検索フォーム

分子の淀みとしての私全体に公開
2007年09月30日23:46
5年前、毎日撮っていた朝飯の一部。これは約半年分だ。

写真


人の体が新陳代謝で日々入れ替わっているのは常識だけれど、福岡伸一さんが紹介するシェーンハイマーの研究によると、生体の分子はすべて瞬く間に分解され、その欠落は新しい分子によって置き換わるので、ほんの数ヶ月で人間は分子的に別人になっているという。(脳も含めて!)

すると、生体というのは波が水面を伝播していくようなものだ。人という波頭が伝わっていく水面は食い物で、すなわちこの写真を撮り続けていたときの僕は、この食い物空間を伝播する波にすぎない。波間の泡や台風の目が消えるように、あるところで僕という分子の淀みは途絶えるだろう。

BSEの研究者である福岡さんは、生きる=食うというプロセスをここまで純化したところから考え始める。面白い。

コメント

うさだ♪うさこ2007年09月30日 23:49
"You are what you eat" ですね。
安斎利洋2007年10月01日 00:02
だから、使ったエネルギーだけ食っていればいいというダイエットをしていると、自分を失うよね。
(自己正当化です)
大和田龍夫2007年10月01日 00:09
BSE騒動のときにFM東京で聴いてびっくりしました。
生物と非生物の違いをやっと理解した気がしました。
あまり注目されないのが不思議だったんですが。
甲子園の常連校がなぜ常連かも同じことですよね。きっと。
stella2007年10月01日 00:11
俯瞰で見るとまるでクリムトのよう。
Ken☆2007年10月01日 00:15
一瞬、何の電子回路の基板かと思いましたわん。
安斎利洋2007年10月01日 00:30
ここ数ヶ月、大和田さんにお会いしてませんが、もう別人ですね。
シェーンハイマーの動的平衡の研究は1940年で、生命をモノに還元する潮流のまっただなかだったので、まったく意味が解読されなかったんでしょうね。そのギャップは今も同じことですね。

>俯瞰で見るとまるでクリムトのよう。
+
>何の電子回路の基板かと思いました
=
クリムトはデバイスアート。
Linco2007年10月01日 00:43
7年で全ての細胞が変わるという説がありましたが、また新たなパラダイムですね。
Mie2007年10月01日 01:20
一瞬、スタートレックのボーグキューブかと思いましたよ。
それにしても、すごい。我が家の夕飯より豪華な朝食です。
TOSHI2007年10月01日 02:01
分子が全部入れ替わっても、自分が自分であるという、その自分とは“情報”なのだろうか? 遺伝子に書き込まれた“情報”+身体が記憶する“情報”+コミュニティが記憶する“情報”+外部メモリ(ノート、写真、ビデオ、HDなど)が記憶する“情報”?
machiko2007年10月01日 03:40
こういう視点からみると、人間は、料理などして分子を劇的に変化させたり固定させたりして取り込むのに対して、自然な「食べ方」では、入れ替わりつつある分子をそのまま取り込むわけですね。
「食べる」という行為が別のプロセスとしてとらえられそう。

>クリムトはデバイスアート
たしかにクリムトは、生物の造形や増殖のかたちへの着目と工業化時代の意識が融合あるいは競合した時代の産物ですよね。

ところで、食器って、上から見たら丸い形のものがほとんどだ、ということに改めて気づきました。
小林龍生2007年10月01日 05:22
シェーンハイマーを巡る福岡さんの議論で、もう一つぼくがおもしろいと思ったのは、以下の記述。
「餓死による生命の危険は、エネルギー不足のファクターよりもタンパク質欠乏によるファクターの方が大きいのである。エネルギーは体脂肪として蓄積でき、ある程度の飢餓に備えうるが、タンパク質はためることができない」(p163)
餓死とは、自己の内側からの崩壊というわけか。
yama2007年10月01日 06:47
13x18=234ですね。
偉大なる継続の意思です。まだ継続していますか?
5年前だと銀塩ですか?
もうデジカメだろうか?
健啖家ですね。朝からしっかり派のようです。
平均5皿以上ですね。

>生体というのは波が水面を伝播していくようなものだ。
賛成です。もう少し考えて更にコメントします。
Mike2007年10月01日 06:49
食べているものだけで,人間がその成分で置き換わるか、ということは、山の中を歩きながら考えたこととがあります。囚人とか寮生活者で、完全の3食とも同じものを食べる人間の集団は確かに存在しますが、彼らが、どこまで均一になってどこまで違うかは興味深いですね。体内に存在する酵素や消化液の配分などが異なるので、完全には一緒になり得ないのでは、とそのときは思いました。

