーダンス」が始まりではなく「アフォーダンス」の前に すでに大きな”control”の気配を感じるような気がします。
寝太郎2008年04月14日 02:34
ここ又面白いやり取りが続いている。


我々は環境にアブダクションされていることを意識下に上げることによって新たなアブダクションを生むことの可能性を開く。アブダクトされる前の「複数選択肢」を眺めやることで、「豊かさ」に浸り、別の(日常化または潜在意識化していない)選択肢に迷い込む(アブダクトされる)こと。ここに発見がある(パンダになる?)。無意識というのは調教されたものの契約書(コントラクト)の別称かもしれないという気がしますね。

最近無意識って結構便利なものだ、と、考え直しています。というか、意識を原アフォーダンスに引き戻して(曝されて)別の選択肢にアブダクトされることで「記憶⇔忘却」のダイナミズムに再び蓋をし、無意識に格下げしておく、という手(これって将にphenomenological reductionじゃん)。まるで息していることの豊かさを再意識化していることのよう。

パウル・ツェランのいう"breath turn"もここに関わっているような気もする。
安斎利洋2008年04月14日 04:19
芸術は呼吸法である、というのは、いろんな意味で、それこそ歌の歌いかたや、筆を使うときの息のしかた、見ることと描くこと、力むことと脱力すること、吐き捨てることと感じることなど、多義的にあてはまりますね。

パースがアブダクションという言葉を選んだときに、この相反する運動を射程に入れていたのだとすると、すごいことです。思考の過程は、アブダクションの向かい合う作用に挟まれて、カオス的な振動を始めるように仕組まれていることになる。感覚のゼロ度まで降りていこうとすれば、おのずから息が開始される。

暗黙知というのも、きっと息の技法なんでしょう。

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