安斎利洋の日記
2005年08月29日
01:20
ひとりカンブリアンとこっくりさん
昨日の話のつづき。
カンブリアン・ゲームを最初に思いついたときに、自分ひとりでやったのがこれ。(2002/02/14)
そのアイデアを合い方(中村理恵子)に説明して、二人でやってみたのがこれ。(2002/02/28)
その後、デジタルアナログ含めて百を越えるセッションを見てきたけれど、一人カンブリアンのような静謐な単純原理に支配されたセッションはない。どんなに宗匠がセッションのイメージを強く持っていても、かならず複数の原理が錯綜しはじめる。
こっくりさんが人格の創発なら、数人のカンブリアン・ゲームが一人カンブリアンになることがあっても良さそうなものだ。しかし、カンブリアンの海に、誰でもないひとつの人格が降臨したと実感したことは一度もない。カンブリアン・ゲームはこっくりさんと、何が違うのか。
コメント
2005年08月29日
01:32
はらこ
こっくりさんって、ある瞬間には一つのコンテキストしか存在し得ないじゃないですか。それとくらべてカンブリアンはノード数の分だけのコンテキストが分岐しうるので複数の「人格」が存在できるんじゃないんですか?
分岐のないカンブリアン(果たしてカンブリアンと呼べるのかどうか判りませんが)ってやってみたらどうなるのでしょうか?
2005年08月29日
01:38
ネット上でのカンブリアン・ゲームは、
時間的多様性と、人格のバックグラウンドが複数であることが決定的な違いなのでしょうね。
コックリサン同士がコックリサンをしたらどうなるか?
なんて聞かないでくださいね。
2005年08月29日
01:41
安斎利洋
そういうことでしょうね。単一コンテキストのカンブリアンって、枝ぶりで絵を描こう、みたいなことになるのかな。暑苦しいですね。
カンブリアンは、仮想人格を統合する力はまったくなくて、むしろ統合されていると思っていた自分を分解する方の力が働く、ということか。
2005年08月29日
01:48
安斎利洋
>コックリサン同士がコックリサンをしたらどうなるか?
面白い!
民主主義って、これなのかな。
2005年08月29日
01:58
machiko
こっくりさんの場合は、その到来をみんなが期待しているからこそ、存在を感じてしまう、という話を読んだ事があります。
そういう意味では、全体主義?
カンブリアン・ゲームの場合、参加者はむしろ、枝分かれと錯綜を期待しているんじゃないですか?
2005年08月29日
02:05
安斎利洋
全体主義は、仮想人格でなく生きたカリスマがミスリードするケースが多いですけどね。でも、カリスマっていうのは、それでもやはり仮想人格なのかもしれない。
こっくりさんの話の違和感は、ここにあるな。賢い合意を創発するように思えない。
2005年08月29日
04:21
H.耕馬
>カリスマっていうのは、それでもやはり仮想人格
カリスマは演出でしょう?
人々の期待によって作り出した仮想人格を演じる。
2005年08月29日
08:02
中村理恵子
プレ・カンブリアン;ひとりのなんと澄んだ空気のシャーレの中って風情から
一転カンブリアンを確信した2・28セッションへ。
すごい二日酔いでけっこう時間かかったね。
2時間くらいやったかな。
ネット使わず、同じ空間でのこうしたセッションってのは、
長い連画という創作の場を通しても初めての試みだったね。
途中から、お互い、なにかコツンと手ごたえを感じはじめて
アルコールにやられた前頭葉がどんどんリフレッシュしていったっけ。
この実験を機に、手のひらサイズのポストイットや、描線太目の書き方ペンなんかを求めて街へ。
連画公開して10年後、ポスト連画は、「ぼくら、なんと紙よ、書き方ペンのアナログよ、ふふ〜ん」なんて宣言しちゃってさ。
あれ、2002年か。
3年のあいだに、専用のシステムたちあがって、なにより
【カンブリアン】という独特のメンバー;アーティストたちが
発生(笑)してきたよね。
感慨深い、なんていってないで、さて今日も。
2005年09月01日
00:00
MATANGO
むずかしいことを考える状態になっておらんのですが、お邪魔します...。
「コンテキスト」という言葉は、「ひとつながりのつながり(?)」みたいな意味だと思うんですが、たしかにこれって窮屈なカンジがしますよね。
「決まりきった道筋」とか「踏み外せない約束事」のような...。
でも、おんなじような「ひとつながりのつながり」をあらわしてるのに、すごく自由で、どうとでもなる....で、「つながってることがすごくウレシイ」みたいな言葉を思いだして....。
...それは「コンステレーション」です。これ、もちろん「星座作用」です。
わしは商売では、いつもなにかの「コンテキスト」をつくる必要に迫られているんです。
「これをひとつながりの言葉で、映像であらわせ、説明せよ」みたいな...。
ところが実際やってみると、言葉にせよ映像にせよ、そうそう無理矢理ひとつながりにくっつくわけがない。
...それでいまも泣いているんですが....。
...それはさておき、コンテキストなんて不自由なものより、やはり、勝手にそこにあるものを勝手に見立てる「コンステレーション」にすごくあこがれるんです。
...そのクセ「そんな悠長なことやってるヒマあるわけないだろ!」というようなビジネスチックな習性が、どこか身についてしまっており....。
