安斎利洋の日記
2007年09月17日
02:35
バレンボイム
僕は、親しい友人や、若いひとたちや、自分の子に、このようにせよと教義的な押し付けをしたことが一度もないように思う。それは自分自身、親や教師から教えられたことを、ずっと疑い続けてきたからだと思う。
バレンボイムが、若い一線のピアニストにベートーベンのレッスンをつけるマスタークラスの第二回目をテレビで見た。
第一回目のランランを見たときは、ショックだった。野心的な実験と新しいアイデアを蓄えた自信満々の売れっ子ピアニストが、いかに老練の大演奏家であろうと同じアーティストから何を教えられるのか。若い天才の個性を尊重しながら、巨匠はどのように影響を伝えようとするのだろうか、と思って見始めた。
バレンボイムは、音の強弱からテンポの変化にいたるまで、彼がベートーベンから読み取ったすべてをランランに要求していく。この音はなぜ強く弾いてはいけないのか、このアウフタクトはどうしてリズムを乱してはいけないのかなどなど、細部を全体の構造の中で理由を説明しながら、ときにランランの暴走する手を押さえつけて、まるで幼い子にレッスンをつけるように、自分が信じる音の秩序を押し付けていく。
ランランはそれを、秘儀を聞くように喜々として読み解いているように見える。なぜ、音楽家はそんなことができるのだろう。美術の世界でこれをやったら、いったいどうなるだろう。音楽は無限の可能な分岐の一つの脈路にすぎないのに、それをたどる「理路」には、ベートーベンというチェスの定跡のような、反証可能な「真理」があるのだろうか。音楽にとって演奏は、科学なのか。
この不思議な光景を先月見てから、そんなことを考えていた。そして、第二回目のまな板の上に乗ったのはジョナサン・ビス。
「キミはトリルをずっと均一に弾こうとしてるね、それは破綻するよ。」
同じような光景がひろがるが、しかしビスはあきらかに頭にきていて、僕はむしろほっとした。
コメント
2007年09月17日
08:21
中村理恵子
>バレンボイムは、音の強弱からテンポの変化にいたるまで、彼がベートーベンから読み取ったすべてをランランに要求していく。
それはね、ベートーベンという存在、楽譜という形があって、
しかしそれをいかに奏でるか?音として存在させるか?という現場には、理合いってもんが必須で、それについちゃーは、バレンボイムの理合いがあるんだとおもう。
それはアーティストにとっちゃ自分そのもの、存在そのもの、演奏家としての存在そのもの。
それを、リンリンにおしげもなく見せてる。
同じ時代、空気の中に生きてるリンリンと自分の生をこれでもか!と愛してる行為だと思うね。
ちなみに「形」とか「理合い」とはここ数年こってる古武道より。辞書で引くと平板な意味しかでてこないだろうから、わたしなりに解説すると、形ってのは、たとえば解説書やビデオになんとか残して説明することできるかもしれない。ま、流れとでもいうのだろうか?
理合いは、ライブにそこにいないとどうしても解らない、言葉にできないこと。誤解を恐れずにいうとやってみないと解らない。体全体の毛穴すべて総動員してやっと受け止められること。
貪欲なアーティストだったら、まずは素直にぜーんぶ「はいはい」とバキュームしちゃうとおもう。途中で、「俺だったら?」なんて陳腐なプロトコルを自らの脳と往復させないでね。
2007年09月17日
09:01
ごれ
>音楽にとって演奏は、科学なのか。
ベートーベンの演奏が美術と異なるのは、「作曲したベートーベン」という人間がいることだと思います。
ベートーベンが残した楽譜、それが作曲された時代背景、それが意図していた楽器の構成、響き、そうしたものをふまえた上でどのような解釈をとるか?
