という話題が某所にあったので‥‥
僕は、本に線を引かない。本を読む行為は、自分を書き換える行為だから、読んでいるうちに大事な場所が変わってくる。長い年月がたてば、なおさら昔引いた線が見当はずれで、おバカそうに見える。一度線が引かれると、引かれていない部分はマスクされる。繰り返し読むに耐える一貫した自分なんて、どこにもいない、というわけだ。
ちょっと関連した話で、世の中には哲学者と、哲学学者と、哲学者学者がいる、ということを言う人(鈴木健さんだったか?)がいた。説明を要さないくらい的確なメッセージだけれど、あえて説明を加えるなら、哲学学と哲学者学とは一貫性への関心だ。それに対して、もし哲学を作る人であるなら、他人の哲学の一貫性などに関心をもたないはずだ。
哲学者にとって、既存の哲学は断片でいいのだ。というより断片じゃなくてはならない。これは、芸術家にとって〜と言い換えることもできるし、庭師にとって〜と言い換えることもできる。どんな仕事にも、これはあてはまる。それは、知りえないものを作るための要件だからだ。
大学というゲームにかかると、たいていの人は*学学者や*学者学者になろうとする。会社や役人も同様。自分や他人の引いた傍線が、幅をきかせる世界だ。
とは言うものの、最近は自分の書き換わり性能が落ちたせいか、確かに読んだあの部分になかなか行き着けない。宗旨を変えて、本には
線を引いてみようかな。
----------追記 4/10
今日、とある喫茶店にて、店においてある絵本「ウォーリーを探せ」を開いてみると、究極のマーキングを発見。
ネタバレだ!