安斎利洋の日記全体に公開

2005年08月20日
23:55
 CGは世界観だった
昔のつわものどもがmixiにはまって、あれこれ昔話をするものだから、寝ても醒めてもCGのことばかり考えていた20年前の、わくわくする気持を思い出した。

植物ってなんだ?海の波ってなんだ?骨格ってなんだ?毛ってなんだ?雨ってなんだ? そんな論文が出てくるたびに、子供が言葉を覚えるように、CGの世界が沸き立った。絵画とは別の方法で、視覚的な世界の成り立ちを記述する方法を手に入れた驚きと興奮がCGにはあった。

CGは、すっかりつまらなくなってしまった。世界を厳密に記述することより、目をごまかす技術のほうが、圧倒的に完成してしまったからだ。

やりのこしたことは山ほどあるし、CPUもメモリもリソースはたっぷりあるんだから、もう一度CG創世記の夢の続きを、追ってもいいんじゃないかな。びっくりする世界が、まだまだあるような気がする。

そう思いませんか?>絶滅種のみなさん
 

コメント    

2005年08月21日
00:44
gilli
そう思います。 やりたいことは山とあるのだけど、私の場合、プログラムが書けないという。。
2005年08月21日
00:48
H.耕馬
> CGは、すっかりつまらなくなってしまった。世界を厳密に記述することより、目をごまかす技術のほうが、圧倒的に完成してしまったからだ。

なぜ、目をごまかす技術のほうが進化したかですが、そのほうが制作が手軽だった、という理由の他にCGの主な使用用途が圧倒的にエンターティンメントに偏っていたというのがあると思います。

エンターティンメントな映画の世界で、周期的に3次元立体映像映画が流行る時期がありますが、大体、一過性の流行ですぐに廃れる。これは、3次元映画に対する演出手法が確立していないという理由もありますが、それよりも「あまり生々しい本当の映像は見ていてエンターティンメントになりずらい」という観客側の問題もあると思うんです。

映像は、あまり語り過ぎない映像の方が、観客としては好ましいのです。そういう、エンターティンメント映画の事情を吸収すれば、目をごまかす技術が発達するのはしかたのない事ではないでしょうか。
2005年08月21日
01:02
H.耕馬
>昔NHKスペシャルの「生命」でCGがたくさん使われて、ここにいる人たちの知り合いが作っていたんですが、あれはみんな説明のためのイラストにすぎなかった。

(越境で、隣の日記から引用してきちゃいました。
 こちらの方が、似つかわしい話題なので。。。)

説明のためのイラストしか作れなかったのは、当時のCG技術の限界だけの責任では無いと思う。番組演出手法の限界、とかTVというメディアの限界とかが影響していると思う。

例えば、目が見えない人の脳みそから導線を引っ張り出して映像を送り込む医学実験が行われていますよね。あの仕組みがもっと発達して、目玉からの入力と同じ状態を構成できたら、CGはとんでもない表現力を手に入れる事が可能ですよね。

目が見えなくなったり、危険が少なければ実験台になりたいなぁ。。。。でも、映像ハックされたりして。
2005年08月21日
01:11
H.耕馬
>やりたいことは山とあるのだけど

現在、がっこのせんせ、をやっているのですが、学校の程度の上下と関係なく「やりたいことが山とある」人は、残念ながら猛烈に減っていると感じています。

ですから、sakanananaさんは希少種ですね。

>私の場合、プログラムが書けないという。。
やりたい事は特に無いケド、プログラムを書く技能だけを持った人間なんてイッパイいますから、捕まえてコラボするのはどうでしょうか?

2005年08月21日
01:31
H.耕馬
>もういっかいあそこに戻って、別のスレッドを自分で作ればいいんだよね、有り余るCPUパワーを使って。

(これも、お隣の日記からのお引越し組ですが。。。。)

個人的には「ボクセルレンダリング」に可能性を感じています。
現在の主流であるサーフェスレンダリングは、空気の事も考えているとは言え、薄皮1枚で勝負している。サブサーフェススキャッタリングだって、薄皮を2枚に増やしたダケ。

その点ボクセルは、空間そのものを定義するのですから、空気も薄皮も全部まとめて面倒見ちゃいます。
2005年08月21日
02:32
安斎利洋
ボクセルは、昔と今とで、実装可能性が全然違ってきましたね。1boxelが1byteだとして、1K×1K×1Kで1Gでしょ。1チャンネル1Gバイト。24ビットでもたかだか3Gだもんね。

僕は、CGがいつもごまかしてきたのは、複雑系や自己組織化のモデルだと思っているんで、テクスチュアマッピングなんかしないでも、細部が勝手にテクスチュアをもったり、モーションキャプチャなんかしなくても、関節が勝手に生きている動物らしかったりする分野が、穴だと思うな。
2005年08月21日
02:45
gilli
>関節が勝手に生きている動物らしかったりする
そう。私はそういう生き物と機械の境目のようなモノが、関係性の中でうごめくことが私の中でのメインテーマなのです。
2005年08月21日
03:55
godzi2
すみません、飛び入りです。
安齋氏の古い知り合いで、現在立体映像の新しい展開を考えているモノです。

>あまり生々しい本当の映像は見ていてエンターティンメントになりずらい
>映像は、あまり語り過ぎない映像の方が、観客としては好ましい


という指摘、まったくその通りだと思いました。


当たり前ですが、立体映像がもたらす現実感は、現実から受ける現実感とはまったくの別物だと感じています。つまり無理矢理作り出した両眼視差にもとづく、大脳の錯覚に過ぎないと。
立体映像は、そうした「立体感」に依拠しているので、観客は常に(過剰に)立体を意識せざるを得ない。それは恐らく脳の情報処理のプロセスに相当の負荷をかけ、違和感や不快感をもたらす。
「エンターテインメント」性を疎外する最大の要因はここにあると思っています。

さらに言えば「立体感」を強調するための構図やライティングは普通の2D映像とは大違いだし、2D映像で培われたモンタージュやカットワークなどの文法も使いにくい(というか、生理的な嫌悪感をしばしばもたらす)という、私たち演出家の立場から言えば、手足を縛られて映像を作るようなものだとさえ感じています。

なのに、何故いま立体映像かと言うと、意味に還元できるものだけが必要とされる、論理でがんじがらめに縛られた2D映像の限界が見えてきたように思うからです。
立体映像はこれまで「現実感」を中心に組み立てられてきましたが、実は「非現実感」を表現するのに適しているのではないか、というのが私たちの認識です。
例えば悪夢のような世界、論理をはみ出した世界、そういうものを立体映像ならリアルに描くことができます。そしてそのための重要なツールがCGだと思っています。
つまり実写+CGIで描く立体映像。
そこでは現実の遠近感や立体感を無視した立体映像を、生理的な感覚を含め表現できるはずです。そしてそれこそが新しい視覚体験をもたらすことができるのではないかと。
安齋君が書いている自動生成するCGIというのは、まさに私たちが使いたいと願うCGそのものです。リアルさを追求するのではない、世界観としてのCG。

ので、早く現実化してください!
長文、失礼。
2005年08月21日
07:25
小林龍生
先日、高校生相手に、「デジタル文化論」の話をしてね。
安斎さんたちとやったマンデルネット'86のことも少し話した。考えてみるまでもなく、聴衆はみんなポストマンデルネット世代ということになる。ああ、もう20年も前のことなんだ、と改めて思った。
しかし、あのころ僕たちが考えていたさまざまな可能性のどれほどが実現できたか。実現できたものもあるが、実現できたことの陰に隠れて忘れ去られてしまったことも多々ある。
この春、パリやベルリンで多くの絵画を見たことを、ふと思い出した。ぼくたちは、視覚の想像力という人類の特権のことをもう少し考えた方がいいのかもしれない。
2005年08月21日
12:08
なさ 飛鳥井
単純化して言ってしまえば、狭義のCGはビジュアライゼーションだと思いますが、昔のCGは広義のCGでモデリングまで含んでおり、そこに面白い部分があったんだと思います。

個人的には、人工知能、CG、VR、(視覚中心の)知覚、感情、(知覚、臨床)心理と興味が変遷しています。
これは、大脳の新皮質の左半球から右半球、さらには辺縁系や大脳以外に興味が移ってきたという見方もできます。
しかし、ある意味ではバーチャルなものの限界から、リアルなものへと移っていることもあります。
CGで実現するようなバーチャルな世界とは、インタラクションの帯域が極めて狭いんですよ。
しかも、そこには人間の特に心理的な分析が欠けていると思います。

最初にこういうことを感じたのは、James Turrellの作品を体験したときです。
2005年08月21日
12:37
ashino
そういえば、かつて某鉄鋼メーカの研究所で、表面の質感などの設計のために表面の電子状態のこと調べてた人がいたな。いや、今のCGとは関係ないですが。
2005年08月21日
13:12
安斎利洋
無理やりスレッド更新したので、ねじれてしまいました。前の日記の草原さんの指摘が面白い。CGのシミュレーションは、ちゃんと進んでいる。

<引用>
去年か一昨年か、ILMとスタンフォード大学の共同研究で、氷が入っているグラスに水を注いだときの状態の変化が超リアルに出来てました。もちろん、ある程度はシミュレーションのモデルを簡略化しているかもしれないけど。

去年は、爆発や炎や煙の表現のセッションに行ったら、「それらしいものを手早く計算」するアルゴリズムの発表と、あくまでシミュレーションで「炎のできかたをどうプログラムで記述するか」がテーマの発表とに二極化していて、両者の間にはほとんど共通点がなくて、笑っちゃいました。

植物モデリングでは、外形の模倣じゃなく生長や開花などのプロセスをシミュレートするのが、すでに主流になってますね。今年は、花が咲いたあとに枯れて落ちるプロセスをシミュレートした論文が出てたような記憶がある。こうなってくると、問題は、植物学のほうでどこまで分かっているか、というレベルに来ていると思います。

でも、衝撃的な、新しいアプローチというのは、このところ出ていない気がします。

</引用>

でも、なんか燃えないですね。なんでだろう。

「それらしいもの」を見たあとに、厳密なシミュレーションを見てもつまらない、ってことなのか。
要素間の相互作用は計算しているんだろうけれど、簡略化されたシミュレーションっていうのは、大規模な「それらしきもの」に過ぎない、ということか。
砂のシミュレーションを尾上さん(ohhnooo)がやってますが、砂粒を要素とするところまで行ったら、なにか突き抜けるのかな。
やっぱりCGに飽きてしまった、ってだけの話なのかな。

