安斎利洋の日記
2006年01月11日
02:19
補色の紅葉
二週間ぶりに街をぶらついた。普通に歩いているつもりなのに、後ろから歩く人に追い越される。自転車で坂を登るときも、2段くらいギアを軽くしている。CDや本を散漫に選んでいるだけでどんどん脳の電池が減ってきて、ふらふらしはじめる。たった二週間の病でこれだもんなぁ。でもこの無力感は、ちょっと面白い。
赤瀬川源平の「老人力」は読んでいないけれど、力がなくなったり機能が欠落していくことをネガティブに考えたら、人間なんて15歳でおしまいだ。
負の状態を分解すると、なにもないのではなくて、たとえばゲーテは影の中に豊かな補色の光を見た。
負のなかに虚数のような豊かな要素が出てくることもあって、藤原定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」がすごいのは、なにもなかりける空間に花やら紅葉の補色を配置する力だ。
花やら紅葉が溢れている状態にさらに何かを付け加えるのは、凡庸な才能でもできるけれど、文学者に限らず工学者でも政治家でも、何もないことを花や紅葉で考えることができる優れた才能をもった人はそんなに多くない。
正月に引っ張り出した村野四郎の詩集にも、補色の紅葉が満ちている。
塀のむこう
さよならあ と手を振り
すぐそこの塀の角を曲がって
彼は見えなくなったが
もう二度と帰ってくることはあるまい
塀のむこうに何があるか
どんな世界がはじまるのか
それを知っているものは誰もないだろう
言葉もなければ 要塞もなく
墓もない
ぞっとするような その他国の谷間から
這い上ってきたものなど誰もいない
地球はそこから
深あく虧けているのだ
(亡羊記より)
コメント
2006年01月11日
02:25
godzi2
2週間ぶり!?
大事にしてください!!
ゲーテの話(色彩論ですよね?)、昨年やった番組で取りあげたけど、おもしろかったです。
で、あれがカメラで再現出来るかどうか試してみたら、なんと出来てしまいました。
カメラを通しても、最終的に確認するのは私たち人間の目なので、やはり補色が見える。
ちょっと感動しました。
2006年01月11日
02:30
安斎利洋
その番組、見たいなー。
それにしても、godzi2さんいろんな番組作ってますね。
2006年01月11日
03:02
godzi2
今度見せます。
いろんなことやってるのは、そうしないとメシが食えないからです。さびしい!
2006年01月11日
03:15
H.耕馬
>花やら紅葉が溢れている状態にさらに何かを付け加えるのは、凡庸な才能でもできるけれど
花やら紅葉が溢れている状態に、何も付け加えられない僕っていったい。。。
2006年01月11日
10:25
ユミ
定家というのは歌とともに貴族文化が本質的にダメになるそのときに出てきた最高で最後の緻密な才能ですから、いきおいシニカルにならざるをえない。いやなヤツだったと言う通説もさもありなん、と思わせる人です。この定家の喪失感は彼の人生の基調低音と言えるくらい深いのではないかなぁ。。。
崩壊する文化のなかでその文化の純粋な結晶ともおもえるほど精巧に絢爛と咲き誇る花を思わせます。
その定家が新興勢力の武家の実朝に自分の後継の影をみていたというのも逆説的で皮肉でおもしろい。
私の好きなのはこの時代では「たまのをよ、、、」ですから、定家の技巧を尽くした絢爛たる世界とは相容れない。しかし、この式子内親王がお能の「定家葛」では定家の思い人となっているところが何とも不思議でおもしろいです。
この辺り、もう少し知りたいこといっぱいの世界です。
2006年01月11日
11:22
tekusuke
染みました。。
足りない時の方がむしろ感じやすく動きやすいような気がする、というくらい今はまだいろいろなものが満ちているんだな、ということに気がつきました。
2006年01月11日
13:37
安斎利洋
定家は、若いときに老境を詠むことのできる歌人ですから、花も紅葉もなかりけりは彼の抜き差しならぬ実生活から詠まれたわけではないでしょうね。三島由紀夫は、彼の小説の中にあらわれる多様な植物の名前を、現実世界の木や花と結び付けられなかったそうです。定家の想像力は、そういう種類のものなんでしょう。
でも、定家の書はいいですね。胸がすきます。
2006年01月11日
13:43
安斎利洋
tekusukeさん、
>足りない時の方がむしろ感じやすく動きやすい
なにもなければ「スイカもパラソルもなかりけり」と言い換える自由があるわけですね。その精神の自由度を、横溢する情報の悪魔に売り渡しているのかもしれません。
2006年01月11日
15:34
かつてあったはずのものや
まだここにみえぬものを
心で補いながら見るのですね。
そう心がけよう。
2006年01月12日
00:32
machiko
アートは足し算ではなく、引き算である、ということと、絡み合っているような話ですね。
2006年01月12日
00:51
安斎利洋
そうそう、この前の話ですね。
武満徹は『ライジング・サン』ではじめてハリウッド映画の音楽をつけたんですが、そのとき音を削っていく音楽の作り方を主張したら、監督は「そんなやり方は聞いたことがない」と言ったらしい。拡大再生産の市場原理にのっとったハリウッドがいちばん不得意とするのは、引き算ですね。
日本のアートも文学も、どんどん引き算が下手になっている。
2006年01月12日
04:22
Archaic
日本の昔からある生け花は引き算のアートですよね。
その枝の一番美しい線を出すためにどんどんいらないものを切り捨てる。葉も花もいいものだけにしてゆく。
補って見る目がそれを可能にしているのかな。
2006年01月12日
09:49
中村理恵子
でもね、引き算を演出してる「無印良品」みたいなものは、若者やそれこそヨーロッパ、アメリカで人気みたいですが、わたしは貧しい感じして、あまり好きじゃないんですよね(とはいえってもたまに買うけどね・笑)。
2006年01月12日
14:35
安斎利洋
>補って見る目
なにかがなくなったときに、貧しくなったと感じるか、補色の陰影のような豊かさを感じるかという差でしょうね。
デジタル系の表現はとくに、加算して豊かになっていこうとする傾向があって、引き算的な、あるいは虚数的な表現は無視されちゃう。そういう経験を何度も味わってきました。
ここらでひとつ、転調したいところです。
無印は、あれはニセモノが多いからなー。何を捨てたかというワザがないでしょ。はじめからないだけで。
安斎利洋mixi日記 一覧へ