安斎利洋の日記
2005年10月29日
19:48
バベルの計算機
昨日の日記のスレッドを読み返してみて、幸村真佐男さんに会って以来、なんだか頭がすっかり1960年代になっているような気がする。あの頃の芸術家は、人間なんてちっぽけだと思っていた。というか、人間より大きなもののことを考えていた。そこが、いまの空気といちばん違う。
そこに戻ろうというのではないのだけれど、「人よりも大きなものが、計算機の中にある」という確信はますます深まるばかり。だって、計算機は人の脳によって変えられるんだから。いわば『バベルの計算機』。
月曜から金沢に行ってきます。
コメント
2005年10月30日
00:02
健
人より計算のほうが大きいことを示すためには、計算の中で人をつくらなくちゃいけなくて、なんかうんざりしてきたりします。示すのが科学者の仕事なので仕方ないですが、気づかせるのは芸術家の仕事です。両方やるのがダビンチなのかな。
2005年10月30日
00:22
ikeg
自分より賢いものを作れるか、という証明はがんばってもいのでは?レムのゴーレムだな。
2005年10月30日
02:30
安斎利洋
幸村さんの作品『五言絶句集』は、あらゆる漢字から抽出された5文字の組み合わせを網羅して、製本し本棚に並べたもの。五言絶句によってあらわせるポエジーの要素は、その図書館のどかに書かれている、というわけです。
そういう形で、すべての詩を含む集合があることを「気づかせる」ことは、芸術にできる。すべての詩を含む集合があることを証明するのは、難しい。
ダビンチは、気づかせることと証明することをいっぺんにやるんでしょうね。
もし自分より偉い計算過程が壁の向こうにあって、それが自分より偉いことをテストできるんだろうか。
2005年10月30日
08:41
MERC
無意識のうちに集合を気づかせることは猿にでもできるかも。猿にアトランダムにタイピングさせシェークスピア全集を書き上げるってお馬鹿なプロジェクト
http://
en.wik
ipedia
.org/w
iki/In
finite
_monke
y_theo
rem
も、そのプロジェクトを考え出した時点で無意識のうちに言語の集合の可能性と限界をみごとに「気づかせ」ましたね。
仮に猿がハムレットを書き上げたとしても、それは文学的には何の意味もない。(少なくとも猿にとっては)それを 解釈し、あほくさ〜と思うか、宇宙の真理であると考えるかは受け手次第。
実際、猿から進化した人類の一人であるシェークスピアはハムレットはおろか、彼の全ての作品を書き上げたのだもの。
ある意味、猿がシェークスピアに伍するのは時間の問題でしかないのかもしれない。
ちっぽけな(猿並みの)人間は、タイピングする猿がごとくむやみやたらに文字の羅列を生み出していくけど、それを整然と解釈し、芸術の域に高めるのは芸術家の仕事であり、受け手たる我々(進化した猿)の仕事ですね。
2005年10月30日
09:05
中村理恵子
自分をのみこむか否か?
大概の事は、だいたい自分よりちっぽけにとらえて(瞬時に見切って)、とっとと先に進むってのが効率的に物事すすめるための学習の効果でしょう?
でもさ、数秒で200gくらのリンゴをリンゴととらえることやめて、数十時間かけて
描くっていう作業の中で凝視してると、リンゴがどんどんでかくなって自分がめりこんでしまうくらい。果ては完璧に大きな世界となって包まれてしまうことがあるよね。何千、何万というハッチングの描線を重ねることは、世界をこれでもか!と触り探るマシーンにでも、自分が化しちゃったように思うことが、ハタっと我に返る瞬間にあるね。
‘山‘と‘リンゴころころ‘しか描かなかったセザンヌってのも‘大きなものの考え方‘を直感させる作家なんだろか。崇拝者は多い。
幸村さんの、最近の一眼デジカメ2機を2丁拳銃のように構えて、呼吸するように連続シャッターに指を置く風景の中でも、きっと彼はたまに我に返って、「ああ、また世界にめり込んじゃった。」と呟くんだろーか?