「おそらく」その解釈は一通りではない。しかし科学の論文で言えば「ろくに関連研究の調査も理解もせず、自分が主張していることの位置づけもあいまいなままの主張」と「関連研究を調査、熟知しきった上での新しい主張」の差異があるのでは、と思います。
リンリンランランちゃんは、それが自分の目指す音かどうかは別として、後者のすばらしい成果を体験することに喜びを覚えたのではないでしょうか。それは中村さんの書かれている
>体全体の毛穴すべて総動員してやっと受け止められること。
貪欲なアーティストだったら、まずは素直にぜーんぶ「はいはい」とバキュームしちゃうとおもう。
ということではないかと。
ちなみに私を一撃でノックアウトしたアーノンクールの演奏は他の巨匠の演奏とは全く異なっています。しかし彼の書いた本を読むと、それが深い知識、洞察の上で成り立った「全く新しい表現」であることを知ることができます。それは科学の世界に時折現れる「あっと驚くような新理論」にも通じるところがあるのかもしれません。
2007年09月17日
09:53
小林龍生
ぼくもね、このバレンボイムのマスタークラスのシリーズは、(たぶん)全部見た。そして、深い感動を覚えた。
サイードとともにやっていた、ゲーテの西東詩篇集にちなんでWest-Oestlicher Divanという名称で行われていたユダヤ人とアラブ人の若い音楽家たちを集めたワークショップでも、そうだったけれど、バレンボイムほど、自分が楽譜から読み取った作曲家の音のイメージを言語化して伝える能力に長けた音楽家は、きわめて稀な存在だと思う。
彼には、楽譜に書かれたこの音符のつながりは、このように音として表現されなければならない、という必然に対する確固たる信念があり、ぼくは彼の確信に共感を覚える。
若い音楽家たちが、共感するにせよ反発するにせよ、バレンボイムの言葉によって変わっていく様子は、音楽が本質的に持つ襞の奥深さをしみじみと思い知らせてくれる。
ぼくが見たテレビのプログラムでは、レッスンで取り上げられた曲のバレンボイムによる演奏が、放映されていたけれど、
レッスンを受けたそれぞれの若い音楽家たちが、バレンボイムのレッスンによってどのように変わったかを通して聞いてみたいという欲望を覚える。(部分的とはいえ、レッスンの中でも、もちろん、劇的な変貌は遂げているのだけれど)
願わくば、そして、ぼく自身は確信しているけれど、彼らの演奏は、レッスンを受けた後でも、バレンボイムのそれとは異なり、やはり彼ら自身のベートーベンであり続けるに違いない。
2007年09月17日
14:08
安斎利洋
演奏家の個性というのは、ごれさんの言うとおり「関連研究を調査、熟知しきった上での新しい主張」であって、それは作曲家や美術家のように独立独歩でやっているように見える分野でも、びっくりするくらいソーシャルネットな主張なんだと思います。
だから、自分は天才だと思っているクリエーター(きっと僕らもみんなそうなんだろう)の「才」の90%は、実は個人に属さない「理合」なんでしょう。
でも、この「孤高の天才」という思い込みをぶちやぶるには、ベートーベンというコスモスと、バレンボイムの大きさと、ランランのしなやかさが、奇跡のように出会う必要があったんでしょうね。
もしこれが、同じランランを相手に、たとえばアシュケナージがラフマニノフを教えたとすると、もっと生ぬるいことになるんだろうな。それがむしろ、普通の「教える」という行為なんだろう。
2007年09月17日
14:14
中村理恵子
あたしは、小林さんの曰く
>彼には、楽譜に書かれたこの音符のつながりは、このように音として表現されなければならない、という必然に対する確固たる信念があり、
特に「必然に対する確固たる信念」ということ。
これがまさに、わたしがいまとらえている”理合い”ということを一番すっきり言ってくれちゃって、深く感謝。
2007年09月17日
14:27
安斎利洋
>それぞれの若い音楽家たちが、バレンボイムのレッスンによって
>どのように変わったかを通して聞いてみたいという欲望を覚える。
