安斎利洋の日記全体に公開

2005年09月20日
15:06
 物語類型
理解しやすいドラマには、型がある。別の言い方をすると、型のあるドラマしか、人間は理解できないという考えかたがあるらしい。確かに、小泉劇場などそういうツボを圧したのだろう。障害者とのコラボレーションの話をすると、感動して泣く人がいる。しまった、違うツボを圧してしまった、と思う。

物語類型についは、ウラジーミル・プロップという人が研究している。ドラマをそのような型の集積と考えて、ハリウッド映画のプロットを自動生成するソフトウェアが実際に使われているという話を聞いたこともある。そういえば、ほとんどのハリウッド映画は、「学者がとらえられ、救出に向かう」とか「災害の予兆をひとりだけ気づく」とか、どこかで観た要素の組み合わせでできている。

歌舞伎の「見得」も、そういう型に「カチッ」とはまるときのクリック音のようなものだ。キューブリックの映画には、そういうクリックがない。類型に嵌りそうになると、上手に逃がしていく。そこに不思議な空気が流れる。

最近、 BSで特集している成瀬巳喜男がいい、という日記をあちこちでみかけるので、昨日「浮雲」を見た。この映画にも、クリックがなかった。話者のいない問わず語りのように、高峰秀子と森雅之の人生に引き込まれて、最後雨の降り止まない島まで連れていかれた。もうひとつ僕らの知っているクリックのない物語、つまり自分自身の人生の類型に響くのかもしれない。
 

コメント    

2005年09月20日
15:19
gilli
『浮雲』は良い映画でした。燃えてしまう直前の近美のフィルムセンターで見ました。そういえば、一緒に見た友人はパリに流れ、流れて今はどうしているだろう。
という想い出のツボを押された私でした。
学生時代の恩師中川邦彦の先生の研究テーマこそ、『物語』でミュージカルコードを研究したり、そのころできたばかりのメディアであったレーザーディスクで、物語のシークエンスばかりを散りばめた映画のシーンを沢山作り、エンドレスの映画を作ったりしていました。私は先生の影響を一番受けているなぁ。今でも。
2005年09月20日
15:24
安斎利洋
造反国民2号さん、こんにちは。

この方ですね。

『難解物語映画 アラン・ロブ=グリエ・フィルムスタディー』 中川邦彦

http://books.yahoo.co.jp/book_detail/31530087

「アラン・ロブ=グロリエの映画はわたしを惑わせ、物語世界を分からなくさせる。わたしはこの映画に鍛えられ、解釈の主観性に気付かされ、ひるがえって他者に目を開く必要に気付く。テレビドラマや報道、アニメーションや劇画やゲームなど、映画の表現法が拡張している。映像を批判的に受け取る能力、映像リテラシーの育成をはかる中等教育が始まった。」

いま日記で考えていたことに、ぴったり響きます。
さっそく本を入手してみます。

2005年09月20日
15:26
安斎利洋
造反国民2号さん、誰かと思えば。
だまされた。by 3号
2005年09月20日
21:19
MATANGO
>造反国民2号さま
わたしは、友人と「近美のフィルムセンター」にいき、そしたら燃えている最中だった...という経験をしました。
そのときは何を見に行ったのか...?もう覚えていません。記録に残ってるんだろうと思いますが....。
その時いっしょにいった友人は、「もう、フィルムはあかんばい...」と身にしみたせいか、後に「デジスタ」という番組をはじめました。

物語の類型...面白すぎるテーマ!...でもいまは考えをめぐらせる体力が...。
ただ思いだしたのは、映画をめったに見ないという方で、すべての物語の類型をひとつにまとめてしまった剛の者がいたことです。
いわく、「ままならないことが起こる」.....。
2005年09月21日
00:59
安斎利洋
>ままならないことが起こる

なんでもないようだけど、深いなあ。

>「デジスタ」という番組をはじめました。

中谷さん?
2005年09月21日
01:17
gilli
>安斎さん
そうそう。そうです。今でも交流があります。先生をmixiに誘ってみようかな? 

>Matangoさん
燃えた日は熱い日でした。近美の保管庫の空調が老朽化で壊れて古いセルロイドのフィルムが発火してしまったのです。

岩波ホールの高野さんがあまり暑いので夏バテで横になっていたところにこのニュースを聞いたと言って、
『とっても貴重な資料が失われて残念です』というインタビューを受けていたのが思い出されます。
卒制を作る年だったので、わりとせっせとフィルムセンターに通っていましたが、燃えてしまって、驚いた。
2005年09月21日
01:42
安斎利洋
>燃えてしまって

いま、Winnyとか、DVDのリッピングとか、情報の違法コピーが問題になっていますが、あれって人間の文化的本能かもしれませんね。
2005年09月21日
01:45
godzi2
>もうひとつ僕らの知っているクリックのない物語

コミュニケーションにおいて「型」が持つ意味は、言うまでもなく絶大です。
「型」は私たちを縛り付けているけど、逆に考えると私たちは「型」の上にしか存在してないのかもしれない。

「浮雲」は、観客である私たちにクリックしてくれないけど、登場している彼ら(富岡&ゆき子)自身が、出会った途端にクリックし合ってしまった人たちなんだと思いました。

昨今わしらの業界ばかりか、マーケティングや政治とかの上部構造でも求められる「分かりやすさ」という「型」。
「型」はコミュニケーションをもたらすけど、ディスコミュニケーションももたらすのだと思いました。

私たちは本当に「型」のない人生を生きているのだろうか?
あるいは生きたいと願っているのだろうか?
そんなことを考えてしまいました。
2005年09月21日
02:28
安斎利洋
>「型」はコミュニケーションをもたらすけど、ディスコミュニケーションももたらすのだ

これは、まったく同じことをカンブリアンについて、考えていました。カンブリアンは、90%の常套句のような「型」つきの連想の中に、突然出現する狂い、あるいは誤読などのディスコミュニケーション、あるいは天才的な飛躍が出現して、それによってカンブリアンマップ全体が生き生きしてきます。いまやっている dialogue with no word にも、そういう傾向が見られます。

もし、すべてのリンクが飛躍だったらどうなるだろう。もしステレオタイプの連想がなかったら、つまらんのではないか。

型そのものも、生き物のようにぶよぶよ動いていて、やわらかい型と型の重なるところに、色ずれのような矛盾が出てくる。
前の機械翻訳の「イカ」が出現するのも、同じ原理かもしれない。

godzi2さんはおそらく、「わかりやすさ」に対して嫌悪しながら、プロとしてその上に表現を作ろうとしているんだと思いますが、きっと非常に近いところにいますね、われわれ。
2005年09月21日
02:31
安斎利洋
>先生をmixiに誘ってみようかな? 