「まだやり残したことがある」って考えるのは、やめたほうが良さそうですね。先に行こう。
2005年08月21日
13:29
安斎利洋
godzi2 さんの非現実感の話や、なささんのタレルの話を読んで思ったんですが、CGの技術者はどんどん現実感の追求に精進しているけれど、それを転用して、非現実感や、認知の縁までもっていくような仕事が、置き去りになってるのかもしれない。

もう電子的な現実感を得ることに、人類は飽きてますよね。現実感の組み換えをする段階なんだろうね。

立体視で作るシュルレアルな悪夢ってのは、いいなー。

>視覚の想像力という人類の特権

ちゃんと仕事しなくちゃ、って気分になってきた。
2005年08月21日
13:33
安斎利洋
>表面の質感などの設計のために表面の電子状態のこと調べてた

で、思いついた疑問。

ボクセルで質感表現するときって、やはり、とりあえず表面にマッピングするのかな。内部のエッジとしての表面、ということで質感が表現できるようになるには、ものすごいレゾリューションが必要ですよね。
2005年08月21日
13:45
H.耕馬
> ボクセルで質感表現するときって、

CG業界では、ボクセルで質感表現しようなんて事、考えてる人自体が少ないんじゃなぃ?
2005年08月21日
13:52
H.耕馬
>でも、なんか燃えないですね。なんでだろう。
「それらしいもの」を見たあとに、厳密なシミュレーションを見てもつまらない、ってことなのか。

これは、あらたな創造では無く、(大いなる意思を持つ何か、もしくはダレか)の模倣になっちゃうからじゃない?

新しい仕組みとか構造を考えて作らなきゃ、新しい世界観を実現する造物主にはなれないさ。まず、正の陽子も周りを負の電子が飛び回っている所から解体して。。。。。なんちゃって。

そういう意味では
>現実感の組み換えをする段階なんだろうね。
の方が前向き。
2005年08月21日
13:53
godzi2
>安齋くん

やりましょ、是非!
2005年08月21日
13:56
H.耕馬
例としては、非常に幼稚ですが、、、、、

昔、宇宙戦艦ヤマトで、炭素系人類とフッ素系デスラーが遭遇するというシーンがありました。
「なんちゃって」なら何でも良いのですが、本当にフッ素系人類がああいう形態になるか?とか、行動様式は?とか考えるのは案外楽しいかも知れない。
2005年08月21日
14:00
H.耕馬
なさ>そこには人間の特に心理的な分析が欠けていると思います。

分野は全然違うのですが、現在、アニメーションには誇張表現が加わった方が、なぜ観客に親和性が出るのか?を研究しています。

心理学の本を結構見ているのですが、解につながりそうな「知覚の仕組み」については、ちっとも具体的な話が書いて無かとです。
2005年08月21日
14:06
H.耕馬
安斎さん、ヒラメイタ。

ひょっとして、「新しい現世」を創造するのでは無くて、
「新しい現世を体験出来るようにするための、
インタープリター付きの脳みそ」を作った方が早いんじゃ無いかい?
2005年08月21日
14:13
H.耕馬
>ぼくたちは、視覚の想像力という人類の特権のことをもう少し考えた方がいいのかもしれない

tkさん、これについてもっと語って下さい。
すごく興味有ります。
2005年08月21日
15:07
machiko
シミュレーションがシミュレーションのままで終わってしまったら、「リアルに近づく」だけ。リアルを超えることはない。

でも、厳密にシミュレーションができるモデルが作れて、そこに現実から持ってきたパラメータを入れたときに、現実と見分けがつかないくらいにリアルであれば、こんどはそのモデルに、非現実なパラメータを入れることができる。

CGの本領は、イマジネーションの世界をシミュレートできることにある、というのが、私の持論です。
2005年08月21日
15:27
安斎利洋
まったく同感。いわゆる3DCGだけじゃなくて、ペイントシステムもミュージックシンセサイザーも、ワープロだって、そこに意味がある。

でも、パラメータを変えただけだと、人間は一瞬非現実を感じるけれど、たんなるパラメータの差異として処理して、現実の一部として感覚を慣らしてしまうと思うんですよ。そこが大問題。

たぶん、単純なパラメータではなく、ファンクションを組み替えないといけない。そういう交差の方向に、けっこういい匂いを感じるんだよな。
2005年08月21日
15:39
machiko
CGできちんと世界を構築するためには、世界を理解しなくちゃならない。
シンセサイザーの設計も、ペイントシステムの設計もそうですね。絵を描くということがどういうことなのか、わかってなかったら、ペイントソフトを作ったって、使い物になるわけない。

その「理解する」プロセスをはしょったり誤魔化したりしないで、きちんとやれれば、そこから新しい世界が開ける。

ファンクションの組み替え、交差。
ほんと、そうですね。

ちなみに、フィンランドに6,7年前にできた現代美術館(メディアアートの展示が多い)は、kiasma という名前。生物学で言う染色体の「交差」なんですよね。
交差することによって、新しいアートが生まれる。という意味でつけたらしい。
2005年08月21日
23:04
安斎利洋
10月に、もしかするとフィンランドに行くかもしれません。
2005年08月21日
23:24
machiko
なにかの発表か展示ですか?フィンランドのどこ?
フィンランドは魚や野菜がおいしいです!

私は9月20日頃にヘルシンキで集中講義。一緒の時期なら面白かったのに。
2005年08月22日
00:12
H.耕馬
スオミの国、いいなあ、行きたいナァ。
オーロラも見たい!
2005年08月22日
00:21
安斎利洋
>私は9月20日頃にヘルシンキで集中講義。

おしいなー。水越さんたちと、行くことになっています。大きな発表とか展示はないので、気楽です。

僕は9月30日にこっちで用事があるので、そのあと。もしかすると水越さんグループは、その前に入るかも。
2005年08月22日
07:11
machiko
>おしいなー。水越さんたちと、行くことになっています

これは、もしかしたら行き先は同じ大学では?
去年は、山内先生ご一行に会ったんだけど、なんと横浜の中川先生も一緒だったんですよ。
2005年08月22日
13:14
MATANGO
はじめまして。
>アニメーションには誇張表現が加わった方が、なぜ観客に親和性が出るのか?

アニメめいたものを作った経験から思うのですが、脳のはたらきで言えば、「視覚」をこえて「運動野」がはたらくせいかなと考えています。

実際、アニメの動きを考えるときには、無意識のうちに、その動かそうとするモノの身になって、体を動かしてたりするんです。

で、そのモノの「運動」を誇張するわけですが、それは対象物の「運動」であると同時に、自分自身の「運動」であると感じている気がします。
もちろん、それを見る方も、その誇張された動きを見ながら、運動野がはたらいて、自分自身が運動している気になっているんだろうと思います。

一方、誇張されてないモノは、視覚だけで対象の動きを追っていて、運動野がなかなかはたらきにくいんじゃないでしょうか?

これは、アニメを見せながら脳のどこの部分がはたらいているかを調べれば、実験もできるかもしれません。

このアニメの「誇張」は、「運動」だけではなくて、「感情」でもやれるのも面白いと思います。
たとえば、「恥ずかしい!」という気持ちを表現するのに、キャラクターを小さく縮こまって描いたりする...。
...このとき、脳のどんな部分がはたらいているのか...?

学問的にはまったく素人なんですが、たいへん面白い話題だと思い、勝手な考えを申し述べました。
2005年08月22日
13:51
中村理恵子
ねこさんへ>フィンランドに、rengaじゃなくて、‘rengo‘っていう活動してるグループあるらしい。彼らを訪ねるのか?あるいは現地でセッションするのかは、これから1ヶ月間に決まる予定。
9月20日以降は、とんぼ返り?
残念だなー。
2005年08月22日
14:01
安斎利洋
>対象物の「運動」であると同時に、自分自身の「運動」であると感じている気がします。

このことは、僕もよく考えます。

音楽を聴くことに没入できるときって、自分が演奏している気になっているときです。自分が歌っている気持になる歌は、音楽の体験が深い。絵も描きたい衝動が動くときに、一番深く視覚に刺さってきます。

星座作用は、見ることと描くこと が同じであるということの証明でもありました。

読む:書く、聴く:話す、触る:触られる これらも受動と能動の対立概念でなく、交換可能なんだと思う。
2005年08月22日
18:25
H.耕馬
MATANGOさん、はじめまして。
耕馬と申します。

>これは、アニメを見せながら脳のどこの部分がはたらいているかを調べれば、実験もできるかもしれません。

すごく良いアドバイスありがとうございます。
実は、研究に詰まっていて、次にコラボするのは心理学者だと思っていたのですが、ご指摘のように大脳生理学の方に相談するのが近いかも知れませんね。

以前CGアニメを作っていたので、アニメの制作手法については少しは分かるのですが、理論はなかなか難しいです。。。
2005年08月22日
20:22
なさ 飛鳥井
MATANGOのさんの話には根拠があります。
Max Plank研究所でCommon Coding Assumptionという仮説が提案されています。
これは知覚のcodingのメカニズムと、運動のcodingのメカニズムが独立して存在するのではなく、共有されていると言うものです。
安斎さんの例で言えば、絵を見るという行為と、絵を描くという行為は頭の中で繋がっています。

ただし、誇張に関しては、上記の知覚と運動のメカニズムとは違う部分が関係しているように思います。
人間の知覚が微分に敏感だということです。
画像で言えばエッジの部分、アニメーションで言えば動きに加速度の変化がある部分がこれに相当します。
エッジが強調された線画とか、アニメーションの動きの誇張が不自然に感じられないのは、これが理由ではないかと思います。

フィンランドに行かれるのならMax Plankに行ってこられたらどうですか?
2005年08月22日
20:41
なさ 飛鳥井
あ!、ただし、行為が自動化されていない人は、Common Codingにはなっていないと思います。
ピアノを弾けない人が、ピアノ曲を聴いたからといって、指が動こうとするわけではないと思います。
2005年08月22日
20:57
H.耕馬
なさ、さん、始めまして。
耕馬と申します。

> あ!、ただし、行為が自動化されていない人は、Common Codingにはなっていないと思います。

それだと、説明が付かないと思うのです。

第一に、アニメを見る人は多いですが、制作している人はゴクわずかです。従って、大抵の方は「自動化されていない人」という事にならないでしょうか?

