安斎利洋の日記
2006年12月09日
07:04
足跡・おっぱい・書物の死
足跡に珍しい人の名前があったと思ったら、その人のブログがmixiの足跡を話題にしていた。
「ミクシィ嫌い」
http://
blog.a
-utada
.com/c
hikyu/
2006/1
2/post
_7486.
html
足跡がどうしても馴染めないという歌田さんの違和感は、かつてはじめてmixiに「足」を踏み入れたときに、僕も感じた。いつのまにかこの様式に馴染んでしまうと、むしろ足跡なしではsns的思考が作動しなくなっている。すっかり、mixiの雑踏に巻き込まれてしまったということだろう。
足跡問題は、僕にとっては「おっぱい問題」でもある。これは、対象との非対称なかかわりに関する問題系だ。全盲の光島さんにとって、「好みのおっぱい」というのは、決定的にかかわった相手のおっぱいのことである、という話を彼から聞いて、触覚と視覚の本質的な相異が、モダリティの問題ではなく社会的な問題であることに気づかされた。触覚には「垣間触る」ということがないわけだ。
視覚は、決定的にかかわらない相手に対して深く食い込むことができる。視覚は、相手の意識にのぼらない物陰の自分が、相手を垣間見ることができる。この非対称の隙間に、想像力が生まれる。ポルノグラフィーもストーカーも絵画も、同じ隙間に発生する。
視覚だけではなく、書物もテレビも、あらゆるマスメディアが、非対称の隙間の拡張だ。非対称性が、ひとりの作者に対する無数の読者を生み出す。したがってこれは、(ロラン・バルトが言うところの)テクストの問題でもある。テクストの意味は、無数の読者に放たれ、読者の中で生成される。作者とは、そのきっかけの作り手にすぎない。
足跡は、どこにも隙間のない関係を作る。見る者は、必ず見られる者になる。ここに生じるテクストは、書物の中で培われてきた視覚系のテクストではなく、触ることと触られることが同時にしか起こりえないいわば触覚系のテクストだ。
すると足跡に対する違和感の根源にあるのは、実は「書物の死」への恐れなのではないか。
コメント
2006年12月09日
08:09
小林龍生
西欧中世からルネッサンスへの流れに大きく寄与した要素の一つに、貨幣を媒介とした都市に住む人々の《無名性》が係わった云々という話を読んだ記憶がある。阿部謹也だったか堀米庸三だったか、はたまた岩井克人だったか。
足跡に違和感を覚える人は、ちょっとエッチなDVDを買うときは、クレジット払いのインターネットショップではなくって、どこか見知らぬ都市の裏通りのアダルトショップで、現金で買うんだろうな。
2006年12月09日
11:55
ikeg
ぼくは、足跡がだめなんです。で、自分のところの足跡はほとんどみたことがない。生理的に受け付けない。何時間前にアクセスしたかが分かる仕組みもいやだ。そういう意味でSNSを理解してない/参加してないのかも。いや、ほんとにたまらんわ。
2006年12月09日
11:58
ユミ
中世から近世への変わり目に貨幣の無名性というのは日本史の網野さんの本の中にもありました。
(センパイ(中村さん)の影響で最近読み直した)
貨幣で交換されることによってモノのやり取りに当然付随していた「縁」が生じない「無縁」の関係性が確立された云々。
それでいくと足跡は前近代のコミュニケーションを髣髴させて恐怖なのかしら?無縁の世界(人工の世界)に慣れてしまった私たち現代人が時折垣間見る自然本来の有縁の世界を恐れる気持ちに近い?
本名名乗らないことが最近のmixiの常識になってしまっているようなので、この恐れもなんかインチキっぽいですが。
2006年12月09日
12:43
ユミ
あ、ちがう!と今お風呂に入りながら考え直しました。
匿名性が常識となってしまったmixiの足跡は実は「垣間触る」にちかいのでは?
つまり痴漢の触り方?
