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嫌いマップ全体に公開
2007年10月28日12:06
最近、明瞭に気づいたこと。

自分にとって大事な人、たとえば、つれあい、恋人、親友、恩師などが、「私は〜が好きだ」と言うときは、まず何も考えずに、同じものを好きになってみるといい。

反対に、自分にとって大事な人が「私は〜が嫌いだ」と言うときは、まず何も考えずに、同じものを嫌いにならないようにするのがいいようだ。

なぜなら、人間の個性は好きなものより嫌いなものにあらわれるから。好きなものは自分の未来の指標だけれど、嫌いなものは過去に蓄積した逃れがたい自分自身だ。一時流行った「偏愛マップ」は、自分自身をあらわすのではなく、自分の志向を表現している。嫌いなものは、自分の名前のようなもの。

つまり、好きなものは自分のコンテンツだが、嫌いなものは自分というメディアだ。好きなものの共振は個性を拡大するが、嫌いなものの共振は個性を摩滅させる。名前を合わせこんでも、意味がない。

自分は何が嫌いかを表明するときは、他人を巻き込まない。他人が嫌いなものを表明するときは、その人の名前を聞いたときのように反応すればいい。

コメント

Yuko Nexus62007年10月28日 12:38
激しく同意!
セン2007年10月28日 13:13
たしかにそうですね。
たんぎー2007年10月28日 13:56
たしかに、嫌いなものについて書くのは簡単。
好きなものについて書くのは、案外むづかしいですね。
安斎利洋2007年10月28日 17:53
「嫌い」を言い切るのは、確かに簡単ですね。
でも「嫌い」を分析的に語るのは、「好き」を分析するよりも難しいことがある。
TODO2007年10月28日 19:22
「好き」より「嫌い」の方が多いかなぁ。
年齢と共にその傾向が強まるかなぁ。
安斎利洋2007年10月28日 19:26
好きが未来への期待で、嫌いが過去の蓄積なら、だんだん歳をとると嫌いが増えるというのは当然のなりゆきかもしれません。逆に言うと、好きを増やすと若返るかも。
jetson2007年10月28日 21:35
仲が良い友人達は会話には、「好き」が「嫌い」より多いですね。
「これ気に入っている。」「最近好きになった〜」「今はまり中の〜」etc.
確かにそういう友人達は彼等の年齢の一般的なビジュアルより若いかも。
でも仕事はモノ作りしている人が多いので皆年齢不詳ではありますが。w
安斎利洋2007年10月28日 22:05
「好き」ばっかりの仲間っていうのも気味悪くて、「嫌い」がばらばらが、気持ちよいな。
jetson2007年10月29日 01:53
確かに程度問題ですけれどね。どちらも極端に偏っていると困る現象が。
寝太郎2007年10月29日 05:27
人類がゴキブリやラットを嫌うのはそこに人間の似姿を見るからかもしれないと考えたことがありました。カフカの「変身」の世界ですが、愛憎は紙一重といわれる様に実は人類はゴキブリをメディアとして愛しているのではないかとも考えます。好きなもののリストを挙げられても退屈ですが、嫌いなもののリストはエキサイティングです。確かに後者は図らずもその人となり、つまりその人の経験と内実を語っているのだと思います。誰だったか小説家か作家が言いました(ディケンズだったかな?)「幸せの構図は一つだが不幸の構図はその人の分だけある」これ言い得て妙です。
smi2007年10月29日 09:31
記憶の原型は免疫システムにあると聞いたことがあります。
そういえば、ノートンのウィルスリストは「嫌いマップ」みたいなものかもしれない。

マングースは毒をいったん体内のバッファのような部分に取り込んで、無毒化するといいます。

攻性防壁を本気で作ろうとしているコードクリードはその前の段階として、ウィルスに進入されるとAIが偽者のシステムをつくって身代わりになるソフトを作ろうとしているようです。