ところで、写真を拝見すると、一汁三菜よりも、はるかに豪華なお食事ですね。これが朝食ですから、昔の殿様の夕餉よりも、すばらしく素敵な朝食を食べているんですね。
中村理恵子2007年10月01日 08:04
↑比して、毎日決まったメニューや配置じゃないと嫌な人だっていますよね。
かっこよく?サプリメントを手のひら山盛りをわしわし噛み砕いて数十秒で飲み干す人もいる。食事にかける時間や知力の最小化。

明らかに安斎さんは、それとは違う生き物なんだねー。
、単純に腹のでっぱりの差ばかりじゃないですよね。
(笑)
思うに、安斎さんのつくるシステムや文章は、おいしい。

安斎利洋2007年10月01日 09:41
シェーンハイマーの研究があまり話題にならなかったのは、その10年くらいあとにワトソン=クリックの二重らせんモデルが提唱されて、まさに「生物は情報である」という潮流ができるまっただなかで、インパクトがかき消されたということでしょう。
シェーンハイマーの動的平衡という考え方は、ある意味マテリアリズムで、物質の制約そのものが情報を生み出すという、たとえば郡司ペギオー幸夫の生命論に近いものを感じます。60年前は、早過ぎたんでしょうね。むしろいま、物質・情報二元論を超えるための契機に思えます。

>自分とは“情報”なのだろうか?

自分が情報であり、鉄腕アトムの正体は胸の中の「人工頭脳」だというのは、ずっと以前から僕らは知っていたことなんですが、それはいわば静的な状態としてバックアップ可能なディスケットのようなイメージだった。動的平衡のビジョンが衝撃的なのは、自分=情報というより、自分=水面の渦みたいなも、というものすごい頼りなさにあるんじゃないか。
安斎利洋2007年10月01日 09:48
>自然な「食べ方」では、入れ替わりつつある分子をそのまま取り込むわけですね。

これは面白いイメージですね。波が波を飲み込んでいくような。
人工的な「食」というのは、動的平衡が動的平衡を呑みこむんじゃなくて、いったん静的資源に置き換えようという、貨幣と同じような欲求なんだろうな。

>餓死による生命の危険は、エネルギー不足のファクターよりもタンパク質欠乏によるファクターの方が大きいのである。

餓死はエネルギー欠乏だと考えてしまいますね。これも、人間は食事を「栄養」とか「エネルギー」という要素に還元して考えたがるためでしょうね。
タロイモだけ食っているある島の住民は、炭水化物だけ摂っていても、筋骨隆々なんです。腸内の炭水化物を食う細菌が、タンパク質だからだそうです。まさに、動的平衡の入れ子状態。
安斎利洋2007年10月01日 09:53
>偉大なる継続の意思です。まだ継続していますか?

撮影は継続しています。一箇所にまとめる暇がなくてそのままですが。
5年前もデジカメですが、だんだん解像度があがってきました。
人に見せるたびに、朝から食いすぎ、といわれ、最近はこんな食ってません。この年は、異様に鮭ばかり食ってた。

>平均5皿以上ですね。

数日ぶんの常備菜を毎日ひとつづつ作れば、ずっと数皿を維持できます。
安斎利洋2007年10月01日 09:59
>彼らが、どこまで均一になってどこまで違うかは興味深いですね。

福岡さんは、生体をジグソーパズルの比喩で説明しています。紛失したピースがあると補充するサービスがあるそうで、生体はまさにそのように、分解して生じた欠損をまわりから埋めていくようなもの。分解が高速に起こり、高速に補充されるから、またたくまにリプレースされる。欠損の起こりかたは個性なので、同じものを食っていても同じにはなりません。
食べるというのは、そのように何が欠損しても補充できる東急ハンズのような素材バンクを、自分の環境に満たす行為であるわけで、だからちゃんと食べないと、自分という流れはあちこちで滞ることになる。
安斎利洋2007年10月01日 10:01
>単純に腹のでっぱりの差ばかりじゃないですよね。

