AとBが同じカテゴリーにあって演算可能なことを、「土俵に載る」という比喩であらわすことがある。逆に、単純に比較できないもの同士は「土俵に載らない」。
煙草を吸った高校生は、高校野球に出られない。社会的であることと、スポーツが強いことは同じ土俵に載っていることがわかる。芸能人も同じで、逮捕されると干される。
巨人と阪神はどちらが野球が強いかという土俵の外で、球団の売買やら選手の取り合いといったメタゲームの土俵に勝敗が影響する。実は、ゲームとメタゲームが同じ土俵に載っている。
一方、犯罪者が芸術家や小説家になることはある。鶴見俊輔の限界芸術論は、ひとことで言えば土俵の越境を問題にしている。土俵間を行き来することにしか生きる道がないから、ジャン・ジュネは人生のほとんどを犯罪者として過ごした。社会と創作は、土俵が違うから、その中間に厳しい限界が生まれる。
道義に反した力士は、土俵に載れない。道義と強さは同じ土俵にあるのだという精神論を、ここのところ毎日聞く。だから相撲はつまらない。土俵を分ければ、そこに限界が生まれるはずだ。そこをごまかすと、馬鹿な評者が外交問題まで土俵に載せようとする。
ふざけた野郎が横綱でも、なんにも困ることはない。
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