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インドと多様性とルービックキューブ全体に公開
2008年02月12日02:39
 インドの計算法は、たとえば「4の倍数×25 という条件を満たすなら、はじめの項を4で割って100をかける」とか、「一の位を足すと10、十の位が同じ数になる二桁同士の掛け算は、、、(以下略)」のように、パターンによって異なる解法手順の集積だ。

 にしのさんによると、ルービックキューブを最短で解くのも、同じようにパターンごとに異なるメソッドを覚えることだという。究極である神の手は、3,684,565京もの町がある地図の、どの位置にいるかを言い当てることに等しい。この話を肴にして、ひさしぶりにたっぷりビールが旨かった。
「魔法と受容」 http://mixi.jp/view_diary.pl?id=711187187&owner_id=4077071

インドの算術も、かつては掛け算の九九を二桁で覚えていたらしい。今でも、19×19までは覚えるのだぞうだ。ユニバーサルなひとつの解法と逆で、これは記憶術を目指している。

 「インド人の頭の中」という本によると、インド的思考方法の基本にある「分類」は、論理的な階層をなさず、思いつきのように分類をどんどん増やしていくのだそうだ。たとえばたまたまABCDEという分類があれば、Aの下位にあるカテゴリーが現れてもFに割り当ててしまう。快楽を網羅した「カーマ・スートラ」もそういう分類の書だ。増築を重ねた温泉宿のように迷路になってしまっても、地図を覚えていれば機能するし、迷うこともない。地図がエレガントである必要はない。

 止まっている全体を見渡してから事態に対応するなら、簡潔なやり方が見つかる。しかし、システムの一部として動きながら、徐々にシステム全体が見えてくるような場合、あるいはシステムそのものの規則が変化しているような場合、より多くの実際的な解法を蓄積するのは、インド式だ。

 そもそも、物質がこれほど多様なのは、世界がインド式ってことか。

コメント

xeno2008年02月12日 03:49
インドの算術といえば、数学者ラマヌジャンを生み出した国でもありますね。

個人的な感覚ではインド的思考方法はそれほど奇異なことではなく、共感できる部分は多々あります(25を掛けるとき4で割って100倍するのは普通にやっています)。

smi2008年02月12日 06:57
ちょうどラマヌジャンのことを考えていました。
彼は、あたらしい定理の証明を前の晩に見た夢のなかで女神が教えてくれているといっていたとか。
通常の数学の証明が逐次処理的な1つ1つ論理を積み重ねていくとすれば、ラマヌジャンの夢はなにか並列処理的なものが行われていたのかなぁとそんなことをぼんやりとですが。
世界を観ることが時間の流れのなかの一瞬ごとの無限に存在する同時多発的な事象の大河に身を浸すようなことだとすればですが。
MATANGO2008年02月12日 09:56
なにかに似てる...とおもったら、さっき内田樹先生のブログで読んだ「合気道的身体論」に似てるような気がしました...。
http://blog.tatsuru.com/

ある解法なり分類法なりをあらかじめつくって(主体を確立して)、そこに相手をあてはめていく...てなことをやると身動きがとれなくなってしまう...。

相手にあわせて自分がどんどん変わっていく...こうすると動けるらしく...。
noriko2008年02月12日 10:20
”「インドの虎、世界を変える」超国籍企業ウィプロの挑戦”と言う本を読んでます。
副題”「インドが日本を越える日」が見えてきた”
・・・インドの底力をひしひしと。
中村理恵子2008年02月12日 13:52
[・・]
ikeg2008年02月12日 14:46
でもこれって組み合わせ的複雑さ、あるいは「大きな表に起因する複雑さ」であって、進化や生命のもつ「生成的複雑さ」とはちがって、死んだ匂いがするんだけど、どうですか。
安斎利洋2008年02月12日 16:01
ルービックキューブの解法を、掛け算九九の記憶術に帰するのは、確かに死の匂いがしますね。書き方が粗かったんで補足すると、、、

ルービックキューブの簡潔な解法は、ある初期状態をなるべく早く太い軌道に乗せて、あとは自動的に解決までもっていくというやりかたです。しかし最短距離で解決する方法は、毛細血管のような無数の軌道から、初期状態と同型を見つけるという作業になる。

ここで、毛細血管をどのレゾリューションで覚えておくかというトレードオフがあって、それがルービックキューブの「技」の優劣になるらしい。ここで、いろいろなパターン辞書のありかたが出てきて、流儀のようになっています。それは、ちょっと音楽史におけるスタイルを思わせる。ここはなにか、生成的な匂いがする。

算術やルービックキューブはあらかじめ閉じた対象だけれど、たとえば算術にあるときクワスが加わったり、ルービックキューブに隠れた4層目が見つかったりしたとき、簡潔な解法はそこで手詰まりになるが、インド式はなにかしら新しい解法を生成する糸口を残すんじゃないでしょうか。
ikeg2008年02月12日 16:24
しかしどうしたって軌道は数えられるし、本質的にはばかでかい表でしかない。人間がアホだから、みえてくるキューブの技とか音楽史スタイルは、僕個人はしょうもないと思いますが。  なんらかの形でオープンネスを埋め込むことで、大きな表という複雑さを超える、というのがカンブリアンだったんじゃねぇの、お兄さん! 
安斎利洋2008年02月12日 17:50
たとえば俳句も有限な軌道からひとつを選ぶことに変わりないけれど、ゴールは俳句の中で動いていくから、時間が発生する、ということですよね。