自分のまわりに、自分の素材を滞りなく補充していくことを続けていて、腹がでっぱらないようにするってのは、どうすりゃいいんだろうね。そこを、福岡さんにききたい。
安斎利洋2007年10月01日 10:25
次回の「爆笑問題のニッポンの教養」は福岡伸一ですね。
http://www.nhk.or.jp/bakumon/nexttime/
明日だ。
MATANGO2007年10月01日 11:23
>食べているものだけで,人間がその成分で置き換わるか
福岡さんの本の最後のほうで、細胞のなかで、絶対に必要だと思われる物質を完全にとってしまっても、別の物質がおなじはたらきをして、平気で生きていたという実験がでてきました。

ということはたぶん、どんな食べ物(物質)を食べていても、たとえそれでカラダの成分が変わってしまっても、それをおなじはたらき・おなじカタチにまとめてしまう強力なしくみがあって、
「パスタを食べているとみんなパスタ顔になってくる」...というようなことにはならないのかもしれません。

でも「似たもの夫婦」というのは、やっぱりあるような気がして...。
トポロジー的にはおなじなんだけれど、モーフィングしちゃうんでしょうか...?
安斎利洋2007年10月01日 11:38
犬と飼い主が似てる、って話もありますね。これは食い物じゃない回路でしょうね。
MATANGO2007年10月01日 12:03
...あ、おなじこといってました...。
そうか、ジグソーパズルか...。
残念なことに、のびちじみが効くジグソーだったわけで...。
TOSHI2007年10月01日 18:20
>自分が情報であり、鉄腕アトムの正体は胸の中の「人工頭脳」だというのは、ずっと以前から僕らは知っていたことなんですが、それはいわば静的な状態としてバックアップ可能なディスケットのようなイメージだった。動的平衡のビジョンが衝撃的なのは、自分=情報というより、自分=水面の渦みたいなも、というものすごい頼りなさにあるんじゃないか。

鉄腕アトムの正体は胸の中の「人工頭脳」なのかなぁ? そのアナロジーでいうと、人の正体は頭蓋骨の中の「脳漿」? 脳細胞を含め、すべての細胞は1個の受精卵の自己増殖から生成されている。とすると、人間の場合は、脳=自分ではないよね。で、その細胞は、真核細胞にミトコンドリアが共生したものである。とすると、自分というのは、最初から「自分たち」?
「静的な状態としてバックアップ可能なディスケットのようなイメージ」というのは、凍結された受精卵にはあてはまるんじゃないかな?
「自分=水面の渦」というのは、光の波動説を連想させる。
安斎利洋2007年10月01日 19:26
ワトソン・クリックは1953年、認知科学の発祥は1956年、鉄腕アトムが始まったのは1966年。というふうに並べると、生命や意識を物質的に還元しようとする当時の空気がよみがえるわけだけれど、その頃、人間という情報機械は、環境から切断しても動くものだと思われていた。鉄腕アトムが胸の扉をあけて、人工頭脳を取り出すシーンは、けっこう好きだった。いまでも、自分をなにかのデバイスに転写する夢は、僕らはみんなもってるんじゃないかな。

1940年のシェーンハイマーにむしろ親和感を覚えるのは、生物という情報機械は、ネットから外したスタンドアロンでは動かないという考え方が、非常に現代的だから。静的平衡のとれた停止した状態では、意識も生命も無に等しい。
machiko2007年10月01日 22:34
>鉄腕アトムの正体は胸の中の「人工頭脳」

鉄腕アトムの正体は、ひとりひとりが鉄腕アトムに投影する・解釈する(I/O)の総体だ、という考え方もありますね。当たり前すぎるかもしれないけれど。

今年のアルス・エレクトロニカは、シェークスピア・ブーム(?)でした。
みんな引用する、って感じで。
SIGGRAPHで特別賞とったアニメーション"ARK"も、シェークスピアの引用で始まります。
「テンペスト」の中の「人はみな夢と同じ物質でできている」ではないんだけど、似たようなフレーズの引用。
われわれ、あるいは世の中が、イマジネーションでできている夢のような存在じゃないか、という暗黙の合意ができつつあるのかもしれません。
物質も、分子まで還元してしまうと、中身はスカスカなわけで、夢と変わらないかも。

安斎利洋2007年10月01日 22:50
「私」が共同体の中にあるというのはそろそろ聞き飽きたけれど、「私」は私を解釈するものの総体である、というのはめちゃくちゃ刺激的ですね。

お気に入りのデイヴィッド・ロッジの小説に、T・S・エリオットがシェイクスピアにどのような影響を与えたか、を研究している学者が出てきます。逆じゃなく。

つまり、シェイクスピアとは、シェイクスピアを解釈するものの総体である、ということなんですね。
テロリスト蛇居2007年10月02日 00:59
ずっと、コメントを追っていると、
肉体とはHDとかのストレージ、入れ物みたいです。

では、あほらいしいが「自分が自分であること」ということはそのストレージされているデータか。

ということは入れ物からあふれだして、他者につながっていくと「自分が自分であること」言うこと自体が無意味になるのか?