第二に、アニメの場合、誇張を加えた方が、物理シミュレーションで計算した動きよりも自然さを感じる事が多い。という事象です。
まだ、多くのテストをした分けではありませんが、実物をキャプチャリングした動きから生成したCG鳥(PhotoRealな質感)と、誇張したCG鳥の動きの動画を、CGアニメとは関係の無い一般的な被験者に説明無しに見せた所、誇張したCG鳥の動きの方が本当っぽいと感じる方が多いのです。
2005年08月22日
21:11
H.耕馬
第二は、言葉足らずでした。

観察者は人間ですから、鳥の飛ぶ感覚は分からない。
従って(自分は飛べないので)自動化されない。

と、考えるのは、どうでしょうか?
2005年08月22日
21:15
H.耕馬
あっ、訂正の訂正。

>ただし、誇張に関しては、上記の知覚と運動のメカニズムとは違う部分が関係しているように思います。
人間の知覚が微分に敏感だということです。

なささんは、「違うよ」、っておっしゃっていたのですね。
読み間違いました。すいません。
2005年08月22日
21:27
なさ 飛鳥井
耕馬さん、尚美学園なのですね。
橋本さんや野地さんによろしくお伝えください。

始めにちゃんと論文読んでいないと言い訳しておきます。(笑)

第一に関してアニメの例で言えば、知覚とはアニメのキャラクタ(の動き)を見ることで、行為とはアニメのキャラクタと同じような動きをするということです。
それから、Common Codingで言うところの知覚と行為は厳密に対応している必要はなく、人間の想像力がこれを補っていると思います。

Common Coding、全く例を出さなかったので分かりにくかったかもしれません。
今、思い出しました。
例えば、平均台に乗っている人が左に落ちそうになると、それを見ていた人は思わず落ちないように体が右に傾きます。
知覚の相手が人間でない場合、例えばボーリングのボールが左のガーターに落ちようとするとき、ボールが落ちないように投げた人の体は右に傾きます。

第二に関して、自然さを感じるという主観的な判断があるので支持も反論も難しいです。
これに関しては、良く似た現象として「記憶色」を挙げておきます。
記憶色とは人間が記憶として持っている色で、これが実際の色とは異なることが実験的に証明されています。
一般的には彩度が上がるので、写真ではわざと彩度を上げてプリントしてあります。
つまり、実際にあるリアルな色を表現するよりも、誇張した色を表現した方がリアルに感じるということです。
2005年08月22日
21:42
なさ 飛鳥井
耕馬さん、すみません。
書いているうちに新しいコメントがあったのですね。

ご指摘の通り、個人的には違うと思います。
2005年08月22日
22:01
osamu
そういえば、話題の流れに全然関係ないですが・・
http://www.moogmusic.com/
お亡くなりになってしまいましたね。合掌・・

2005年08月22日
22:15
H.耕馬
尚美というのは、元々、音楽専門だったので
(今はいらっしゃいませんが)富田勲先生がいらっしゃいました。
今は、古山先生の部屋にモノフォニックのmoogが置いてあります。
2005年08月22日
22:20
H.耕馬
>耕馬さん、尚美学園なのですね。
 橋本さんや野地さんによろしくお伝えください。

エ〜、橋本先生と野地先生の共通のお知り合いなのですか?

橋本先生は元S社のビジネスマンですし、野地先生はバリバリのCGアートの方。その集合のANDは想像も出来ません。

>始めにちゃんと論文読んでいないと言い訳しておきます。

どんな所に、論文ありますか?
ポインターだけで結構ですから、教えていただければ幸いです。

お願いばかりですいません。
2005年08月22日
22:54
なさ 飛鳥井
耕馬さん、Common Codingに関しましては、手元に情報がないので明日。

橋本さんとは尚美学園に行かれ始めた頃に、S社の関連会社の同じフロアで仕事してました。
それから、S社に昔は学生がCGを研究する施設があったんですよ。
野地先生はそこで学生を教えておられました。
私は上記の会社でレンダリングを研究していたので、ちょこちょこ遊びに行っていました。
2005年08月22日
23:50
osamu
>CGの本領は、イマジネーションの世界をシミュレートできることにある、というのが、私の持論です。

>たぶん、単純なパラメータではなく、ファンクションを組み替えないといけない。そういう交差の方向に、けっこういい匂いを感じるんだよな。

>シンセサイザーの設計も、ペイントシステムの設計もそうですね。絵を描くということがどういうことなのか、わかってなかったら、ペイントソフトを作ったって、使い物になるわけない。

引用だけだけれど。。本当にそう思います。
物理モデルとしての「わかってないと」じゃなくてですよね。
2005年08月22日
23:56
安斎利洋
moog、映画見てないんですが、彼は「わかっている」人だったんでしょうか。
2005年08月23日
00:27
MATANGO
まったく論文とかを読んでいないシロウト考えなんですが...。
その「Common Coding」が、どうやってできあがるのか、というのを考えたら面白いかな、と思いまして....。

Codingを「知覚」と「行為」が両方つかっているなら、それができあがるときも「ホントウの知覚」に「行為」がまざって、いわば本人の都合のいいようにねじ曲げているところがあるはずで....。

しかもそれは、過去に蓄積された「行為の記憶」と照らし合わせて整合させているというよりは、起こっていることを、いま知覚しているその時に「行為してみている」ってなのが実際の事情なんじゃないかと...。

たとえば「鳥が飛んでいる」という様子を見ているときは、アタマのなかで自分も「飛んでみる」「マネしてみる」ということをやっていて、それが入りまじって知覚されているんじゃないでしょうか?

で、「誇張」ということなんですが、ひとつは、なささんが教えてくださったように、「変化の大きさ」に敏感なために、誇張してくれた方が動きのポイントがつかめて「マネがしやすい」というのがあると思うんです...。

誇張した結果「自然に感じる」というのはたしかに主観的な言い方ですが、耕馬さんが最初にいってらした「観客に親和性がある」という言い方なら、「マネしやすい」ほうが親和性があるのは納得できる気がします。

おそらく、人間にとって「リアルだ」とか「自然だ」というのは、自然界の動きを長年観察してきた結果と一致する....というよりは、自分自身にとってより納得しやすい....より端的に表現すれば「マネしやすい」....先ほどの述語を使えば「Common Codingをつくりやすい」ということなんじゃないでしょうか?

たとえば、ちょっと冗談めきますが、「鳥の動き」を見て「これが自然である」と判断できるのは、日本野鳥の会の方々の他わずかしかいないはずで....。

ちょっと長くなってしまいましたが、もうひとつだけ。
アニメーションの「誇張」というのは、フォトリアルなCGみたいなものだと、「動きを大げさにする」...くらいなことになるでしょうが、カトゥーンアニメ...ようするにマンガアニメですと、ご存じのように、キャラクター自体を動きにあわせてひん曲げるような極端なものがあります。

たとえば、自動車が出発するときに、一度グニャっと折れ曲がり、「タメ」をつくってから飛び出す...みたいな。

...これも「マネのしやすさ」という線で捉えていいと思うんです。擬人化と言っていいかもしれません。
ちっちゃい子どもたちは、「自動車の身になって」ギュイイイイーンといっしょに発車してるんだと思います。

ただ、ここで思いだされるのが日本一有名なアニメ、サザエさんで毎週繰り返されるエンディングシーンです。

小さな家に、サザエさん一家が入っていくと、家が「苦しそうに」あちこちひん曲がってトンとおさまる。

...これはあの家が、じつは生きていて、一家を飲み込んて消化した...という誇張された擬人表現ですね...。
これがたとえ「自然に」見えたとしても、小さいお友だちは決してマネしないように....。

長々と、すいませんでした...。
2005年08月23日
01:22
H.耕馬
>一家を飲み込んて消化した...という誇張された擬人表現で

そっか、サザエさん家は、「注文の多い料理店」だったんだ。
毎週、毎週、出番が終わると、サザエさん一家は食べられて消化されていなくなる。

しかし、次週までにチャント、新生サザエさんが用意される。新生サザエさん一家には、行動パターンなどのデータがロードされているので、一見すると毎週同じサザエさんが出演しているように見える。だが、今週のサザエさんはNewOneなのだ。

こうして、何十年たっても小学校4年生のままのカツオなど、磯野家の秘密は維持されているのだった。演出家からの利点としては、毎週役者がリニューされるので、いつまでも新鮮な演技が期待出来る。マンネリは来ない。モチベーションも落ちない。まさに長寿番組ここにあり!!

2005年08月23日
02:08
H.耕馬
>「鳥の動き」を見て「これが自然である」と判断できるのは、

カモメって、意外なほど滑空して飛んでます。
それ見てると、生きている鳥が飛んでるというよりも、カモメの格好した凧を上げているような錯覚を感じます。

こうなると、誇張では無くて認知の問題でしょうか?
2005年08月23日
02:48
安斎利洋
話がずれちゃうかもしれないけれど、海外のCMの話。

男の子が兄弟や親父にボコボコにされちゃうんだけど、映画の「マスク」のように誇張されたアニメ顔になって、あっちにぶつかり、こっちにぶつかり、階段をころげ落ち、頭の上に星が飛んだり。最後に、ベッドで寝ている男の子の顔。まったく誇張がなくただ泣いている。

これ実は公共広告で、家庭内暴力はcartoonじゃない、みたいなコピーが流れる。まんまと心が引き裂かれる、巧みなCMでした。
2005年08月23日
03:13
osamu
>moog、映画見てないんですが、彼は「わかっている」人だったんでしょうか。

まったくわかってなかったみたいです。晩年になって彼はことあるごとに、「自分の作ったのはただの電子回路。ただアーティストがそれを用いて何かを表出させるのをまのあたりにして、その電子回路は<何か>と<アーティスト>の交信装置なのだと強く感じるようになった。」というような意味のことをよく書いていました。

彼が後になって「わかった」のは、自分が作った装置は、アーティストに一線を超えることができるかもしれないという思いを抱かせるに十分な色っぽい媚薬の装置だったということでしょうか。

