安斎利洋の日記全体に公開

2005年08月28日
12:39
 こっくりさん
昨日、鈴木健さんらの「研究飲み会」で聞いた面白い話。こっくりさんの実験をすると、たしかにそこに参加している誰でもない新たな人格が生まれる、という。

「私」という状態は、並走するいくつかのサブシステムの中に生まれる。いくつかの別の人に属するサブシステムが協調して、新しい「私」を形成するのではないか、というわけだ。

つまり、ふだんあたりまえに感じている自分自身も、たまたま脳の閉域の中にあらわれるこっくりさんだということになる。帰りのタクシーの中で、この話がコインのように頭のなかをぐるぐる回りはじめる。

以前から、自分の趣向はポリフォニーであると気づいていた。『フランス人中尉の女』、『バニラスカイ』、『ジェイコブズ・ラダー』など、ストーリーが複合し錯綜する映画が好きだ。音楽は、無調にいたる前の複調を聞き分けたときに、背筋がぞくぞくする。ポリリズム、ポリフォニーも、音楽を追跡する耳が一人で追いつけなくなり、必然的に複数の耳に引き裂かれるように書かれている場合に限って、自分の中の鍵が外れる。立体のアウトラインと平面上の線、色彩と意味、運動と形というような複数の要因の駆け引きで作られる絵が好きだ。

連画やカンブリアンの背後にも、もしかするとプログラムの書きかたにも、この動作原理が影を落としているかもしれない。

自分というこっくりさんの中で、指の担い手がコインから指を外すと、そこから快楽物質がどくどくと溢れるのだろう。
 

コメント    

2005年08月28日
12:52
godzi2
これはおもろい!
私はとても単線的な人間ですが、激しく同意!!
2005年08月28日
15:12
誰でも多重人格ですよね。
明らかに昨日の自分とは異なる。
あ〜、二日酔いなだけか。。
2005年08月28日
21:58
H.耕馬
耕馬としては、「こっくりさん」よりも「研究飲み会」の方に心引かれるのであった。
2005年08月28日
22:11
安斎利洋
飲み会の一般理論を研究する飲み会、とか言ってた、ような、違ったかな。
耕馬さんがずっとフィールドワークしてきたことです。

2005年08月28日
23:10
tamie
きのう って、安斎さんと、理恵子さんのケータイで話した時分?
その前後、理恵子さんに、鈴木健さんの話(IPAXで会って、良いアドバイスをもらった、って話)を、ちょうどしてました。
2005年08月28日
23:43
安斎利洋
>きのう って、安斎さんと、理恵子さんのケータイで話した時分?

いえそのあと。午後11時開始。(普通じゃないね)
2005年08月29日
00:35
tamie
> 午後11時開始。

すごい。私は、その頃コテンと寝てました。
2005年08月29日
00:58
みまぞう
この話共感できますね。どうも私という人間のなかには、たくさんの半人前の人間がいて、喧嘩したり、仲良くなったりして、一見すると一人の人間のフリをしていたりするように思います。(当然、それをあまり意識できているわけではないのですが。)

最近の私の場合、残念なことがあったりすると、たまに、もう一人の自分が勝手にコンチクショウとかクチに出して、つぶやいたりするので面白いなと思っているところです。

古くは、有名であった「私という他人」ハーヴェイ・M. クレックレー (著), コーベット・H. セグペン (著), なんかでも多重人格の話題がありますが、こっちはやっぱり病的で一人の人格をもう一人の人格が見張っていたりする。こういう風にはなりたくない。もう、なってるって?むむむ...。
2005年08月29日
01:14
安斎利洋
もし、自分という運転席に数人の運転手がいて、交代制で運転しているとすると、たいていの人は休んでいる運転者のことを知らないわけですよね。

でも、みまさんのように複数の人間をメタ認知できるのは、操縦士と副操縦士の席に二人が座っているような状態を作れる人なんじゃないでしょうか。

多声音楽や多調音楽は、自然に複数の操縦士をたたき起こしてコックピットに待機させるような作用があるんじゃないかな。思いつきの仮説ですが。
2005年08月29日
01:27
みまぞう
そうですね、意志決定の瞬間というのは誰かが、ヘゲモニーを握るわけですが、背景でたくさんの野次馬が見張っているわけです。野次馬に気をとられるとまずいので、あまり意識の上層にはのぼってきませんが、反対票が多い意見を述べようとすると、ヘゲモニーを握ったキャラクターもなんだか気弱にどもったりするような気がします。

ポリフォニックな音楽はどちらかというと聴くほうのひとがどう感じるかというところにあるような気もします。昔、ケチャに参加したことがあるのですが、ま、自分のパートで精一杯でしたね。これがまた、上達してくると音楽への関わり方や解釈がかなり違ってくるのかもしれません。
2005年08月29日
01:37
安斎利洋
あ、そうか。ポリフォニーをつい孤独な作曲者や、孤独な聴き手の側から考えていたけれど、原初のポリフォニーは本当に歌い手がたくさんいる複雑系なんですよね。

でも、即興的ポリフォニックな歌い手は、単一の和音を響かせようとするアンサンブルとは違って、他人の声を聴く自分と、歌を発する自分とに分離しているのかもしれません。
2005年08月29日
01:40
godzi2
自分の中にたくさんの人格があるというより、「自分」という存在そのものが不定形なものに過ぎないということではないでしょうか?
アメーバ状の「自分」があって、外界の刺激や内部の葛藤に対応して、特定の部位が伸びたり縮んだりしているようなイメージ。
その総体がほんとの「自分」だという感じ。
2005年08月29日
01:58
安斎利洋
>自分の中にたくさんの人格があるというより、
>「自分」という存在そのものが不定形なものに過ぎないということではないでしょうか?

そうだと思う。

いくつかの磁石がゆらめきながらテーブルの裏にあって、その上をころがる鉄の玉がある。

普通は、玉の落ち着く場所はほぼ決まっていて、ひとつの人格のなかの喜怒哀楽の状態くらいのぶれがあるだけだけれど、玉が落ち着ける場所はひとつでなく何箇所もある。

玉が遠く離れたところを行き来すると、それぞれの連続性が怪しくなってくる。

なかには、玉に影響を与えないところにも磁石もある。

僕のイメージはそんなかんじ。
2005年08月29日
04:28
H.耕馬
>いくつかの磁石がゆらめきながらテーブルの裏にあって、その上をころがる鉄の玉がある。

今年のSIGGRAPHのアートショーに、そんなような作品があった。実際はコンピュータコントロールされた磁石でしたが、砂目の上に模様を描いていました。

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