バレンボイムは、「ひとつの音でクレッシェンドができる」とか、ピアノの旋律の「ここで楽器が変わる」とか、魅力的な言葉を繰り出すけれど、彼の言っているのは、ベートーベンの音楽のどの一音をとっても、それは曲全体の中の位置をもっていて、そこで生かされている、という単純なことの言い換え、変奏なんだということがだんだんわかってきます。僕らは観客としてその言葉に感動するけれど、ランランにとってそれはテクネーとして、バレンボイムが面白くてしょうがない、という感じだった。ある一音を数%弱めることが、バレンボイムの言葉が添えられるだけで、曲全体とかかわるというのは、ランランにとっても驚きだったんでしょう。
ランランが、バレンボイムのマスタークラスのあと、なにが変わるのかというのは、本当に興味があります。もちろん、バレンボイムの解釈どおりの強弱やリズムで弾くことはありえないわけで、むしろ、そこから抽出したメタな知識をどう生かすのか。それをランランに、できれば言葉で語ってほしい。ランランはバレンボイムと、音の強弱のような表層のやりとりを通して、メタに会話できる力量があるんでしょう。
ジョナサン・ビスは、彼の独自のスリルの組み立て方が、バレンボイムの組み立て方と表面的にはまったくかみ合わないところではぐれてしまったように見える。メタな会話になるには、きっと長い時間が必要なんでしょう。
2007年09月17日
15:00
安斎利洋
google知識にすぎないけれど、武道の「理合い」って、アフォーダンスと関係あり?
2007年09月17日
15:59
中村理恵子
>武道の「理合い」って、アフォーダンスと関係あり?
うんとね、人と杖と技と業と理合いに間合いにそん事がつまった
「杖道」という古武道にアフォーダンスはおおきく響くんだけど、「理合い」ってことを取り出してそこにフォーカスしてるか?ってのは、今は応えられない。
もうちょっと時を経て、また別の機会に言葉にできるかもね。
2007年09月17日
16:58
小林龍生
>僕らは観客としてその言葉に感動するけれど、ランランにとってそれはテクネーとして、バレンボイムが面白くてしょうがない、という感じだった。
この感覚は、よく分かります。
ぼくたちが、アマチュアのオケマンとしてもっとも忌み嫌うのは、抽象的かつ観念論的な言葉で音楽を語ろうとする二流の指揮者。優れた指揮者は、自分がイメージする音楽を実現するために、きわめて具体的なテクネーとしての音の出し方を指示する。その結果引き起こされた音楽の変化から、メンバーたちは、テクネー以上の何かを学び取る。
ぼくは、後進にシンバルの叩き方を伝えるとき、「口をあけて叩いてごらん」といったことをよく言う。「歯を食いしばって」の逆で、口をあけて体中の筋肉に力を込めることは難しい。だから、脱力の手段として口をあけるのは、なかなか効果的なのね。(だけど、本番でこれをやると、ほとんどアッバードみたいになってしまうので、要注意)
2007年09月17日
23:23
安斎利洋
>抽象的かつ観念論的な言葉で音楽を語ろうとする二流の指揮者
>優れた指揮者は、
>きわめて具体的なテクネーとしての音の出し方を指示する。
これは音楽に限らず、あらゆる知の成熟基準ですよね。二流の哲学はすっきり理路整然としているけれど、一流の哲学はモノと道具のざらつきがある。一流の建築家は、思想よりコンクリートを流すのがうまい人材を大事にする。良い政治家はイデオロギーより、その場の交渉を大事にする。などなど。
少し話をすると、相手がホンモノかニセモノか、すぐわかりますね。剣術家のいう例の「御主できるな」ってのは、きっとこのことだね。
2007年09月18日
06:38
Archaic☆Lucare
バレンボイムにとってのベートーベンが彼の中で他の作曲家に比べてどのように違うのかは、私は残念ながら知らないのですが。
音楽演奏の必然性が作曲家直伝のものであることも多々ありますね。ベートーベンにならったとか弟子になっらったであるとか、そういった表現によってなされる部分。
バレンボイム自身がどういう経路(誰に師事、というのはこの世界では大きい)で音楽を学び、そして自分の中で熟成させていったか。それによってベートーベンの時代性を踏まえた文化をも含んだ音楽として、具体性をもってまた厳然さをもっているということは、あるのではと思います。流派とでもいうのでしょうか。
2007年09月18日
07:46
中村理恵子
>剣術家のいう例の「御主できるな」ってのは、きっとこのことだね。
Archaic☆Lucareさん、人の軒先で、それもかなりマジな話題でなんですが、菓子折り包む専用の風呂敷かついで、チャンバラやってたんとちがうか?(笑)
かかってこい!
