ここ数日テレビをつけると、「お馬鹿タレント」たちの出るクイズ番組ばっかり。馬鹿を流行らせてどうするんだ、
と言いながら、実は、つい見入ってしまった。お馬鹿の面白さは、笑い飛ばすにはあまりに奥が深い。彼らはウケを狙っているにもかかわらず、いわば手放しで自走する馬鹿がすばらしく、ときに神話的ですらある。
で、思い出したのがボルヘスの思い描いた、古代中国の動物分類法。
「動物は次のごとく分けられる。(a)皇帝に属するもの、(b)香の匂いを放つもの、(c)飼いならされたもの、(d)乳呑み豚、(e)人魚、(f)お話に出てくるもの、(g)放し飼いの犬、(h)この分類自体に含まれているもの、(i)気違いのように騒ぐもの、(j)算えきれぬもの、(k)賂蛇の毛のごく細の毛筆で描かれたもの、(l)その他、(m)いましがた壷をこわしたもの、(n)とおくから蝿のように見えるもの。」
フーコーの『言葉と物』は、16世紀の思考のフレームワーク(エピステーメー)を、この笑っちゃうような架空カテゴリーから語り始めているところが、実にかっこいい。
もうひとつ、ボルヘスの「古代中国の百科事典」を引いているのがレイコフの『認知意味論』。この硬い書名は日本語訳だけで、原書名は 『Women, Fire, and Dangerous Things』。よくあることだけれど、原題のほうがずっと魅力的だ。「女、火、そして危険なものたち」は、オーストラリア原住民のジンバル語にある、カテゴリー構造の一部だ。
こういう混乱した連想の鎖のきらめきを見ていると、僕らがいかに小賢しいロゴスのデフォルトに支配されているかがよくわかる。手放しのお馬鹿になることに比べたら、賢くなることなど、たいしたことじゃない。