安斎利洋の日記
2007年05月08日
20:19
多義問題
昨日の交差点の問題、自分ひとりで考えるとある結論に至れるのに、いろんなaspectのコメントを読んでいくと、みんな正しく思えて、どんどんわからなくなる。これって、多義図形と同じだ。有名な「うさぎ」「あひる」の図。
あひるに見えてしまうと、うさぎには見えない。うさぎに見えてしまうとあひるには見えない。ウィトゲンシュタインはこれをアスペクト盲と呼んだ。
「過密優先」の正しさによって、「過疎優先」の間違いを指摘することができないし、その逆も同様。クーンはこれを共約不可能性と呼んだ。
面白いことに、この問題を読むと、死者という言葉のせいで、交差点で道連れになったかもしれない負傷者のことを忘れてしまう。設問全体がひとつのアスペクト盲をもっている。
共約不可能な正しさが複数見つかるような問題を、多義図形にならって多義問題と呼ぶ、っていうのはどう?
コメント
2007年05月09日
08:26
smi
それを多義問題と呼ぶとして、もっと厳密性を要求されるような物理とか数学で多義問題は作れるでしょうか?
不確定性とか、解は不定とかがそれですか?
また、多義性を記述する数学はあるのか?
その前にウィトゲンシュタインを再確認せねば!
2007年05月09日
08:40
寝太郎
質問自体に既に解答への方向性が含まれているのではないでしょうか。アスペクト盲は普段の生活では健全な状態で、質問のされ方によって盲がsighted の状態に突如移行するかもしれませんね。
2007年05月09日
09:07
安斎利洋
>厳密性を要求されるような物理とか数学で多義問題は作れるでしょうか?
ニュートン力学で説明しきれる現象を、量子力学で説明したりすることじゃないでしょうか。日常的な多義問題は、「正しい行い」がなんだかわからないような、むしろ多正義問題というべきところに多発しているように思う。病気の臓器を移植するかどうか、みたいな。
2007年05月09日
09:14
安斎利洋
>質問自体に既に解答への方向性が含まれているのではないでしょうか。
多義図形も、複数の解に落とす原因が、幾何学か、色彩か、テクスチュアか、記号か、のようないくつかのレイヤにあって、「多義問題」にもそれがあるのかもしれません。恒常的な意味に「ね、そうですよね、そうでしょ?」と引っ張っていく口調があったり文脈があったりするから、それを引き剥がすと、sightedななにかが現れるのかもしれない。
2007年05月09日
09:23
寝太郎
意味盲、アスペクト盲をどの程度そのままにしておくのか、あるいはどの部分を開いて質問とするのかによって、解答の方向がデザインされているのだと思います。sighted になるのは恣意的な主体の意志で、質問によって sighted になる可能性は、回答を与えられてsighted になる可能性より大だと考えられます。
2007年05月09日
10:54
安斎利洋
なるほど。音楽や物語は、誘導的な質問の連続である、ということになりますか?
2007年05月09日
11:37
寝太郎
同感です。作品は作品自体で完成していない、完成させるのは聴取者(観者、読者)であるとよく(特にポスト構造主義者によって)言われる事ですが(いちいちいわれなくとも、これ当たり前の事ですよね)、いい音楽や小説は主体の恣意的な参加によって、意味盲を聴取者以下が自身でsighted していく可能性があるので、「誘導的な質問の連続である」というのは的を得た表現だと思います。
いい質問をする事。good な表現とは(trueではなく)盲をsightedにしていく過程にあるのではないでしょうか。
2007年05月09日
12:06
smi
理研脳科学総合研究センターの認知機能表現チームのレポート
http://
www.ri
ken.jp
/r-wor
ld/inf
o/rele
ase/pr
ess/20
07/070
423/in
dex.ht
ml
いったん「わかった!」となると、細胞が消えて、不活化しちゃう?
「正義の確信」は考えるための、ある神経細胞が消失した状態のこと?
2007年05月09日
12:33
しゅわっち
レイモンクノーの「文体練習」を思い出しました(いま研究室で扱ってるからなんだけどね..).
問題設定と、それを成立させる視点とはセットだからね.
2007年05月09日
20:26
安斎利洋
>「誘導的な質問の連続である」というのは的を得た表現だと思います。
いわばこれも誘導的な質問への答です。
質問を投げかける作者と、運動を喚起される読者との連携のなかで、(前から何度かしつこく言ってる気がしますが)、どうやってまだ誰もみたことのない新規な何かに対して、sightedになるのだろうか、というのが僕の長年の関心です。良い質問を投げかける作者は、答を自身の中にもっていないのでしょうね。なぜ、知らないことに関する質問を作れるのか。
2007年05月09日
20:31
安斎利洋
>いったん「わかった!」となると、細胞が消えて、不活化しちゃう?