2006年12月09日
14:43
安斎利洋
足跡をつけてしまう、という意味の発生だけならいいんだけれど、足跡の鬱陶しさは「足跡がついていない」という過剰な意味を発生させてしまうところなのかもしれません。
僕は、足跡は「たまらん」とは思わないんだけれど、すべてのコメントに対応をつけていくミクシィの「お作法」はたまらんと思う。それは、対応していないという過剰の意味が発生してしまうからです。そういう意味では、(^^);みたいな顔文字や(笑)も同じで、それを書かないとまるで不機嫌であるような意味が生じてしまう。
リアル空間の足跡は、つく、つかない、のような二値じゃなくて、遠くの席でちらっと聞いて帰っていくやつ、のような浅いかかわりがある。そういう無名性にちょっと希釈された足跡が、快適なんでしょう。
2006年12月09日
15:18
音の樹や連画のような、感覚的なつながりが、可視化できるのは
いいけど、mixiグラフのようなのは気持ちが悪い。ドラマの相関図みたいだからかも。
全てに対応するコメントを最初はつけていなかったけど、
旧知の友人が「無視した」というようなことを言って、
mixiを辞めたりしたので、つけるようになりました。
足跡機能をつけるぐらいなら、自分のログイン、ログアウト記録が欲しいというのは常に思っています。
不正アクセスされていても、わからないし。
私の名前が変わってゆくのは、そのあたりにも由来する。
2006年12月09日
16:06
安斎利洋
>不正アクセスされていても、わからないし。
>私の名前が変わってゆくのは、そのあたりにも由来する。
この屈折した心理は興味深いですね。普通はパスワードを変えるでしょう。
>「垣間触る」にちかいのでは?
>つまり痴漢の触り方?
「垣間触る」は、フィギュアとかじゃないのかな。
2006年12月09日
18:21
パスワードはもちろん変えましたが。
名前については、詳しく説明すると、謎のコギャル集団に絡まれたということにあります。謎のコギャル集団は核になる人物が複数のアカウントで、何役かをやっていて、私は友人とこの集団にカラまれたのですが、その時に、私のその時使っていたハンドルネームや友人のハンドルネームを騙って、こんなメールが来たとか、わーわー(実は1人?)言われたことがありました。
その時にmixiでは、名前を騙って変なコト書かれたら、ID番号が違ってもいちいち見ないし、真に受けてしまうんだろうなーと思い怖くなった。
変な名前は偶然の一致がないので、名前を騙る人を見つけやすい
2006年12月09日
19:03
Linco
> 僕は、足跡は「たまらん」とは思わないんだけれど、すべてのコメントに対応をつけていくミクシィの「お作法」はたまらんと思う。
共感する部分と、これしか反応する術が無い為やむを得ない、とも思ったりします。
> つく、つかない、のような二値
これにグラデーションがあったら、それはそれで複雑になる気もします。
2006年12月09日
21:09
安斎利洋
もし貨幣がなかったら、人間はどういう社会を作っていたか想像すると面白いんですが、たぶん軍拡とポトラッチのダブルバインドで、へとへとになっていたんじゃないか。
mixiのアーキテクチャーは、ポトラッチを誘発するようにできているから、
>これしか反応する術が無い
という罠に、どうしても落ちていくんです。2ちゃんねるの制度は、2ちゃんねる特有の「おまえら共同体」を必然的に作るんじゃないでしょうか。
たまたまこの場を作ったプログラマの数行が、ここに生じる文化を左右するわけで、これを「ロッカービデオ効果」と僕は呼んでいるんだけれど、コミュニティのロッカーの仕組みは、客人を呼ぶ主人がデザインする、というふうにすべきですね。ある日記に行くと足跡がつくけれど、ここはつかない、みたいに。
2006年12月09日
23:53
びすけっと
素人とのヌルいやり取りを望んでいない人は嫌かもしれま
せんね.僕は,そういうことも全部ひっくるめた大人の遊
びだと思っているので,できるだけここになじもうとして
ます.コンピュータを使った遊びで,これほどうまく素人
を取り込んだものはなかったですよね.
素人用にこれ以上難しくしないで欲しいです.
最近,携帯からのアクセスがただでできるようになったので,
足跡の意味がちょっと変わってきましたね.見てもすぐに
コメントをしないケースが増えてきたように思います.
GenkaというSNSじゃないブログみたいな出会い系みたいな
サイトでは,足跡が全員に公開されてました.こっちの
方が対称性が高いですね.
