安斎利洋の日記全体に公開

2004年12月15日
12:25
 ロスコとグールドとDPI
20年前にCGを始めた僕らにとって、DPIという概念には非常に違和感があった。たとえば1024×768画素の画像を送稿すると、「DPIを指定していただかないとレイアウトできない」みたいな頭の悪い反応が帰ってくる時期があった。100×100画素を100m×100mに拡大印刷しても、CGはCGだ。

画素空間という抽象的空間に物理的な長さを与えることによって、CGは身体と固定的な関係を結ぶことになる。画像の大きさをcmであらわすことで、電子画像は一般に認知されていったのだろう。DPIは革命ではなくて、馴れ合いの道具であるように感じてきた。

演奏会からドロップアウトを宣言したグレン・グールドは、日々室内に篭り、オープンリールのテープデッキに向かって何テイクも演奏をし続けた。電子メディアの空間に向かうことは、身体や生の一回性からの絶縁を意味する。いわばDPIを拒否することによって、グールドはスケールから自在な表現を手に入れる。

もし、ロスコの絵からDPIを外したらどうなるだろう。なささんの日記を読んで、そう考えた。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=4973960
テーブルの上に投げ出された画集の中で見るロスコの絵は、天も地もなく大きさもない。そこに、ロスコの体験はない。

身体に対してアフォードすること、脳に感覚を注入することがアートの目的であるかのごときトレンドの中で、DPIから自由になること、身体空間と絶縁することが、むしろ僕にとっては大きな意味を持ち始めてきている。
 

コメント    

2004年12月15日
20:23
なさ 飛鳥井
「テーブルの上に投げ出された画集の中で見るロスコの絵は、天も地もなく大きさもない。そこに、ロスコの体験はない。」(安齋さん)

私はロスコの体験のできるリアルの世界に意義を見い出しています。
私も以前はCGとかVRをやっていたので(しかも思春期は観念論だったので)、安齋さんの言わんとしていることは分かりますし、実際にそう感じたこともありました。

ただ、現在は二つの観点からスケールは意味があると思っています。
人間が介在しない観点と人間が介在する観点の両方からです。

人間が介在しない観点からは、非線形な現象が入ってくると、スケールによって振る舞いが変わってきます。
例えば、落下は非線形なので、人間が自分の身長だけ落下するのと、ゴジラが自分の身長だけ落下するのとは、時間が異なるので見え方も異なります。
また、粘性も非線形なので、大きな海とプールとでは波のでき方が違いますし、バクテリアのスケールでは水はネバネバしているので、人間のようには泳げず、鞭毛が発達しています。

人間が介在する観点からは、例えば視覚的に同じ視野角を占めていても、両眼視差は異なりますし、水晶体の調節も異なってきます。
この遠近の違いにより、アフォーダンスによる人間の振る舞いも変化して、近い場合には避けようとする動きをすると思います。
また、無意識に与える心理的影響も異なり、例えば相似形の舞台だとしても、高さが異なれば、上に立ったときの無意識の恐怖感による心拍数の上昇には違いがあると思います。
つまり何かを知覚するときに、身体を無視して知覚するのは不可能ではないかと思っています。

安齋さんの問に対する回答になっているでしょうか。
2004年12月16日
00:02
安斎利洋
なささん、確かめちゃくちゃ忙しいとおっしゃってましたよね。話に広がりを与えるコメント、ありがとうございます。

ダリの絵を見るたびに思うのですが、あれは電子映像でも印刷物でもかまわない、というか、油絵である状態がいちばん完成度が低くて、画布のディテールが見えると興がさめます。ダリは、書物で見るのが最適かもしれない。

20世紀の美術を百年後に振り返ると、作品のオリジナルな大きさや物体としての存在感が、メディアの中で抽象化してしまった時代、ということになるのかもしれない。

そういう意味で、ロスコの絵は伝統的であるということもできます。場所と大きさと時間と観られ方に、それぞれ必然的な要求をもっているからです。僕もロスコは大好きだし、ロスコは本で見ただけじゃだめだと思う。

でも僕はなんとなく、地中美術館でタレルとモネの響き合いに衝撃を受けてから、(その衝撃が大きかっただけに)すわりの悪い違和感が徐々に自分の中で育っているのを感じます。すべては自分自身の内側にあり、作品は内部世界の共振を喚起する装置である、というような潮流、脳による脳のための芸術というような考え方に対する、居心地の悪さです。

