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鳥類譜全体に公開
2007年12月08日02:22
写真

メシアンの「鳥のカタログ」は、鳥の歌を写し取ったピアノ曲集である、と僕らはイメージする。ウゴルスキの弾くDG版のブックレットには、屋外で採譜するメシアンの写真があって、僕らはついそこに、鳥の歌を忠実にすらすらと五線に定着させる天才の像を被いかぶせてしまう。

しかし、鳥の歌をピアノに写し取るのは、原理的に不可能なのだ。

藤井一興のあるインタビュー記事より
 私は1978年、先生の依頼で、この鳥類譜による『ラ・フォヴエツトウ、デ、ジャルダン』のドイツ初演を公開録音の形でおこなった。ラ・フォヴエツーウ、デ、ジャルダンは日本名ニワムシクイというウグイス科の鳥である。そのニワムシクイの歌をフランスのメシアンの別荘近くで録音したものをパリのメシアン宅で聞く機会があった。鳥たちの歌は、かなり高い音域で、長時間まるで疲れを知らないように、華やかにそして明確なフレーズを伴っていた。
 その鳥の歌を採譜する仕事、これはかなり厳格な方法で、音高とリズムを聴き取り、それを五線譜に書き移すわけだが、例えばピアノという楽器は1オクターブを十二の半音に等分して(厳密にいうとそうでない場合もあるが)調律されている。しかし、実際に自然界で聞こえる音は、四分音あり八分音ありといった微分音程の集積であり、半音の関係で割り切れるものではない。
 したがってぎりぎりの音程の幅まで五線譜に書き写し、同時に回しているテープレコーダーで、後に鳥の歌の倍音構成の成分を分析し、色彩の変化をそのハーモニーとともにピアノに移調する。その時、鳥の歌の色彩の共鳴はピアノのペダルによって保持される。

この変換作業は、神秘的ではないが実にリアリティがある。鳥のカタログの面白さは、12音とはまったく別の秩序で組みたれたられた歌を、いわば軋みながら再構成しているところにある。メシアンは、鳥を写すために鳥と同じ秩序を用いない。ピアノは、どこまでいっても鳥を写しきることがない。だから、どこまでも層を重ねる運動を続ける。

原理的に了解しきることがないものが、相手を写し取ろうとし、写しとれない軋みで自ら歌を歌う。もしかするとこれは連画・カンブリアンの基本原理であり、あるいは相互作用する知識領域(たとえば工学と芸術)の理想的なありようでもある。

僕らが友人を必要とする理由も、たぶん同じ運動の中にある。

コメント

中村理恵子2007年12月08日 06:44

メシアンの姿、↑はじめてみたっす。
しかし、贅沢な創作環境、風景だねー。
ちっこいアトリエで、こりかたまるでもなし、
デカイグランドピアノに頬杖ついて、ため息もなし(笑)。

屋外で、あちらから音符がシャワーしてくる。視覚的には、圧倒的な自然も押し寄せて
頬を風がなでて、歩むことで足裏からは柔らかな土の感触が突き上げてくる。
なんてまー都合のいいこと、思いついたもんだ。
挑むような、
ぼっさりしてないSANPOともいえるかな。
osamu2007年12月08日 10:07
僕は、それ悲しみだと思うんですよ・・クセナキスがマルコフ連鎖を使った悲しみと位相同形な。(と、ゴミ書き込みしてみる^^)おひっさしぶりです。
osamu2007年12月08日 10:10
追記
鳥の歌をピアノに写し取るのは、原理的に不可能なのだ。
を悲しみ、ではないです。誤解されはしないと思うけど、一応蛇足で^^
安斎利洋2007年12月08日 12:06
↑原理的に了解しきることがない貴重な友人たち。どっちも名前に「理」がある。

クセナキスの悲しみ、ですか。osamuさんらしい、魅力的な自家撞着だ。

シュトックハウゼンが亡くなりましたね。
ikeg2007年12月08日 12:39
そうですか。2年前にみれなくて残念でした。
このメシアンのしかた、まるでテープとマシンだな。
安斎利洋2007年12月08日 14:40
でしょ。僕も、これはikegさんだと思った。
メシアンが色彩と言っている重層的な音響の面白さは、テクスチャーですね。
Archaic☆Lucare2007年12月09日 21:00
ハーモニーは色彩で、それがペダル奏法で可能であるということをベートーベンはとても驚喜していたように思います。オピッツの演奏で倍音による色彩をベートーベンはちゃんと意識して残していたのだなぁ、と知ったように思いました。

私はメシアンのピアノ曲(鳥類譜)でそれを知り、世の終わりのための四重奏曲の生演奏でそれを体験したのだけれど、実はベートーヴェンは知っていたのかも、と思いました。あの頃はスケールでしかそれを表現する術を知らなくて一生懸命音階をひたすら弾いてペダルを踏んでいたような気が。
安斎利洋2007年12月10日 01:02
これは弾いていない弦の共鳴の話ですよね。僕はここ20年くらい、アコースティックのピアノが手元にないので、この話のどのくらい深いところまで体感としてわかっているのか、ちょっと悔しい気がします。ベートーベンは、ペダルで音をにごらせない、という潜入感があるせいか、一生懸命音階をひたすら弾いてペダルを踏んでいくものだと思っていた。

弾かれたある弦の音が、他の弦の倍音を鳴らすとき、その倍音だけサステインするなら音が伸びるだけですが、共鳴している弦は倍音構造を変えるんでしょうね。だから、弾いた音の組み合わせ以上の音色が生まれる。

藤枝守さんが、独特の音律で調弦した筝で、開放弦が音を吸い上げる効果を取り入れていますね。
Archaic☆Lucare2007年12月10日 02:06
私もベートーベンはペダルで音を濁らせないものだと思っていたのですが。
オピッツさんは違いました。演奏効果として残響も利用するし、打鍵の強さによって他の弾いていない弦が共振することによる響きも両方利用していました。(偶然だったのだろうか。ペダリングが鈍かっただけなのだろうか??)これは、私にとっては発見でした。ベートーベンは本当にピアノという楽器の可能性や響きの良さにときめいていましたよ、きっと。ただ時代があれ以上の音楽を記譜の形で残す事も和声学的にもまだまだ、だったのではと。時代がメシアンを選んだって所もあるのではないかと思いますよ。

藤枝さんのその吸い上げる効果って体験してみたいなぁ。
安斎利洋2007年12月10日 04:11
藤枝さんは、共鳴を取り入れてから、演奏する行為が、楽器を弾くというより楽器を聴くようになった、と言ってました。
演奏会の情報があったら、お知らせします。こればかりは、CDじゃちゃんと体験できそうにない。
Archaic☆Lucare2007年12月10日 20:50
そうなんです。楽器を聴く。まさにその言葉です。
私はベートーベンの曲というよりピアノ曲を聴いていたのかもしれません。

お忙しいと思いますが、そのような情報がありましたら、お手数ですが是非。
よろしくお願いいたします。

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