安斎利洋の日記全体に公開

2007年05月22日
23:31
 オーケストラの必然性
オーケストラで、同じパート(声部)を複数の奏者が受け持つのはなぜ?

音が大きくなる、音が重層的になる、というのなら、大きくて重層的な音の出る単体の楽器が発明されれば、一人の奏者で替えられるのか。

それとも、複数奏者には別の理由があるのか。
 

コメント    

2007年05月22日
23:39
さかい7/15伊勢崎Live
大きくて重層的な音の楽器を持ち運んだりするより、小さな楽器と奏者を組み合わせることによって得られる効果の方が物理的にも柔軟性が高かったのでは?

ベルリオーズはその発想で500人近い超巨大編成オケを構想していたようです(笑)。
2007年05月22日
23:49
安斎利洋
マーラーの8番は千人の交響曲っていわれますが、あれは合唱の頭数も入ってますね。

合唱にも同じ問いが可能ですが、大きな声で歌える人はいても、コーラスの声で歌える人はいませんね。
2007年05月22日
23:50
うちやん
 もちろんご承知のことと思いますが、複数の編成が特に求められるのは弦楽器だけで、管・打楽器は1パート原則一人ですよね。
 やはり絶対的音量の問題と、重なることで生まれる響きや質感、広がりなどを求めてのことですね。ある意味、多ければ多い方がいいといわれる位ですものね。
2007年05月22日
23:52
たんぎー
交代で休んだり、交代で譜面をめくったりするそうですが、それだけが理由じゃないでしょうね。曲によって構成を変えるし、楽器ごとの音量の調整なんでしょうか。
2007年05月22日
23:56
安斎利洋
>管・打楽器は1パート原則一人ですよね。

管楽器は倍になることも多いんじゃないでしょうか。

>交代で休んだり

病欠には強いですね。RAIDだったか!
2007年05月22日
23:59
Linco
> 複数奏者には別の理由があるのか
考えられる組み合わせの音は全て試してみたい、ってだけな気もします。ぞれぞれ響きが違うし。

> 大きくて重層的な音の出る単体の楽器が発明されれば、一人の奏者で替えられるのか
頭の中でアレンジしている時には同時に複数の音が鳴っていると思っているのですが、脳内同時発音数の多い人はとてつもない数が響いているはず。
2007年05月23日
00:02
うちやん
>管楽器は倍になることも多いんじゃないでしょうか。
 たぶんそれはウインド・オーケストラ=吹奏楽、特にClarinetなどの場合ではないでしょうか。
 管弦楽では...どんな場合ですか?
2007年05月23日
00:06
安斎利洋
奏者が一人なら、間違うことはあっても、演奏や解釈がずれることはなくなりますが、奏者が複数だと「ずれ」てしまう。奏者間の調整が制約になる。それが、なにか価値を生むことがあるのか、それともたんに我慢してるのか。

僕は、室内楽版のシンフォニーや、リフキンのバッハ(1パート1奏者)は、好きですね。

これも、同期・非同期問題の延長なのか。
2007年05月23日
00:06
klon
ズレが必要ですからねー。
というか勝手にズレてくれることに助けられてると思います。
いい感じのズレが上手いオーケストラと指揮者っていうことでしょう。
2007年05月23日
00:14
安斎利洋
>いい感じのズレが上手いオーケストラと指揮者

ここいらへんの話が聞きたいなー、現場のかたがたに。

2007年05月23日
00:18
klon
現場の方々はあんま意識になさそうなんですよ、ズレに関しては。多分我々はズレてない、と思ってる気がする笑
2007年05月23日
00:20
安斎利洋
なるほど。
指揮者がオケを騙してずらす、とか。
作曲者がずれやすい音を選ぶ、とか。
2007年05月23日
00:23
安斎利洋
>ベルリオーズはその発想で500人近い超巨大編成オケを構想していたようです(笑)。

