安斎利洋の日記全体に公開

2005年12月30日
20:19
 しんだらちょう
先日、久しぶりに母親と飯を食った。

「しんだらちょう」を探しててね、と、いつものように解読できない一行目から話が始まる。

死んだあとに身内に残すメッセージを残す日記帳の話が、新聞に書いてあったのだそうだ。

その「死んだら帖」を書きはじめようと思いたって、気にいったノートをデパートや書道具店で探しているのだけれど、和紙で、ちょうどよい罫線で、できれば中原淳一みたいなイラストが入っているものがなかなかみつからない。かれこれ半年も探している、のだそうだ。

勝手に長生きしてください。
 

コメント    

2005年12月30日
20:57
Bambook
安斎利洋さん どうもです。
私の両親も入退院を繰り返し「死んだら帖」に相当する物を書き記しているのですが、とても病人とは思えないほど元気です。

>勝手に長生きしてください。
私も本日似たようなことを思いました(^_^;)
2005年12月30日
21:55
小林千早都
死んだら帖の話、ちょっと前の読売新聞に載ってましたね。
死んだら、というのも大事なテーマだけど、
生きてる、っていう生存証明が私のmixiだったりして^^;
2005年12月30日
22:18
安斎利洋
>生存証明が私のmixi
老人むけの手書きのブログなんて、システムで売れないかな、なんて真剣に考えました。手書き伝言板形式の老人SNSとかね。

Bambookさん

「やれやれ長生きするよ」と思いますよね。でも、本当に少しでも長く生きてほしいと思います。ご両親お大事に。
2005年12月30日
22:28
ashino
なかなか注文が細いのですな。うちの母は体が不自由でとても自分で探せる状態ではないので、去年夏に頼まれて何冊か買って渡したけれどまだ書いていない様子。はっきり注文つけてくれた方が楽なのに。
2005年12月30日
22:40
安斎利洋
ashinoさんのところも!
これはひとつのブームなんでしょうか。
2005年12月30日
22:46
Fibonacci
勝手に長生きはきついですね。デジタル化しネットで参照するのは遺言とかその人の存在証明ですから、死んだら帳もデジタル化するのが一番ですね。子供としてはデジタル化してあげ、適切にネットに公開するのが一番の親孝行になると思います。遺言カンブリアンとか(最期の)一言カンブリアンもいいですね。まあ事によると、我々のカンブリアンでもあの投稿が最期の一葉になる可能性は常に秘めてる訳ですから。
2005年12月30日
22:53
Fibonacci
いい忘れてますが、安斎さんはやはり親孝行ですね。老人SNSとか結構いいですね。任天堂のDSのネットゲームが老人力燃焼には最適かもしれません。
2005年12月30日
23:33
安斎利洋
勝手に長生きしてくださいというのは、のんびりノート探ししている母への皮肉なんですが、死ぬことのリアリティについて以前マジメに聞いたことがあります。ふだん死ぬことばかり話題にするわりに、あまり死ぬ実感がないみたいです。母の母は、80歳くらいのときに死の覚悟ができて、95歳になったらまた死ぬのが怖くなったのだと言っていたそうです。死ぬのは簡単じゃないな、と思いました。

任天堂DS、ちょっと研究してみます。
2005年12月31日
01:16
godzi2
ちょっとスレ違いかも知れませんが。

この間ミクシイのフォトアルバム見てたら、「○○に捧ぐ」みたいな美しい写真があって、つい見てしまったわけです。
コメント読むと、どうやらその日に写真に映ってた彼女が亡くなったらしい。。。

urlがあったので、そちらも見てみると、友人たちが混乱しながら「ウソ?」「本当!」的なコメントを送りっこしている。

原因は分からないけど、とにかくそのページの主である女の子が亡くなったのは間違いなくて、なのにそのページはまだ、とゆーか、これから先もずうっと残ってゆく。
友人の誰かが親族に言うとか、しない限り残るのかな?
それともアクセスが一定期間ないと消去されるのかな?

仕組みは分からないけど、いまこの瞬間私が死んだら、これが私の「しんだらちょう」になって、もしも家族が見たら卒倒必然!ということになるのでしょうか??
とほほ。
2005年12月31日
02:11
安斎利洋
作曲家の遺作は、まるで作曲家の全仕事を逆照射するように聞こえるけれど、生きていた作曲家にとってはまるで偶然書いたその日のブログが遺書になるくらい、必然のないものなのかもしれない。たとえばモーツァルトのレクイエムにしても、マーラーの10番にしても、バッハのフーガの技法にしても、あとからするときわめて強い必然に見えるのに。

きっとこれこそ、生と死の残酷で滑稽なパラドックスなんでしょう。

でも、まだまだ死ねないなあ。まだなんにも作ってない。
2005年12月31日
06:18
TODO
私の母は84になりますが趣味にしていた端布集めやニットのリサイクルなどやめました。TVで観た遺族が親の残した言わばガラクタの整理に大変だった、という話しや、そのために身辺整理をして身軽にしている婦人の話に触発されたらしい。
狭い家で大した量じゃないから続けてもいいのにと思うがそうしたことを考えるというのも生きていく意志の表現かとも思う。
2006年01月02日
05:17
miyako/玉簾
25才の頃、土器を復元していましたが、昔の人の日用品が今、自分の手の中にある事を不思議に思いました。
その中の一つが郷土資料館に展示されていますが、
私が死んでも、土器は変わらずそこに展示され続けるのかと思うと、何かを伝達する役割をみたいでまた不思議な気分です。土器は時々大変長生きです。
2006年01月02日
23:13
miyako/玉簾
>何かを伝達する役割をもらったみたいでまた不思議な気分です。

ですね。明け方に書くと見直さないからこんな事になっちゃう。
お母様お元気で長生きのご様子、何よりです。
2006年01月02日
23:30
安斎利洋
TODOさん、うちの母も生地集めてくる習性がひどく、それが病だと自覚していて、整理するために袋やらなにやらを作って人にあげているのですが、それもまた迷惑だったりします。最近「生成りのこういう袋」などと注文を出すと、たまにgood jobだったりするのですが、褒めるとまた生地を買いに走る。

玉梓さん、じゃなくて玉簾さん、なぜか解読できました。
里美八犬伝、やっぱりおもしれー。

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