するとインド式は、人間の有限のキャパシティをどう生きるかって問題に過ぎなくなっちゃうんだけれど。それだけなのかなあ。
ikeg2008年02月12日 18:14
これって言語の多様性=人の知性 vs. 自然界の多様性、みたいになってますね。インドの自然科学はひろく言語学の一部と位置づけられているらしいから、われわれに親しみのある西洋科学とは異なってますね。
  この2つの世界のインターフェイスにはりついたインド式が大事なんじゃないでしょうか。
satokon2008年02月12日 20:08
安斎さん、こんにちは
ちょうど、まさに増築を重ねた温泉宿のような国にきて、途方にくれていたところでした。
むりくり全体を鳥瞰しようとするのが所詮、無理なんですねー
ちょっとスッキリしました!
にしの2008年02月12日 22:42
あっと、ちょうど2つの世界で同時に同じ話が進んでいます。メタ。

>この2つの世界のインターフェイスにはりついたインド式が大事なんじゃないでしょうか。
 まさしく、こういうことです。デカルトに挑戦状を叩きつけたいのではなくて、真面目に彼のもとからとぼとぼ歩いて行ったらインドに着いちゃった、アレレという感じです。そして来た道を振り返ってみている、と。
ikeg2008年02月12日 22:50
ですね、にしのさん。embodimentはだから大事なんだと思うんだけど。ルービックキューブも手でがちゃがちゃするじゃない?あれが大事なんですよ。あの代わりにキィーボードたたいたりしちゃ分からない。
安斎利洋2008年02月13日 10:27
>インドの自然科学はひろく言語学の一部と位置づけられているらしいから、

そうなんですか。漢方の医学も、漢方でしかあらわれてこない病気がシニフィエとして立ち上がるのが、言語学的ですね。しかも、西洋の医学とは違う改善のしかたがある。詩や神話のわかり方をする科学が、役に立つ、みたいな感じか。

>satokonさん

きみら二人が、インドに移り住むとは思ってもなかったけれど、思えば昔から決まっていたような気もします。温泉宿で迷いまくってください。

>内田樹先生のブログで読んだ「合気道的身体論」

MATANGOさん、これってどのエントリー?
にしの2008年02月13日 12:15
>詩や神話のわかり方をする科学が、役に立つ、みたいな感じか。
あ、これこれ、これです。

>むりくり全体を鳥瞰しようとするのが所詮、無理なんですねー
部分の迷宮を手中におさめ、そこだけは自由に走り回ることができればいいのだ、
(それも自己満足じゃなくてホントの意味で)
という印のなかの蛙を推奨したいのが根本にあります。

カユイところを徐々に掻いてもらってきて快感です。
安斎利洋2008年02月13日 20:30
>印のなかの蛙を推奨したいのが根本にあります。

にしのさんの側からすると、井の中へ入っていくことになるんでしょうね。
アートや文学は、もともとひとつの特異な軌道を提示して、そこに無限を込める技ですから、僕からすると逆に、ルービックキューブのパターン表のような、軌道のセットを提示することに新しさを感じます。たとえて言うと「後期ロマン派」をひとつの作品として示すような。
smi2008年02月14日 09:20
ゲーム開発の現場では、マシンの性能向上から必然的にパターンテーブルが<<人間があほであるがゆえに全体を把握しきれないばかでかい表>>
という壁に今ぶつかっているところです。
(つまり、これまではスクリプターと呼ばれる専門の人間がマニュアルで打ち込んでいた?)
この問題を解決するワザをアメリカのゲーム・メーカーは大学の人工知能?研究者のお知恵を拝借して日本よりも一歩リードしているみたいです。
現場では今いちばん熱いテーマかもしれない。
安斎利洋2008年02月14日 13:24
ikegさんの言う「死んだ匂い」がはっきりあらわれた話ですね。
いまのTVゲームは、どんなに複雑でも小説の閉じかたと同じで、かならず飽きる。小説のopennessは、作品というゲームではなくて、ジャンルというメタゲームの中にあるわけで、ゲームも、ゲームの中(あるいは外)にメタゲームが生まれるようでないと、いつか飽きる「大きな表」になってしまうでしょう。
ikeg2008年02月14日 14:49
なるほど > smi さん。 とすると ストーリーをブートストラップする何か秘密メカニズムがまだあるかもしれないですね。

しかしやっぱり人間というopennessを使うしかないですね。
smi2008年02月14日 22:56
>ikegさんの言う「死んだ匂い」がはっきりあらわれた話ですね。
「死んだ匂い」のわかりやすい例が現状のゲームだというのは、悲しい現実ですが、閉じた井戸の底のような環境を骨までしゃぶりつくそうというのがゲーム開発のスタイルですからしょうがない。
また、飽きられるというのもパッケージ売りというビジネスモデルである限り、つぎのタイトルが売れるためには適当に寿命があったほうがいいわけで、むしろ、その寿命をどこまでコントロールできるかの方に関心があったりする(わたしはありませんけど)。
>しかしやっぱり人間というopennessを使うしかないですね。
これは、多人数参加型のネットワークゲームのようなものでしょうか?
空き地を提供して、あとは好きに遊んでもらうような。
セカンドライフとかソニーはリトルビッグプラネットというゲームを発表していますね。http://www.jp.playstation.com/scej/title/lbp/

と、これを仕事帰りの山手線のなかでE-Mobileでコメントするのが楽しかったり。
安斎利洋2008年02月26日 12:09
ikegさんの「ルービックキューブとか」
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=726750635&owner_id=8364

眺望がひらけてきた。

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