これって、一種のマスゲーム的な興奮も手伝うのかな。
2007年05月23日
00:28
安斎利洋
>ぞれぞれ響きが違うし。

これって、同じパート内の楽器の差の話か。
2007年05月23日
00:34
klon
作曲者はズレて鳴ってると思うんですよね。頭の中で。
指揮者は多分音量バランスとズレを一緒に考えてコントロールしてると思います。
2007年05月23日
00:45
Linco
> これって、同じパート内の楽器の差の話
仮に同型ロボットが同じフレーズをドンピシャに吹いたとしても空気中では人数分の認識はできる気がします。
(あっ、でもそういう誤差を無くすロボットを作ったら話は別ですね。ってまた関係無いところへいってしまった)。
2007年05月23日
00:51
H.耕馬
微妙な音程のズレによる、唸りなんかを期待してるんじゃ?
迫力出るっしょ。

先日、読経の時に坊さんがわざと唸りが出るように鐘を叩いていた。
2007年05月23日
00:52
yukio.andoh
奏者が違うから、ごくごく微妙にピッチが違って、弾き方やタッチが違うことによって厚みがでます。

例えば、山下達郎が一人で 100人分コーラスをマルチトラック録音してますが、息継ぎも声質も同じなんで気持ち悪いとか。

例えば POPs のサックスソロはダブなどのエフェクトで、
複数の楽器が鳴っているかのような音質を模倣しますね〜

特にストリングスは 3,5,7... と顕著に厚みが違いますよ。
これは同じ人がマルチトラックで弾き重ねても生み出せない音。
2007年05月23日
01:02
うさだ♪うさこ
管楽器は、よく二人ペアで出てますね。
楽譜を見ると、単音楽器だけどユニゾンだったりするので、これは単純に第一パートと第二パートを分けてるんでは。

弦楽器はどうなんでしょう、、、第一バイオリンと大にバイオリンで、それぞれパートを分けて、かつそれぞれ複数で編成されていますね。

音を太くしたいのかなという気もするし、人の声でも、合唱と独唱じゃやっぱり違うように、楽器もたくさん集まるとそれぞれの個性がブレンドされて別の音になるんじゃないだろうか、、、
2007年05月23日
01:20
安斎利洋
>これは同じ人がマルチトラックで弾き重ねても生み出せない音。

ここは重要ですね。音響的な厚みの問題だけじゃないわけですよね。もっと記号的というか、本質的に複数の人間を必要としているわけだ。

>作曲者はズレて鳴ってると思うんですよね。頭の中で。

暗黙知ですね。
2007年05月23日
01:23
安斎利洋
>仮に同型ロボットが同じフレーズをドンピシャに吹いたとしても

自動ピアノはあるけれど、弦楽器を演奏するロボットってないんでしょうか。
弦のコントロールは比較的簡単な気がする。弓は、かなり難しいでしょうね。
管楽器も、ピストンの方は簡単だけど、唇を制御した人工の息は、難しいでしょう。

もし、同型ロボットが弦楽器や管楽器を演奏しはじめて、一人の所作を複数のロボットが模倣できたとして、演奏データをリアルタイムで加工もできて、クセなんかも作れたりすると、

「微妙な音程のズレによる、唸りなんか」
「ごくごく微妙にピッチが違って、弾き方やタッチが違う」
「音を太くしたいのかなという気もするし」

こういうのは、作れちゃいそうですね。
2007年05月23日
01:28
klon
どうでしょう。
それで聴いて面白いとかいいなと思うものというと無理なんじゃないかという気がします。
2007年05月23日
01:31
Linco
ストレートな結論ですが、
問い:「オーケストラで、同じパート(声部)を複数の奏者が受け持つのはなぜ? 」
答え:「オーケストラで、同じパート(声部)を複数の奏者が受け持つ音にしたいから」
これしか残らない気がします。
2007年05月23日
01:55
yukio.andoh
Giants steps solo by a Robot!

http://www.youtube.com/watch?v=OjONQNUU8Fg

超絶技巧だけど、最初の 2小節で、ロボットの音だとわかる。
2007年05月23日
01:59
yukio.andoh
弦楽器ロボットも。
http://www.campuscreate2.com/new_model/view.php?return_id=00000000024

確か市販されているものもあったはず。
2007年05月23日
02:12
安斎利洋
>それで聴いて面白いとかいいなと思うものというと無理なんじゃないかという気がします。