これは面白いですね。コンピュータのプログラムでも、計算負荷の高いことは、あらかじめすべての入力に対する出力をルックアップテーブルに書き出し、計算し終わったらプログラム自身は終わらせて実行環境からは消えていても良い、っていうテクニックはありますね。最近はCPUが速いからあまりしないけれど、以前は定番の手でした。論理計算をしている細胞が死ぬのは、経済効率からなんでしょう。
たしかに、理解するときの興奮と、それが恒常的になったときの気分は、あきらかに違う。
2007年05月09日
20:33
安斎利洋
>レイモンクノーの「文体練習」
しゅわっちさんが、これをどう扱っているのかが興味しんしんです。メタ認知は、やはり文体に依存するんでしょうね。
しゅわっちさんを知らない人のために:彼は野球の好きな認知科学者で、自分のバッティングの上達プロセスを徹底的に言語化する試み、などをしている。
2007年05月10日
08:44
中村理恵子
>いったん「わかった!」となると、細胞が消えて、不活化しちゃう?
1970年代、大ブレークした横溝正史の『犬神家の一族』(市川崑監督)などの映画を、最近まとめてBSでみました。
おぞましい血塗られた事件が起こる。そこに投入される異様な人物や事象。
それらをつきつけれた人々。
とくに石坂浩二演じる金田一耕助(探偵)と、「よーし、わかった!」という台詞でおなじみ加藤武(警察署長)の行動、反応のコントラストが非常に面白い。
金田一は、おもわず頭をかきむしる、、、ふけを落としながら落ち着かない多動生物と化す。
金田一はこのとき、悶々とした言葉にならない奈落にダイブしてるのでしょうか?
比して、警察署長は、その場空気を一刀両断にし切って「よーし!わかった。」と単細胞生物的な答えを出してわかりやすい行動に走る。それもいつも見当はずれな(笑)。
まさに”不活化”の瞬間ですか?
2007年05月10日
12:26
安斎利洋
実際の世界でも、加藤武は必要なんですよね。僕も僕の友達も、ずーっと頭かきむしっていたい種類の人間がばっかりだから、どこかですとんと憑き物を落としてくれないと。
2007年05月10日
12:38
中村理恵子
>どこかですとんと憑き物を落としてくれないと。
ねーねー憑かれたままいきましょうよ(笑)。
しょうがいなじゃん。
2007年05月13日
01:08
メンタルスタッフ
> どうやってまだ誰もみたことのない新規な何かに対して、
> sightedになるのだろうか、というのが僕の長年の関心です。
> 良い質問を投げかける作者は、
> 答を自身の中にもっていないのでしょうね。
> なぜ、知らないことに関する質問を作れるのか。
無理やり言葉で作り出した「質問」に、質問した方も、答える方もその多義性にはまりながらも、光明を得ることがある...
こんなほとんどギャンブルの世界の中でも、何かsightedになりたいという無意識の方向性や種があったりしないと、うまくいかないのかもしれませんが。
2007年05月13日
15:54
安斎利洋
>何かsightedになりたいという無意識の方向性や種
決壊しそうな壁をじっと眺めるような、どうしても見たい向こう側があるような、そういう感覚ですよね。たとえば寝太郎さんやメンタルスタッフさんと話をしているときは、日常の言葉のやりとり以上に、何かをわかろうとしている。
僕の疑問は、見えないのに見えそうなところを注視する力はどうしてそなわっているのか、という疑問に置き換えることもできます。
2007年05月13日
22:47
メンタルスタッフ
> 見えないのに見えそうなところを注視する力..
安斎さんが「多義性」を好んで取り上げるのは、一種の感覚があるからなんでしょうね。
そう言えば、ゲーデルの不完全性定理も一種の多義性の問題と捉えられるんでしょうが、ここの問題と関係あるのかないのか...
はたまた、ここからの連想ですが、吉田夏彦先生の基本関心も多義性にあるんじゃないかと思います。
2007年05月14日
20:04
寝太郎
> 見えないのに見えそうなところを注視する力.
これはものとして見えているものをイメージそのものとして見ようとする態度の様な気がするのですが、どうでしょう?