その媚薬の装置を作る上で「わかっている」必要があったのは、物理モデルでも、脳(認知)モデル(用語は不的確ですが)でもないわけで。そのどちらもシミュレーションとしては、ゴールへの漸近線を辿るしかない、一線は超えない禁欲的な行動ですよね。

一線を超えると思わせる色っぽい仕掛けは、別の「わかってる」もしくは「わかりたい」が必要なんでしょうね。そういう意味では、moogの作った無邪気な装置は、moogが「わかっていた」何かが染み込んでいたのかもしれないですけれど。
2005年08月23日
06:53
中村理恵子
>色っぽい媚薬の装置
osamuちゃん、お久。冴えてるなー。
ぐっとくるというのか、エロスがあるってのか。
わたしたちにとって、優れてるとか、使いやすいとか、
都合がよいとか、って事象は、そそられない。
確かにそうですね、一線を越えることしか欲してないのかも(笑)。
かつて、‘お強い個‘という名言も、パソコン通信の交信の
中で、osamuちゃんが発したと記憶してます。
以来、とても気に入って「お強い個を鍛えるシステム」とか
いいながら巡業してます(笑)。
2005年08月23日
17:03
安斎利洋
moogがやったことって、パッチボード式のアナログコンピュータを音楽用に特化した、ってだけのことなのかもしれない。

当時はデジタルコンピュータはまだまだ一般的じゃなかったし、コンピュータを使った音楽は逆フーリエばかりだった。

moogを色っぽくさせるいろいろなことが、用意されているところに、moogが出現したのかもしれない。

でも僕は、高校の頃から(1970年くらい)ずっと、moogは違うと思ってました。音って、エンベロープじゃないだろう、って。発音の仕組み自体に減衰が含まれるべきだろう、と思って、あれこれやっているうちに、話は飛ぶけれどCGに至った。
2005年08月23日
17:12
H.耕馬
> あれこれやっているうちに、話は飛ぶけれどCGに至った。

アレェ?CGは何時まで待っても減衰しないぞなモシ。
2005年08月23日
17:22
安斎利洋
耕馬さんは、ときどき冗談言ってるんだか本気だか、わかんなくなる。
2005年08月23日
19:06
H.耕馬
耕馬の辞書には冗談の2文字は無い。いつでも本気1本。

ってのが冗談です。ヽ(^.^)丿

安斎さん、もう忘れたかも知れないケド、多分サピエンスネット内で、時間が経つと「枯れて行く画像」についての話をした事があったよ。

いろいろな前振りがあるんだけど、たとえばその中の1つを覚えています。
東大総長を蓮見さんがやっていた時に、映像デジタルアーカイブのセミナーをやっていました。その中のストーリーで、
(1)すべての映画をデジタルアーカイブにする必要があるのか?
(2)技術的に可能でも金銭的にやり続けられるのか?
(3)もしも1部の作品を残すのだとすれば、その判断はいったいダレがするのか?
みたいなパネルの後で、蓮見さんが、桜は散るから美しい。
すべての映像が100年後に見られなくなっても、その映画が作られたという事実は残る。それで良いでは無いか。とおっしゃった。

それで、時間と共に劣化していくデジタル映像作品って有りなんじゃない?という話が始まったと記憶しております。
2005年08月23日
19:11
安斎利洋
いまから思うと、その議論はちょっと違うと思いますね。劣化していかなくたって、誰もアクセスしなくなる。選別する工数より、そのままとっておくほうが安上がり。

だいたい人間の選別って、ほとんどが間違いだから、すべて保存しておいて、抽出技術を考えたほうがいい、というのが現在のコモンセンスじゃないかな。

たいてい、誰もが捨ててしまうものから、次世代が生まれるものだし。
2005年08月23日
19:14
H.耕馬
音楽と映像が人間に与える影響については、それこそ心理学とか大脳生理学とかでいろいろ論議されていると思いますが、耕馬が勝手に表にすれば、以下のようになります。

(1)音・音楽:時間と共に減衰してゆくメディア
(2)映画  :次々に画像と暗闇が切り替わるメディア
       (減衰はしない、画像が瞬時に切り替わる)
(3)TV・PC:画像が出っぱなしで目の前で書き換わって行くメディア
       (減衰もしないし、切り替わったりもしない)

だから何って言われると、まだ考えてなかったりする。
2005年08月23日
19:26
H.耕馬
>劣化していかなくたって、誰もアクセスしなくなる。

ソリは、耕馬の日記への当てつけか!

って冗談よ。(匿名希望被害妄想)
2005年08月23日
19:30
安斎利洋
でもさ、今後も生産され続ける膨大なblog textって、これからどうなるんだろうね。みんな検索対象になるんでしょう。みんなとっておくといっても、淘汰や劣化の仕組みは、どこかに仕組まれないといけないでしょうね。
2005年08月23日
19:49
H.耕馬
> 淘汰や劣化の仕組みは、どこかに仕組まれないといけないでしょうね。

それは、人間の「忘れる」という仕組みをインプリメントするのが良いと思う。

専門じゃあ無いのでウソ書くと思いますが、人間が忘れるのって、その記憶をパージするのでは無しに、その記憶へのリンクが切れるんだ、と聞きました。
であれば、安斎さんが言うように、「誰もアクセスしなくなる」って状況は、リンク切れとすごく似ていると思うんです。

もう1つ、インプリメントしたいのは、過去の記憶は得てして「美しく変容する」って仕組み。そのイベントがたとえ個人にとって痛い思い出だとしても、月日が経って思い出すと、なぜか「よい記憶」となっている。つまり記憶の内容が書き換えられている。
もしくは、TIMEフィルターが入っていて、ある時間が経過すると痛い思い出も痛くない内容に変換してアウトプットする関数が、自動的に発動する。

「忘れる」という行為自体は、人間にとっての自己防衛本能の一種と聞いた事もあります。

ウソが入っていた場合は平にご容赦。
2005年08月23日
21:35
osamu
>音って、エンベロープじゃないだろう、って。発音の仕組み自体に減衰が含まれるべきだろう、と思って、あれこれやっているうちに、

過去の名言シリーズになりますが、その昔、安斉さんが、
「煙草を発明したのは、煙草の葉っぱでしょ。」と言ったことがあって、私はいたく感動したんですよ〜。
2005年08月23日
22:05
MATANGO
ちょっと思い浮かんだだけなんですが...。
「ソラリスの海」を、ほんとにつくってしまう...というのはできないもんなんでしょうか?
そのひとの膨大な記憶のなかから、勝手につくりかえた美しい部分だけを、再構成して見せてくれる...。

ところが、時間が立つと、どこかにほころびができて、美しいはずものが醜く変わり、やがて少しずつ崩れ去ってゆく....。

たぶん、いちばんグッとくるのは、「やがて少しずつ崩れ去ってゆく」というところなんだろうなあ、という気が....。
2005年08月23日
22:26
H.耕馬
>たぶん、いちばんグッとくるのは

それは、どうでしょうか?
確かに桜の花の散る様はグッと来ますが、ボタンなんか花がボタッっと落ちて終わり。

美しく老いて行きたいですね。。。。。
2005年08月23日
22:41
なさ 飛鳥井
耕馬さん、下記をご参照ください。

http://www.psy.mpg.de/MPIPF/forsch_e.htm
http://www.psy.mpg.de/MPIPF/Res_Report_2001-2003.pdf

書き込み、いっぱい進んでますねえ。
2005年08月23日
22:59
なさ 飛鳥井
いっぱいの書き込みを見て思ったこと。

感情移入といい、common codingで扱うような(こんな言葉ないですけど)「行為移入」といい、人間はマネすることに長けていますね。
人間は高度な社会的動物だと考えざるを得ないです。

1950年頃にケルンで始まった電子音楽、この段階ではリアルのシミュレーション、例えば実際に存在する楽器の音をシミュレーションすることは、ひとつの目的であったように思います。
Moogのシンセサイザーって、これをイマジネーションの世界で好き勝手にやったことが「媚薬の装置」たる所以ではないかという気がします。
2005年08月23日
23:03
安斎利洋
そうそう、ソラリスが欲しいんですよ。

僕は、とても若い頃は、思い出すべきことは絶対に思い出すからメモはとらない、という考え方だったんですが、いまはまったく完全に自信ないです。

たとえば、あのとき会った人の名前、なんていうことはどうにでもなって、会った人ぜんぶ写真をとっておくなんていう装置はすぐにでもできるでしょう。

問題は、思い出すという行為を引き起こすポインタをなくしてしまうことですね。

発想っていうのは、記憶の底に沈んだAとBが結びつくときに生まれるのでしょうが、AもBもポインタをなくしてしまうと、発想する力もなくなってしまう。

そういうときに、ソラリスがほしい。カンブリアンはそういう目的にも使えるんじゃないかと思ってます。発想の交配装置。でもいまのところ、リーフが1000を越えると、固まってしまうのが難点。
2005年08月23日
23:08
安斎利洋
>「煙草を発明したのは、煙草の葉っぱでしょ。」

それ、書いた覚えあります。そのちょっと前まで、喫煙家だったんですよね、信じられないことに。1989年の2月です。

禁煙したての僕の前で、うまそうにたばこを吸ってたのがosamuさんでした。
2005年08月23日
23:16
なさ 飛鳥井
人間の記憶は、リアルの情報が蓄積されているというのは全くの嘘で、記憶時にも記憶後にも再構成されています。
ある場面を記憶するような長期記憶のひとつであるエピソード記憶は、海馬と言うところで一時的に記憶され、その後で側頭葉に記憶されます。
そして、やがて一部は汎化され他の皮質に意味記憶として「効率的」に蓄積されます。
つまり、例えば豊かな海の想い出も、想起されないと「海」というシンボルに抽象化されてしまいます。

それから、人間の記憶で面白いのは、単純にリンク切れするのではないことです。
意識的な過程と無意識的な過程があって、意識的な過程でリンク切れのように思い出せなくなっても、無意識的な過程でデジャヴのような既知感があることですね。

何が言いたかったんだろう。
忘れると言う仕組みは、物理的な劣化とは違って、人それぞれ違った劣化の仕方をすべきだということかも。
2005年08月23日
23:18
H.耕馬
> 耕馬さん、下記をご参照ください。

