安斎利洋の日記全体に公開

2006年12月30日
05:04
 未来のソフトウェア
20年ほど前のプログラムは、コマンドとパラメーターが与えられるとその都度立ち上がり、世界を構築して返した。これを第一世代とする。

インタラクティビティが考えられるようになり、計算機の資源が豊かになると、開いている窓のビューをその場で構築するプログラムが主流になってきた。

たとえば表は、エリアが開くたびにそこをドロウするようにプログラムされる。CGは、あらかじめレンダリングされた映像を鑑賞する映画から、その都度映像を描画するリアルタイムのゲームに領域を広げた。

つまり、世界は観測されたところに姿をあらわすようになってきた。これを第二世代とする。

このジャストインタイムの延長に、第三世代を考えてみる。すると未来のソフトウェアは、

世界は観測されたところに、可能な世界の重畳として描き出される。
世界は観測されたところで、世界自身をプログラムしなおす。

これはもう機械とユーザーがインターフェースで向き合うのではなくて、意識の一部のようなもの。さてこの課題を、どういうソフトウェアとしてイメージするか。
 

コメント    

2006年12月30日
09:35
小林龍生
未来のソフトウェアはコペンハーゲンに向かう!
2006年12月30日
13:10
安斎利洋
ハードウェアとして量子コンピュータができる前に、ソフトウェアがコペンハーゲンを目指すんじゃないだろうか。
2006年12月30日
15:27
コペンハーゲンってなんですか?
2006年12月30日
15:57
安斎利洋
シュレディンガーの猫が生きていても死んでいてもいいじゃないか、という考え方のことですね。

死んだ猫と生きた猫を、まるで音楽の二つの旋律を聴くように感じられる意識、を作るソフト、というのはどうだろう。
2006年12月30日
20:58
eiko
すると、Jack-inに向かう?
2006年12月30日
22:52
安斎利洋
いえ、あくまでソフトウェアに閉じた話としてです。
まずは、機械と対話する、という考え方をやめるところからはじめるべきじゃないかな。
2006年12月30日
23:04
びすけっと
なんか,最近の世代の進み方って2−3段階一気に飛び越した
感じですよね.そういう段階をちゃんと認識する前に世の中
がどんどん進化していった.15年くらい前に,複数のコン
ピュータをまとめて扱うという段階があって,10年くらい
前に,複数のユーザが一斉に使うという段階が来て,今は
各ユーザの脳の中にあるリソースの方に興味が移ってきた.

今は,手作業で複数の脳をネットワークを介して繋いで
いる段階ですが,もうちょっとましにできればいいですね.
2006年12月30日
23:18
安斎利洋
>各ユーザの脳の中にあるリソースの方に興味が移ってきた.

ある意味、コンピュータの偉さへの関心が薄らいでいる、ともいえますね。
2006年12月31日
03:08
メンタルスタッフ
自明でない、いろんな構造が「重畳」した世界をさっと「分からせてくれる」ようなソフトが欲しいですね。(Google Earthは素晴らしいソフトで、何時間も遊んでしまいますが、それでも「形」を見せてくれるだけですからね。)普通には見えないものを分からせてくれるためには、何か「普遍的」で強力な「言語」を発明して、コンピュータの力で操るなんてことが必要なのかもしれませんね。今、私たちが使うことを余儀なくされている自然言語は、将来の人類から見ると、「よくまあこんな不完全な道具で暮らしていたものだ。」などというものなのかもしれません。
2006年12月31日
04:49
安斎利洋
>「よくまあこんな不完全な道具で暮らしていたものだ。」

人間はリニアなテキストから、簡単にハイパーテキストに慣れることができたわけですが、同じようにリニアでないセンテンス、たとえばポリフォニックなセンテンスなどを使いこなすようになるだろうか。
自然言語の未来を想像するのは、刺激的ですね。
2006年12月31日
15:06
メンタルスタッフ
「重畳」に関わる言葉として、ポリセミー(polysemy)というのもあるけれど、何か、単語の「多義性」どまりで、文の意図的な多義性を表す感じではないですね。
積極的な意味で、ポリフォニーに相当する言葉ってあるんでしょうか。

だじゃれや替え歌って、「重畳」を遊んでいるものですよね。

言語表現の重畳はタブーの領域に近づいてしまう...だから可笑しい?
2006年12月31日
15:58
安斎利洋
>タブーの領域に近づいてしまう...だから可笑しい?

多義性に魅力を感じるのは、まさにそこですね。

自然言語はもともと多義性によって、世界を豊かに見せることができたはずですが、コンピュータ環境はむしろ意味をフラットにしてしまうのではないでしょうか。たとえば、対話的なインターフェースは意味をひとつに絞りこむし、XMLは表現に明確な属性を与えてしまう。

だじゃれは、音韻空間の近傍が意味空間の遠いリンクをつないでくれるわけですね。隠喩は、人が踏んでいない意味の交配の道筋を示してくれる。コンピュータでそれが起こるのは、誤変換など、つまりエラーの範疇です。

だから、ソフトウェアが対話的でなくポリフォニックな環境になるというのは、退行した言葉の豊かさをとりもどすことかもしれません。
2007年01月07日
05:21
メンタルスタッフ
J.S.Brunerが人の思考様式を「二つの思考様式」(論理的なもの:科学、直観的なもの:文学)というように分けていますが、このような二分方の意義は認めつつも、一方で、科学の中にある「文学的なもの」を過小評価してしまう結果になってしまうのではないかと思ったりもします。論理的な思考が中心であるように見える領域であっても、そこに関わる意味を絞り込むなどということは簡単にはできないのが現実なのに、それができるという幻想のもとに構築されたフラットな世界のなかでは、人はどこにも行けないというような感じですね。

 そうではなくて、重畳でポリフォニックな世界をうまく相手にしていくというイメージがよいですね。

 G.Lakoffのメタファーを中心にした世界の捉え方と関係が深いかもしれませんね。
2007年01月07日
16:10
安斎利洋
>メタファーを中心にした世界の捉え方

認知言語学は、ヒントがありそうだと思っていました。
ポリフォニックな形式というのは、潜在的なメタファーのシステムを、どう表象するかということだと思います。鉛筆をこすって紙にコインのレリーフを写し取るように、メタファーのコーパスのようなものが見えてくる言語が可能だろう、と。
レイコフ、未読です。読んでみます。

 安斎利洋mixi日記 一覧へ