とすると現象学的な見方だと思います。つまりイメージを物質的アピーランス(見え)と区別し、非存在的なしかも主観を交えずにイメージをイメージとして見る事で何かを待つ態度ではないでしょうか。
これはヴィトゲンシュタイン流にはアスペクトがチェンジするのを待つ態度だと思います。ただ両者の違いは、前者がアスペクトがチェンジしなくともイメージをイメージとして見ているのに対して、後者はあくまでもseeing-as 「〜として見る」ことに捕われている、というところにある。
フッサールのイメージ意識論には前者を肯定する、つまりイメージをイメージとして見ることがすべての「見え」の入り口だと考えている。それは、aspect-dawning の前のイメージそのものを見ようとする態度だと言い換えることが出来るかもしれません。
2007年05月15日
22:59
安斎利洋
>ゲーデルの不完全性定理も一種の多義性の問題と捉えられるんでしょうが、
>ここの問題と関係あるのかないのか...
さらっとおっしゃっていますが、深い問題ですね。交差点の多義問題や、多義図形は、Aに立てばAだけが正しく、Bに立てばBだけが正しいというincommensurableな関係にあって、それは互いに互いの意味について言及するパラドクスとは異なるように思える。
しかし、AとBは無関係ではなく、なんらかの思考の循環運動を喚起しているという意味で、ゲーデルと交差するようにも思える。
2007年05月16日
00:43
安斎利洋
「見える」という境界を考えるとき、僕らはまず、紫外線は見えない。
ある条件の中で育った脳は縦の縞が見えないといいます。また、脳に欠陥があると、たとえば顔が見えなくなったりする。
「縦縞が見えない」脳があるなら、自分の脳にも縦縞と同じように「見えないもの」があり、それはいつか見えるようになるものと、どうしたって見えるようにならないものがあるはず。
ある宇宙人がいて、彼らの「顔」がある。それは地球人の僕らにとってなんらか「形」ではあるけれど、人間の顔の粒度で把握できない。宇宙人「〜として」見ることが、すぐにはできない。
しかし、長年ある動物を飼っていると、その動物の顔や表情が、普通の人に比べて格段に見えてくることもある。人間は宇宙人顔を顔として見る感覚を、自分の中に組織可能なのかどうか。地上になかったものは、進化の過程で「見える対象」として獲得できなかったか。
「聞こえる」の境界も同様に考えることができる。
聴覚として聞こえる周波数の音と、聞こえない周波数の音がある。聞こえていても、音響体験として立ちあがる音とそうでない音の境界がある。さらに、音楽と非音楽の境界がある。音楽の境界は、時代によっても、人によっても、音が鳴るコンテキストによっても違ってくる。
イメージがイメージとしてだけ見えている領域と、そこに音楽や相貌が立ってくる領域との境界は動的に再構成されつづけていて、ある部分は永遠に「音楽」にならないかもしれないし、セリエールのようにどんどん組織化された果てに、像を失うものもある。
僕のしつこい疑問は「人間はどこまで非音楽から音楽をもぎ取ってくることができるのか。音楽は無限に拡張可能なのか」というバージョンに言い換えることもできます。
2007年05月16日
06:54
寝太郎
>「人間はどこまで非音楽から音楽をもぎ取ってくることができるのか。音楽は無限に拡張可能なのか」
これは音楽とノイズの問題に繋がってくると思われるのですがどうでしょう?ジャック・アタリのノイズと政治との問題は別にして、ケージのノイズの考えに感化されたマリー・シェーファーは「ノイズは人が聴こうとしない音だ」と言い切っております。ノイズを聞く耳を持てばノイズは音楽になりうる。ノイズの楽音としてのアスペクトがドーニングします。
可聴音を広げる事で今まで聞こえなかった音楽が聞こえるようになってくる。例えばクジラの交信音が聞こえてくるとか(スタートレックにこのような話があったような。。)、エイリアンの可聴範囲に合わせるとか、何らかの技術を介しては可能でしょうが、身体の能力を高める方向で対処していくと、日常生活に支障が出てくる事が考えられるのではないでしょうか。
オーストラリアにステラークという芸術家がいます(彼は日本にも10年以上住んでいました)。彼は第三の手、更なる耳の養殖等々、自身の身体を旧態然のものとして捉え、身体の技術を介した改良を表現の方法論としています。ポスト・ヒューマンという用語も最近定着してきたようですね。
音楽脳、アート脳を作っていく事で確かに今まで見えなかったアスペクトが聞こえてくる、見えてくる事があると思います。しかしこれは日常生活を豊かにする方向でも考えられると思うのですが、不可聴音が聞こえてくるようになることとは別問題でしょうね。
何か若者にしか聞こえない波長を使って交信するという実験があったような。。我々初老を置いてけぼりにしないで欲しいですね(笑)。
安斎利洋mixi日記 一覧へ