ぜひ!
2005年09月21日
02:50
godzi2
押しつけられなければ「分かりやすさ」はオーケーです。
例えば見知らぬ外国で人と友達になるには、共通する「分かりやすい型」を探ることから始めなければならないし。
「型」の先にコミュニケーションの深化があることを、意識していればいいのだと思うんです。

ところが「分かりやすさ」はともすればその先を封じるために使われてしまう。それが嫌なのです。
私たちの仕事は現実を採集し、そこに意味づけをしていく仕事だけど、「分かりやすさ」はその努力を放棄するためにも使われてしまう。現在のテレビの表現はほとんどがそうかもしれない。
「型」の確認ごっこ。

友達の役者がこんなことを言ってました。
「舞台に立って相手と台詞をやりとりしていると、そこに確かな流れが生まれる。でもそれだけで満足しているとダメ。きちんと芝居している時は、舞台上の相手とやりとりしながら、観客席にまで流れを作る、、」
つまり役者は、舞台上で相手役と双方向のコミュニケーションを行いながら、観客席へも何かを発信しているというのです。
その「流れ」というのが、単純な「意味」などではないことに、面白さを感じました。
2005年09月21日
04:35
安斎利洋
godzi2さんのように、メディアの中にいても作家である人は、習性として物事を「純化」しようとします。でも、一般誌やテレビの人はほとんど、物事を「単純化」して情報量を落とすことしか考えてないですね。

確かに、情報量が多いものは、特に最近は、読者も視聴者も付き合ってくれないですね。でも、単純化することは必ずしも純化することと同じじゃないですね。

「型」の確認ごっこというのは、ほとんどの日常はそうで、天候の挨拶だって、mixiのコメントだって、格闘技だって。でも、そういうなかに数パーセントの型破りの真剣勝負があるだけで、日常的な景色が鮮やかになる。godzi2さんの言う、温泉のシーンのずるがしこい男の顔、のような。

ああいう、鋭く宝石のような仕事がしたいね。
2005年09月21日
04:42
godzi2
同意!
2005年09月22日
11:30
N_apostrophe
造反国民2号さんに招待されてこの日記にたどり着きました。MIXIは授業連絡用にクローズドを利用しているだけなので、こうして横に広がることに戸惑いがあります。書き込んだコメントにコメントが来た時にも連絡が入るのでしょうか?返事をしなかったらごめんなさい。あらかじめの弁解。
物語は同一性の認知とその変化の「型」がなければ働きませんが、無意識(精神分析ならば「否定」)のもとに働くところが問題です。研究の効用があるとすれば、これを顕在化するところでしょうが、それでもいつも潜在的なシステムが残ります。
また時間がある時に書き込みます。まずはデビューまで。
2005年09月22日
14:37
安斎利洋
N_apostropheさんはじめまして。

mixiは、書き込んだコメントに(このような)コメントがついても連絡はきません、というコメントを読んでいるN_apostropheさんに、このコメントは意味がない。

物語にとっての無意識というのは、生成文法の深層構造のようなことでしょうか。
10年前、他人の夢を接続していく「夢鍋」というプロジェクトをやりました。
http://www.renga.com/rengeiza/yumenabe.htm
夢の中の物語は、型を破壊しますね。

いずれ再びたどりつきましたら、続きを。
2005年09月22日
18:19
MATANGO
夢鍋?.....おおお!こんなこともやってられたんですか!!!
深い....深すぎる.....。
2005年09月23日
02:16
gilli
夢鍋再び!!はないのですか?
丁度
『チャーリーとチョコレート工場』を見て熱の時に見る夢のようだったと思ったりしてたとこでした。
2005年09月23日
02:41
安斎利洋
カンブリアンで夢鍋というのは、いまの万博セッションでやろうと思っていたんですが、会場のカンブリアン端末に文字だけ出てきてもなー、と思っているうちに時間がたち、万博もあと3日間ですね。

夢鍋は、共通する要素を人がつないでいきましたが、もっと短い夢の断片を、表層的でない深い連想でつないでいく方法はないか、あれこれ考えています。

万博が一段落ついたら、なにか新しい仕組みをくっつけて企画しようと思っています。
2005年09月25日
11:38
H.耕馬
>理解しやすいドラマには、型がある。別の言い方をすると、型のあるドラマしか、人間は理解できないという考えかたがあるらしい。

出遅れた、カメですが。。。。

学生にシナリオを書かせる時の為に、まずハリウッドの映像文法「3幕形式」を教えています。
中身はキチンとフォーマットされていて、「1分の映像でレターサイズ1ページのシナリオを割り当てなさい」、「映画1本の構成は、1幕30ページ、2幕60ページ、3幕30ページ」、「最初の30ページに登場人物をすべて紹介しなさい」、「最初の30ページの最後の2〜3ページでかならずイベントを起こしなさい」等々。。。。

これらは、安斎さん言う所の、クリックをドコにキッチリ打ったら良いかの指南書です。もちろん過去にも、クリック音が存在しないストーリーとか、クリックの位置をわざとズラシた物語りも多く存在します。しかし、それらは一般的に「高等テクニック」なので、きちんとクリックが適切な位置に作れるようになってからハズス物だと思っています。

「召喚魔法体質」の学生さんは、一般にすごく短気で、今すぐにやりたいので、「持って生まれた感性」とか言うマジックワードを使ってクリックがあるのか無いのか分からないような作品を平気で作ってくれます。