自と他というのは入れ物があるためなのか?
テロメアは細胞の寿命を規定しているらしいが、そういや、ちまたのストレージにもなんとかタイマーとかいったりする。

ということはあれはデータ??

なんて馬鹿なこと言ってないで
明日の夜を楽しみにしています。
>次回の「爆笑問題のニッポンの教養」は福岡伸一ですね。
TOSHI2007年10月02日 01:00
>鉄腕アトムの正体は、ひとりひとりが鉄腕アトムに投影する・解釈する(I/O)の総体だ
「鉄腕アトム」を「キリスト」に置き換えると、すさまじいことになります。
メンタルスタッフ2007年10月02日 09:37
> その頃、人間という情報機械は、環境から切断しても動くものだと思われていた。鉄腕アトムが胸の扉をあけて、人工頭脳を取り出すシーンは、けっこう好きだった。
...
> 鉄腕アトムの正体は、ひとりひとりが鉄腕アトムに投影する・解釈する(I/O)の総体だ、という考え方もありますね。

鉄腕アトムにも、けっこう強い「アヒル・ウサギ」現象があるのかもしれませんね。
鉄腕アトム(とそのパワーの源泉)がどう見えるかはどんな系の一部として見ているのかによってずいぶん違ってくるのでしょう。

とは言っても、鉄腕アトムに、開いた系の中での動的平衡状態を見るのはちょっと難しくて、パワーの秘密を「頭」の中に探したくなる方が自然なのかもしれませんが。
安斎利洋2007年10月02日 09:40
ほとんどの宗教は、解釈の総体でしょうね。

福岡さんの言うジグソーパズルのメタファーを、ミームに応用するとどういうことになるんだろう。自分が提出した疑問符が、どんどん解釈されて穴埋めされるような環境を身の回りに作るのが、文化的な意味での食うことにあたる、ということか。
安斎利洋2007年10月02日 09:50
>鉄腕アトム(とそのパワーの源泉)がどう見えるかはどんな系の一部として見ているのかによってずいぶん違ってくるのでしょう。

僕らの世代が、手塚治虫に深く影響されているのは確かですが、手塚治虫の世界は「アヒル・ウサギ」的な多義性をもっているというのは重要なポイントかもしれません。手塚治虫の遺作は、ネオ・ファウストでしたよね。もうちょっと、生きていてほしかった。
安斎利洋2007年10月02日 09:56
>肉体とはHDとかのストレージ、入れ物みたいです。

僕のイメージだと、人間というのは情報を路面にチョークで書いているようなもので、消えかかるとその隣に同じ情報を欠き続けているので、ちょっとずつ書くことが変わっていく。
そんな陣取りゲームがありましたね。入れ物はないけれど、陣地=自分。
machiko2007年10月02日 10:49
>僕のイメージだと、人間というのは情報を路面にチョークで書いているようなもの
で、消えかかるとその隣に同じ情報を欠き続けているので、ちょっとずつ書くことが変わっていく。

われわれが普通に見ている、というか、今まで普通だった走査線式のTVやモニタは、そうですね。(液晶でもそうなんでしょうか?)
同じものが続いている、と人々が信じているものは、一瞬毎に書き替えられている情報に過ぎなくて、人間の眼の残像特性にマッチした燐化合物の残光があるだけ。
安斎利洋2007年10月02日 11:49
人のキャラクターの正体が残像だというのは、まったくその通りですね。だから死んだあとも、ちゃんと残る。解釈側からみると、人は誰も死なない。
身体と残像が重なっているから、アウラはブレのように拡がってみえるのかもしれない。
MATANGO2007年10月02日 23:16
原子にくらべたら、イキモノの大きさはとてつもなくデカイ...というのも面白いと思いました。
あまりに小さいと、ランダムな動きしかしないのに、まとまると秩序のようなものができてくる...。

