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はじめに、あるエピソードを紹介しょう。冷戦も終わりに近いころ、フェミニズムの立場にたつ女性の政治学者が、アメリカのある大学の「防衛技術センター」で研修を受けることになった。この研究者の目的は、国際政治学者、防衛アナリスト、核兵器の専門家などの「防衛知識人」(ディフェンス・インテレクチュアル)を内側から観察し理解することにあった。
彼らはほぼ全員が白人男性で、個人的に見れば、知的で上品でユーモアがわかる、魅力あふれる人々である。しかし、彼女は彼らの使う専門用語が気になって仕方がない。第一打(ミサイルによる奇襲攻撃)、対抗力(報復能力)、限定核戦争、クリーンな爆弾(放射能を撒き散らさない核爆弾)、外科的にクリーンな打撃(正確無比な爆撃)、付随的ダメージ(軍事目標の爆撃等で「付随的に」人命が失われる)、等々。ことばの背後には正視できないほどの現実──核による大量虐殺、黒焦げの死体、人々の苦痛──があるはずなのに、その現実のイメージから奇妙に隔離されたクリーンな言語世界に彼女は違和感を禁じえない。
このクリーンな言語世界は、抽象概念を使いこなしているという感覚と、核兵器の犠牲者ではなくその使用者であるという立場によって支えられている。日常語とこの防衛知識人たちのことばは、別の世界に属している。平和に相当する専門用語は彼らの辞書には存在しないし、あったとしても使う余地がない。
しかし、この女性研究者は二、三週間のうちに、ある変化が心のなかに生じたことに気がつく。「(彼らのことばを)話せるようになると、私のものの見方も変わってきた。私は、技術戦略的な言語の越えがたい壁の外側にたっているのではなく、その内側に入ったのだ。この言語を話していると、私はそれを実際に聞くことができなくなった。……私はその言語を話し始めただけでなく、その言語で考え始めた。その争点は私の争点になり、その概念によって私は新しい考え方に対応し、その言語による現実の定義は私の定義となった。……たとえば、「外科的にクリーンな対抗力打撃」ということばを私が使ったのは、それが実際に可能だと信じたからではなく、教義上のある難しい推論を行うためには、それが可能であると前提するほかはなかったからなのだ。」(Carol Cohn, "Sex and Death in the Rational World of Defense lntellectuals, "Sings: Journal of Woman in Culture and Society 12-4,1987,pp.687-718)
「防衛知識人」の世界はゲーム理論と深く結びついている。本書でも彼らの世界を覗くことにするが(第3章)、このエピソードはもっと広く、客観性、合理性、正統性、専門性などを売り物にする言語体系の危うさを指し示している。上の引用で、ある言語体系をみずから話し始めるとそれが聞こえなくなる、つまりその言語体系に対する違和感が抑圧されてしまうという指摘は重要である。
ゲーム理論を学び、そのことばを操れるようになれば、新しく見えて来るものもあるだろう。国際政治や経済を新しい観点から見ることができるようになるかもしれないし、人生や商売に役立つこともひょっとしてあるかもしれない。しかし、防衛知識人たちのクリーンな言語体系が核戦争の被害者視点を排除してしまうように、ゲーム理論によって見えなくなるものもあるのだ。ゲーム理論はどのようにわれわれの目をふさいでしまうか、ゲーム理論に代わるべきものは何か──これが本書のテーマである。
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