ヤレヤレです。。。。。
2005年09月25日
11:43
H.耕馬
>ままならないことが起こる

ハリウッドの映像文法指南書では、これはそのまま、「劇的空間」「劇的状況」「劇的行動」として書かれています。
普通の人間の何もなかった1日からは、物語を紡ぐ事は出来ない。必ず、「普通とは違ったイベント」があったり、主人公が突然「普通ではない行動」を起こしたりしましょう、という訳です。
2005年09月25日
13:11
godzi2
私は、大学で単位が足りなくて卒業できず「シナリオセンターというところに行くから留年する」と言い訳しました。

原稿用紙の書き方から始まって、1ページ(ペラ)〜毎回1枚ずつ増やしていくという実習をしました。
3回くらい行って、バカらしいのでやめました。

後にハリウッドのシナリオ講義の本を読み、とても感動しました。
まずは創作を技術・技法としてとらえ、その先に自身のオリジナルを付加していくというやり方が、とても合理的に思えたからです。
シナリオセンターで教えられた方法は、ただ先生のお気にいりを探すだけのような気がして、当時引きこもり気味だった私には到底納得できるものではありませんでした。

たださらに後に、ロスの大きな本屋へ行って本棚一面にシナリオの書き方の本が並んでいるのを見て、ちょっとガッカリしたこともありますが。
2005年09月25日
14:39
H.耕馬
安斎さんの日記の中では、あまりにも当たり前過ぎて言うのも恥ずかしい台詞ですが、創作って楽しいケド苦しいと思うのです。

いくつか理由はあると思うのですが、その中の1つはキット「知っているのに、知らないフリをする」事だと思うのです。安斎流に言うと、「1度形を作ってからそれを壊した後で無いと、新しい物良い物は生まれない」といった所でしょうか。

シナリオに限らず、絵画に限らず、基本っていうかベースの部分は、技術や技巧や知識で十分に対処出来る。そしてこの部分は、ある程度システマチックに習得させる事は可能です。

で、まともな形態を成す作品は作れるようになるわけですが、そこには新しいものは何も含まれていないわけです。で、折角習得した技術や技巧を1度忘れるわけです。

で、次は習得した事を知らないフリをしながらまた作り始める。すると、流れや類型を保ちつつ、新しい創作物が醸し出される。。。。と。

この手順ていうか、面倒くさいけど確実な方法を、MATRIXみたいにプラグから流し込んで欲しい人がいっぱいいます。
2005年09月25日
15:40
godzi2
すみません、逆らいます。

絵画と映画は、創作物という点では一緒でも、まったく異なるものだと思います。
絵画は純粋に個人的な創作物ですが、映画は多人数が関与する集団創作物です。だからシナリオは個人の表現であってはいけないのだと思っています。

さらに言えば、映画は芸術であるよりも産業的な側面を強く持っているのだから、より強い表現やより万人に受ける表現などについて、常に工夫されなければならない。

私がアメリカの技法書を読んで感嘆したのは、そういう視点がまっすぐに貫かれていたからです。
日本の映像業界では技術がノウハウとして蓄積されないから、いつまで経っても同じようなことを繰り返している。言ってみれば縮小再生産の世界。「秘すれば花」的な指導法(当時)の限界が、見えているのは間違いないと思っています。

数年前、私はある大学に招かれて1時間だけ授業をしました。学生たちは間違いなく、ナマの知識に飢えていました。
動機はすでに持っているのだから、必要な知識を与え、道筋を示してあげればかなりのことができるだろうと、その時思いました。
私が仕事をしているテレビやVPなどの現場でも、やる気のある若い奴らが入ってきては挫折し、別の業界へ移っていくのは日常茶飯事です。
プロダクションはもはや教育を行う余裕もノウハウもなく、残れる奴だけが残ればいい、あとは派遣会社が何とかしてくれるというスタンスです。
現場がそういう状態なので、教育の方でその事実を伝え、サバイバルするためのノウハウを与えてやることが必要なのではないかと、本気で思ってます。
2005年09月25日
15:47
安斎利洋
この対立軸、面白いですね。

でも僕の頭の中では、上のgodzi2さんの言っていることは耕馬さんの言いそうなことで、耕馬さんの言っていることはgodzi2さんが言いそうなことだと、僕は思い込んでいました。
2005年09月25日
16:59
godzi2
ふふふふふ。
2005年09月25日
17:54
H.耕馬
> この対立軸、面白いですね。

そうそう、同じ意見の人ばかりでは、話が広がらないもの。
しかし、、、、

>上のgodzi2さんの言っていることは耕馬さんの言いそうなことで、

ココは良く分からない。安斎さんの頭の中のマッピングがズレているのか、もしくはgodzi2さんと耕馬の意見にブレがあるのか?
2005年09月25日
18:10
H.耕馬
> 数年前、私はある大学に招かれて1時間だけ授業をしました。学生たちは間違いなく、ナマの知識に飢えていました。

こういう種類の学生ばかりだと教師も嬉しいなぁ。
しかし実際には、「映像制作の職につきたい」とか「CGで食って行きたい」っていうモチベーションの内容が、「今日の夕食でステーキを食べたい」って言う程度のレベルの学生がいっぱいいます。

> 教育の方でその事実を伝え、サバイバルするためのノウハウを与えてやることが必要なのではないかと、本気で思ってます。

ウチの大学は、現場上がりの教員が多いので、そういった「厳しさ」については機会につけ触れています。

まず、文系だけど工学系も教える大学に入学してくる学生像として、「数学は嫌い」「PCは好きだけどプログラムはイヤ」という層が多いのです。話を聞いてみると、ウチだけの傾向では無いようです。

そういった学生は入学してくる時には、口々に、「映像制作の職につきたい」とか「CGで食って行きたい」とか「ゲームクリエーター志望です」言うわけです。そういった学生達に対して、毎週CG作品制作の課題を課したりすると、クシの歯が抜けるように人数が減って行きます。