2006年12月10日
00:10
歌田明弘
朝から出ていて、拝見するのが遅くなりました。
Mixiは、なぜ「足あと」を作ろうと思ったのでしょうね。
MixiはアメリカのSNSを参考にして作ったのでしょうけれど、FriendsterやOrkutには「足あと」はなかったように思います。むしろインターネット以前のFirstClassのような仕組みのほうが何かありそうな気がするのですが。
私は、何だかんだ言っても、結局のところ「書物時代」の人間だというのはこのところ痛感していますが、Mixiは、インターネット以前のネットをかなり意識的に持ちこんだところはないでしょうか。
この仕組みがあることによって、明らかにネット内の距離感を変えてしまったわけで、私の好き嫌いはともかく、そういう意味ではうまい仕組みだと思います。
「やだな」と思って近寄らないことも起こるかわりに、「足あと」を見る、見られる関係ができて、ただあちこち見てまわるだけで、一種のコミュニティができてしまう。
だから、安斎さんが、「違和感は、はじめてmixiに「足」を踏み入れたときに、僕も感じた。いつのまにかこの様式に馴染んでしまうと、むしろ足跡なしではsns的思考が作動しなくなっている」というのはよくわかりますし、私ももっと使っていれば、おそらくそうなったと思います。
最初の違和感を超えて使えば、「Mixi中毒」とか言われるようなヘビー・ユーザーを生みやすい仕組みになっているわけですね。
「MixiはアメリカのSNSのただの輸入品でしかない」といったことになりかねないところを、(どこかのSNSのパクリでなければ)「足あと」ひとつでオリジナリティを獲得した、ということは言えるんじゃないでしょうか。
2006年12月10日
00:26
ikeg
なるほどね。現実世界の側で、この人は何度も見に来てるとか、書くと速攻で見に来る、といった形でそのことが会話にかなり登りやすいのは、割と不快です。最近見に来てないけど?なんてメールまで来たりする。しかしmixiが広がったのはその所為かもしれないですね。
2006年12月10日
00:52
Fibonacci
参加者全員の行動はすべて記録され、その記録に誰でもアクセスできる状態が好ましいと考えています。足跡ログは7割方は保存しています。見返したことはありませんが・・・
2006年12月10日
04:57
安斎利洋
こうやって引っ張り出されるから、mixiは嫌ですよね。歌田さん(ホストクラブじゃあるまいし)指名、失礼しました。
それにしても、フォマールさんの足跡を保存する話や、びすけっとさんの「足跡を全員に公開」というのにくらべると、僕のmixiゲームへの巻き込まれ方は、まだまだです。すべての人のmixiサーバーへの行為記録がすべての人に開かれている、というのは別世界です。居心地の問題とは関係なく、そういう人工社会の実験はしたいと思う。
足跡はmixiのオリジナルではなくて、どこかのsnsのパクリだと、以前誰かが書いていたのを覚えているのですが、誰がどこで書いていたのか思い出せません。unix の who から考えると、非常に斬新ということはないと思う。それはどうでもいいことですが、これだけ足跡の仕組が受け入れられているのは、もっと深いところに既存の「型」があるはずです。たとえば人間の白目が、見るだけでなく、どこを見ているか相手に表示するために発達した、というような話(『読む目・読まれる目』遠藤利彦 など)に答を求めることもできるんじゃないでしょうか。
たまたまこのページにつながっている人の、どの方とどの方が知り合いなのかよくわかりませんが、面白いことにそれぞれ強い「私」をもっている方ばかりで、それぞれ異なる足跡観をもっているのが面白い。強い「私」にとって、「公共」は巻き込まれる以前にある像をもっていて、つまり「公共」はひとつではなく、「公共」は「私」の数だけある。
足跡の話題が日常にのぼるのが嫌だ、というのは同感です。マイミクという言葉も嫌い。mixiというデザインの上にひろがった、単層の公共の中で生きている感覚が嫌です。snsは、それぞれが自分の公共ゲームを設計する開発環境であるべきだと思う。
2006年12月10日
14:50
中村理恵子
フォマールさん
>足跡ログは7割方は保存しています。
簡単なプログラムつくった?それとも手作業ですか?
ところで、最近は見ず知らずの人の足あともぐっと増えてきましたが、かならず追尾ですか?相手のプロフィール画面にアクセス?
足あと一覧が、単なる文字列じゃなくて、そこにリンクが仕組まれていて機能するでしょ。足あとといっても、そこに自分へのアクセス機能を残してくる;踵をそのまま残した状態なわけだからなかなか複雑です、事態は。
2006年12月10日
16:23
klon
恐らくゼネレーションギャップの問題が大きいですね笑
プライベートという感覚は恐らくどんどん希薄になっていると思うのですが、mixiに関して言えば40歳くらいを境に断絶がある。
すごくハマるのも足跡やマイミクと言う言葉に嫌悪を示すのも、知っている限り40歳以上の人が圧倒的に多いです。
僕は死ねだのクソだのsnsではない普通のblogや掲示板で書かれているので気になりませんが笑
2006年12月10日
17:19
klonさんのいうギャップがほんとうだとすると、
それを決定づけたのは何かしらん。
ポケベル?
