いやほんとに世界が疎ましく思えるのは、繰り返しかかってくるセールス電話が、耳に飛び込んでくる日。選挙をにらんだ政治家の言葉が、宙に舞う日。社会からの離脱ボタンを押したくなる。
たぶん一番疎ましい人間は、セールスマンと政治家だ。僕は昔から、あからさまに彼らを蔑んでいる。連中は言葉を痩せさせるから。言葉をだめにする人間は軽蔑されてよいのだ。
相手の首を縦に振らせることだけを目的に発せられる言葉は、死んでいる。なぜなら言葉は、何にうなづき、何にうなづかないか、という分節化から出発するからだ。
このまえ国立新美術館で会ったひとたちとの会話は、「うなづく」ことと「うなづかない」ことが綾をなしていて、すばらしかった。自分の発した言葉が、空間で組織になっていく感じだ。人と物理的に会うというのは、首(身体)の動作が言語をなすということだ。
資本主義の原理と民主主義の原理が具体化すると、どちらも「うなづき」を誘発することだけに関心を向けはじめ、「広告」や「選挙」に収斂していく。そこになにか設計上の間違いがあるんだろう。
昼時のファミレスを占拠する母親たちの会話を間違って聞いてしまうと、あの人たちは対立を生む言葉をもたない。それは、うなづくために会話をしているからだ。うなづきは安心を生むし、マス化したうなづきはお金を生み出し、権力も生み出す。うなづきは媒介ではなく、目的なのだ。
テレビの「解体新ショー」で「うなづき」をテーマにしていたそうだ。僕は見ていないのだけれど、友人の日記(
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=483415971&owner_id=3186726
)から推察すると、渡辺富夫岡山県立大教授の「心が通う身体的コミュニケーションシステムE-COSMIC」あたりを紹介するものだったようだ。これは面白い研究だと思う。
しかし、動物が群れをなすのは、驚くべきことではなく本能だ。ロボットやヒューマンインターフェースの研究が、意識を問題にする前にジョイント・アテンションを応用しちゃっていいんだろうか。
Web2.0流行りにも同じ匂いを感じる。「うなづく」ことと「うなづかない」ことを、どう分けるか、なんてどうでもいいとみんな思い始めているんだ。「擬態」を開き直って認めちゃった「うなづき」なんて、まったく意味ないよ。