ランダムドットの裸眼立体視は、ふとコツをつかむと立体があらわれてくる。
ふとコツを逃すと、平面画像に戻ってしまう。そこに、行き来がある。
生きているというのは、まったくこの感じだ。
日々に喜びがあるのは、ランダムドットの中にハート型のくぼみが見えるようなもので、そこからふと離脱してしまうと、人間はみんな死んでしまうだけだよ、みたいな抑鬱平面しか見えなくなる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Mh_stereogramm_sis.png
クオリアにしてもアフォーダンスにしても音楽にしても<私>にしても、心に立ち現れる局所的対応物のない幽霊のような層は、立体視と同じような立ち上がり方と離脱の仕方がある。
立ち上がってくる立体への関心は、ずっと持ち続けているのだけれど、立体が見えなくなったときにあらわれる平面について考えることは、あまりない。しかし、この無意味な基準面にときどき落ちてしまうのも、キャリブレーションとして必要なのかも。