逃げるとは卑怯なっ!
なんちゃって。
即、絵になっちゃったんですけど、かわゆい顔のどう猛な女子を(笑・すまんこってっす。)
2007年09月18日
07:54
Archaic☆Lucare
お転婆という言葉は私のためにありました。(笑
安斎さん、すみません。。。
2007年09月18日
20:26
安斎利洋
>流派とでもいうのでしょうか。
たとえば美術のなかで個々の作家の個性というのは、美術というパラダイムの中での立ち位置にすぎなくて、そこから外れると、評価さえされない、ということがあると思うんですね。そういう意味では、どんな作家も流派に属している。
そういう原理的な流派のほかに、なんとか先生の傘下で、その先生の許容範囲で仕事をすれば安泰というような意味での流派もあるんでしょう。
演奏家の流派っていうのは、実際にはどんなものなんでしょう。たとえば、トリルを装飾的でなくミニマル風に弾くとか、古楽風にビブラートをしないとか、そういうのは流派というより流行ですよね。
そういうことは、のだめを読めばわかるのか。
2007年09月18日
22:03
Archaic☆Lucare
流派というのは大雑把な表現だったかもしれません。
ピアノですと殆どがアーテュキレーションに関するものだと思います。また演奏法となると身体の使い方による音の違いもあると思います。鍵盤打法のようなものも。音の処理とか。
純粋に楽曲分析としてこの音型のときはこのように演奏する、といったようなものもあると思います。言語のようなものですからね。
違うしゃべり方をするとその音楽に聞こえない。。。何を話しているのかわからない、というような。
私のやっていたクラリネットという狭い世界だと、当時国内では誰の門下で勉強しているのかは演奏を聞くと音でまずわかり、曲の解釈でも見当がつくようなところがありましたね。今もそんなに変わらないのではないかしら。楽器の選択(ドイツ式とフランス式)も含めます。演奏家としてプロとなってゆくと自分のスタイルに変化してゆきますが。それでも、基礎が見えるので、なんとなくは。
2007年09月18日
22:16
小林龍生
>演奏家の流派っていうのは、実際にはどんなものなんでしょう。
二つの相反する感慨があってね。
たとえば、オペラについて言うと、それぞれの劇場が、それぞれの楽譜を持っている。レンタルで楽譜を借りても、多くは、どこかの劇場が持っている楽譜のコピーだったりする。
そして、その劇場が持っている楽譜には、その劇場の演奏史が刻み込まれている。
こと、オペラの上演という点では、そのような演奏史の積み重ねを無視した上演が聴衆に(のみならず演奏者にも)受け入れられる可能性はきわめて低い。小澤征爾がウィーンで必ずしも高く評価されていない理由の一つが、ここにある。
一方、以前、オーケストラのシーンで、小澤征爾に関して、感動的な話を聞いた。
ボストンシンフォニーか、ベルリンフィルか、はたまた、ウィーンフィルか、よく覚えていない。
それぞれのオーケストラにも、それぞれの楽譜がある。そこには、さまざまな書き込みの歴史がある。
あるとき、小澤が、その書き込みと異なる要求をした。当初、楽員は、その指示が、書き込みと異なることを理由に、拒絶的な態度を示した。小澤は意を尽くして、要求の理由を説明した。結果、楽員は小澤の要求を受け入れ、小澤の要求を楽譜に書き込んだ。
バレンボイムのレッスンを巡る、この一連の書き込みを読みながら、ぼくの脳裏には、しきりと松尾芭蕉の《不易流行》という言葉が浮かび上がってくる。
芭蕉は、決して、《不易》を《流行》の上位におくことをしない。たぶん、芭蕉のコアメッセージは、《不易》は《流行》の衣をまとうことでしか存在することができない、ということではないか。
2007年09月19日
00:43
安斎利洋
>芭蕉のコアメッセージは、《不易》は《流行》の衣をまとうことでしか
>存在することができない、ということではないか。
ここ、かなり深くヒットしました。
たとえば300年の音楽の伝統、というのがあったとして、それはどこにあるかというといまこの時点を生きている人間の、ニューロンネットワークのトポロジーと発火状態、つまり現在そのものである。少なくともその状態にもってきた、その人の生きてきた数十年のブートストラップのことを、伝統と呼んでいるわけです。