しかも、イキモノをつくる「モノ」というのは、いろいろ違う種類(カタチ)のものが集まってできている...。

身のまわりにある「モノ」というのは、文字どうり「mono」な「モノ」でできていて、たとえば、目の前にある「液晶ディスプレイ」なんかは、イキモノにくらべたら、まことに単調なモノのかたまりが、おそろしく大ざっぱに組み合わさってできている...。

イキモノをつくる「モノ」は、そのへん、まことに細かくてフクザツ...。
その「フクザツさ」を計って、たとえば「大腸菌VS液晶ディスプレイ」てなことをやったら、とてもじゃないけど太刀打ちできない...。

もちろん、もとの「原子の種類」といったら大したことないんだけれど、それの寄り集まった「分子」、それの寄り集まった「アミノ酸」というようなことになると、その「フクザツさ」はバクハツ的になってくる....。

...そうすると、いろんな「モノ」のよりあつまった「スープ」みたいなものがあったとして、そこで目もくらむような「フクザツなかたまり」が、たまたまできたとしたら....。

あとは自動的にそれを「ジグソーパスル」として、欠けたところを埋めていって、あげくは「生きていくしくみ」ができあがるのでは...。

まあ、まさに「夢」のようなハナシですが....。
「フクザツさ」のどこか臨界点を超えると、「ジグソー自動補間システム」ができるのでは...といふ考えなのでした....。
yfuji2007年10月03日 00:58
あと100年くらいでクリムトの接吻と同じくらいの大作ができあがりそうです。
そして、2週間に1度は軽めの食事がありそうです。その前日は深酒をしていたのでしょうか。

それはさておき、アミノ酸は20種類しかなく、それを構成する元素はC、O、H、N、Sしかない。
そして人間が作り出せるタンパク質は3万種類ほどで限られている。
それほど簡潔な基本的構成が同じである人と人が分かり合えることって、そんなに難しいことではないのではないか。
刻一刻と変化する動的平衡状態にある人と人が分かり合えることってほとんど不可能と考えてしまうけど、既に人と人は原子レベルでは充分にコミュニケーションしているのかも。

この文章自体が動的平衡状態になっていますので、流してください。
安斎利洋2007年10月03日 01:04
>「フクザツさ」のどこか臨界点を超えると、「ジグソー自動補間システム」ができる

それは、秋葉原のパーツ屋から買ってきたものを箱に入れてかき回すとパソコンができたり、魚の缶詰の中から別の生命が生まれたりするか、っていうことですね。可能性はゼロじゃないけれど、それはできないんだ、という話をさっき福岡さんがテレビでおっしゃってました。

爆笑問題は深いですね。上のコメントの流れと同じ議論をしていたのが、驚きでした。50年会ってない友人は死んだのと同じだから、逆に死んでいても生きているのと同じだ、云々。つまり、
>解釈側からみると、人は誰も死なない
メンタルスタッフ2007年10月03日 11:45
> 爆笑問題は深いですね。上のコメントの流れと同じ議論をしていたのが、驚きでした。

この符合は面白かったですね。
生命の話に情報の話を絡ませようというところは、爆笑問題のセンスのよさなんだろうけれど。

福岡さんが宗教と科学の違いを「文体」の違いと捉えようというところはもっと話を聞きたかったところです。科学を「表現する」営みとして捉えたとき、「宗教」と比べて、その文体に際立った違いがあるのかないのかなどなど。。。
安斎利洋2007年10月03日 12:42
>既に人と人は原子レベルでは充分にコミュニケーションしているのかも。

サンプルの選び方次第で、うっとりするような話ですね。間違うと、気持ち悪い。
かつてyfujiさんを構成していたNやS原子が、僕を通過する確率はどのくらい?
安斎利洋2007年10月03日 12:44
>宗教と科学の違いを「文体」の違いと捉えようというところ

哲学者はだいたいみんな同じことを言っている、という冗談を内田樹が言ってましたが、哲学は同じ問題をいかに異なる文体で語るかが問われるので、そういうことがいえる。

科学は反証可能性が問われるので、科学の文体は科学者共同体の中で自ずとひとつになろうとする。ところが、シェーンハイマーにしろマッハにしろライプニッツにしろ、現代的な科学のパラダイムから外れているものの、まだまだ可能性が語りつくされていないパラダイムが無数にある。

