メシアンの「鳥のカタログ」は、鳥の歌を写し取ったピアノ曲集である、と僕らはイメージする。ウゴルスキの弾くDG版のブックレットには、屋外で採譜するメシアンの写真があって、僕らはついそこに、鳥の歌を忠実にすらすらと五線に定着させる天才の像を被いかぶせてしまう。
しかし、鳥の歌をピアノに写し取るのは、原理的に不可能なのだ。
藤井一興のあるインタビュー記事より
私は1978年、先生の依頼で、この鳥類譜による『ラ・フォヴエツトウ、デ、ジャルダン』のドイツ初演を公開録音の形でおこなった。ラ・フォヴエツーウ、デ、ジャルダンは日本名ニワムシクイというウグイス科の鳥である。そのニワムシクイの歌をフランスのメシアンの別荘近くで録音したものをパリのメシアン宅で聞く機会があった。鳥たちの歌は、かなり高い音域で、長時間まるで疲れを知らないように、華やかにそして明確なフレーズを伴っていた。
その鳥の歌を採譜する仕事、これはかなり厳格な方法で、音高とリズムを聴き取り、それを五線譜に書き移すわけだが、例えばピアノという楽器は1オクターブを十二の半音に等分して(厳密にいうとそうでない場合もあるが)調律されている。しかし、実際に自然界で聞こえる音は、四分音あり八分音ありといった微分音程の集積であり、半音の関係で割り切れるものではない。
したがってぎりぎりの音程の幅まで五線譜に書き写し、同時に回しているテープレコーダーで、後に鳥の歌の倍音構成の成分を分析し、色彩の変化をそのハーモニーとともにピアノに移調する。その時、鳥の歌の色彩の共鳴はピアノのペダルによって保持される。
この変換作業は、神秘的ではないが実にリアリティがある。鳥のカタログの面白さは、12音とはまったく別の秩序で組みたれたられた歌を、いわば軋みながら再構成しているところにある。メシアンは、鳥を写すために鳥と同じ秩序を用いない。ピアノは、どこまでいっても鳥を写しきることがない。だから、どこまでも層を重ねる運動を続ける。
原理的に了解しきることがないものが、相手を写し取ろうとし、写しとれない軋みで自ら歌を歌う。もしかするとこれは
連画・カンブリアンの基本原理であり、あるいは相互作用する知識領域(
たとえば工学と芸術)の理想的なありようでもある。
僕らが友人を必要とする理由も、たぶん同じ運動の中にある。