これについては、否定したい気持と肯定したい気持が、両方起こりますね。音楽によるチューリングテストは、たんなるチューリングテストとは問題が違ってくるんじゃないかな。たとえば、人工のグレングールドは、いつか作られるのか問題。
2007年05月23日
02:14
安斎利洋
>答え:「オーケストラで、同じパート(声部)を複数の奏者が受け持つ音にしたいから」

僕は「同じパート(声部)を複数の奏者が受け持っていると信じたいから」ということも、あるように思う。
2007年05月23日
02:17
klon
少なくとも生きている間には作られないから、それは無理として生きるという方針なんですね、僕は。
というかやってもあまり意味がない、という気持ちしか起きないんですよね。
2007年05月23日
02:21
安斎利洋
andohさんの蓄積情報の深さには脱帽します。
運指だけ上手なサックスって感じだけど、けっこう使えるんじゃないかな。合奏が聞きたいですね。klonさんに使ってほしいな。
弦の方も、左手は上手そう。
2007年05月23日
02:31
安斎利洋
>というかやってもあまり意味がない、

僕は、演奏の手癖や解釈の傾向を模倣するピアニストは、案外簡単に数理モデル化できると思ってます。でもそれは、演奏家の意味がそこにないことを暴くでしょうね。あるいは、意味のない演奏家を暴くことになるかな。
2007年05月23日
02:42
klon
でも、それは人が弾けばいいわけだから意味のないモデルでもあると思うんですね。
だから相対的に意味がない、というのが増えるという傾向にあると思うんですよそういうのは笑
2007年05月23日
05:19
うちやん
>管楽器は倍になることも多いんじゃないでしょうか。
 
 管弦楽では...どんな場合ですか?
この答え...伺いたいなあ。
2007年05月23日
05:33
小林龍生
出遅れた。

例えば、マーラーは、その第一交響曲(巨人)の第四楽章に、通常のトランペット、トロンボーンの他に、ホルンの音を補強するために、別にトランペットとトロンボーンを加えています。(例のホルン奏者全員が起立して演奏するところですね)
同じメロディーを同種類の複数の楽器を重ねて演奏するメリットは大きく二つあって、音量の増強と音色の変化です。
マーラーがホルンのメロディーの増強にトランペットとトロンボーンを用いた、というのは、単に音量を増強するだけではなく、音色にも積極的な変化(トランペットもトロンボーンも楽器の構造上、ホルンよりも奇数倍音が多く含まれていて、音に華やかさが加わるはずです)を求めた、ということなのでしょう。
指揮者によっては、通常は音量補強のために参加するアシスタント奏者に、ピアニッシモの部分で(主奏者の音量を敢えて抑えても)音を重ねることを要求することがあります。これは、明らかに音量ではなく音色の変化を求めてのこと。
2007年05月23日
08:28
安斎利洋
>でも、それは人が弾けばいいわけだから意味のないモデルでもあると思うんですね。

klonさんがこう言うのは、逆説的に響くというところに意味があるわけだけどね。

>管弦楽では...どんな場合ですか?

Wikipediaによると、マーラーがベートーベンを振るときに始めたんですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%8D%E7%AE%A1

>通常は音量補強のために参加するアシスタント奏者に、ピアニッシモの部分で
>(主奏者の音量を敢えて抑えても)音を重ねることを要求することがあります。

これは貴重な情報。
ついでに聞くと、指揮者が弦やアシスタント奏者に「一人がやってるような音にしないでよ」みたいな要求を言葉で言うことって、あるのかな。
2007年05月23日
08:35
安斎利洋
>でも、それは人が弾けばいいわけだから意味のないモデルでもあると思うんですね。

に関連して、ちょっと話が違うかもしれないけれど、レイトレーシングは絵画にどれだけ影響を与えたのか、ってことを考えると、ほとんど意味のない絵のようなものを作っただけのような気がする。

それは、レイトレがまだ絵を描いてないからか。
それとも、絵は人が絵の具で描かないと意味がないからか。
2007年05月23日
09:50
あきたむ
本来、オーケストラ曲は映画音楽等は別にして、聴衆を前にして演奏することを前提に作られていると思いますが、すると、現代のホールで演奏するならば、音量バランスの問題から弦楽器は合奏という形態になっているのでしょう。