で、3年になる頃には元々「制作志望」だった者が「プログラマー志望」とかに変わっています。
2005年09月25日
18:18
H.耕馬
>絵画と映画は、創作物という点では一緒でも、まったく異なるものだと思います。

godzi2 さんのこの部分には、耕馬も同意見です。
絵描きを職業にするのと、映画制作で食うのを比較すれば、圧倒的に絵描きで身を立てる方が難しいでしょう。
つまり「売れる絵」と「売れる映像」は全然違います。

しかし、いわゆる「うまい絵」を描くのと「うまい映像」を作るのは、そんなにレベルの差は無いんじゃあ無いかナァ。そこまで持って行くのは、感性とかの問題じゃあ無くて技術・技巧だというのが耕馬の論点です。
2005年09月25日
18:23
H.耕馬
>縮小再生産の世界

コレには、アニメーション業界がピタっと当てはまります。
宮崎さんたちの世代が居なくなると、日本のアニメは終わるだろう、と公言してはばからない方が何人もいます。
2005年09月25日
18:39
godzi2
なるほど。先生もまた大変なのですね。

私が行った大学は芸術学部ができたばかりで、教師も映像関係のプロが皆無という状態だったので、物珍しかったのかもしれません。
ただ学生一人に一台maya入りPCを与え、ハイビジョンのカメラ&編集設備まで持ってるという、うらやましい環境でした。
やる気さえあれば、すぐにでもやれる感じ!

>絵描きを職業にするのと、映画制作で食うのを比較すれば、圧倒的>に絵描きで身を立てる方が難しいでしょう。
>つまり「売れる絵」と「売れる映像」は全然違います。

という部分の分析が、日本では圧倒的に少ない気がします。
つまり集団創作として、誰がどう関わることで「売れる映像」にするのかというマネージメントの部分。
これはプロデューサーの問題も大きいのかもしれません。
ゲーム関係のシステマチックなスタッフ構成を見ると、羨ましい感じさえ覚えます。
2005年09月25日
18:44
godzi2
で、ふと耕馬さんのプロフを見たら、、、JCGL出身?

私は元JCGL、現フレームワークスの杉村氏とずうっとお友達です。たまに反省会(何の反省なんだか、、、)を二人でやってます。

世間は狭いですね!
あ、うちらの業界だけか!?
2005年09月25日
18:57
H.耕馬
>反省会を二人でやってます。

杉さんとお友達との件、了解しました。
今度の反省会の折には、ゼヒ声をかけて下さい。

JCGL時代の、「明け方に中嶋みゆきを聞きながら、ソフトのBugで発生したゴミを1PIXELずつ手で修正した話」などで盛り上がりましょう。。。。って暗い?
2005年09月25日
19:04
H.耕馬
>ゲーム関係のシステマチックなスタッフ構成を見ると、

これは、業界が新しいからでしょうね。でもゲーム業界に長く居る方々に言わせると、マダマダみたいな仰り方をされます。

アニメ業界は、多人数で分業をする、という意味では昔からワークフローが確立している業界だと思います。しかし、そのワークフローが必ずしも「能率化」のために機能していないといった問題点があるようです。

今年の4月に某アニメプロダクションの制作進行になった、ウチの教え子の日記を見ていると、その能率的では無い部分が楽しめます。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=39718500&owner_id=1247774
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=39017811&owner_id=1247774
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=38521503&owner_id=1247774
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=38293638&owner_id=1247774
2005年09月25日
19:05
godzi2
暗杉!

次回、声かけさせてもらいます!!
2005年09月25日
19:23
H.耕馬
>暗杉!

杉サンは、何時会っても能天気に明るいですねヽ(^.^)丿
期待しています。
2005年09月26日
11:53
MATANGO
ぼくは、パターンはあるかもしれないけれど、パターンに頼るのは、99害あって1理くらいあるだけのような気がします。

「なにかをつくる」と誰でも経験すると思うんですが、もちろん最初は、だいたいのパターンを思い描くんだけれど、かならず途中で「うまくいかないこと」が起こる。
それとも、「わかれ道」「いくつかの可能性」が見えるときがあって、どっちにしたらいいかわからないことがある。

そのときにパターンに頼ると、無理矢理「道」をつけてしまうことになって、面白くもなんともないものができるし、あとで「あ、無理矢理だ」とほかの人にもわかるものができあがる...。

「七人の侍」は4人で書いたようですが、やはり途中でニッチもサッチもいかないようなことがいくつも起こったらしい...。

たとえば、敵の野武士をはじめて捉えたとき...。
農民が、竹槍でなぶり殺そうとしているのを見て、侍たちが止めに入る。
「野武士も侍に違いはい、自分たちもおなじようなもの」だと言って...。

さて、ここでどう解決するかがわからなくなった。
このまま農民と侍を対立させてしまうと、野武士とちっとも戦えなくなる。
でも、農民が、やとっているはずの侍の言うことに、ただ従うはずはないし、かといって、侍が農民のやることを、黙って見逃すのもおかしい...。

じゃあ、こんな対立のシーンは削ってしまえばいいかというと、「侍たちは、野武士に共感しているとこがあるはずだ」という最初のアイデアは面白いし説得力がある。なんとかして残したい...。

...そこで思いついた新キャラが、「家族を皆殺しにされてひとりで生きる老婆」。クワをもってよろよろ出てくる老婆の姿を見て、あの「もののわかった」志村喬でさえ、負けて引き下がらざるを得ない...という...。

この解決を誰が見いだしたのか知りませんが、これがじつは、たぶん誰も意図していなかったにもかかわらず、振り返ってみれば、「侍が最後には負ける」という物語全体のパターンのひとつとして、ちゃんとはたらくものになっている...。

こんなふうに、「ままならないことを」ひとつひとつ解決してゆく、その過程が、そのまま面白さになっているのが、たとえば「七人の侍」で...。

それをあらかじめ、あるパターンにはめて「処理」してしまうと、たとえば、「面白そうで深そうな」外観をもっているにもかかわらず、実際は「面白くも深くもなんともない」バッドマンになってしまうという...。