2006年12月10日
19:44
安斎利洋
これをジェネレーションの問題にしてほしくないな、ということを言いたがるジェネレーションであることは認める。
2006年12月10日
20:54
klon
>安斎さん
爆笑しました。
いや、ポケベルとか裕木奈江とかそういう問題じゃないと思いますよ笑
2006年12月10日
23:06
歌田明弘
安斎さんは、年の問題にするのは反対、だと思っていました(笑)。
でも、そこがミクシィにはまれるところですね。
私は、逆に、ジェネレーション・ギャップはもはや抜きがたくあって、それは30代と20代のあいだだってあると思います(パソコンでウェブにアクセスし始めた世代と、ケータイでアクセスするものだと思っている世代では違いますね)。
これだけすさまじい勢いで情報環境が変わっているのだから、当然ではないでしょうか。
40代以上(ともう何年も前から言われているので、世代はもっとあがってきていると思いますが)はやっぱり、書物時代の人間というのが圧倒的ですね。
正確に言うと、私の場合は、本を読んで育ったことより、印刷物に書いてきたことの影響のほうが大きいように思います。ミクシィ以前に、ネットに書くことそのものがどうも馴染めないと、このごろになって思い始めました。
まあ結局のところ、慣れの問題、というところは大きいとは思いますが。40代以上だって、ケータイでウェブに書きまくっていたら、そのうちケータイ世代の感性になるでしょうけど、問題は、それをするかですね。
2006年12月10日
23:50
びすけっと
足跡と,
> すべてのコメントに対応をつけていくミクシィの「お作法」
に関する別の視点.
今までのWebは発信するのはできるんだけど,それを
読んでもらう方法が消極的だった.ただひたすら待つのみ.
釣りみたい.
ブログでトラックバックをし合うとか,ミクシィの
足跡やコメント一つずつというのは,積極的な宣伝活動
だと思います.自分の文章を読んで欲しいから他人の文
章にコメントをする.こまめにコメントをすることで,
自分のコメントアップにつながる.いろんな人に足跡を
残すことで自分にも足跡を残してもらえる.
僕が足跡に関して嫌な思いをしていないのは,僕の会社
のmixi普及率が圧倒的に低いからかもしれません(爆笑).
2006年12月11日
00:21
うさだ♪うさこ
足あと、おそろしいですよね。
興味本位だろうと悪意だろうと、そこを一目見に行ったら、見たことが分かってしまうし、何度も見に行ったら、その人の胸の内でなにかが燃え盛っていることが分かってしまうし。
そういえば、むかし、ネットワーク会社にいたころ、そこの若者の一人が、SNSというものを見つけてきてレポートしていたのですが、その当時とても印象的だったのが「すごいんですよ、人が人を誉めているんですよ」というところでした。
もし、むかしのパソ通みたいなコミュニケーション形式で、「足あと」があったとしたら、それって争いの火種にしかなりえなかったかもしれないですが、SNS=ほめる だから成立できたのかもしれないですね、足あと。
2006年12月11日
01:38
安斎利洋
>書物時代の人間
書物紀の生物、って感じですね。僕は16歳の頃に、歌田さんが編集長をする前のユリイカの投稿少年だったから、もともとコテコテの活字信仰です。歌田さんも小林さんも、書籍システムの中枢から飛び出した人たちだから、現在がどうあれ、思考の根っこは本の影響から自由にはなれないでしょうね。
世代論は馴染めないけれど、ぬぐいがたい文化的環境の影響というのは認めざるをえません。ウィトゲンシュタインの私的言語の論法にならうなら、もし全員がピカソの民族がいたとしたら、その民族に天才ピカソは生まれない。個性というのは多数派のコンプリメントにすぎない、ってことはあります。だから、電子メディアのことをどうしても僕らは本の反転画像として考えているのかもしれない。
2006年12月11日
01:49
安斎利洋
>(爆笑)
確信犯的笑い?