後は作曲家の想い?例えばマーラだと管楽器に対して多重化や、それだけでは足りないらしく、やたらベルアップが(クラリネットやオーボエに対しても)指定されています。

# 録音->[加工:(圧縮:伸張)]->再生だとある意味如何様にでもなるのではないでしょうか?
# オーケストラを聴くのはほとんどの場合CDなどの録音音楽ですが、これらはデジカメ写真の絵作りなどでいう記憶色相当する加工がされている?
2007年05月23日
12:32
うちやん
>>管楽器は倍になることも多いんじゃないでしょうか。

 これは多いというよりは、近代以降ホールも大きくなり、また重厚長大な音楽への傾斜からマーラー等において見られる、むしろある時代・ある作曲家に限定的なものだと考えられませんか?
 それほど、管楽器(打楽器)と弦楽器の音量の違いは大きく、13ホーンのトラディショナルなビッグバンドには、24+20+16+8くらいのストリングスオーケストラで対抗しても(そんな実験しないでしょうが)果たして勝てますかどうか...。
 そういう意味では、バイオリン協奏曲などでオケをバックにソロをと
るソロバイオリニスト(はじめいわゆるソロイスト)は、その音量の大きいことも大事な要素のようです。
2007年05月23日
16:43
安斎利洋
>バイオリン協奏曲などでオケをバックにソロをとるソロバイオリニスト

これは、なんか不思議な光景ですよね。あれだけ弦楽合奏の頭数を前にして、音量的につりあわないのは一目瞭然なのに、ちゃんと目立ちますからね。目立たせる暗黙知が、いろいろあるんだろうな。
2007年05月23日
16:45
小林龍生
>ついでに聞くと、指揮者が弦やアシスタント奏者に「一人がやってるような音にしないでよ」みたいな要求を言葉で言うことって、あるのかな。
う〜ん。
弦楽器の場合、ソロか合奏か、ということでは、音量よりも音色への要求の比重の方が大きいような気がする。ソロコンサートマスターは、たとえ一人でソロを弾いていても、音量的には十分に(コンチェルタンテに)オケ全体に対抗しうるし。
弦楽器、管楽器に限らず、複数の楽器を重ねることによる音色の変化というのは、いわば作曲家の腕の見せ所なわけだし。
そもそも、一人でやっているような音が欲しければ、二本重ねる必要もないわけだし。
「そこはアシスタント抜きでノンビブラートでね」
みたいな要求は当然あってもいいけれど、
「そこは二本で一人で吹いているみたいに」
というのは、ちょっと自己矛盾しているように思える。ま、それが出来るとすると、ものすごくうまい奏者が二人そろっている必要がありそう。
2007年05月23日
16:47
安斎利洋
>やたらベルアップが(クラリネットやオーボエに対しても)指定されています。

ベルアップは音響的な意味なんだろうけれど、パフォーミングアートでもありますよね。

僕の疑問、というか仮説は、ユニゾンはマスゲーム的な鼓舞であったり、シンクロナイズドスイミング的な一体美でもあるのか?、ということです。そういうの嫌いなんですが、しかし「一本締め」とか好きだからなー、人間というものは。

klonさんやandohさんのコメントは、個々の乱れに価値あり、ってことですよね。ひとつに同期することより、協調的なゆらぎが面白いわけで、僕としては意にかなっています。
2007年05月23日
17:18
うちやん
>ユニゾンはマスゲーム的な鼓舞であったり、シンクロナイズドスイミング的な一体美でもあるのか?

 管楽器ではソロでもユニゾンでも音的にほとんどわからない時もあります。
 編曲者としては、例えば他の楽器のソロに絡む時、割合同じ距離感ならソロ対ソロ、背景ならユニゾン(ただし弱め)..というように、妙な喩え(イメージ)ですが、蝶と花との戯れならソロ対ソロ、蝶が森を渡る光景ならソロ対ユニゾンというような対比にしたりします。
 やはりユニゾンには音量の問題と別に、仰るような同一性のイメージがあるからです。やはり宗教曲が主流の時代は、特にユニゾンを聖なるものとみなすイメージがあったようですから。
 ただ、演奏者側から言いますと、強力なユニゾンは振動(響き)を共有しやすく、それこそ、陶酔感があることも事実です。ラベルの「ボレロ」にもそういう要素がありますよね(もちろん呪術的ハーモニーも同時にありますが)。
2007年05月23日
17:28
あきたむ
>目立たせる暗黙知が、いろいろあるんだろうな。
solo聞いて吹いてね(=soloが聞こえるように??)
2007年05月23日
17:46
あきたむ
>僕の疑問、というか仮説は、ユニゾンはマスゲーム的な鼓舞であったり、シンクロナイズドスイミング的な一体美でもあるのか?

