安斎利洋の日記全体に公開

2005年08月23日
17:23
 moogと自己組織する音楽
moogに特別な思いを寄せる人は多い。僕は、高校生の頃(1970年ごろ)ずっと、Moogは間違っているという高慢な思いを抱いていた。

音がエンベロープで減衰するのが気にいらなかった。音は、自分の生成原理で減衰していくべきだ。

10年くらいたって、その思いを実装しはじめた。しかし、その作業はいつのまにかCGを始めるきっかになっていた。そのいきさつを書いた20年前のテキスト。

イオロスの弦〜自己組織系の音楽(1986)
http://cambrian.jp/anzai/files/WNotation.pdf
(ちょっとでかい。5Mくらい)
 

コメント    

2005年08月23日
19:15
H.耕馬
音と映像のスレッド立ち上げようと思っていたのに、先を越された。
ショッッッッッック!
2005年08月24日
02:31
H.耕馬
>このことは、生命現象レベルでの解明が、人間の精神構造の解明にまで飛躍することは、決してありえないことも暗示している。

良いこと言うねえ。
実にアップトゥデイトです。
今日の日が来ることを、20年前に予見してた?
2005年08月24日
03:15
MATANGO
イオロスの弦、読ませていただきました。
正直、非常にむずかしかったんですが、なんとか理解する(誤解する?)努力をし...。

感想を書いてみたんですが、「バカの壁」のせいでうまくまとめることができず、非常に長くもなったので、この場で読んでいただくのもしのびなく、自分の日記にこっそり書きました。

結論だけひとこと、この「自己組織系の音楽」スゴク聴きたいです!
2005年08月24日
03:43
安斎利洋
MANTANGOさん、日記拝見。ありがとうございます。
文章が難しいのは、20年前の僕の脳と語彙の未熟さのせいです。

結論から言うと、僕も自己組織化による音楽がすごく聴きたいという気持を持ち続けながら、ちゃんとした成果を残せないまま、その下地をCGに接続して、いつのまにか音楽のことを忘れていました。

日記に書かれていたバッハの話、僕はバッハの作品はどれも鼻歌で歌いたい旋律ばかりです。とりわけ優れた多声部の曲は、自分の中の複数の自分が、鼻歌を歌いたがります。

自己組織化する音楽は、かならず一人の自分を複数に引き裂くようなポリフォニーだ、というのが置き去りにした20年前の思考。そのことも、しっかりもういちど、今考え直さないと、と思っています。
2005年08月24日
03:50
安斎利洋
>実にアップトゥデイトです。

そこらへん、ちょっと冷や汗領域。
2005年08月24日
08:37
H.耕馬
イヤー、よいと思うよ、冷や汗かく位、背伸びしていたという事。

自分が「1」の力しかないときに、「5」や「6」の事を言うのは、若いときは「有り」だと思います。それは、時間軸をプラス数年位すれば、そのときの力は間違いなくそれ以上になっているのだから。

でも、自分の力が「1」の時に、「10」とか「100」の話をする人。これはウソツキ。

耕馬が
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=33413925&owner_id=107483
で言いたかったのは、要約すれば、そういう事。
背伸びしない若い人は、伸びないよ。
でも教師は、「おまえガンバレ」とは言うけれど、「おまえ背伸びしろよ」とは言えない。。。。。
2005年08月24日
09:08
H.耕馬
>文章が難しいのは、20年前の僕の脳と語彙の未熟さのせいです。

これは、背伸び以上に、殻を作った自己防衛ですよね。
自分の持っている本当の自分の姿と、自身が考えている自分の姿のギャップを埋めるための所作。突っ張ってカワイイじゃん。

正直に告白すると20年前、サピエンスネットで安斎さんとか中村さんとか手塚さんの言ってる事を、耕馬は半分も理解していませんでした。一生懸命背伸びして、分かったフリをしながら会話についていってたダケかも知れない。

たとえば、会話の中に「メタファ」ってのが出てくると、分からないから急いで辞書引いて「化身」という意味はGETする。しかし、会話の中に出てくる言葉のニュアンスとか使われた意味は、「化身」だけでは分からなかったんだな、と今は振り返って思います。

言葉は、個人がその持てるいろいろなコンテンツを発露する、最良の方法にして最大の武器です。こいつを使いこなすためには、ただただ自分のメモリーに溜め込むだけではダメで、いろいろな自分の経験や状況とリンクさせていかなくてはならない。だから、その言葉を自分のものとして使いこなすためには、時間がかかると思います。一部を除いて、若人には難しい。