今度会ったら、そのへんの話から始めてみよーか。
2005年10月30日
09:59
ikeg
自分を飲みこむ、そうですね、どういうレベルでもいいから、frame of reference問題への気づき、というのは重要でしょうね。
2005年10月30日
13:07
安斎利洋
MERCさん、写真いただき。
人間も、実は神様の仕掛けたシェイクスピア猿なのかもしれませんね。
2005年10月30日
13:15
安斎利洋
中村さんと連画を15年もやっているんですが、なんでこんなに続いたのかと思い返すと、中村さんはときおり、どう考えても狂った悪趣味とした思えないような、しかしどうしても気になってしかたないような作品を返してくる。
中村さん自身は普通にやっているし、奇をてらっているわけじゃない。そのたびに僕は自分が、あるframe of referenceの中にいることに気づく、ってことを15年やってきたような気がします。
2005年10月30日
13:58
中村理恵子
>どう考えても狂った悪趣味
なんか信じられない表現ですし、いったい誰のことかと耳目を疑いますが、たぶん「触り探るマシーンにでも、自分が化しちゃった」状態から我に戻らないまま、うまいこと絵にできちゃった時だとおもいます。→貴重です(笑)。
2005年10月30日
14:14
安斎利洋
作品に深く感動するときって、実は予定調和なんですよ。
自分のフレームが揺らぐときっていうのは、はじめは不快感として訪れるから、悪趣味だとか、臭いとか、狂っているとか思う。そして次の日、自分の位置が変わっていることに気づく。
2005年10月30日
15:51
ユミ
>そして次の日、自分の位置が変わっていることに気づく。
それは根源に愛があるというか中村理恵子という芸術を信じてるからじゃないかなぁ、、、
不快なものは不快なまま自分は元の位相に居るということの方が多いです。私。
この前料理の本を読んでいて「『心を込めて作る』というのはあり得ない、作る立場としては徹底して技術であるべきで、『心を込める』のはあくまでも食べる方の人間が心砕くべき事だ」みたいな一文に出会って、なんかすごく納得した。
創造するってことは徹底的に非情なことだなぁ。と、、、
>作品に深く感動するときって、実は予定調和なんですよ。
そうなのかぁ!!!!
2005年10月30日
15:56
H.耕馬
>実は予定調和なんですよ。
最近の安斎さんの日記に1つもコメント付けられないのはどうしてかなぁ、と何となく考えていたら、予定調和出来なかったんだ。
頭固いんだなぁ >自分
2005年10月30日
16:03
安斎利洋
>中村理恵子という芸術を信じてるからじゃないかなぁ、、、
それはそうだと思います。不快なもの、不可解なものは、たいてい排除すべきものでしょう。
一日たったら自分が変わっているといういのは一種の洗脳で、矛盾しているようだけれど何に洗脳されるかを自分で選んでいるんじゃないかな。自分の境界線が拡張するというのは、そういうことだと思う。
>>作品に深く感動するときって、実は予定調和なんですよ。
>そうなのかぁ!!!!
そういうことが多い、ということです。水戸黄門が印籠を出したときの感動と、作品からの感動と、その距離をいつも測ったほうがいいと思ってます。
2005年10月30日
17:35
安斎利洋
>頭固いんだなぁ >自分
この部分は、柔らかいですよ。
2005年10月30日
18:32
H.耕馬
>水戸黄門が印籠を出したときの感動
この例はよくわかります。
Entertaimentとしての感動は、観客がすでに来ることを予見or期待しています。
占いがEntertaimentかどうかは、諸説あると思いますが、占いのお客は、易者が何を言うかを言われる前から予見or期待しています。
芸術は違うというわけですね。
しかし、それは洗脳なのかなぁ。。。。
もしも、洗脳だとすれば、宗教とかセールスなんかと芸術が一緒くたになってしまいませんか?