なささん、感謝です。
早速、勉強させていただきます。
2005年08月23日
23:23
H.耕馬
>ソラリスの海

すいません、恥を忍んで質問します。
ソラリスって何ですか?
2005年08月23日
23:34
安斎利洋
スタニスラフ・レムのSF『惑星ソラリス』です。タルコフスキーの映画があって、一昨年だっけ、ソダーバーグがリメイクしました。
人によって、どっちから見るべきか、勧めかたが違うんだけど、耕馬さんならソダーバーグかな。ツタヤに走れ!
2005年08月23日
23:41
安斎利洋
>忘れると言う仕組みは、物理的な劣化とは違って、
>人それぞれ違った劣化の仕方をすべきだということかも。

昔、僕が開発でかかわっていた会社で、情報を勝手に劣化させていくファイリングシステムを作っていて、僕は実に不愉快でした。それはなささんが言うように、人それぞれ劣化の仕方は独特であると思うからです。

だから、電子情報は全部とっておいて、それをどう抽出し、どう組織化し、なにをマスクするか、というファンクションを、個人が個別にチューニングする仕組みを作るべきだと思う。
2005年08月24日
00:21
H.耕馬
>ツタヤに走れ!
了解しました隊長。走ります。

でも言い訳すると、『惑星ソラリス』って映画の名前ダケは知っていました。他にも「未来世紀ブラジル」とか「戦艦ポチョムキン」とか名前は聞くし、いつか見なくてはと思っている映画多いです。

ダレか見た人の脳髄辺りに注射器刺して、チューット移植すれば見た事になる、って発明してくれないかなぁ?
2005年08月24日
00:24
安斎利洋
>見た人の脳髄辺りに注射器刺して、チューット移植すれば見た事になる

そういう映画はありますよ。
『ダーク・シティー』
これもツタヤへ。
2005年08月24日
00:43
安斎利洋
>Moogのシンセサイザーって、これをイマジネーションの世界で好き勝手にやったことが「媚薬の装置」たる所以ではないかという気がします。

moogは、不自然になめらかな倍音変化が、かえって媚薬的だったことは確かですね。

あと、moogはプログラム環境として実にスマートでした。音の信号と、コントロール信号が、同じレンジだった。だから、低周波の音そのものでVCOやVCAやVCFを制御できた。この自在なフィードバックが、たまらなく面白かった。

moogも、基本的なパッチが固定になったモデルは、つまらなかったな。
2005年08月24日
00:55
H.耕馬
了解しました隊長。ツタヤに走ります。

しかし隊長、折角、隣の会場moog部屋に、ビールとかおつまみとか用意して待ってるのに、なかなか人が来ませんねぇ。

やはり、盛り上がっている宴会場からは抜け出しにくいという心理でしょうか?
2005年08月24日
01:02
安斎利洋
いえいいんです、あれはポインタですから。
おつまみっていうより、漢方薬。
ポインタっていうより、トラップ?
2005年08月24日
01:13
H.耕馬
漢方薬とトラップって、いったいどんなパーティなんだろう?

漢方薬って言うのは表向きで、実は○シシとか○麻とかいう薬じゃないの?
Trapって文字も良く見ると「罠」ではなく「旅」って日本語訳が付いているのは何故?
2005年08月24日
01:26
安斎利洋
耕馬さん、旅に出るのに化学物質を使うなんて旧人類のやることです。mixiで十分でしょ。
2005年08月24日
01:35
H.耕馬
>耕馬さん、旅に出るのに化学物質を使うなんて旧人類のやることです。

旧人類 : unxi
ニュータイプ:unxi2000って訳ね。

>mixiで十分でしょ。

まっmixiはオツマミにはなるかな?
メインは絶対に、ビールでしょう!
2005年08月24日
02:04
安斎利洋
>旧人類:unxi

念のため誤解されないよう言っておきますが、僕は化学物質未体験です。それからディズニーランドに行ったことないし、車の運転もしたことありません。

unxiは、アン-ザイと読ませていますが、
mixiは、マイ-ザイですかね。
2005年08月24日
02:23
安斎利洋
話を戻そう。

>行為移入

使える言葉です。とりわけ音楽は、行為移入によるカタルシスですね。
2005年08月24日
02:27
H.耕馬
> 念のため誤解されないよう言っておきますが
ダイジョブ、ダイジョブ

化学物質=ディズニーランド=車の運転

って、普通は併記しない組み合わせだよね。
どれも、心の何処かが覚醒or発散するって事?
まあ、未体験つながりとしては、何でもアリか。

それならば、
お酒+mixi=パーティ
って、どおよ?

(そっちじゃ無い)化学物質=遺伝子組み換え
なんてのもあるかな?

CG=世界観=??
なんだろね。
2005年08月24日
02:38
H.耕馬
行為移入はピント来ないや。ゴメン。

音楽と映像は、感情移入の仕方が違うってのは分かる。
目と耳は同じように脳から近いI/Oです。
視覚情報の方が聴覚情報よりも刺激が強い、なんて事も言います。

けれど、学生時代に聞いていた音楽がカーラジオから流れてくると、いきなり回りの風景が変わって感じるのって、どういう仕組み?
逆は無いんだよね。それも不思議。

音の方が人類の進化にとって根源的な感覚、というのは聞いたことあるんだけれど。。。
2005年08月24日
08:48
H.耕馬
そろそろ、脳みそが会話に酔っ払って来て
話題がフラフラぶれて来たね。

耕馬ダケ?
こりゃまた失礼。
2005年08月24日
23:00
なさ 飛鳥井
そろそろ収束ですか。

ソラリスはバッハのコラール・プレリュードが良かったです。

安斎さんの「行為移入」は楽器とかを通した自己フィードバックですよね。
僕の場合は、カウンセリングなどのラポール構築のペーシングとか、人という環境によって誘発されるアフォーダンス的なものの方がぴんと来ます。

それから、感覚器官は系統発生的には、古い順から触覚→味覚→嗅覚→聴覚→視覚、てな感じでは。(自信なし)
2005年08月24日
23:15
MATANGO
ちょっとしつこく、ソラリスについて...。

「やがて少しずつ崩れ去ってゆく」という出来事が、たぶん感動的だろうと思うのは、それが自分ではどうすることもできない、ある法則なり現実なり自然なり....うまく言えませんが....が不意に目の前にあらわれるという体験になるだろう...と思うからなんです....。

...だって「ソラリスの海」は、なにもニンゲンの、ことにその「思い」のためにあるわけではないんですから....。

そのとき、たぶんわたしたちは、いかに繰り返し再現可能に思えるものも、じつは「二度と同じことは起こりえず」「かけがいのないもの」であることを....しめった表現でじつに恥ずかしいんですが...深い哀しみとともに知ることになると思うんです。

安斎さんが、いつかそれをもっとクールに、具体的に表現してくだるだろうと思っています。
2005年08月25日
01:15
安斎利洋
>安斎さんの「行為移入」は楽器とかを通した自己フィードバックですよね。

そういうことかな。

CDで歌を聴いて心が動くときは、頭の中で歌っている。人の話を聞いて意味を理解しているときは、自分の中で発話している。絵を見てじわっと胸のあたりから快い感覚が沸いているときは、絵を描こうとしている。

自己フィードバックと外からの入力が、見分けつかなくなるような事態じゃないかな。
2005年08月25日
01:19
安斎利洋
ソラリスは、本当に深い思考を誘い出しますね。MATANGOさんの話、面白いです。

去年、ソダーバーグのリメイク版を見たときに書いた日記を、さっき読み返しました。自分でも面白かったので、引用します。
-------------------------------------------
●2004/05/07
 このごろ仕事場の前の桜の木が、カラスの遊園地と化している。我がもの顔に滑空する黒い影に苛立つことが多いが、気持が寛大なときにじっくり観察すると、これがけっこう面白い。中に、一束の真っ白い尾羽を持つカラスがいて、彼女(彼かも?)に出会うと少しうれしくなったりする。

 すると昨日あるテレビ番組で、最近は人間に媚を売るカラスがいるという話をしていた。カラスはずる賢いから、決して人を愛しているわけではなく、偽りの人懐こさで人のカラス攻撃を交そうとしているのだ、というようなナレーションがあった。しかし待ってくれよ、それじゃ猫がなつくのはどうして本当の愛と言えるんだ。野生の犬だって、カラスと同じように狡猾だし、人の赤ん坊が愛らしいのも親の加護を得たいための策略と言っても間違いないんじゃないか。

「人間的な感情を彼らにもたないで。あなたは操られている。彼女が醜くないのは、あなたの関心を引くため。あなたの心の一部を映す鏡でしかない。彼女は人間じゃない。そのことだけでも理解して。」

 ソダーバーグ監督の『ソラリス』で、ビジターを地球に連れ帰ろうとする主人公に対して、冷徹な物理学者がたしなめる台詞だ。大好きなソダーバーグと、大好きなソラリスの出会いは思ったとおりすばらしかったが、愛や良心や癒しといった人間らしさそのものが何ものかの鏡像にすぎないという底知れない無重力感は、タルコフスキーの『惑星ソラリス』には遠く及ばなかったと思う。
-------------------------------------------
2005年08月25日
01:36
godzi2
深い哀しみとともに知ることがいいのか、悪いのか、私にはよく分かりません。

が、このスレッドを一貫して流れる「世界を記述する」ことへの違和感が、私にはあります。というか、なぜ「記述」されなければならないのだろう?
「世界」は、もしかすると「味わう」ものかもしれないし、「触れる」ものかもしれない。「眺める」ものかもしれないし、「聴く」ものかもしれない。
それらをすべて記述するとはどういうことなんだろう?