しかし、もう1つ面白かったのは、その言葉を聞いて分からず、悶々としていた受け手の耕馬だけじゃなくて、その言葉を発している側の安斎さんも、リンクした本当の言葉じゃなかったかも知れないという事実。それが20年経って明かされるとは、歳とるのも案外悪く無いかも知れない。
2005年08月24日
13:42
安斎利洋
語彙がこなれていない文章は、そこいらの専門誌なんかにもたくさんあるからいいんですが、昔ちゃんとわかっていなかったことは、今もちゃんとわかってないなー、と思うことが最近多いです。

別の言い方をすると、今もってわからないことは、ちゃんと昔もわかっていないので、良ろしい、ってことです。

計算機の原理を、どうやって創作に結びつけるか、ということについて、ぐるぐる回り続けているような気がする。軌道は違うけどね。
2005年08月24日
16:54
MATANGO
ちょっと音楽話に戻るのですが...。
バッハの旋律...これもバラにするとぼくにもかろうじて鼻歌が歌えまして...それがまた魅力的だというのも本当に驚異です!

旋律勝負のコラールとかアリアもありますが....ただもうそれだけで号泣していたりして...。

..これは自己組織化というより、ニンゲンの心理(脳?)にジャストミートしてるということだろうと思うんですが、いったいなぜあんなことができるのか....?

自己組織化の音楽...というのでもう一つ思い出すのが、バリのガムランです。
映画やCMにも使われてポピュラーになってしまいましたが、最初聴いたときにはひっくりかえって、勢いでバリまで行ってしまいました...。
あれにくらべると、これも一時流行ったミニマルなんとかって、どうもアタマだけでつくってる気が...。

...と尽きないんですが、大急ぎで、論文で「アップトゥデイトだなあ」と思ったことをひとつ。

「自己組織化」でできてくるなにものかに、ご自身が「虫」として関与する....という趣旨のことを書いておられましたが、例の養老孟司先生の本を読んでいて、これから大事になるキーワードは「手入れ」である...とあったのを思い出しました。

ようするに、「自然に発生するもの」をそのままにするのではなく、「人工で埋め尽くす」のでもなく、その中間がいいんだというんです。

「日本の里山の風景」などを例にいっておられたんですが、よりアートに近い分野では、陶芸とかの工芸や、生け花なんかもそうで、とくに日本人はこの中間をいくのがうまい...。

いきなり、じじむさい方向にいってしまうようですが、これが案外トゥデイ...どころかフューチャーかもなあと思いまして...。
とりあえず、乱文失礼いたしました。
2005年08月25日
01:09
安斎利洋
Matangoさん、バッハはポリフォニーの匠であるだけでなく、モノフォニックな旋律の歌い手でもありますね。その両方が出会ったところに、バッハのすごさがあると思います。

>これから大事になるキーワードは「手入れ」

工学の基本にある発想は、たぶん制御だと思いますが、「手入れ」という発想がそれに替わる時代が、必然的に来るんじゃないかな。

たとえば、交通渋滞は人工物の作る現象だけれど、むしろ自然に発生すると考えたほうがいい。交通システムをがちがちに制御すれば渋滞はなくなるけれど、交通を「手入れ」するやりかたのほうがスマート。

コンピュータのシステムは、バグや攻撃に対して脆弱だけれど、がちがちに防衛するんじゃなくて、ゆるい結合体を「手入れ」するという考え方をする。

絵を描くという行為は、自分の望むイメージを実現するための表現だと思われているけれど、実はほとんど自然に発生するノイズを見立てている場合が多い。だから、絵を描くんじゃなくて、絵を手入れしていると考えてもいい。

自律系との付き合い方において、手入れって言葉は、なかなか便利ですね。
2005年08月25日
12:38
MATANGO
あと、論文にあった「バグ」という言葉で思い出したのが、むかし「行動人類学(?)」みたいなジャンルでやった実験の話なんです。

校庭で遊ぶ子どもたちがどんな動きをするか、全体を俯瞰で撮影してみた、というんです。

で、最初はいくつかのグループにわかれて遊んでいて、とくになんの特徴も見られない。

ところがそのうち、どのグループにも属さないで、グループのあいだを駆け回る...てなことをやる子どもが現れる。

そうすると、どういうわけかバラバラに遊んでいるはずのグループが、おなじようなリズムで動き出し、全体で見ると、おなじ音楽にあわせて踊っているように見える...というんです。