すいません、グチでした...。
2005年09月01日
19:01
安斎利洋
今回の連続カンブリアンで一貫して感じていることがあるのですが、それをうまく説明できません。
ただ、言語的で線状の文脈と、空間配置的な星座が交差する座標の中に、その解答があるという予感はしています。
カンブリアンゲームは、誰の頭の中にもある「3分」「ウルトラマン」とか「めがね」「だんご」のような、ステレオタイプの連想を、次々つむぎだします。そのなかに、はっとするような異化の瞬間があって、それはコンテキストやコンステレーションのほころびのようなところに、出現します。
ほころびを頻出させる仕組みはなにか、ということを、もっと考え続けないと、と思ってます。
映像の仕事も、たぶん同じことでしょうね。誰でもわかるようなコードを利用しながら、しかしどこかに「あれっ?」というようなほころびを作っておかないと、まったく目にひっかからない映像になってしまう。
カンブリアンのリーフを、いつかムービーにしたいと思っています。
2005年09月02日
02:42
MATANGO
ちょっとまた「脳の話」になってしまうんですが...。
「線状の文脈」というのと、「空間的な配置」というのは、どうもアタマのなかでいっしょには理解できにくいらしんです(そのへんの事情をまた聞きした話を、わしの日記で「耳目をあつめる」という題でまとめてみました)。
....でも実際には、たとえば「星座」というのも、「ひとつながりのつながり」というところと、それをいっぺんに見てみると、ある「カタチ」をつくっているというのと「両方が同時にある」と思うんです。
...で、そんなことを想いながら、たとえば「連歌」とか、「カンブリアン」の仕組みとかを考えてみると、「あとさきのつながり」というのでつなげていくので、そのつながり具合とか、飛躍とかが楽しめるんですが、もしかしたら、それをいっぺんに見てみると、同時に「あるカタチ」をつくってる...かもしれないなあと....。
...でもって、そういう「つながり」を、同時に目に見える「カタチ」にしてるのが、あれ?それこそ「マチス」じゃん!と気がついたんです...。
で、そこから、「写真のつながり」である「カンブリアン」を、「マチス」みたいに自由に組み合わせて楽しむことができないかなあと思ったんです。
...ただなにしろ、それぞれが「具象」なので、それを組み合わせても、ひと目で見える「カタチ」にはなりにくいかなあと...。
でも、「つながり」方面でみると、いくつかの写真のつながりを「見立てる」....つまりストーリーみたいなものとして「読み取る」ことはできるかなあと...。
...それだけでも、十分面白いんじゃないか、と思うんですが、そこからさらに...。
「自己組織化」なんてテーマがあったんで思ったんですが、つくった方々がつなげた「つながり方」以外に、つながりたがってるものが勝手につながっていて、それをこっちで勝手に読み取る...というようなものにもなるかなあと...。
具体的な仕組みとしては、「金魚すくい」とか、それとも「回転ずし」のようなものかもしれません...。
...みんなでつくりあげたものを、いたんバラして、見物人が勝手に楽しむみたいなことになりますが、でも欲望としては、そういうのも面白いかもなあと....。
...じつは、あのカンブリアンとかマチスを見てから、イカレ状態でして、気がついてみると「これがもしこうなれば...」とか考えているんです。
バラバラで無責任な思いつきなんですが、ちょっとそこからまた思いついたことがあって、黙っていると体に悪い(?)ので、カンブリアン風に「つながったもの」だけ並べさせてください...。
「つながり」「カタチ」「星座」「具象」「箱庭療法」「無意識」「ソラリスの海」...。
またまためちゃくちゃなことを......失礼しました。
2005年09月08日
23:03
MATANGO
またまた勝手な思いつきなんですが...。
写真たちのあつまりの、そのあつまり方が「わかる」というのも、面白いと思っていまして...。
写真の集まりは、「カタチ」でわかることができない....そこで「動きに変換する」なんて、前にも口走っていたんですが...。
もうひとつ、「音」に変換するというのもあるかもしれないと思いました。
昔、ピーター・ガブリエルの「音楽モジュール作曲ソフト」みたいなのが雑誌のオマケでついてたことがありまして、まさに「ひとりカンブリアン」にあるようなシンプルな「カタチ・カード」に、ひとつひとつ「音のモジュール」みたいなものが割り当てられていて、それを組み合わせると自分なりのアンサンブルみたいなものができる....というものでした。
...その「カタチ」にどんな音がつくのかは、ガブリエル様の思し召しのとおりだったんですが、もっと理にかなう...というか自然にかなった「カタチ」と「音」、または「動き」との変換の仕方があるのかもしれないと思って...。
...いまのカンブリアンでいうと、それぞれの写真に触れると、その個性にそった音が鳴る...で、そこから発展すると互いに共鳴しあうみたいな...。
..ますます妄想に近づき、「答えが欲しい」などとはまったく思っていません。ただの思いつきを書いてみました....。
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