「この飯、おろそかには食わんぞ...」
2005年09月26日
16:34
N_apostrophe
godzi2さんや林さんの議論が伯仲した後に、やっと安斉さんの書き込みに気づいてコメントを書くのは気が引けますが。どこに書いて良いか分からないのでフラッシュバックさせていただきます。
「無意識」は分析のような意識が働くと抜け落ちてしまうものだとされていますね(CF.オグデン『間の空間』)。
夢を思い出して書いたり、分析したりする時に働いているのも無意識なのでしょう。
わたしは深層構造や言語体系もまた、意識化した「無意識」という点で、この猶予を保って捉えておく方が良いと考えています。
ところでお二人の書き込みを見ていて、わたしも35年も大学で映画を教えて来た身として共感するところあります。(たしか尚美学園大学にはかつて同僚だった春口さんが行ってますね)。映画作家として活躍している卒業生は、メディアに名が出ているものを数えると10人くらいでしょうか。1000人送り出していますから、1%ですね。在学生や高校生から質問された時には、その人の能力と努力と運のおかげで、教育は環境でしかありませんと、無責任な答えをしています。
最近では、できるだけ学生がかかえている問題に直接かかわるように要望しています。何も教えないと言った方が良いかもしれません。
むしろ既存の作品や学生同士の作品を観ることについて、専門的な観方を「勝手な思い込み」に気づいてもらうために教えているというところです。
このように変わったのは、映画という概念が大いに変わって来たし、これから学生が関わって行く時代には予測できない程変わるだろうと考えているからです。また、物語がブルジョアという階級形成に大いに関わってきたという近代への反省にたってもいるからです。(ポストモダニスムの問題意識ですね)。
わたしは学生に恵まれていて、こんな話しも良く聞いていてくれます。ありがたいことです。
2005年09月26日
20:18
H.耕馬
N_apostrophe さん、こんにちわ。
35年ですか、すごい歴史。

こちらは、社会に出てからもそんなに経っていません。
まして、教員になってから5年ですから、浅学薄才が調子に乗ってしまっています。お恥ずかしい限りで。。。。。

と、言いながらも、ツイツイまた調子に乗るのでした。(^_^;
2005年09月26日
20:25
H.耕馬
>ぼくは、パターンはあるかもしれないけれど、パターンに頼るのは、99害あって1理くらいあるだけのような気がします。

MATANGO さん、賛成します。
ただMATANGOさんは、実際に制作を行う時の話で、耕馬のは教育の時点、そこまで行く前段階の話しです。

教育では、1度「型」や「パターン」を示します。
でプロになって制作を行うときは、それを自ら壊せるパワーが必要だと思います。

それをやらないで、最初からFree runさせると「勝手な思い込み」によって、ダレにも理解出来ない映像を作って「オリジナリティ」とか勝手な事を言うようになります。

やはり、基本は重要です。
2005年09月26日
21:30
安斎利洋
N_apostropheさん、またお会いできてなによりです。

いまやっている「カンブリアン・ゲーム」(たとえば、http://anzlab.com/aich04c/index.htm)は、写真のモンタージュをコラボレーションで編み上げています。今後、これを動画に拡大していこうと考えています。もしかすると N_apostropheさんの領域と、重なる部分があるのではないでしょうか。
2005年09月26日
21:31
安斎利洋
>夢を思い出して書いたり、分析したりする時に働いているのも無意識なのでしょう。

「夢鍋」をやっているとき、目覚めてから急速に希薄化していく夢の記憶を書き留めるんですが、あれはたとえて言うと、壊れやすい羽虫をペンチでつかまえるような作業でした。

触覚や光や感情や音が一体になった言うに言われぬ夢の記憶を、意識的な言葉に置き換えると、たいていはほとんどの大事な部分が消えてしまうんだけれど、うまく捕獲できる言葉が降りてくることがあります。
2005年09月27日
03:39
godzi2
>N_apostrophe さま

映画のことを考え続けてきた先達とこういう場でお話しできるのは、とても幸せなことだと感じます。

お書きになっていた

>このように変わったのは、映画という概念が大いに変わって来た

というあたりが、私の主要な関心事です。

映画という形式は結局近代を彩る芸術・芸能で、ポストモダンの社会においては大きく変わらざるを得ないと、散発的ではありますがこの10年ほど考え続けていました。
その先(というか、まさに現在だと思いますが)にあるものを少しでも早くカタチにしたいというのが、今私や仲間たちの欲望であるように思います。

もちろんそこでは、既存の物語に回収されない新しい物語が描かれなけらばいけない。というわけで、千一夜物語のように近代からつまはじきにされた物語たちを改めてかき集めたり、ドキュメントというカタチで保存されている現実の断片をいじくり回したり、さまざまな努力らしきものを始めているところです。