これは有名な実験なのかもしれません...いま思い出しました、エドワード・T・ホールという人がやったものです。

...これもいまでは自己組織化と結びつけて、原理的な理解やシミュレーションができるのかもしれませんが、その「セル」が子どもとはいえニンゲンだというのがじつに不思議...。

トリックスターとか文化人類学・社会学のような大きな方向にも話がつながっていくし、子どもひとりは何を受けとり、なにを行為しているか、みたいな小さな方向にもつながっていく....。

アートでは、どうつながるのか....。
...またまた、話が飛び散る方向にむかい、失礼しました...。
2005年08月25日
13:50
H.耕馬
なんか「三つ目群れ作り」と同じ行動をとるのですね。

脳みそが有っても、無くても、群集シミュレーションの結果は同じ。チャンチャン
2005年08月25日
14:06
安斎利洋
>三つ目群れ作り

それって、ロボコン博士が作ったやつですよね。
頭より先に手先の動く方ですね。複雑系なんて誰も言ってない頃のロボットでした。

この本が、めちゃくちゃ面白い。僕は、非常に近親感を覚えます。

機械部品の幕の内弁当―ロボット博士の創造への扉
森 政弘 (著)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/427402492X/250-3008268-0825802
2005年08月25日
14:13
安斎利洋
>グループのあいだを駆け回る

システムがデッドロックしないためには、必ずこういう要素が必要なんですね。かといって、全員がこれだと、システムはばらけちゃう。

mixiの人間相関図も、きっとそうだと思いますよ。構成メンバーがほとんど対角線をもつような「群れ」があり、その群れを横断するトリックスターがいる。

人間の社会は、かならずある割合でトリックスターを含んで安定するように出来ているのかも。
2005年08月26日
00:11
MATANGO
わたしは、世間一般の常識ではお話にならないくらいの無精もので、ほんとに失礼極まりないんですが、カンブリアン、いまさっきお邪魔しました。
....おお、すごい面白い!

このミクシイに誰かから無理矢理ひっぱりこまれた時も、こういうことがやりたいのかなあと思っていたんですが、でもどうやって「お友だち」をつくっていいかわからず...ことにお友だちづくりがヘタな自分は....と挫折していたんですが、それがまんまここに....。

この面白さ、つい「記述」したくなるんですが、まあ、「見ればわかるだろ!やればわかるだろ!」ということで...。

....でもマチスのも面白いなあ...。これが「切り絵」でなく、立体の、しかも具象を織りまぜた「フィギュア」てなことになると、また違った面白さになるかもしれませんぜgozhi先生!

...この面白さを前にして、あらためて「なにか言う」のもちょっとヤなんですが、「わかって」らっしゃるみなさんに甘えて、ちょこっと申し述べれば...。

...「これが全体としてダイナミックに動かんもんかなあ...」というのが自分のさらなる欲望です。

どうも「絵」より、「動き」というか「アクション」というか...(あ、おんなじか..)に喜びを覚える性向が自分にあり、ひとつひとつの「絵」や「文」をつぎつぎ見るだけでも十分面白いんですが、これらの全体としてつながりが、もうひとつよくつかめない....。

そんなものないんだ、その時その場の楽しみがあればいいんだ、という気もするにはするんですが....。

ただ、あくまでわたしの欲望としてですが、もしも、先に申し述べたような、グループのあいだを走り回ってる子どものおかげで踊りはじめた「校庭」みたいに、フカンでそのつながりが感じられるようなカタチになれば、さらに感動するかもなあという気がするんです。

たとえて言えば「盆踊り」みたいなカンジでしょうか...(いったいどうやるのか、ぜんぜん想像つきませんが...)。

それと、ストーリーでつながるというのもありますよね。

あちこち無限に分岐してゆく...というのも、それなりにアタマがバクハツしてしまうような面白さがあるんですが、ニンゲンやはりどうもひとつながりに(術語で言えばシーケンシャルに)、無精をして見ていても、その推移・展開がわかるなあと感じたいところがある....。

...その意味で、安斎先生がやっておられた「名場面集」というのが、思いのほかすごく面白いなと感じました(だとすれば、NG集というのも、面白いんでしょうか...?)。

もしかして「宗匠」にあたる方というより、無関係無責任な者が、勝手に絵のつながりからストーリーをつくりあげてしまう...というのも別な楽しみになるのかもしれません。

...で、これをリアルタイムに楽しんでる方々は、最高の楽しみを得ているわけですが、そういうものが後からまとめて、本とかCDとかになると、寝ころんでつぎつぎページを繰っているだけで楽しみが得られる...というわけで、争って代価を払う...つまりバカ売れ...ということになるんじゃないかとも....。