日本人的にカテゴライズするとしたら、芸術も技術も忍術も、すべて「術」。
何かを成就させるスベ、方法って事ですよね。
「技」を成就させて得られる物は、想像しやすいですが、
「芸」を成就させると、何が現われるのでしょうかね?
2005年10月30日
19:05
安斎利洋
自分を飲みこむ対象をみつけて、自分で自分を洗脳に仕向けるときに、不安の混じったわくわく感を感じるのが芸術の術たるゆえんじゃないでしょうか。
怪しい宗教や、怪しい政治や、怪しいテレホンショッピングは、みんな弱い相手を飲み込む罠ですから、これは芸術じゃなくて幻術。
2005年10月31日
12:08
俳胚
そこに戻ろうというのではないのだけれど、「人よりも大きなものが、計算機の中にある」という確信はますます深まるばかり。だって、計算機は人の脳によって変えられるんだから。いわば『バベルの計算機』。
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計算機(エドサック)の勉強を始めた頃、我が教授曰く:
”計算機は腐った数学を土台にして出来ていることを忘れるな。1/3=0.333と丸めてごまかしている。気をつけろ”世の中の事実はもっと微妙だとも。
ニュートンは理恵子さんが格闘するリンゴが木から落ちるのを見て万有引力を発見したという。
しかし、これも詳しくは”リンゴと地球がお互いの重力の
相互作用で衝突するのを見た”とでも表現するのが正確だと思う。
測定する機械はないけれど、リンゴに向かって地球も僅かに
リンゴに向かって移動するはず。
でも芸術はそんな理屈も抜きにした爆発ですね。
計算機に過剰期待は禁物かな?
2005年11月01日
06:12
安斎利洋
俳胚様。EDSACですか!
Wikipediaをひいてみました。
http://
ja.wik
ipedia
.org/w
iki/ED
SAC
いわく、
「3000本の真空管を使用し、消費電力は12kW。主記憶装置には水銀遅延管を使用し、容量は1024ワード(1ワードは18ビット)。18個の命令を備えていた」
さらに水銀遅延管をひくと、
http://
ja.wik
ipedia
.org/w
iki/%E
6%B0%B
4%E9%8
A%80%E
9%81%8
5%E5%B
B%B6%E
7%B7%9
A
水晶と水銀による記憶装置。詩的ですね。
2005年11月01日
11:54
H.耕馬
遅延装置は、記憶装置になるのは当たり前だけど面白い。
昔のボーカルアンプに入っていたようなバネ式のエコー装置だって、使おうと思えば記憶装置。
アナログ的に時間が経つと、だんだん忘れて行くなんて、チョット良くなく無い?
2005年11月04日
15:57
俳胚
水晶と水銀による記憶装置。詩的ですね
-------------------------------------
研究室の床に30センチ長のボトルが何本も
転がっていました。大変重いもので、中に水銀。
詩的どころか、不発焼夷弾が集められていると
疑いました。掛け算命令一つ実行するのに数百ミリ秒
かかる代物の部品候補でした。それが今ミリサイズチップ。
少し異常変化しすぎじゃないかと思います。
それを支えているのが仲間人。
その人の脳細胞の数は全体60兆細胞の
一部でしかないのに、その脳ばかりがでしゃばっている。
少し脳活動を休んで身体を動かそうとしています。
2005年11月05日
09:19
安斎利洋
俳胚さんのように、計算機を0から作り上げる側にいらっしゃった方からは、僕らには見えない人と計算機の関係が見えるのかもしれません。なんて仙人のように言うのは失礼かもしれませんが。
>脳活動を休んで身体を動かそうとしています
で思い出したのは、『記憶する心臓―ある心臓移植患者の手記』
http://
www.am
azon.c
o.jp/e
xec/ob
idos/A
SIN/40
479129
64/249
-53960
62-910
1934
心のありかは、脳でなく、やはり体にあるのではないかと思わせる本です。
体は人間にとって、記憶する遅延線なのかもしれない、というイメージが浮かびます。体は水銀で、脳はその両端についた水晶、というわけです。
2005年11月07日
09:56
俳胚
探して読んでみます。
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