律儀なコメントが系全体の活性を高めるのは、時候の挨拶のようなトリビアルなやりとりが大事だというのと同じで、それはみとめます。ステレオタイプの中から、詩が突発的に生まれるのだし、母親から「ちゃんと近所の人に挨拶しなさい」って言われ続けてきたし。
でも、僕は mixiの隠喩体系の設計が、いまいち気に入らないんだな、きっと。mixiを自分が作らなかったことが、残念でならない(と思っている人は多いに違いない)。僕が作ったら、もっと会員数が少なくなったことだけは確かですが。
>SNS=ほめる だから成立できたのかもしれないですね、足あと。
足跡があるために、褒め合うスタイルが生まれる、という因果関係じゃないかな。
褒め合いの中だと、ホンモノの敬意を表現しにくいのが嫌だな。
2006年12月11日
07:43
びすけっと
mixiがどこまで考えて設計されているか.
足跡って,一人は1日1回しか付かないですよね.
何度も見に来ても,ちらっと見ただけでも,同じ扱い.
これってプログラム的には面倒なので,この仕様には
理由があるはずなんですが.笠原さんのインタビューを
聞いても,そういうすごさをあんまり感じない.
単に裸のログだと見づらいという理由だけなのか.
もしかしたら直感的に考えたことがピタッとはまっ
た大天才なのか.
> mixiを自分が作らなかったことが、残念でならない
ほんとそうです.
昨日4人で飲んだのですが,足跡好き/嫌いは半々でした.
そろそろmixiに変わるものが望まれているのかもしれま
せんね.
2006年12月11日
12:15
初期のうちは、足跡、何度も来る人のがいちいちついてましたよ。
日記も現在はマイミクさんのうちの最新日記のみがあがるようになってますが、最初は、マイミクさんの日記が全て、更新順にリストにあがっていたので、日に何本も日記をあげる人がいたら、全てその人の日記のタイトルばかりになっていたりして、そういう人は他の人から、一本にまとめたらどーだとか言われたりしてました。
それに最初のころは、mixiからアカウントが抜けると、コメントも一切消えたりもしてました。それは、さすがに弊害が多いのでスグに改善されたようですが。。
2006年12月11日
13:32
うさだ♪うさこ
あ、今は一日一回ですね。興味のある話題のところって、何日も通ったりしちゃいますが、どの日記を読んでいるかまではわからないか。
でも、場合によっては、タイトルに地雷が入ってて、「まさか、うしださんが最初に読むとは」とか言われたりすることも。相手が親しいお友達でなければ、結構へこむかも。
2006年12月12日
11:23
メンタルスタッフ
>> mixiを自分が作らなかったことが、残念でならない
>ほんとそうです.
...
>そろそろmixiに変わるものが望まれているのかもしれま
>せんね
PtoPの枠組み使って、できないでしょうかね。
ユーザーインターフェイスは、好みのタイプをハックして、いくつかプロトタイプが提供される。中にはカスタマイズもしやすいものもある。
未踏のプロジェクトなどでやるのが適当そうですね。
足跡があることの影響、いろいろあるのでしょうが、「理論」から予測するのは難しいことの一つでしょうね。実態を調べることすら難しい。
私自身は、「見ない」という態度を取っていました。たぶん、
いろんなことを考えてしまうのが面倒な感じがするからだと思います。
1年半ぶりぐらいに自分のところの足跡見てみましたが、周辺的に知ってる人かなと思うと、その人のホームを見に行きたくなりますね。
2006年12月12日
12:42
歌田明弘
「何度も見に行ったら、その人の胸の内でなにかが燃え盛っていることが分かってしまう」(うしだうさこさん)というご意見がいちばん私の「足あと嫌い」の核心を突いているような気がしました。つまり、「足あと」って、心を読まれてしまう仕組みなんですよね。それがいやだと思ったわけです。
そこまで考えることはないかもしれませんが、「いろんなことを考えてしまうのが面倒」(メンタルスタッフさん)なんですよね。
いまごろ気がついたのかと言われそうですが、「足あと」のようなつながりを作る仕組みは、安斎さんや中村さんがずっとやられてきた連画をはじめとするプロジェクトと似ていますよね。
安斎さんが、「mixiを自分が作らなかったことが、残念でならない」というのは、そういう意味でよくわかります。
ただ、安斎さんだったら、「人の心を読みあう」仕組みを作ったでしょうか。
2006年12月12日
19:35
安斎利洋
「行列のできるラーメン屋には行列ができる」というポジティブフィードバックが、mixiを作った。しかし、mixiの設計に成功の理由があるとするなら、それは「毒性の強すぎるウィルスは宿主を滅ぼすので広まらない」という原理をうまく避けているからだ。
