福岡伸一さんがさかんに言っている「動的平衡」(人間は数ヶ月で分子的には別人さ、というあれ)にやられてしまっているせいか、今月22日のデジタルドキュメント学会でのパネルでは、まず「動的テキスト」について話そうかと思っている。
『デジタルドキュメントシンポジウム2007』
http://www.ipsj.or.jp/sig/dd/ddsympo-07.htm (参加者募集中)
「動的テキスト」というと、サーバーで動的にテキストが作られるような話が情報処理学会っぽいんだけれど、今度のシンポジウムはそういうノリじゃない。6月に国立新美術館でやった『
発現するドキュメンテーション』 の再燃というかリベンジというか、メンバー構成も近いし、コンテキストが実に境界知で、つまり専門バカっぽくない。
動的テキストとは、、、
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われわれは「表現」という言葉をなにげなく使っているが、「表」に「現」れると書くこの言葉は、表に現れていない潜在的な思考が、先立って準備されていることを暗黙の前提にしている。われわれをとりまく技術、テキスト、社会、法律、芸術などが表現であるなら、それらは表に現れる前に、黙々と脳裏で展開する思考として準備されていたはずである。しかし、果たして表現は開始されるときにあらかじめ設計の終わっている作業であろうか。
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生命が、環境の中の分子の流れにすぎない、というのと同じ意味において、いま世界をとりまくさまざまな表現は「流れ」にすぎない。ブログもSNSもカンブリアンも、テキストが開始されるときにテキストの背後に表出を待ち構えている「概念」がない。それは、相互作用のステップの中から、動的に発見されるものだ。
そういう観点からすると、パワポっていうのはいちばん良くない「静的テキスト」だね。この手のパネルは、ほとんどパワポによって骨抜きにされていると言っていい。そこで起こるべき相互作用は、あらかじめ用意された書き換え不可能なパワポプレゼン資料によってターミネイトされている。話すことを話して帰るパワポ脳が、激増なのだ。
で、困ったことに、シンポジウムの予稿集にパワポの提出を求められている。