安齋くんが書いている「カンブリアン・ゲーム」の動画版なども、もしかすると「新しい映画」に連なる試みとなるのかもしれないと。私は考えます。

また是非、ミクシイ上でお説伺えたら幸いです。


と、完全な私信になってしまいました。
すみません。>ALL
2005年09月27日
12:26
N_apostrophe
林様
35年。アーたってしまった、残り少ない、という程度です。それに、経験は役に立たない(これはちょっとモダニストですが)、という所にいつもたっていないと、と自戒しています。
わたしはテニスをやっていて(中年で始めたのですが)、指導員講習と言う義務があって、これに「学(ぶ)生」として出ていて、いつも新鮮になるのは、いろいろな国のナショナルコーチが来て話すたびに異なったベースに立っていることです。プレーというシンプルに対人の争いと言うものは「基本」が常に動くという点です。
映画で言えば、コンクールとかフェスティバルというものは固定した映画人(批評家とか俳優とか)が議論して決めるものですから、受賞作はいつも気の抜けたものですが、観客を掴むという勝負はいつも動くと思います。(もっとも、映画は宣伝で見に行ってしまえばつまらなくても観客数に数えられますから、テレビドラマ程の勝負をしているわけではないでしょうね)。
それと昨今、学生作品を併映したり、入選させたりと、映画祭では学生と職業人との区別はなくなっていませんか?
2005年09月27日
12:54
N_apostrophe
安斉様、godzi2様
8年程前から、コラボレーションで映画を作るDEFプロジェクトをしています。
始めの頃は、わたしが簡単な設定ていどのストーリーを書き、それを映画化してくれる友人を何人か捜して依頼し、できたものをわたしのフーテージも加えてまとめるというやり方でした。
この5年程はわたしがストーリー(シノプシス程度)を書き送るとそれをそのままと作る人も入れば、サイドストーリーを撮る人もいて、それぞれをギャラリーで3面の壁に同時に映写したり、交錯させて一本にまとめシングルトラックで映画祭に出したりしています。現在はDEF6の段階を始めたところで、出発のコンセプトを交換したり、断片を書いたりしながら、あてずっぽうに始めています。上映予定も、仕上がり方式も時のなすままです。(6と言いましたが、DEF1は存在しません)。
メンバーも忙しくなって中断している人や、行き違いで分かれてしまったりと、普通の友達関係と同じです。
理想も原型もなしに関係だけを頼りに揺れ動いているというところです。参加者はリタイアしたモードの写真家(娘の知り合い)、いまは売れっ子になった映画のシミレーター、写真アーチスト、哲学科の博士課程、演劇の俳優、デザインマネージャー、ビデオカメラマンなどで、友人(呼びかけに賛同して以降友人になった人もいます)という共通点だけですが、どこか似ている点もあります。結果を求めないという共通点です。
作家主義とか、個性とかに期待をしていない者の交流で、かつての「座」のように製作することが交際を実現することに重心がある集まりです。「戯れ』(ゲーム)ですね。
お二人にとっては、制作は仕事と重なっているのでこんな貴族的なことはどう映るのでしょうか?
2005年09月27日
19:34
安斎利洋
N_apostropheさん

僕も、疎結合の連衆による「座」の創作をずっと追い続けてきました。
http://www.renga.com/index_j.htm
ここをごらんになっていただけると、ご理解いただけると思います。

これまで、連句で言う「句」にあたるものが、僕らにとっては、絵であったり写真であったり言葉であったりしました。これから動画を句にしていこうと考えているのですが、動画そのものが既存の「つながりの文法」の影響のもとにあるなかで、いままでやってきたことと、どう違うのか、そこに関心と期待をもっています。そういう意味で、DEFプロジェクトはぜひ拝見したいと思います。

お目にかかることがありましたら、いろいろご教授ください。造反国民2号さん、チャンスがあったらセッティングしてください。
2005年09月27日
20:20
gilli
はい、きっと。絶対。
2005年09月27日
20:47
godzi2
>N_apostrophe さま

貴族的とは思いませんが、興味はあります。
ただ、もともと協調性のなさを痛感しているので、座の空気を乱すアトラクター(?)的な動きしかできないような気がします。

この歳になって寂しいことです。


>安斎利洋 さま

前にも書きましたが、杉山ゼミにもいた鈴木章和さんが俳人として活躍しています。
んで、私は某国営放送局に、句を連ねるのでなく、他ジャンル(写真家とか書道家とか)との作品を連ねる企画を提案しました。
「あなた俳句のこと分かってるの?」と言われて、30秒で終わりました。
とほほ。
2005年09月28日
08:34
MATANGO
コラボ、おもしろそうですね!

ひそかに、ひとりではじめたことがあり...そのとき気づいたのは、写真はともかく、ビデオを街中で撮るというのが意外にはずかしいこと(そこにずっといなくちゃならない...)。

相手が動いていないとつまらないので、どうしてもニンゲンが撮りたくなり、電車のなかで撮っていたら、通報されそうになったこと...。

コラボなら、心強いかなと思われ...。
2005年10月01日
13:13
N_apostrophe
安斉様
先の書き込みをする前にrengaサイトを見ましたから、なさっていることを理解しています。わたしが「座」に関心を持ったのは、『芸術記号論』という本を何人かで書いた時、文学の記号論を担当した持田公子さんから聞いてからです。
ことばの交流を支える言語がパラディグムだとして、それを生成するのはサンタグムしかないという立場で、ことばを交わし合っているうちに(あるいは歌を連ねているうちに)「曲り」が突然変異をもたらし、これが言語を通時的に変革するとわたしは考えたのです。そして、生物の生存と同じで、この変異体の中から状況に適したものが生き残り、新しい言語にまで定型化するとすれば、映画のように限られた人間が限られた状況で生産消費する世界ではなかなか変異は起こらないであろう。とするなら、日常ことばにちかい範囲で生産消費される条件をつくることに新しい生存種が生まれる。これが、いろいろなひとと座を作って映画を制作しようと言うDEFプロジェクトの狙いです。

MATANGOさん
ほんとうにビデオを町中で撮っていると怖い目に遭いそうになりますね。とくにわたしのように老年(若干前)というのは痴漢にしかみえないかもしれません。
わたしは小型のデジタルプォト兼用を手にしているのですが(いつでも持ち歩くのに楽なので)階段を上るときは鞄にしまいます(冷や汗)。
ファインダーをのぞかないことが少しは気楽にします。フレームという考えは、映画ではあまり意味が無い。なぜなら、フィクションの世界(ディエジェーズ)はフレームを逸脱するからです。フレームに入っていれば良いというのが到達したわたし流の映画制作です。おしゃべりのにがてそうなgodzi2さん。映画のコラボレーションは相手と距離がありますから(なにしろ見ればすぐ分かるとはいきませんから、しばしだまって見ていてくれます)気分に会うと思います。
2005年10月01日
23:03
MATANGO
自分は映像を「飯のタネ」にしているのですが、役割としては一応「演出部」なので、いつもはカメラマンの撮った絵を見て、「あ〜あ、こんなもの撮りやがって!」とひそかに思いながら編集をしているんです。