物理的な属性や現象を記述し、シミュレートすることの重要性は理解しているつもりです。実際その果実を使わせてもらってもいるし。
が、「記述」から一歩踏み出し、自分を投企するところに「表現」があるのではないか、とも思えるのです。
もちろんその先には、別の人との相互作用の問題もあります。

収束しそうなところで、原理的(?)な話しをして申し訳ありません。が、ぜひ皆さんのご意見を伺いたいと思いました。
よろしくお願いします。
2005年08月25日
02:21
安斎利洋
>自分を投企

(なつかしい語彙)

何も考えずに自然現象(たとえば夕焼け)に没入することにくらべて、それを光の現象としてCGで記述することは、なにかいいことあるのか、という話ですよね。

それは、絶対にいいことがあります。

しかし問題は、何も考えないで無心に感じることによってだけ得られる何かがあるのではないか、という予感です。昔の絵描きは、アルゴリズムなんか考えないで、日没の光線を描いたでしょうから。

でも、それだって別な記号システムで世界を記述してるんじゃないのかな。

逆に言うと、アルゴリズムは詩である、って言い方もできます。ソフトウェアはエクリチュールである、が僕の持論です。
2005年08月25日
04:14
godzi2
>(なつかしい語彙)

うーむ、なんか私はまったく進歩してないかも。。。

にしても、CGというのが始まって、あっという間に陳腐化していく様子を、私たちはリアルタイムで見たわけですよね。
そこにアーティストとして何が付加できるか、あるいは原理自体に変更を加えることができるか、というのが安齋君の問題意識ってことなんだと思います。
これはほんとに正しいし、重要なことだと思います。

バックスとかのミニコンやクレーのスパコンでやってた以上のことが、今ではワークステーションやパソコンでできてしまう。
それは無条件にいいことだと思ってます。
ただアーティストどころかアルチザン以前、ただのオペレーターとしてしか機能しない人を大勢生み出したのも事実。
それを乗り越えるためにも、安齋君のようなアプローチがもっともっと行われてほしいと思いました。

ちょっと外れるかもしれないけど、昔ディズニーのスタジオに取材に行ったとき、「美女と野獣」の群衆シーンを作った人と会いました。彼はネパール人で、そのプロジェクトのためだけにわざわざアメリカに呼ばれ、2年かけてソフトウェアを開発したのだとか。で、それが使われたのは僅か5カット!
ネパールからそんな奴を探し出してくるのもスゴイし、その成果をひけらかすのではなく必要なところに必要なだけ使う、アメリカのエンターテインメント業界の底力を、まざまざと見せつけられたように思いました。
なのに、今ではこの有様。。。

詩としてのアルゴリズム、今でもとっても面白いけど、もっと先へ!
期待してます。
2005年08月25日
11:14
H.耕馬
>にしても、CGというのが始まって、あっという間に陳腐化していく様子を、私たちはリアルタイムで見たわけですよね。

あっという間に陳腐化してしまった背景には、前にも書きましたがCGが生きて行く道を、あまりにもEntertainmentに頼りすぎたのもいけなかったと思うんです。

スリットスキャンにしろDVEにしろ、あの世界は刺激を求めてどんどん消費してトイレに流してしまう。本来持っている価値が、スリットスキャンとCGで月とスッポン程違おうが、そんな事知った事ではなかったのでしょう。

もっとも、米国みたいに、軍事に頼って生き延びるのもイヤだなぁ。
2005年08月25日
12:50
安斎利洋
コンピュータ・グラフィックス、特に3Dレンダリングが世間に始めてひろまったときに、人類の目はかなりびっくりしました。

このファーストアタックを知っている人にとって、「CG=視覚の驚き」という図式が出来上がってしまったから、CGは次のアタックも驚きでなくてはならなかった。驚きの次に驚きを重ねても、人間は知覚を微分してしまうので、どんどんCGがクリアしなくてはならないバーは高くなっていく。

そんな追いかけっこの始まりと終焉を見た、ってことかもしれません。

でもCGのファーストアタックを知らない人、あるいは上手に忘れることができた人は、CGに刹那的な驚きではない、別の成熟の道を発見できるはず。
2005年08月25日
13:42
H.耕馬
> 驚きの次に驚きを重ねても、人間は知覚を微分してしまうので、

これで滅びてしまった、というか、次が出来なくなってしまった代表作は、ドラゴンボールだと思います。
ほかにも、いっぱいあるけどね、次々に強い大きいっていうのを繰り返すのは不可能。
2005年08月25日
16:44
godzi2
>スリットスキャンにしろDVEにしろ、あの世界は刺激を求めてどんどん消費してトイレに流してしまう

これは「あの世界」のことだけではなく、最近の「人間」それ自体という風に、私には思えています。
そして多分この図式は、CGだけでなくコンピュータ(特にネットワーク)に関わるもろもろの技術すべてに適用できるとも思っています。
心理学風に言えば、際限のない「自我肥大」。。。

>そんな追いかけっこの始まりと終焉を見た、ってことかもしれません。

でもまだ1ラウンドが終わっただけで、この後まだまだ長い消耗戦が待っているのだろうと思います。
もっと驚きを!
2005年08月25日
23:17
なさ 飛鳥井
絶滅種、僕は何回も絶滅してるかも、人工知能にCGにVR。

思うにソラリス、人間の頭の中の情報だけでは、あんなにちゃんと再現できないと思います。

「世界を記述する」ことへの違和感、わかります。
人間は世界をそのままのモデルとして記憶していません。
ある意味では、人間は世界とのインタラクションのパターンを記憶しているだけでしょう。
だから、ソラリスは世界を再現できない。

驚き、それは予測との乖離で感じるものですね。
だから、人それぞれ感じ方が違うものだけれども、あらゆるところに潜んでいる。
人間の特に知覚や意識はとんでもない驚きに満ちていて、それを知ると人間のインチキさに呆れる。
さらに面白いのは、人間がそのインチキ、特に自分の知覚や意識のインチキに、全く気が付かないようにできていることです。
2005年08月26日
01:14
godzi2
>「世界を記述する」ことへの違和感、わかります。

最近私は「千夜一夜物語」にはまっているのですが、実はこの中にものごとを「記述」するという言葉が頻出します。

おもしろい話しを聞けば「瞼の裏側に針で記しておく」とか、王様であれば書記にその全貌を記すよう指示するとか。また何か不意の事態が起こると「あらかじめ記されていたとおり」と思ったり、出会った人と別れる時に「記された道へ戻った」という表現をしたり。

どうやら中世のムスリムは、世界をあらかじめ記されているものと理解していたのではないかと思います。
それは昔ながらの決定論的な色彩が強いのですが、しかし「記述」への意思という点で、今にも通じるものがあるような気がします。

少し前に、オン・デマンド出版をやっているマイミクの人と、人が世界を記述するのか?それとも世界が私を記述しようとしているのか?という議論をしてたことがありました。
「世界が私を記述する」という立場は、言ってみれば「私は世界とのインタラクションで出来上がっている」てなことになるのでしょうか?
それなら私の実感にとても近いかも。。。
2005年08月26日
02:55
machiko
>絶滅種、僕は何回も絶滅してるかも、人工知能にCGにVR。

なんか、CGは絶滅したということになったみたいですが、私は人工知能もCGもVRも、まだ、到達点には至ってないと思っています。
まあ、定義の問題なのかもしれないし、CGはかなりのところまでは来たとは言えるでしょうが。
人工知能は、だんだん面白くなってきたけれど、まだかなり模索中では?

広告代理店とジャーナリズムは、すぐ、目新しいものに移行しますが、それにつられてしまう必要もないわけですし。

イスラムの「記述」の話はおもしろいですね。
ギリシャ時代の科学技術がヨーロッパでは途絶えて、それがイスラムで生き残り、発展したのは、「世界を記述」するという概念に関係があるんでしょう。
このあたりは、エーコの「薔薇の名前」の世界。
2005年08月26日
03:08
MATANGO
お話の本質に関係ない、ただの情報ですが...。

ムスリムでは、「世界中の出来事があらかじめ記されている板」みたいなものがあると信じられてるんだそうです。
(正式にコーランには記されていないけれど、だれもが信じている伝承とか....)

で、いま生きている人には、かならず2人の天使がついていて、一人はその人の行いのよかったことを書き、もう一人は悪いことを書く。

でもって、それを「世界の板(?)」のところにもっていって照合し、最後の審判でコイツをどうするか決める...。

いちいちひとりひとり全部の行いを書いてたら、たいへんなことになるんでないの!...と思うんですが、行いのうちでもどうでもいいことは、天使が「ま、いいか」といってノートを破って捨てて持っていかない...。

...で、最近のわたしの行い、どうなんでしょうか天使?

(よい方の天使)....ま、いいか。
(わるい方の天使)...........................................................
2005年08月26日
03:12
安斎利洋
絶滅種は、CGや人工知能でなく、人の属性です;-)

人工知能は、登り始めてすぐそこに見えた頂上の遠さがわかったってことで(いや頂上がそこでないことがわかったってことで)、これから面白くならなくちゃ。

計算機の超並列性が、現実を越えるときがいつか来ると思うんですが、そのときになにかが変わるんじゃないかな。

そもそも、人間の知能を作ろうとしているけれど、人間の身体をもたない人間の知能なんてありえないわけだから、人間でない自律的な知能を作ればいい。
2005年08月26日
03:16
安斎利洋
世界が私を記述している、というのは科学的に考えてもそのとおりで、「私」の中には40億年の推敲の痕跡が残っていて、生きることはすなわちそれを解読する作業だと思います。

ミントを育てていたとき、匍匐茎の先を見ながら、自分が異性にときめくのは40億年かけて磨かれた幾何学だな、と思った。
2005年08月26日
03:20
gilli
>人間でない自律的な知能
ほんとうにそう思う。知能とか知性というとすぐにゴールが人間というのが違うと思う。シャクトリ虫には、シャクトリ虫のタコにはタコの知性があるように。

機械のイドが何かきっとあるんでしょうね。

台風通過中ですね。
2005年08月26日
03:22
安斎利洋
>思うにソラリス、人間の頭の中の情報だけでは、あんなにちゃんと再現できないと思います。

ソラリスの海が人間の頭の外に独立してあるなら、そのとおりだと思います。
でも、ソラリスは見るものの一部でもあるように、暗示されていますよね。
というより、内部と外部という二項対立で解読できないところが、ソラリスの深みです。
2005年08月26日
08:24
H.耕馬
>なんか、CGは絶滅したということになったみたいですが、私は人工知能もCGもVRも、まだ、到達点には至ってないと思っています。

イヤ〜、それぞれ、数回は頓挫、絶滅してると思いますよ。
絶滅しないと新たな世代に入っていくのは難しい。
絶滅した恐竜のナキガラとか養分から新しい命がうまれるのでしょ?
発展とか進歩なんてそんなもの。

まあ、ネコさんもおっしゃるように、定義の問題で同じ事を指してるダケかも知れない。
誰かはCGに対して「オマエはもう死んでいる」と言い、他の誰かは「まだまだ息はある」という。ただそれだけ。
2005年08月26日
08:26
H.耕馬
>絶滅種は、CGや人工知能でなく、人の属性です;-)

