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爆問学問全体に公開
2007年09月29日14:07
素人は恐ろしい、と、ある壁紙職人が言ったそうだ。彼らは採算や仕事の目的など関係なく、継ぎ目の模様をぴったり合わせたりする、というわけだ。

専門バカという言葉があるので、そのコンプリメントがあるなら素人利口ということになるだろう。素人は、専門家からすると異様な目的を平気でもっている。目的のための目的をもたないから、目的は浮遊していく。

素人は、飛行機を飛ばすために数学を勉強し、やがてそれは論理学へと発展し、そこで極めた哲学を否定して新しい哲学を作る。そのように浮遊していく意味において、ウィトゲンシュタインもまた素人だった。

専門は専門についての知識を深めると同時に、知識を専門という牢屋に閉じ込めることを、素人利口はよく知っている。言語の牢屋そのものがウィトゲンシュタインの哲学の相手だった。

言葉って、ものごとをすっげぇわかるように言い当てるけれど、言ったとたんにそんときの気持やなんかが、消えちゃうじゃないですか、と、昨夜のNHKの番組で、太田光が、慶應の教授陣にまくしたてていた。村井純やichiyaさんなど、知っている顔が並んでいたので、つい見入ってしまった。http://www.nhk.or.jp/bakumon/previous/

太田光は一種の罠として、専門家のアスペクト盲を暴き立てる。それはフェアな罠ではないかもしれないが、少なくともいま「知」の業界に欠落しているのは、偉大なド素人の力であることは確かだ。

コメント

しゅわっち2007年09月29日 14:18
ぼくも同じ感想を持ちました.
太田の言葉が一番伝わるのは、、生活上の身体がこもっているからではないかと.

彼自身、お笑いも学問も、伝えようとする上では同じだと主張してたけど、、これは僕も以前から主張して来たのでした.
そういうセンスをもった大学教授が少ない(少なくとも誰も太田の言葉に反応できていなかった)のは専門バカなんだなと思いましたね.
klon2007年09月29日 14:24
いかに素人でいるかというのは重要ですよね。
「仕事」の人とは仕事をしないようにしています。
ichiya2007年09月29日 14:49
どうもでした。うまく編集されていたのであれでもボロが見えづらくなっていましたが、1.5時間の番組にライブは3時間以上かけて、つまり、太田光さんが画面よりもすさまじい攻撃を続けていて、慶應側は爽快なほど完敗なのでした。いやぁ負けた負けた。
Mike2007年09月29日 17:15
見てなかったので、良く分かりませんが、
たまたま、Yutubeに一つだけ転がっていたhttp://www.youtube.com/watch?v=XevH1iev9ew
のを見ましたが、鋭い学生の質問に対して、塾長の答えはありきたりの答え、太田はしっかりと答えていたように見受けました。
 まさに,表現力や発想力の差かなあ。(塾長は疲れているかも)
安斎利洋2007年09月29日 19:11
>太田の言葉が一番伝わるのは、、生活上の身体がこもっているからではないかと.

しゅわっちさんは、まさに専門バカにならない方法を研究している専門家でした。

>いかに素人でいるかというのは重要ですよね。

ですね。油断すると、専門家になってしまいますから。それが油断だと思わない人は、はなから問題外なんですが。
安斎利洋2007年09月29日 19:12
>1.5時間の番組にライブは3時間以上かけて

そりゃ見ものでしたね。
ichiyaさんが、太田にやられる側にいるのも奇妙なもんです。しかし安西塾長にしたところで本当は境界知の人で、常識を破った裂け目の分野のひとが、あの番組の中ではがちがちに見えちゃうのは、やはり罠なのかも。