弦楽器の弓の動きには、視覚的な要因もありますね、
本当に上手い奏者ならup(弓の先から根元のほうへ押し上げる)でもdown(弓の根元のほうから弓先へ引っ張る)でも同じニュアンスが出せるのでしょうけど、実際には作曲者が指定している場合もあるし。。

実際のコンサートでは、音波の遅さゆえ、舞台上でもかなりの遅延があります。視覚はそれを補っているのかもしれませんね。

では、音の出だしをどうやって合わすかというと、視覚(指揮棒や、視野の周辺での周囲のわずかな動き)それと、呼吸を合わすこと。

ま、そうやってオルガンにはない迫力や繊細さが表現できるのかもしれません。
2007年05月23日
17:54
安斎利洋
>「そこは二本で一人で吹いているみたいに」
>というのは、ちょっと自己矛盾しているように思える。

なるほど、こういう話をきいていると、音量問題より音色問題ですね。多数は当然多数に聞こえる、と。アシスタントがいるというのは、単語が増えたり、パレットの絵の具が増えることなんでしょうね。絵の具の量の問題というより。

リフキンのバッハ・マタイは合唱もソリストなんですが、これを聞くと普通の演奏の論理が、かえって見えてきます。つまり、合唱は「地の文」というか、ト書きというか、本文というか、天の声というか、そういうもので、ソリストは括弧の中の台詞で人格に結びついている。それが両方同じようにソリストだと、意味の遠近法が変わってくる。音響的でなく、記号的な新鮮さを味わうことになる。

>「そこはアシスタント抜きでノンビブラートでね」
>みたいな要求は当然あってもいいけれど、

古楽っぽいノンビブラートが流行り始めてから、ユニゾンはどんどん難しくなってきたでしょうね。誤差がばれやすくなる。
2007年05月23日
18:03
安斎利洋
>特にユニゾンを聖なるものとみなすイメージがあったようですから。

今年のはじめ、禅寺で座禅を組んで読経をしたんですが、僧侶の作る和声の束の中に、たとえば5度下に入っていったりして遊んでいたら、ある種の陶酔感におそわれました。ユニゾンじゃないけれど、声を発することと信仰の関係ってのは、深いものがあるんだろうな。
2007年05月23日
18:05
安斎利洋
>solo聞いて吹いてね

そう言いたくなる酔っ払いが、たまにいるなあ。人のこといえないか。

>音波の遅さゆえ、舞台上でもかなりの遅延があります。
>視覚はそれを補っているのかもしれませんね。

目隠ししたオーケストラって、どういう演奏するんでしょうね。
目隠しせよ、と指定した曲があってもいいな。あるかな。
2007年05月23日
18:14
うちやん
>たとえば5度下に入っていったりして遊んでいたら、ある種の陶酔感におそわれました。
 その体験はよく理解できます。
 真正ユニゾン=同一音、オクターブユニゾン、そして完全5度、完全4度...ご存じでしょうけれど、これは倍音の出てくる順番です。メジャーかマイナーかわからない音程、協和とも不協和ともつかない...それは抒情詩ではなく叙事詩のようなプリミティブな響きだからかもしれません。
やはりグレゴリア聖歌などの独特な響きも4度、5度の世界観ですものね。
2007年05月23日
19:42
安斎利洋
お経の和声っていうのは、言語化するのがむずかしくて、僧侶たちに中心となる音があるんだけれど、息継ぎのときに微妙にずれてまた戻ったり、西洋の音律的には中心から半端にずれたところで繋がっている音もあり、ぼやっとした星団のような感じです。その5度下というのも、やはりぼやっとした中心からの5度なので曖昧。
ランダムなのか、微妙な音律に秩序があるのか、そこまではわからなかった。でも、微妙さがたまらないんですよ。クセになりそう。
2007年05月23日
21:17
Linco
> お経の和声
> 西洋の音律的には中心から半端にずれたところ
1000人以上で読経すると1オクターブ(たぶん2〜3オクターブ?)の間が全て滑らかに繋がって聞こえる気がします。この中はただただ至福です。
2007年05月23日
22:49
eiko
バイオリンを一人で弾いているときはちっともさえなかったのに、もう一人と一緒に同じパートを弾くと楽器が共鳴しあっているかのようによく響いてまんざらではない気持ちになったことがあります。ただの退屈な練習曲だったけど。音量増量だけじゃないですよ、やっぱり。
2007年05月23日
23:09
H.耕馬
>やはりグレゴリア聖歌などの独特な響きも