そうかぁ、1回絶滅して生まれ変わる時は、New Typeと名乗ることにしよう。
By ニュー耕馬
2005年08月26日
18:54
H.耕馬
ソラリス特別版を買いに行ったら、在庫切れだそうで。

なかなか人気なのですね。
レンタル店行かないとダメかな。
2005年08月27日
00:23
安斎利洋
本質がわかる前に消費されてしまう、といえば、昨日映画TIMELINEを観たんだけれど、量子コンピュータの本当の意味が理解されないうちに、あれじゃ消費されちゃいます。残念。

ソラリスのような深い思考を誘うSF映画が、最近ないなー。なにか見逃してるかな。
2005年08月27日
08:18
machiko
ソラリスをベースにした、カーステン・ニコライのPolarという作品がありましたね。

何年か前に展示されたときは、ノートパソコンを枕のようなものに入れて空間内を持って歩かなければならなかったけれど、不思議な感覚の経験でした。

テクノロジーがようやくウェラブルになりつつある今だったら、もっと身体と思考と空間の関係が直接に見えてきたかもしれません。(今回のSIGGRAPHで一番ノリの良かったのはウェラブル・ファッションショーだった・・・)

カーステン・ニコライは理論系の音楽家でもあるから、安斎さんと共通するところがあるかもしれない。
2005年08月27日
10:28
H.耕馬
> 今回のSIGGRAPHで一番ノリの良かったのはウェラブル・ファッションショーだった

名前は、サイバーファッションショーだけどね。
ウエアラブルはサイバーの1ジャンルとして位置づけられていましたね。

それにしても、ノリが良いってのは、一票。
上半身裸で胸の☆マークだけのモデルさんが出てきたときには、思わずかぶりつきに走っていったもの。そうしたら、各国から来たカメラ小僧達が、スゴイ勢いでパシャパシャ写してるの。やはり、洋の東西を問わず、良いものは良いと。。。

この話を、会場に来ていた女の先生(ネコさんでは無いが同年代の人)に話ししたら、「アノ人、垂れていたじゃない。見せるようなものじゃ無いわ」と、、、
ちょっと敵愾心を感じてしまったのかな?
2005年08月27日
13:22
安斎利洋
耕馬さんの興味は、相変わらず un-wearable ですね。undressableか。

Polar、知らなかった。もうちょっと、世間に目を向けないと。
2005年08月27日
17:01
machiko
wearbleにしても、それが騒がれるのは、まだ「情報を着ている」ことが気になる=意識されるから。
それがもはや意識されなくなったときに、意識下の世界で、身体感覚が本当に変わってくるだろうと思います。

ところで、ロンドン動物園で、「ホモ・サピエンス」の展示をやってるそうですね。
サル山に、ボランティアの男女が最小限度の衣類程度でたむろしているようです。
http://www.zsl.org/london-zoo/whats-on/the-human-zoo,94,EV.html
2005年08月27日
19:08
H.耕馬
>ボランティアの男女が最小限度の衣類程度でたむろしている

不覚。
この言葉に誘われて、瞬速でWebを見に行ったら、ちゃんと着てるじゃあ無いですか。

もっとも、このイベントがたまたま全裸でやっていたとして、またオスがメスのオシリの匂いで欲情して、あんな事やこんな事をするような展示だったとして、それだけを見るために耕馬がロンドンに駆けつけたら、それはそれで素晴らしいモチベーションだなぁ。
2005年08月27日
20:00
安斎利洋
>それがもはや意識されなくなったときに、意識下の世界で、身体感覚が本当に変わってくるだろうと思います。

この話をCGにあてはめれば、CGはいままでになく深いところで意識や感覚に影響を与えているのかもしれませんね。

>ちゃんと着てるじゃあ無いですか。

しまった、同じ不覚を味わってしまった。

しかし、もしかすると地球全体が自然公園で、位相のずれた空間から、別の生命体が見ているのかもしれませんよ。

たまに、空から餌が降ってきたりしたこと、ありませんか?
2005年08月27日
21:56
H.耕馬
>たまに、空から餌が降ってきたりしたこと、ありませんか?

餌は降って来ませんが、今年はセミがよく落ちてきます。

何か、今年は異常にセミが多くありませんか?
街路樹なんか、もうセミが過密状態で止まっています。
例年、こんなにセミって多いものでしたっけ?

これが何かの天啓だとしても、、、耕馬は何も感じません。

>CGはいままでになく深いところで意識や感覚に影響を与えている

題名忘れましたが、映像だけでトリップする映画がありましたよね。「MAXシンドローム?」何だったかな?
2005年08月27日
23:10
machiko
>不覚。
>この言葉に誘われて、瞬速で

やっぱり耕馬さん(笑)

失礼いたしました。公式サイトの求人情報は、こちらです。

http://www.zsl.org/london-zoo/news/the-human-zoo,180,NS.html

企画では、衣類じゃなく、イチジクの葉を身にまとって、うろちょろするという趣旨だったんですが、結局、まともな衣類を身に付けるということになったんでしょうか?

イチジクってのは西欧的身体観の歴史丸出しですごいけど・・
でも、そういう意味で、種としての人間ではなく、文化的産物としての人間の展示になってしまうから、趣旨からは外れますよね。
それに、イチジクの葉じゃ、サイバーファッションよりメンテナンスが難しそう。

あ、サル山じゃなく、クマ山なんですね。

彼らが退屈しないよう、熟練した飼育係がいろいろちょっかいを出してあげるそうです。以下英文。

The Human Zoo

Do you fancy showing off at the Zoo? We are currently looking for individuals who would like to take part in a unique event.

The August Bank holiday will welcome an extra special exhibit to London Zoo as a flock of Homo sapiens gather on the world famous Bear Mountain.
Presented to the public with only fig leaves to protect their modesty, the humans will become an important feature of zoo life as they are cared for by our experienced keepers and kept entertained through various forms of enrichment.
The four day event aims to demonstrate the basic nature of man as an animal and examine the impact that Homo sapiens have on the rest of the animal kingdom.
If you would like to take part in this exciting new exhibit fill in the form below and tell us, in 50 words or less: Why do you want to take part in ‘The Human Zoo’?
Applications for this event are no longer being taken
The Human Zoo: more information
2005年08月27日
23:18
machiko

>「MAXシンドローム?

MAX HEADROOM のことですか?
フェイクCGでつくったバーチャルキャラクターのはしり、が登場する番組。
ちなみに、MAX HEADROOMとは、高架線の下などに表示してある「最大車高」のこと。

ところで、human zoo 関連でいうと、2年前に出たこの図鑑には、都会のいきものとして「にんげん」も収録されてます。
当然とも思えるけど、初めての快挙らしいです。巻頭言が堤清二というのも、図鑑としては型破り。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4895776654/ref=pd_bxgy_text_2/250-6077474-3162658
2005年08月27日
23:52
H.耕馬
>MAX HEADROOM=最大車高

つまり、「これ以上はヤバイぜ」っていう表示なわけだ。
なかなか、うまいじゃん。

現代若者用語の「ヤバイ」だと別の意味になってしまいそうで、それもまたヤバイ。
2005年08月28日
19:48
安斎利洋
Max Headroomは、バイクに乗っていて車高制限のバーに頭をぶつけ、瀕死の状態だったビデオジャーナリストから、脳の状態をコピーしてできた人格で、そのバーに書かれていた「Max Headroom」の文字の記憶から、その名前がつきました。

彼は、電子的につながったあちこちのCRTから顔を出し、あらゆる空間に神出鬼没する仮想人格でした。あの番組が作られた当時って、パソコン通信のホストにモデムでアクセスする時代で、世界中のPCがつながっているというのは、まだSFの領域でした。

けっこう好きでした、あの番組。BSでやってたんだっけ? 確かどっかに録画があるな。
2005年08月29日
04:55
machiko
もともとイギリスで始まった番組で、スタートは1984年くらいかな?イギリスとアメリカでは1985年あたりにオンエアされてたような。
センスのいい企画ですよね。

オーウェルの「1984年」に合わせて、いろいろな企画が出たのを覚えています。

ウィリアム・ギブソンの「ニューロマンサー」も84年。
世界的なインパクトだった。このあたりから「仮想世界」のイメージが定着してきたんですね。
ちなみに、「マトリックス」はかなり「ニューロマンサー」からイメージを借りてきてませんか?
首筋に接続端子があるところとか。

84年頃、日本ではまだパソコン通信だったけど、アメリカで情報系の研究拠点になっていた大学では、学生がインターネットを自由に使ってゲームとかにはまってた。
それが、こういう小説や映像作品の背景になってますね。

私がはじめて国際回線を使ってアメリカのタイムネットにつないでたのも84年。

アメリカの中でいくつものノードを通るせいか、通信が安定しない。
メンテの番号に片っ端から国際電話をかけても、当時は時差のある国からの接続は想定外で、夜中の時間帯は誰もいなかったり。

海外接続はまだ珍しかったので、KDDの担当者は興味をもって相談にのってくれました。けっこう話し込んだり。
あ、昔話になってしまった。

「トロン」も1984年ですね。
こちらは、モスクワ五輪をアメリカがボイコットしたので仕事にあぶれてしまった2人組が、ディズニーにかけあってつくった映画なので、タイミングとしてはオーウェルには直接関係なさそうだけど。
2005年08月29日
09:22
H.耕馬
>海外接続はまだ珍しかったので、KDDの担当者は興味をもって相談にのってくれました。けっこう話し込んだり。

これは、驚く無かれ90年代最初までそうだった。
たとえば、IPでつながったのって、まだ10年たっていないし、ブロードバンドなんてココ2〜3年。

その前はuucpとか使ってインターネットメール(正確にはUNIXメール)をやっていた。1回○KKの時代に、取引先のカナダのコンピュータからどうしてもソフトウエアがダウンロードしたくて直接国際電話で接続したら、30分位たった頃KDDから会社に電話が入った。なんとその当時、30分を越える国際電話は、KDD内で非常ベルがなるんだそうな。

後から総務に呼ばれて、こっぴどく叱られたっけ。
2005年08月29日
09:27
H.耕馬
>たとえば、IPでつながったのって、まだ10年たっていないし、ブロードバンドなんてココ2〜3年。