動物がはじめに見た顔を母親とするように、人間はこれまで聴いてきた音楽をもう一度なぞりたいという欲求をもっている。別の言い方をすると、自分の中にある音楽しか聴くことができない。と同時に、いままで聴いたことのない音楽を聴きたい、と思っているし、だから新しい音楽がヒットする。
「見る」ことも同じで、人間は自分の中に湧き上がるものしか見ることができないし、同時に自分のなかにすでにある新規でないものは、ちゃんと見ようとしない。
これらがすべて矛盾に思えるのは、不易と流行が直交し、独立にあると考えるからで、実は不易は流行の形の中でしか存在しえない。
2007年09月19日
01:15
安斎利洋
>私のやっていたクラリネットという狭い世界だと、当時国内では誰の門下で
>勉強しているのかは演奏を聞くと音でまずわかり、曲の解釈でも見当が
>つくようなところがありましたね。
絵や文学や映画なら、その作家が誰を「師」としているかはわかるけれど、実際に師弟ある必要はない。影響は、もっと別の伝播をします。演奏は、やはり暗黙知が大きいのかな。
2007年09月20日
00:18
うさだ♪うさこ
ここでした!!
私はここで画期的な見解を書いたつもりだったのですが、そのとき疲れていて酔っ払っていたので、たぶん、その前に書いたコメントとともに、新しいコメントもきれいさっぱり消してしまったのです。
酔っ払っていた私が何を書いたのかは、いまとなってはわかりませんが、音楽が伝承にうるさいというのは、やはり音楽が基本的にはある固有の人格による瞬間芸で、「あとに何も残らない」からじゃないかということを書いた(で、消した)んでしたっけ。
最初、私は安斎さんのおっしゃることを読んで、これは単純な時代背景の話なのかもしれないとか、思ってました。たとえば、ピアノだったら、ハープシコードのように抑揚のない表現しかできない楽器だったときのトリルと、ピアノが進化して重力奏法できるようになったあとのトリルとではおのずから違う。そんな話なのかなあと思ってました。でも、ちょっと話が進んだ今となっては、音楽は実際には1回限り、その表現者の一代限りで、あとには何も残らないことが、大きな問題なのかなあと思いつつあります。
なので、美術の師弟関係と音楽の師弟関係が違うとすると、音楽においてはそれぞれの演奏者が、自分のやり方を通すことも大事だけど、先人の名演の「理由」を理解して伝承するすることもすごく大事に思ってるからなんじゃないかな、と思いました。
2007年09月24日
00:09
SYNDI
みなさんのコメントも含めてとても面白いです。
もうとっくにやめてしまったガキの”習い事”としてのピアノの話ですが。
自分のピアノの先生はあたしの体の中に教えていたというか、頭には何も教えなかったというか。そういう感じでした。
あたしはそれに対して何も疑問に思いませんでした。
ある時期まで、音楽は体だけで考えていたんです。今もそうかもしれません。
もう少し進んだ生徒になれたら、(それは体が先生が伝えることを受け取りきる、ということとイコールだと思います)頭のほうにも話しかけてくれる時期があったのかもしれませんが、あんまりいい生徒じゃなかったし。結局最後まではついていけなかったっていうオチなんですけど。
いい先生だったと思います。
でもあたしにはオーバークォリティだったですわ。
2007年09月24日
01:08
うさだ♪うさこ
BBS状態ですみません。
SYNDIさん、そうなんですよね、音楽では結局「体」なんですよね。
2007年09月24日
02:36
安斎利洋
ちょっと異論をはさみますが、体で覚える音楽のアーティキュレーションは、実は流行に過ぎなくて、ショパンをショパンらしく弾くというのは、流行の「ショパン節」にすぎない。
若い演奏家は、音楽のダイナミクスが流行にすぎないことを暴きたてるために、いろんな実験を繰り出すわけです。
バレンボイムが面白いのは、流行と反流行の対立軸にはいないところ。不易の必然のところで、体じゃなくて言葉で思考しているのが面白い。バレンボイムのレッスンは、科学のスリルに近いんだと思います。
2007年09月24日
03:29
SYNDI
>体で覚えるアーティキュレーションは、実は流行に過ぎなくて
でも、不易は流行にのっかって、あるいはくるまれて伝わるのですよね?