どうしたって、知覚の枠組みから人間は逃れることはできないのだとしたら、芸術はあらかじめ生き埋めにされていることにならないか。そういう窒息感を感じます。じゃあ、その外に何かあるのか、といわれると、そんなものは知覚できないわけですが。

遺伝的絵画とか、連画とか、ある意味人間の内部に下りていく階段を外してしまおうとする強い衝動が自分の中にあって、そのいわれが自分でもよくわかりません。

きっと共感されないだろうなと思いつつ、このテーマをもうちょっところがしていくと、何かに向かっていくような予感があります。
2004年12月16日
07:26
中村理恵子
>人間の内部に下りていく階段を外してしまおうとする強い衝動

うーん。あたしは、その先にどうしようもない穴が開いてると思ってるんだけどね、直感的には。
その穴ってのが、よじれてぜんぜん違う次元や外界とおもいがけず繋がってるというか、開かれちゃってるというか。
そのときに、茫然自失って感触。
馴染んだ蛸壺の中にいたつもりが一気に地上何百メートルの一点に立ってるってなよじれ。
蛸壺の底をめざしても、たとえ階段はずしてても、どこかでひょいとひょいと出会ってしまったりして。
何に?
2004年12月16日
23:47
るーぱぱas不良mixi
> きっと共感されないだろうなと思いつつ、

きっと共感されないだろうなと思いつつ、コメントしちゃいます。
スケールフリーということは、スケールに関しての多様な状態(ポリフォリズム)を表現していると捉えることもできますよね。
遺伝絵画はその代表かと思いますが、CGには元々ポリフォリズム的な本質があると思います。ただし、ポリフォリズム自体は必ずしもスケールとは関係ないので、身体性と相性が悪いということではないと思います。

例えば、部屋の中に立って、手の中に「輪」を握っているとします。(作品プラン)
その「輪」は概念なのでいろんな輪に瞬時に変化できます。
この「輪」を握った時の、多様なアフォーダンスの拡張を想像してみてください。

でも悲しいかな、実現可能なポリフォリズムのうまい見せ方が思い浮かびません。例えば一枚のタブローのような形態では、それは多様な状態の中からたまたま選ばれた一つであり、全体を語るだけの力はない。ちょうど収縮した波動関数のようなイメージでしょうか。
これを収縮させずに丸ごとバサッと見せる方法があればなあ。見つかるまで冬眠してます。
2004年12月17日
01:08
安斎利洋
ポリモルフィズムのことですよね。

良い表現にはかならず多義性が眠っている、と思います。でも表現の多態性という言い方は、新鮮ですね。

遺伝的絵画、そうですよね確かに表現の多義性ではなく多態性を目指しているんだな。

明日散歩しながら考えます。
2004年12月18日
00:01
なさ 飛鳥井
安齋さん、人間は抽象を知覚することはできないと言うか、抽象とは頭の中にしかない概念ではないでしょうか。

地中美術館は行きたいものの、まだ行っていないです。
機会がありましたら、地中美術館でのタレルとモネの響き合いのお話を聴かせてください。

内側と外側、脳と外界を明確に分離することは、意味がないように思います。
脳は外界の影響を受けて発達するので、脳と外界はほとんど不可分ではないかと思います。
そういう意味では、脳と外界、脳と芸術は、身体を介してシームレスに繋がっているように思えます。

なかむらRさんの、階段の先の穴が外界と思いがけず繋がっているのには同感です、クラインの壷みたいに。

るーぱぱさんのポリモルフィズムの話はちゃんと理解できていません。
人間が概念としての「輪」を握っていることが想像できないのです。
また多義性は、知覚する主体としての人間と、例えばモノとの相互作用として現れるものであり、モノに多義性があると言うべきかどうか。
もちろん、初期のアフォーダンスの定義では、ギブソンはモノ(環境)の中に意味があると言っていますが、これは極論だと思います。
2004年12月18日
20:59
あ っ こ
>内側と外側、脳と外界を明確に分離することは、意味がないように思います。
脳は外界の影響を受けて発達するので、脳と外界はほとんど不可分ではないかと思います。
そういう意味では、脳と外界、脳と芸術は、身体を介してシームレスに繋がっているように思えます。

じーんときました。実感ももてす。
この意味を「言葉」でこんなにわかりやすく説明できるなんて感動です。
2004年12月20日
09:11
安斎利洋
>内側と外側、脳と外界を明確に分離すること

内部と外部の中間に身体という層があるとして、身体は外の世界に属するものでもあるけれど、内部に属するものでもある。内部に属する身体、たとえば夢の中に出てくる自分の身体感覚は、スケールや物理法則からも自由で、壁を突き抜けたり空を歩いたりする。