アッ、日本の個人ベースの話ですよ。あくまでも。
米国の大学とかは、20年前からIPリーチャブルでした。

SIGGRAPHの会場にインターネット接続センターが出来たのは、90年代最初の頃でしたが、その時日本人は(1部を除いて)その意味さえ分からなかった。
2005年08月29日
14:19
gilli
長い長いスレをざくっと読ませてもらって、
安斎さんが創りたいモノへの
動機や、理由がとても私と近いということがわかりました。
表現として出てくる形は多分全然違うモノになるのだけども、
情報学環の時にいつも説明をせまられてもうまく説明しきれなかったところをそのまま、安斎さんが説明してもらえそうな感じ。

私の一連のこだわりへの最初の動機は、星新一の『声の網』です。この本を中学生の時に読んでとても衝撃を受けました。機械と機械がネットワークを作って一つの意識を形成してゆくという話です。
もしかしたら、当時は1984のパクリだとか言われたのだろうか?
ニューロマンサーよりも先だし、偉大なる創造者のような人がいて、マザーコンピュータを創ったのではなく、自然に機械と機械がネットワークをして知性を形成してゆくというところが、実は星先生のすばらしい先見性なのではないかと思うのだけど。
2005年09月01日
19:10
安斎利洋
ちょっと亀ですが。
>説明をせまられてもうまく説明しきれなかったところ

これはたぶん、ふたつの問題があって、ひとつはsakana..さん自身の中にまだフォーカスがなかったということ。もうひとつは、学環の中にそれを受け止める教官が、いそうで実はいないこと。それはさておき。

僕は、意識の間に超意識が創発することより、統合されていると思っていた自分の意識がばらけることに、興味があります。コラボレーションの中で、私をメタ認知している私の危うさが、面白い。
2005年09月03日
00:07
H.耕馬
大変な亀で、今更ですが。。。。。
シダバーグのソラリス見ました。

耕馬の感想は、キリスト教的な宗教観の映画を見た想いです。
最後の台詞「私たちのした事はすべて許された」なんて終わり方はキリスト教そのものですね。

アジア圏の感性で言えば、お客が人間であろうと、コピーであろうと、そんな事どっちでも良いんじゃない?
女性の物理学者の、アイツらは人間じゃ無いから消去するべき、という台詞にもムカついた。

突っ込み所が違う?すいませんねぇ。
2005年09月03日
00:47
安斎利洋
女性の物理学者は、キリスト教というより、まさに科学者的な立場に立ったヒューマニズムで、それは否定的に描かれていると僕は思いました。

ソラリスの結末は、むしろ「お客が人間であろうと、コピーであろうと、そんな事どっちでも良いんじゃない?」というところに帰っていくんじゃないですか。

いや、そういえば最後の描き方はタルコフスキーと全然違ってました。タルコフスキーの最後のシーンは、深くさびしいんです。ソダーバーグから観ろ、って言ったの、僕でしたっけね。
間違ってたかもしれない。

でも、ソダーバーグ版のちょっとオタクっぽい役者、なかなか良いキャスティングでした。あと、女優(トゥルーマンショーに出た人)も、けっこう好きだったり。
2005年09月03日
08:40
H.耕馬
> 間違ってたかもしれない。

了解です。
タルコフスキー版もゼヒ見ようと思います。

> ソラリスの結末は、むしろ「お客が人間であろうと、コピーであろうと、そんな事どっちでも良いんじゃない?」というところに帰っていくんじゃないですか。

この最後のシーンは、ブレードランナーにつながる物を感じました。ただしブレードランナーも編集が違ういくつかのバージョンがあるんだけど。。。

そういえば、物質転送機をネタにしたSFって最近見ませんね。アレも、機能で言えばソラリスと似たような状態を創れるのです。
2005年09月03日
15:47
安斎利洋
物質転送っていうと、最近はタイムラインですが、SFとしての面白さはないです。

ソラリスは、原作者はタルコフスキーを否定しているし、ソダーバーグもタルコフスキーを継承していないって言ってるし、つまり「ソラリス」というテーマの周りを回る一連の惑星みたいなもんです。

タルコフスキーのラストは、まったくブレードランナーじゃない独特の脚色なんですが、原作者であるレムは、その脚色が気に入らなくて、怒ったという話です。

ソラリスの底に流れているのは、精神と物質という二元論で片付けられない何か。そこに、いろんなソラリス変奏曲が作られるわけで、ソラリス以外にも、影響を受けているSFはいくつもあります。「スフィア」なんて、ほぼパクリ。
2005年09月03日
22:05
H.耕馬
> 精神と物質という二元論で片付けられない何か。

そりゃやっぱり「流れ」でしょう?
おおいなる力ってうか、神じゃ無いけどある規則や力に従って流れる何か?例えば時間とか。

精神も物質も静止画で描けるケド、本当の流れは静止画では描けない。
2005年09月04日
00:41
gilli
ちょっと話の流れとは無関係に、少し前のレスです。ごめんなさい。

>sakana..さん自身の中にまだフォーカスがなかったということ。もうひとつは、学環の中にそれを受け止める教官が、いそうで実はいない

耳に痛いところもありますが、苦しい言い訳をさせてもらえるなら、
『作品』という形よりも『研究』としての形をきちんと整えることを、要求されるのが苦しいところでした。そうは言っても、作品としての位置づけもないがしろにはできず、右足でまわれと言われたり、左足でまわれと言われたり、いろいろして、最後にはひっくり返ったという感じです。『作品を作るのは美大でやれ、ここは研究をする場だ』と言われたので、その接点を探り続けましたが、苦しかったです。
いろいろと、解せないことも。
『学生という立場である以上、アーティストとしても素人で半人前なのだから』と言われたりしたのは、美大的な常識からは真逆だったし、
最後の試験で、ある教官が『結局理屈よりも作品に語らせないと意味ないよね』と言ったのに対し、その他の試験官も同意したので、ハラホロヒレな感じでした。

>コラボレーションの中で、私をメタ認知している私の危うさが、面白い。

こういう境地は、1人仕事の中ではなかなか生まれにくいし、1人だと行き止まりのトンネルの奥に鏡が貼ってあるような感じだけども、
私もいろいろと人と関わってゆくようなモノを作ってゆくとメタな自分が見えてくるのかしらん。
2005年09月04日
01:24
安斎利洋
>そりゃやっぱり「流れ」でしょう?

なんかものすごく深いことを言っているような気もする。

物という認識は、決して止まった感覚ではないですよね。
でも、静止画もたえず視線を動かす運動があって、それによって物を描くことができるし、流れを描くこともできるのでは?
2005年09月04日
01:28
安斎利洋
情報学環って、教官が何言おうと自分はこれがやりたいの、っていう人が少ないような気がする。論文も作品も、様式の問題であって、「やりたいこと」の焦点は別のレイヤーにあるんじゃないのかなぁ。
2005年09月04日
02:24
gilli
『やりたいこと」の焦点はもうずっと定まっているのです。
これは10年くらい変わっていません。
http://machinothope.org
その為に踏む段階や階段が、ズタズタだし、もう最近はほおってますけど。
2005年09月04日
02:32
安斎利洋
これはやりたい方向であって、やりたいことではないと思います。応援しますから、ぜひ形にしてください。
2005年09月04日
06:58
H.耕馬
> なんかものすごく深いことを言っているような気もする。

タダの思いつきです。

> でも、静止画もたえず視線を動かす運動があって、

静止画のメタファは失敗でした。

例えば、夏の砂糖菓子に透明な羊羹があります。あるお店のものは、水の中の金魚を模して作られています。その砂糖で出来た金魚は生きていません。(あたりまえですが)しかし、時間と共にこの金魚は動くんです。
(これはあくまで仮定です。)
そういった金魚マシンの環境においては、精神は無い。物質はあるけれど、動かす機構が備わっていないので、それだけでは動くハズがない。
そういった時に、もう1つ流れというファクターを入れれば動くかなと。

その仮定、前提条件が間違っていると言われれば、この話は先に進まないのです。
金魚の砂糖菓子で無くとも良いのですが、今度のメタファの方は、理解してもらえました?

別に耕馬はアートを論じるために、この話を書いたのではありません。ソラリスを見て、ああいう「お客さん」を作れ、という命令が来た時に、自分ならどうやって作るかな?といった技術者的な立場から考えて見ました。

命の無いものに、命があるような挙動をさせるには、どういう仕組みを考えれば良いか?みたいな話かな?
2005年09月04日
07:08
H.耕馬
> 物という認識は、決して止まった感覚ではないですよね。

彫刻でも絵画でも、「動」は表現出来る。それは理解してます。
でも、言いたいのはそういう「観念としての動」では無くて、「機構としての動」です。

物体を動かすには、動かすだけの仕組みが必要。でもこれまで人間が解析・理解していたハズの動かすための仕組みが全然存在しない物体がある。しかしそれは動いている。映画なんかでは良くある設定です。

これを製作する、もしくは理解するだけでも、何か流れみたいな力(機能・機構)があれば良いのかな?とおもったのでした。
2005年09月04日
07:15
H.耕馬
何かうまく描けていないなぁ。。。。
自分の思っている半分も表現出来ない。

最初に使った、「透明な金魚の砂糖菓子」はCGのVOXEL空間のイメージです。
「流れ」という言葉は、「時間の流れ」から取りました。しかし流れる実態(溶媒?)は、時間である必要はありません。

ソラリスの海という金魚の砂糖菓子では、動くハズの無いものが動いている。それは何?と考えてみました。
2005年09月04日
12:31
H.耕馬
考え、さらにグズグスに。。。。。

よく映画の中の表現に、時間を止める、ってのがありますね。
物体の動きは、時間軸の中での位置の移動ですから、時間というパラメータを止めてしまえば物体の動きは止まります。

映画では、時間を止めた張本人はチャント動いています。
以前は、「何でオメーも止まらないんだよぅ」と突っ込んでいたのですが、良く考えれば「動き」は必ずしも時間のパラメータによる関数で無くとも存在出来るハズです。

この時間でないパラメータを「流れ」と名付ける。どう?
2005年09月04日
18:54
H.耕馬
あんまり、面白く無かった?
ショボン。。。。。
2005年09月04日
19:15
安斎利洋
いまXPのトラブルで、頭めいっぱい。

現実って、なかなか思い通りに流れません。

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