福岡さんの資質はむしろ哲学者のもので、文体を発掘してくる哲学者の戦略を感じます。
メンタルスタッフさんの専門分野である認知科学は、もともと経験ではなく設計を基礎にしているから、文体の自由度が高い、ということはいえるんじゃないでしょうか。
メンタルスタッフ2007年10月04日 14:31
> 認知科学は、もともと経験ではなく設計を基礎にしているから、文体の自由度が高い、ということはいえるんじゃないでしょうか。

認知科学の原点の一つに、「解釈」する主体を設計し、実現することがあることは、大事なところですね。実際には、この原点を欠いた「文体」で語られた認知「科学」が流布しやすいんでしょうけれど。

動的平衡で実現されているシステムは、一見頼りないのだけれども、実は却って安定していて強力であるというところが、福岡さんの議論のポイントの一つなんでしょうが、「解釈」やイマジネーションのようなソフトな存在も、実は同様で、一見はかないけれど、なかなか変わらない、変えられない存在なんでしょうね。(UnixOSのインターフェイスなどもしぶとく生き残っていますね。)

人が感じる「クオリア」もそんなものかもしれませんね。クオリアは解釈そのもので、頼りない存在のはずなのだけれど、いつのまにか実在のステイタスを獲得してしまって、強固な存在になり、人の心に居座って、「クオリアの謎」になって出てきたりしているのかもしれません。
安斎利洋2007年10月04日 16:30
>一見頼りないのだけれども、実は却って安定していて強力である

このテーマ、ツボにはまりました。クオリアと動的平衡は、言われてみれば同じ問題ですね。流れが実体をもつわけですから。

>実際には、この原点を欠いた「文体」で語られた認知「科学」が流布しやすいんでしょうけれど。

たいていの自然現象は、川が蛇行して地形を作るとか、台風が起きるとか、ごく近所の安定したアトラクタに落ち着いていくわけですが、生命が頼りないのに逆に安定しているのは、かなり遠方の、ほとんどありえないようなアトラクタに奇跡のように嵌り込んでいるということですよね。

山頂に行けば出会うのは簡単だけれど、山すそだと樹海に迷うみたいなもので、遠い不動点というのは、交換可能な別のコードシステムがあるかもしれないし、探索していない別の可能世界が無数にあるかもしれない。unixにしてもコドンにしても、別にこれじゃなくてもよかったんじゃないか、と思われる。

池上高志(ikeg)さんが最近青土社から本を出して、まだ読んでないんですが、構成論的なアプローチが主題になっている(はずです)。構成論的というのは、つまり別の可能世界を人工的に作ってみることによって、たまたま目の前にある自然世界の成り立ちを知ろうということだと思います。

考えてみると認知科学はもともと構成論的に、人間と同じ文法をもった意識を作ろうとしたわけです。しかし本当の意味で構成論的であるには、人間とは別の文法をもった意識とはなにかを求めるべきなんじゃないだろうか、ということを考えます。

人間の意識が「異なる文法をもった意識」を、チューリングテストのように認識できるかというのは、また別な意味で大問題なんですが、だから意識をどう論理的に定義できるのかが問題になる。

で、ちょっと飛躍するけれど、「意識の定義を拡張する」という欲求が、もしかすると芸術の基本原理じゃないかと最近思うんですよ。
MATANGO2007年10月05日 00:07
「情報」というのも、「流れが実体をもつ」という意味で「いきもの 」の仕組みとおなじことを言っているんじゃないでしょうか。

「情報」というのは、「変わらないもの」を前提にしている。
DNAが「情報を伝えている」というのも、実際に起こっている猛烈な物質の流れのなかで、「変わらないもの」に注目して、それを「情報」と言っている...。


これは「いきもの」に独特な事態、認知の仕方なんでしょうか?
それとも...。
安斎利洋2007年10月05日 01:04
テレビを見る、というのは、液晶やブラウン管を見ていることを意味しないから、情報にとって物はメディア(媒体)にすぎない。動的平衡というのは、生命は情報である、と同義じゃないか、ということですか?

これはちょっと違うと思います。生命は、物の媒体に情報が乗っている形式とは、違うんじゃないか。

informationという語にformが含まれるように、情報というのは形のことです。結晶のように安定した物質が形をもつこともあるけれど、炎や台風の目のように安定した形が物質をもつこともある。生命は、その従属関係が両方同時に起こっている、ということじゃないかな。結晶であり、炎でもある。

 安斎利洋mixi日記 一覧へ