主語・動詞・目的語、という並びがあるときに、多義性が主語や目的語の問題であるのに対して、多態性が動詞の問題であるとしたら、身体というのはまさに多態的なんじゃないか。

というようなことを考えながら、今朝起きました。
2004年12月20日
23:15
なさ 飛鳥井
内部の身体、あるいは我々が想像する身体は、外部の身体に規定されていると言えないでしょうか。
脳が外界と全く接触しないで、発達することは可能か。

多義性と多態性、ちゃんと理解してないかも。

あっこさん、感動なんかされたの初めてです。
お役に立てて嬉しいです。
2004年12月20日
23:34
安斎利洋
mixi友人のお子さんの絵で、壁に激突した人が、痛がりながら、目だけ壁を突き抜けてしまう、というのがありました。ああいうイメージとしての、あるいはシンボルとしての身体というのはどうやって成立するのか、興味があります。外部の身体に既定されつつ、内部的な象徴のシステムが別に出来上がるというようなことなのか。

多態性の話は、時間を見つけて別日記にしてみます。
2004年12月21日
00:38
安斎利洋
作者の母親であるmisaさんの許可を得て、彼が保育園で描いた「マンガ」のひとこまを載せました。日記はクローズドですが、
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=4078031
2004年12月21日
11:08
中村理恵子
↑、この画中「い」という字につづくのは、「てっ!」でしょうか?(笑)。

絵に文字交じりだったり、混じる混じる。
2004年12月21日
11:16
安斎利洋
いーてー

の文字が、絵の一部になっているように見える。いろいろに読み解ける絵です。
2004年12月21日
13:37
あ っ こ
画面いっぱい真っ赤っかに塗ってる子供に、何かいてんの!って聞いたら「消防車」っだったことを思い出してしまった。

なるへそ

体がちっこいぶん、自分も子供の頃は感受したことと外界に存在しているってことがとってもファジーに結びついちゃって「すっげーでっかいせかい、いっぱいいっぱい うれぴー」になってた覚えがある。自分が痛いってことと、ぶつかっていたいってことがこれまた、飛び散ってしまっているところも説明じゃなく「腑に落ちる」。

水族館で見たデカイ魚のでかさを表現したくて家のフスマ一杯に魚を描いてこともありました。

からだ感覚は、成長の過程で「認識」(外界からの距離の分析結果として脳によって)を積み上げていくものだということが実感できます。そこに拮抗してくる「欲望」が混沌としたからだに、はっきりとした(自覚的な)「自分」を焼付けながら人間っぽくなっていく???
2004年12月21日
14:39
misa
お邪魔します。
息子の絵を取り上げてくださって、ありがとうございます。

この絵は4コママンガの2コマ目で、3コマ目では首がもげてしまい、4コマ目では、持っていた本が首に、首を手に持つ…というお話になっています。どうも、このストーリー自体には、元ネタがあるようなのですが、興味がわいたのはその後。

しばらく、息子は同じネタのマンガを何回も描いたのですが、首とすげかわるものは、次々に変わっていく。おもちゃになったり、木になったり。何人もが一度にぶつかって、みんなの首が入れ替わる〜なんてのも、描く。
で、何度も描いたところで、やっと飽きてきたのか、このネタを描かなくなったんです。自分の中での、ネタの「おもしろさ」をいろいろ試して描いていたのではないか…と、と勝手に解釈していましたが、これも解釈の余地あり、ですね。
2004年12月22日
11:41
安斎利洋
misaさんの「首を飽きるまですげ替える話」、今考えている遺伝的絵画のツボを押しました。鳥肌が立った。

オブジェクト指向における多態性、テキスト表現における隠喩、どれも交換可能な概念装置を作ることで、人間は飽きるまで概念の交配をしようとする動物なんじゃないか。

たとえば立つという身体的な言葉を、さまざまなクラスと交配をしてみる。それぞれのクラスにおける「立つ」とはなにかを考えると、噂が立つ、とか、霧が立つ、といった比喩的表現がどんどん生成される。そうやって、言語のシステムが豊かになる。

そういうことを、絵画の世界でやってみようというのが、遺伝的絵画です。良いイメージをいただきました。
2004年12月22日
11:49
安斎利洋
あっこさんの話を読んで、子供の頃見上げたな桐の箪笥を思い出しました。巨大なビルのような箪笥の上には、禁断の宝物がたくさん載っていて、それに手がとどかないもどかしさ。いまでも実家にあるその箪笥の小ささが、面白い。

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