...興奮してめちゃくちゃなことを書きましたが、乱文ご容赦ねがいたく...。
2005年08月26日
02:15
安斎利洋
カンブリアンは、ともかく参加しているメンバーがいちばん充実した時間を経験します。セッション中に感じるあの面白さは、なかなか説明できません。

セッションに参加していない人が、あの木からどれだけのものが得られるのか、まったくわからない。だから、参加していない人に面白いと言われると、うれしくなります。

でも、やはりこれは課題なんです。どうやったら、カンブリアンを「標本」にできるのか。カンブリアンを読むための本は、どういうものか。

カンブリアンの木は、レイアウトを自律的に決めるときに、うにょ、っと動きます。リアル空間でのワークショップでは、その動きをプロジェクターで投影し、共有空間のシンボルとしています。動きの感じは、ムービーになっています。
http://cambrian.jp/finals/camb2005a/ny2005.mpg

マタンゴさんのおっしゃっている動きというのは、もっと別の意味だというのはわかります。動きも含めて、カンブリアンのリプリゼンテーションは、どういう形が理想なのかを、真剣に考えないといけない時期にきています。

それから、カンブリアンセッションの次のステージについても、いろいろ考えています。今は絵を投稿するスタイルですが、テキストだけのカンブリアンがやりたい。たとえば「未来予測カンブリアン」。未来はこうなる、という小さい予想を投稿し、それに賛同する人は、その予測を前提にした次の予測をつけていく。未来予測の木が生長する。なんとか万博中にやってみたい。

>無関係無責任な者が、勝手に絵のつながりからストーリーをつくりあげてしまう

たぶん、カンブリアンを読む本は、読み手が勝手にリコンストラクションできる本でなくてはならないでしょうね。見ること=描くこと、読むこと=書くこと、ということをここでも貫きたい。
2005年08月26日
02:18
MATANGO
...「盆踊り」を見る方法なんですが...。
これは、ちょっとうさんくさい方法でして、しかもアルゴリズムとかプログラムの何たるかをわかってない、ほんのシロウト考えなんですが....。

ようするに、「絵」をなんとか「動き」に変換すれば、とりあえず動く...。

これは、絵をアニメにするというんではなくて、個々の絵から属性を取り出して、「なになにっぽさ何パーセント」という具合に数値に変換してしまう。

...あとはどうとでも....。

「絵」のなかみはさておいて、「絵の額縁」は、その大きさや、動きのパターン、リズムなんかがその属性にしたがって動き出す....というような....。

...なにを「属性」とするか...これがうさんくさいところなんですが....。

...たとえば、その絵が「つながっている」と思っている要素はなんなんだろう....と考えると、案外うさんくさくもない「属性」があるのかもしれません。

「カタチが似てる」、「色が似てる」、「種類が同じ...花なら花」、「感情のつながり...恋には恋」、「言葉のつながり..ダジャレ」、「本人の思い出...誰にもわからない」、「わざと関係のないもの...シュールねらい」などなど...。

...あと、これらを総合した「つながり度」というのがあって...。
...これはどうもやっぱり、うさんくさくなるしかないような気も...。

「遊び」として考えて、やってみると案外...。
2005年08月26日
03:02
安斎利洋
MATANGOさんのイメージがちゃんと伝わってきていないかもしれませんが、ある絵と、それについた絵によって、絵を動かすというようなことでしょうか。

10年前に、「春の巻」という連画セッション(中村さんと2人の対話)を終えたとき、絵から絵への関連がわかるように、モーフィングを使って動画を作りました。それを見た、現在MIT、当時NTTの石井裕さんが「見る者がいちばん想像力を働かせて楽しむところを補間されちゃ、つまらない」と言いました。その通りだと思った。
2005年08月26日
04:33
MATANGO
すいません。自分でもあいまいなところがあったんですが...。

端的に言うと、「絵」のひとつひとつを、自己組織化でいう「セル」にして動かす、というアイデアです。

カンブリアの「全体画面」では、個々の絵は固定していて、線でつながりが表されていますが、その「つながり具合」や、個々の「絵の個性」は、実際クリックしてみるまでよくわかりません。