人間も嫌いなものを、いったんバッファに落としてから無毒化して、平気な顔して仕事をそつなくこなしたり。

ちょっと、話題からずれましたが。

有馬純寿2007年10月29日 10:55
日常会話では、本来は「興味ない」なのだが、「嫌い」で済ますが人が多いですよね。

ちなみに食べものだと、僕の場合
「甘くてほくほくした穀物・豆系の料理」は「嫌い」
大部分の「果物」は「(あまり)興味がない」

カボチャは経年変化で「嫌い」→「興味がない」→「興味がある」と変わっていきつつも、いまだ「好き」には至ってない。
にしの2007年10月29日 12:17
嫌いは、増えるのではなくて、
好きが減るのではないかと思います。

自分が削れていく。
それで形ができるから、嫌いを排除する必要はないと思いますが、
他人にあわせて削る必要は全くない、というのに同感です。
だから嫌いなものの同調を迫るのはまさしく非道ですね。
ペコルン2007年10月29日 13:59
>好きが未来への期待で、嫌いが過去の蓄積なら、だんだん歳をとると
つれあいの嫌いが増えるというのは当然のなりゆきかもしれません。
逆に言うと、好きな愛人を増やすと若返るかも。

なるほど・・・
よーーっく、わかりました!
安斎利洋2007年10月29日 14:02
>幸せの構図は一つだが不幸の構図はその人の分だけある

そうそう、この言葉がありましたね。何かの引用で読んで膝を打った記憶があります。ディケンズでしたっけ。

smiさんの言うように、免疫システムが「私は〜ではない」という否定形の羅列によってアイデンティティを記述しているというのは、このディケンズ(仮)の言葉とまったく重なりますね。

「好き」と「嫌い」は、局所的には一組の相反する力だけれど、大域的に見るとまったくカテゴリーの違う現象を引き起こして、「好き」は安定したアトラクタを作るけれど、「嫌い」が混ざるとカオスが生まれる。

「好き」と「嫌い」が相転移するのも、考えてみると奥深い現象です。大きな組織のトップや優秀なディレクターは、たいてい初対面で「やあやあ」みたいなノリで全面的な好きを演出するけれど、仕事が始まるとだんだん厳しくなって嫌いを混ぜていく。「好き」を「嫌い」に転換して、形を作っているんでしょうね。

逆に、シャンツァイのような臭い食い物は、はじめの「嫌い」が強いほど、あとの「好き」が深くなる。嫌いだった相手と仲良くなる、という物語の典型もありますね。来年あたり、有馬さんはカボチャのとりこになるはず。

国際政治に「味方」はいない。あるのは「敵の敵」だけだ。という言葉がありました。誰が言ったか知りませんが、ディケンズじゃないことは確か。集団的自衛権は、「味方の敵をいっしょに攻撃する権利」ですが、「味方=敵の敵」を代入すると、「敵の敵の敵をいっしょに攻撃する権利」になる。三つ並んだ敵の最初と最後は同じなんでしょう。カオスだ。
安斎利洋2007年10月29日 14:14
幸福の形はひとつ...

って、トルストイじゃなかったっけ?

>つれあいの嫌いが増えるというのは当然のなりゆきかもしれません。
>逆に言うと、好きな愛人を増やすと若返るかも。

それもトルストイか。
安斎利洋2007年10月29日 14:24
>人類はゴキブリをメディアとして愛しているのではないかとも考えます。

このひとこと、面白すぎて脳が破裂しそうです。この愛の形式は、病や、凍てつく季節や、山火事や、死も対象としているのではないか。
さかい@12/9TUAA2007年10月29日 15:31
嫌いな音楽があった場合、自分がその音楽のどこを、どのように、なぜ嫌いなのかを徹底的に調べるため、CDを買って何度も聞き返したり、ピアノで弾いたり、完全に歌い方を真似して歌ったりしていたため、私がその音楽を好きなのだと家族に勘違いされていたことがあります・・・。
安斎利洋2007年10月29日 21:56
だんだん話がエッジになってきましたね。さかいさんに嫌いな音楽がある、ってのがびっくりだったり。
Yuko Nexus62007年10月30日 18:57
私の場合、嫌いはたいてい「近親憎悪」でありますな。
好きの反対は嫌いというより無関心。

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