で、いざ自分で撮ってみて、あとから思うのが「...誰だ!こんなもの撮ったのは!!」

...ようするにアタマのなかに、あらかじめなんらかの「範例」のようなものができあがっていて、それに合わないとガッカリしてしまうんです。

でも、そこにあるものを撮るしかないわたしたちは、じつは、じつによくそんな「どうしようもない画」に出くわしているんです...。

で、どうするかというと、「シノギ」というのをやる。
撮れたものは、撮れたものでしかないし、撮れたものしかないので、まあそこで無理矢理マニアワセルということやる。

それはほとんど、コトバに合わせて、コトバの絵解きみたいなカタチで、コトバのためにご奉仕してつくっているんですが、でもごくごくたまに、自分にも思いもかけなかった映像どうしの「つながり」というのを発見することがある。

...そんなことがやってみたくて、カメラを買い、その日に撮り、その日につなぎ、その日にサイトで公開する...というのをやってみた...。

撮れた「画」は....「なんだこりゃ?」。
でも、「シノギ」の精神で編集.....これはほとんど拷問でした。

ところが、案外、マニアワセがそれなりに様になってみえる。
...編集したんだから、「様にしたんだろう」とも思えるんですが、でもそうとばかり言えない。

これがコトバなら、それが意味をなしているか、というのは、まあ誰が見たって聞いたって、自分が見たって聞いたって明らかなんでしょうが、どうも、映像はそういうわけにはいかない....。

自分でも、それがなんなのかよくわからないし、どうしてそうつないだのか、まあ、詮索すればいろいろ濁ったところもあるんですが、でも、とうていわけがわからない、でもあきらかにつながっている....というところもあるにはある....。

...そんなことで、わけのわからないものをつくり、ごく近しい友人にその存在を知らせたら...、
「2番目の映像が、いちばん好きだ、これは傑作である...」とのこと....。

「....はあ???」.....だから傑作とかいうことでなくて....と思ったんですが、でも古い友人でもあるし、これがただひたすら「シノギ」でつくられたことは黙っておきました....。
2005年10月02日
00:55
安斎利洋
N_apostropheさま。

DEFプロジェクトに猛烈に興味を持ちました。可能であればぜひ一度、見せていただけないでしょうか。

「座」の構造が、日常的なパラダイムを組み換える戦略を、ずっと考えています。大事なヒントがあると、確信しました。
2005年10月02日
04:03
godzi2
>N_apostrophe さま。

おしゃべりは苦手ではなく、むしろ余計なことを話してるのが好きです。
この間作った番組では、「godzi2さんは作ったモノよりそれについて語ったことの方が面白い」と、まるで詐欺師のような言われ方をしました。
そういう口先人間のタイプです。
安齋氏と同じく、DEFプロジェクト熱烈に見たいと思います。

>林耕馬 さま

報告遅れましたが、この間杉村氏と食事しました。
友人のロス在住の監督さんと3人で。
かなり面白い企画が、動き出すと思います。
2005年10月02日
11:40
N_apostrophe
安斉様
godzi2様
MATANGO様
興味を持っていただいてありがとうございます。
DEF2&3はボンのミュージアムで2000年に、DEF4はソウルで2002年に、DEF5はソウルの別の画廊で2003年に発表しました。(シングルウインドウにしたものを2004年ダブリンのフェスティバルで)。
こんなぐあいに外国でばかり発表しているのは、どうも作ることに関心があるのですが、発表は相手任せで話しがあったらやるという消極性の所為です。
本来は、ネットに置いておくという趣旨で始めたのですが、データが大きくて(画廊で発表と言うせいですが)未だ置いていません。
MATANGOさんのを見たいと思うので、どこかで一緒に見る機会を作りましょう。
ちょうど、大学院のプロジェクトで芸術談義をするカフェ文化を作り出そうと「パブリックハウスプロジェクト」を始めたところです。院生16人、教授3人なのですが、水曜あるいは木曜の17時から20時に開設しています。いまのところ大学(横浜線相原駅15分)ですが、たまには外もいいかということなので、壁がいくつかあって、プロジェクター(コンピューター)が複数あれば良いのですが。お酒とつまみを持ち寄って集まれるところがあれば良いのですが。
いかがですか?
造反国民2号さんも誘い合わせてと思います。
2005年10月02日
14:15
H.耕馬
>かなり面白い企画が、動き出すと思います。

オオ〜、わくわく(@_@)

>まるで詐欺師のような言われ方をしました。

詐欺師というのは、映像業界ではホメ言葉の1つでは(^_^;

2005年10月02日
14:25
godzi2
>林 耕馬 さま

私は純情なオヤジなので、深く傷つきました。。。
ってか、自分の作品に、根拠のない自信もっているもので。
2005年10月02日
14:55
安斎利洋
>芸術談義をするカフェ文化を作り出そうと「パブリックハウスプロジェクト」

これ、いいですね。

造形大は、2度ほど呼ばれて話をしに行ったことがあります。緑に囲まれた、硝子ばりの空間が印象的でした。外もいいですが、大学の中でも、僕らにとっては小旅行ですのでうれしいです。

連画のあいかたの中村さんも誘おうと思います。
ぜひ近々、スケジュールを会わせて合流しましょう。
2005年10月02日
21:17
H.耕馬
>深く傷つきました。。。
アラマ、すいません。
2005年10月02日
21:51
MATANGO
>見たい
...ということですが、じつはごく簡単に見られることに気づき、そこで、永遠に黙っていようと一瞬思いました...。
でも、せっかく面白いことをやっておられる方に知り合えたのに、このまま姿を消すのは「卑怯である」というような、わけのわからない感情もわき、蛮勇をふるうことにしました。

動画の難点は、画のように一瞥することができず、ある一定時間見なければならないということです。
わたしは、こういう拷問にたえられなくなると、映画館でもさっさと出ることにしています。
まあ、いいわけはともかく....。
いつか、映像作家というような、やっかいなものが消滅する日を夢みつつ....。
http://mu888.exblog.jp/
2005年10月03日
01:03
godzi2
N_apostropheさま。