どのように伝わるのかってところに、体がメディアになるしかないものが、まあ少なくともあたしが習った音楽にはあったのです。
それから、伝わったということを証明するのも体だけです。
そこから出てゆくのも体で(音で)示さなければならない。
あたしは自分の性格から言うと、先生がもっと言葉を与えてくれたらラクだったのになあ、と(今は)思うこともあるのですが、先生がそれをしなかったのには理由があったのかも、とも思う。というか想像するわけです。
上↑に書いたことは、もしも体がもっと出来上がっていたら、その次の課題は言葉によるものだったのかもなあと想像してのことです。
マスタークラスのレッスンなんかを覗き見るとそう思います。
あたしの先生は高名な指導者だったらしいのですが、もちろんバレンボイム並みの演奏家ではないし、あたしはリンリンでもランランでもなくてただのガキです。(笑)専門家になるつもりさえなかったです。(そのことで先生をあきれさせたと思いますが)
つまりもっとプリミティブなところで「教える」ということがなされていたのですが、それでもそのレッスンは確信と直感に満ちたものだったのです。
あたしは、楽譜から立ち上がる音楽が、「こうであるはずだ」と感じる体になるまでのことは、かろうじて習ったと思うのですが、その先には行けなかった生徒です。
>若い演奏家は、音楽のダイナミクスが流行にすぎないことを
>暴きたてるために、いろんな実験を繰り出すわけです。
こういうことができるかできないか、バレンボイムの不易の必然を”言葉で”受け取る力を手に入れるプロセスには、どうしようもなく体が必要なんだと想像します。
「バッハをバッハらしく弾く」体になるまでだって、10年ぐらいはかかりますよ。(笑)弾けなかったら、体も言葉も考えることには使えないのです。
2007年09月24日
04:54
安斎利洋
音楽の話に限らないけれど、体で覚えるまでが二流。染み付いた手癖を忘れるのが一流。より高次の秩序を見つけるのが超一流。
自分も、ある分野で一流にはなれると思うけれど、超一流になるのは、超難しい。
2007年09月24日
11:18
SYNDI
手癖のところでうろうろして一生を使い切りそうだ・・・。
それが凡百ということなんでしょうけれども、それでもこの先の道筋があるんだわ、と思っていなけりゃ進めないのでしょうね。
2007年09月24日
12:38
うさだ♪うさこ
言葉で表現して受け入れられるに至るまでに、すでに自分の体がじゃまをしなければ、という条件がつきますよね。
2007年09月24日
13:25
安斎利洋
>それが凡百ということなんでしょうけれども、
凡百というのは、実数は凡百万人くらいだから、ミリオンセラーを狙うなら手癖にとどまったほうがいいです。
2007年09月24日
13:33
安斎利洋
>自分の体がじゃまをしなければ
このまえ、N響とノリントンのリハーサルをテレビでやってました。体で覚えているヴィヴラートがじゃまをして、なかなかうまく指揮者の望むように弾けない一流の奏者たちのとまどいが、面白かった。
体で覚えた思想がじゃますることもありますね。音楽に限らず、まずは自分の中のカンタービレを壊すような、異種交配を続ける必要がある。だからカンブリアン、というわけです。
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