>塾長は疲れているかも

最近東大の先生にも感じますが、日本が負けないために、あるいは大学が他の大学に負けないために、と仕事をしているうちに、競争の罠にかかっている人が多すぎるように思います。
しゅわっち2007年09月29日 19:32
そうすね.
安西さん、疲れてみえました.
言葉が柔らかく聞こえすぎる って感じでしたよ.
yfuji2007年09月30日 09:12
私もその番組を見ました。
番組では、時間的な問題もあったのでしょうが、多くの論点がぶれてしまったような気がしました。
「メディア進化は日本人に幸福をもたらすのか」という問題設定で番組がスタートしたのは良い切り口だと思ったのだけど、それも途中であやふやになってしまった。
しかも、重要な問題も欠落していた。
例えば、プリンセスや首相まで心の病になってしまう日本人は幸福になったと言えるのか。
この10年で比較しても心の病になってしまう人が明らかに多いのではないでしょうか。
メディアの進化はその問題と大きく関わるのではないか。
コメントが長すぎると問題点がぶれてしまうので、この辺で。
安斎利洋2007年09月30日 11:11
以下、私見ですが、科学にはもともと「人間の幸福のため」といた目的をもたないわけです。しかし、工学や、技術としての医療、それから制度設計などもふくむデザインに関しては、幸福のため、という目的があらわれる。

ところか、幸福とはなにかというビジョンそのものが、工学やデザインの与えたもので、そこに自己言及がおこっている。そこに誰も気づかない。学問の担い手が、ほとんど気づいていない。

だから、漠たるユートピア幻想にむかって工学は突き進むし、医療はまず延命を大事にする。本来学問は、幸福になるためには、という命題の前に、幸福とはなにか、を問うべきなんですけどね。
ks912007年09月30日 12:32
観られなかったです…。

その前後、幸福のためにマルスは支配する。
安斎利洋2007年09月30日 12:49
世界を滅ぼすために幸福が作られる、というのは、たぶん「当たり」ですね。
メンタルスタッフ2007年09月30日 15:26
> 専門家のアスペクト盲を暴き立てる。それはフェアな罠ではないかもしれないが、少なくともいま「知」の業界に欠落しているのは、偉大なド素人の力であることは確かだ。

不幸なことですが、専門性の「獲得」の必然的な一部として、専門という「アスペクト盲」の獲得があるんでしょうね。そのアスペクト盲から自由であることが「偉大なド素人」の強みですね。

特殊相対性理論を発想していたころのアインシュタインなんかも、そう見ると、どこか「偉大なド素人」の面があったのかもしれませんね。自分の拠って立つ足元まで平気で疑ってしまうようなところが、、、
しゅわっち2007年09月30日 16:49
社会が社会の幸福を考えると、どうしても数字とか客観性のある指標だけで定義せざるを得ないのでしょうね.
工学者とかデザイナーでそれに気付いていない人が多いし、一般生活者もそういう指標でしか自分の幸福を考えられない人が多い(自分の幸福なのに...)
僕の研究はその打破なんだけど、、これまでの歴史にどっぷり浸かった人に理解してもらうのはなかなか困難です、ハイ.

幸福は、ケーススタディ的な物語以上でもなければ以下でもない.そこまで含めた意味での科学、工学、デザインが今後求められるべきですね.

その意味で「お笑い」の方がより人間をよくわかっていると思う.
安斎利洋2007年09月30日 16:53
>不幸なことですが、専門性の「獲得」の必然的な一部として、
>専門という「アスペクト盲」の獲得があるんでしょうね。

そこですね、パラダイムに巻き込まれること以外、その先を見ることができないという議論まで行かないと、この話は宙に浮いてしまいます。

僕は、たとえば工学と芸術というような、それぞれ専門盲の中にいながら、互いに相手のパラダイムに対して素人になれるもの同士の熾烈な反応に興味があります。偉大なド素人というのは、やはりある分野におてい偉大な専門盲であるべきなんでしょう。
安斎利洋2007年09月30日 17:17
>幸福は、ケーススタディ的な物語以上でもなければ以下でもない.

幸福は、物語であるというのは同感。

人間は幸福を求めるというのは確かかもしれないけれど、人間の行動はほとんど幸福と関係ないものを求めてますよね。この人は、なにが欲しくてこの相手に選んだのだろう、みたいな話は、ままあります。
しゅわっち2007年09月30日 21:57
いや外から見るから「なにが欲しくてこの相手に選んだのだろう」と思うだけで、本人の中ではそれがその人なりの「幸福の物語」なのですよ.頭ではなく身体が紡ぐ幸福の物語.

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