この時代って、和音は下品なものだったらしい。
きっと、僕らが不協和音聞くよりも、違和感だったんじゃ無い?
2007年05月23日
23:16
安斎利洋
>この中はただただ至福です。

お経オフでも、しますか。

>一緒に同じパートを弾くと楽器が共鳴しあっているかのようによく響いて

それはきっと、残響と同じ効果ですね。隙間に音が埋まっていくんでしょう。一種のシナジー。

>和音は下品なものだったらしい。

「耕馬さんったら、ハモるんです。いやらしー」
2007年05月23日
23:21
Linco
ズレをズレと感じる事を仮にINとして、そこから逸脱したものはOUTとして(個人差はありますが)、曲の中でOUTの占有率が限りなくカオスのギリギリ一歩手前(牛肉が腐る前?)あたり、このあたりも好きです。
2007年05月23日
23:25
安斎利洋
>牛肉が腐る前

って、エッジ・オブ・ケイオスなんだ。チーズが腐る前もエッジだけど、このエッジはけっこう安定的に広いから、安心して食えます。賞味期限内のカマンベールなんて、まずくて食えるか。
2007年05月23日
23:35
Linco
ロボットが腐る前の演奏は聴いてみたいです。
2007年05月23日
23:47
安斎利洋
親が腐ってしまったロボットは知ってますけどね。AIBO。
2007年05月24日
01:14
Linco
付録です(ちょっとグロいです)。
http://www.sutemos.net/
2007年05月24日
11:56
びすけっと
あと,全然違う視点ですが,オーケストラって閉鎖的だと思います.伝統的なスタイルを守ることが重要だと考えている人が多く集まっている.たとえば,ホルンの楽譜って,昔は楽器を調ごとに持ち替えて演奏していたから,曲ごとに楽譜に書かれている調が違います.今はそれを1本の楽器で演奏するのが普通なので,脳で移調しながら吹くわけです.時代にあわせて,今の楽器の調に移調したものを出版すればよさそうだけど,そこは伝統を重んじるので,やりません.で,うまい演奏者の条件の一つとして,脳で移調できる能力が求められています.僕はいい音さえ出ればいいと思うんだけど.
マーラーみたいに作ってきた人なら,スタイルを壊せるでしょうが,今のこの世界の人たちにスタイルを壊せる人はいるんでしょうか.
そういう才能があったら,もっと楽に自分のスタイルを表現できる音楽を選ぶと思います.
で,そっちが煮詰まったとき,またオーケストラをいじる人が出てくるかもしれない.パラメータの多さではぴか一なので.
2007年05月24日
12:47
stella
完全に出遅れ。。。
2007年05月24日
13:44
びすけっと
ちがうな.今の時代でも冒険的な作曲家はいるけれど,編成をいじると普通のオケで演奏できなくなっちゃうので,そこまでしてやりたい人がいないだけだ.
2007年05月24日
14:57
安斎利洋
メディアには成長曲線があって、言語にしても、あるジャンルにしても、メディアとしての幼年期・青年期のあとに、作られつつあるものより作られてしまった蓄積のほうが多くなり、老年期に入ってしまう。
いま音楽を作ろうっていう人が管弦楽を手段に選ぶことは稀だから、「オーケストラ装置」はほとんど蓄積を守るために機能しているんじゃないでしょうか。
漢字にしたって、創生期には「誤字」っていうことがありえなかったはずです。「誤字」の発生と、漢字の死は同じこと。

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