進化しようというもくろみは、ときどき正反対を向いた終焉への一歩であったりする。
mixiが公開レベルを日記ごとに設定できるようにしたのは、最近危なくなってきたmixiを、より現実の人間関係に近づけるという意味で大きな進歩なのだけれど、しかしあきらかに何か「終わった」感じがする。
何が終わったのかというと、たぶんそれは「カーニバル」だ。
カーニバルは、日ごろの人間関係をめちゃくちゃにする。上司や王様にタメ口をきいたり、ぶんなぐったりしても、それはそれで許される特別期間が「カーニバル」だ。
カーニバルという隠喩を深く活用したのは、バフチンだ。たとえばトルストイの小説は単一の論理で書かれているけれど、ドストエフスキーの小説に自閉的な論理はどこにもなく、たくさんの他者がざわめき、多元的なポリフォニーを形作っている。それはカーニバル的、というわけだ。
mixiは、人間関係を攪拌してきた。仕事チャンネルの付き合いが日常チャンネルに結びついたり、秘匿された関係と家族関係が軋みあったり。ざわめきあう他者のポリフォニーが、この恐ろしく未発達なメディアの魅力でもあった。
そろそろみんなお祭りには疲れてきて、トルストイに逃げ込もうとしているのか。
いやいや、人生死ぬまで永久カーニバルは終わりようがないはず。