というのが、僕もふくめて多くの人の理解なんじゃないでしょうか。これと似たことは、市場ではよく起こります。だから、mixiに代わるものを作るのが大変なのも、市場から学べますね。
こういうことができないかなと思っているのは、DNAからRNAがするように、mixiを転写するソーシャルネット。mixiのIDとPWを設定すると、個人認証もマイミクのトポロジーも、みんなmixiから写してきてしまう。ただし、自分のブログは自分で設計できるようなオープンなシステムにする。サーバーと連携するピュアでないP2Pがいいかもしれない。
2006年12月12日
20:13
安斎利洋
>心を読まれてしまう仕組み
それは、「推敲されていない心」が露出してしまう、ということじゃないでしょうか。
足跡は、より大きい問題の一部で、それはネットワークが「私を作る仕組み」をもっていないということなんじゃないか。ブログや日記を読んでいると、そう感じることがあります。
書物にしてもアカデミズムにしても、エラボレーションの機構がビルトインされていて、だから原稿用紙に向かうとほっとするんだと思う。触ることと触られることが同時にしか起こりえないメディア(足跡のような)のなかで賢くふるまうのは、非常に熱量を必要とする。
SNSと連画は、人がつながってコンテンツが生まれるという点では同じだけれど、連画は自分が作者になること以外に完璧な読者になる方法がありません。つまり、作品をつけることが足跡です。そういう意味で連画・カンブリアンは、mixiの足跡とは正反対の覚悟を要求する仕組みです。だから、僕はmixiが気になってしかたないんだと思う。自分に近い問題に、遠い解決を与えているから。
少なくともこの日記に連なるコメント列は、エラボレーションの成果ですね。必然的にこうなるような、SNSが欲しいと思うわけです。
2006年12月12日
23:20
メンタルスタッフ
今のMixi、議論が、時間が経つと、現実的にアクセスできなくなるという一点だけでも不満ですね。昔のnewsグループの議論(comp.ai.philosophy,fj.aiなど)は今でも少なくとも検索は可能です。議論のエラボレーションという観点からすると、昔のニュースのシステムにちょっとだけあったものも、Mixiではなくなってしまって、不思議なことに退化したシステムを使うことを余儀なくされていますよね。
エラボレーションという方向だけでも、いろいろな可能性を探っていけそうですね。ただ、いろんな点でMixiとの連続性は大事でしょうね。議論の場が日常のお茶のみ話の延長にも存在できるということも大事なことなのかもしれません。
特定の側面だけに注目して議論の場を限定してしまうと、議論を維持していたエネルギーが供給されなくなってしまうというようなことも起こりそうです。
2006年12月13日
13:00
安斎利洋
>議論の場が日常のお茶のみ話の延長
ニューズグループにしてもパソコン通信にしても、テーマに人が集まってくる構造だったから、そこに「私」を話題にする必然はあまりありませんでした。
ブログやソーシャルネットは、人にテーマが集まってくる構造なので、「私」の日常茶飯がベースになる。この過剰な一人称が、SNSの新しさでもあり、嫌悪の原因でもあるんでしょう。
だから、面白い日記は一人称を三人称に外すスタイルをもっている。mixiにはコミュニティがありますが、あれを日記に回収する仕組みを作るといいんじゃないかな。
2006年12月14日
01:26
メンタルスタッフ
検討すべきは、いろんな「回収の仕組み」かもしれませんね。
ここの議論だけだって、回収したいことたくさんあるのだけれど、切り取って整理してたりしたら日が暮れてしまう感じがします。といって埋もれてしまうのはもったいない。
唐突ですが、テキストを読んだときに、「そう、そう」と思ったら、マーカーでするように印をつけておく。自分のマークしたところ集めたりすることで、少しは簡単に回収できたりするかもしれません。Viewによっては他の人がつけたマークも見ることができるというようなのも面白いかもしれませんね。マークを他の人が見えるようにするかどうかは、オプションにしておくのでしょうね。「覚悟」のちょっとしたコントロール。これは、一種の足跡で、誰に見えるようにするかもオプションにすると、微妙なコミュニケーションが成立したりするのかもしれませんね。
だんだん、エラボレーションの結果など大事なところを回収したいという路線からは、ちょっと脱線かもしれませが。。。
2006年12月14日
17:04
安斎利洋
自分の記憶のためのマーカーが、足跡として共有されるというのは、すごくいいですね。
自分がマーカーをどう整理しているか、というのも自分の日記になり、その日記も他人のマーカーの対象になる。
三宅さんらしいモデルです。
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