是非、相棒とともにお邪魔したいと思います!
2005年10月03日
08:08
H.耕馬
N_apostropheさま。

参加希望します。
日時が決まりましたら、告知よろしくお願いします。
2005年10月04日
00:26
N_apostrophe
皆様
院のプロジェクトは未だ始まったばかりで、お見合い段階なのでもう少し時間を下さい。
「小旅行」とプラス思考の安斉さん、ありがとうございます。場所も含め考えます。
時期は11月の水曜日ということで都合つかない日を書き込み下さい。
MATANGOさん
見に行きました。音楽のせいか、リンゴがベリーダンスのおへそに見えて、かびはえてるな、ダンサーはどうだったかな、など脱線しました。動け動けと死体に念仏かけてるのでしょうか。映像はなんでも命を呼ぼうとしているのですね。
だれもふりかえらない、帰路は、これだけの人が触れ合おうとしない、動いている「静物画」ですね。鳥はそれにくらべて獰猛ですね。感想ばかりでごめんなさい。
2005年10月04日
00:57
gilli
>MATANGOさん
鳥のがなんだかすごくおもしろくって、ゲラゲラ笑ってしまいました。とりあたまというけど、鳥の行動ってやっぱり変というか、なにか計り知れないですね。
2005年10月04日
03:44
H.耕馬
nanameが面白かったです。
アングルをナナメで切り取るのは新鮮です。
2005年10月05日
02:43
安斎利洋
僕はいまのところ、11月の予定はほぼ白紙ですが、きっともう少し接近してから調整するほうが、みなさんいいでしょうね。
中村さんにも声かけました。すごく楽しみです。
2005年10月05日
07:00
中村理恵子
[・・]
2005年10月06日
07:54
MATANGO
みなさまたいへんお気遣いいただき...と考えるのは「自意識過剰」のせいでしょうか...。

N_apostropheさんの
>フレームに入っていれば良い
というのもたいへん刺激的で...。
やはりムービーは、写真とくらべてどうしても「撮る意識」がはっきり持続していないと撮れず、そこで「撮る側/撮られる側」の境目がくっきり際だってしまうことに....。

その「階級格差」みたいなのに敏感で、「映像で写りあうー対話する」というのに活路を求めている友人がいますし、

ドキュメンタリーのベテランなのに、いっさい固定ショットがなく、いつもフラフラ動き続け、まさに「フレームに入っていればよい」というような映像を撮ってきて、さあみなさんにわかるようにキッチリつなげ....と無理難題をいう困ったオジサンもいます。

いずれも「どういうふうに写っているか」...それをあらかじめ意識したくないと意識している、というこんぐらがった意識が...。

映像というのは、なによりまず「困ったものだ」....ととりあえず思っており...。
2005年10月06日
08:33
H.耕馬
>「どういうふうに写っているか」...それをあらかじめ意識
はげしく同意。
2005年10月08日
13:10
N_apostrophe
DEF5を観ていただく件
皆さんの不便を別とすれば、大学に来ていただくのが一番実現可能性が高いと判断し、日程の都合をお聞きします。
11月9日水曜日17時から20時、横浜線相原駅歩15分(スクールバスあります)の東京造形大学12号館3階という予定でどうでしょうか?
院は美術、デザイン、映像の研究をしている16名が登録していて、通常10名程が集まっています。
パブ文化、サロン文化、カフェ文化といったことを意識しながら互いの作品をつまに雑談する会です(「パブリックハウスプロジェクト」と呼んでいます)。持ち寄りの食べ物と飲み物を自己責任で飲み食いしながらやろうということで、場所や運営をようやく決めた段階です。12号館の3階階段ホールの壁に映写しながら観ながら、話しながらと言う雰囲気になるかと思います。
とりあえずこの日で計画し、皆さんが集まれないようでしたら日を変えたいと考えます。お返事下さい。
2005年10月08日
23:11
安斎利洋
DEF5と、パブリックハウスという空間を楽しむということで、造形大におじゃまさせてください。可能でしたら、プロジェクタにPCからVGA入力できれば、僕らのほうもお見せしたいものを持ち寄れます。

日時ですが、僕は9日でOKです。

2005年10月09日
08:32
中村理恵子
N_apostrophe さま、みなさま

 9日、ぜひぜひ。
ちょっと掘れば遺跡がでてきちゃう造形大の近所;多摩ニュータウンから向かいます。
よろしくお願いします。
2005年10月09日
11:19
N_apostrophe
安斉さん、中村さん
さっそくお返事ありがとうございます。
ところで場所ですが、安斉さんの「プロジェクタパブ」という日記を見てなかったので林さんの富永研究室運営の六本木のスペースを知りませんでした。
パブリックハウスプロジェクトはこうしたものをつくろうという計画なのでぜひそれを見学したいと希望しています。
林さん
アレンジお願いします。
というわけで、もしそちらで9日可能なら、それぞれ映像を持ち寄ってセッションしましょう。わが院生も(これは映画監督でもある諏訪先生の指導)持って行くと思います。
2005年10月10日
02:13
H.耕馬
N_apostropheさん、こんにちわ。林耕馬です。

11月9日の件、了解しました。
以下、2点、確認したい事がございます。

(1)クラブ(?)として運営しているので、食べ物・飲み物の持ち寄りという形態は難しいかも知れません。いつも、1人4000円〜5000円でお店にアレンジしてもらうのですが、そういった形態でもよろしいでしょうか?
多分、大人には問題無い値段なのですが、学生さんにはシビアな問題かと。

(2)そういうタイプのお店なので、17時〜20時といった時間帯に使った事は今までありません。聞いて見ないと分かりませんが、いつもは19時位から終夜といった時間帯で利用しています。その辺りはいかがでしょうか?

ちなみに、私個人は、水曜日でしたら川越からうかがうとして、造形大もしくは六本木に18時でしたら到着出来ると思っております。
よろしくお願いいたします。
2005年10月10日
02:17
godzi2
あなたまかせの仕事なものですから何とも言えないところがありますが、可能な限りお邪魔したいと思います。

よろしくお願いいたします。
2005年10月10日
02:24
安斎利洋
臨時コミュを作りましたので、続きは

http://mixi.jp/view_community.pl?id=349804

でじっくりと。

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