そこで、「つながり具合」や「絵の個性」を、パラメーターとして抽出して、それを「動き」に変換してやればどうかと思ったんです。

たとえば「つながり度」の深い絵どうしは、より近づいて「うにょうにょ」寄り添っています。

「ちょっと無理があるかなあ」というつながりは、よそよそしく離れています。

で、「ちょっとつながりがよくわからない」という絵や、「もっと近しいものがあるはず」といった絵は、あちらこちらを放浪している....というような。

このパラメーターの取り方や重みづけは、宗匠が恣意的に決めるものだし、もともとのつながりもあるので、「自己組織化」とは言い難いんですが.....。

基本的なイメージは、ひとりひとり「個性」をもって、勝手に動いているはずの子どもたちが、踊っているように見える、あの校庭の風景です。

...できるのかどうか、やって意味があるのかどうか、正直なところよくわからない、単なる思いつきなんですが...。
2005年08月26日
18:58
MATANGO
...ちょっとまた整理できてきたような気がしましたんで...。

「動きに変換する」とか「重みづけ」とか、余計なことを言いましたが、やっぱり素直に「自己組織化する絵たち」にならないかなあと...。

そこでどうやるかなんですが....。
その「絵」の属性を、キーワードにしてなるべくいくつもつけてやります。

「まるい」とか「ふさふさ」とか「赤色」とか「つぶつぶ」とか「けばけば」などのカタチや質感、色をあらわすもの...。
「花」とか「人」とか「コンクリート」とかモノの名前。
「思い出」とか「かなしみ」とか「うきうき」など、抽象的な概念もあるかもしれません。

それと、もともとつがっていた親の絵の名前も、属性のひとつとして入れておきます。

そして、「同じキーワードのあるものは近づきたがる」、「同じキーワードの少ないものは離れたがる」とか、単純な規則を決めて動かすと、自己組織化にならないでしょうか?

最初につけられた関係のほかにも、その絵は、いつもつながりを求めて動いていて、思いもかけなかった新しいつながりができてくる。

新しく参加した「絵」も、親元からはなれて、作者には思いもかけないつながりをつくりだす。

で、それを全体としてながめると....踊っているように見えるとうれしんですが....。

...またもやシロウト考えで、実現できるのかまったくわかりません。とりあえずお伝えします。
2005年08月26日
21:56
安斎利洋
MATANGOさんのイメージ、だいたいわかりました。

この仕組みで自己組織化が起こるかどうか、というのは別問題ですが、リーフ自身が関係を自分で探し出すエージェントになるわけですよね。

実は昨年からやっているあるプロジェクトで、これと似たことを実現しようとしています。はじめは、携帯電話からカンブリアンの木につけるのは、木をブラウズするのがたいへんだ、というところから話が始まりました。じゃ、どういうリーフにつきたいか、というコマンドをつけて、カンブリアンの空間に放つ。すると、カンブリアンの中でこういうリーフについてほしい、というリーフとのマッチングが片っ端から調べられて、勝手につながっていく。

この延長に、昨年IPAの未踏ソフトで作った「遺伝的ペイントシステム」があります。たとえば顔を描くとき、顔のパーツがそれぞれリーフになります。そのなかで、鼻の部分に鼻を描く替わりに「縦長のものがほしい」ということを記述しておく。

そこに誰かが、自分は縦長であると言うリーフを投げ入れると、鼻のところにすっぽり、たとえば高層ビルの写真が入る。

この組み合わせは、一定時間たつと切り離され、シャッフルされて次のつながりを発見しようとしはじめる。

どうですか、近いですか?
2005年08月27日
10:02
MATANGO
..そのものです。もう、やってらしたんですね!当然か...。

ただ、自己組織化にこだわると...。
・新しいリーフが入ると、ある新しいつながり方に全体がシャッフルする。
・できれば、いつも新しいつながりを求めて、動き続けている。
...というのが、思っていたイメージです。

こうすると、もう「木」というより、「水族館」とか「海」....あれ?ソラリスの海...?
そこまで先走らなくても、「カンブリアの海」でぜんぜんいいのか...。
...またまた「できるかできないか」まったく考えてなく...失礼しました。
2005年08月30日
14:36
H.耕馬
またまた、スレッドまたぎ引用なんだけど。

> 少しづつずれた感じが、快適。

これは、分かりやすい例だと、オーケストラの調律。
もしも各楽器のチューニングを、チューニングメーターとかでビシッと合わせると、余韻もへったくれなくなって、すごく薄っぺらい音になります。もちろん全然合っていなくてチューニングがバラバラだと、聞くに耐えない音になります。人間が耳で合わせた位の微妙なズレが、とっても心地よい抑揚を生み出します。

これに相当するズレって、画像・映像の世界にもあるのだろうか?

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