安斎利洋の日記全体に公開

2005年07月27日
23:17
 おっぱいを触る
なささんの『触ること』を受けて。

7年前、全盲の画家光島貴之さんと、おっぱいについてメールでこんなやりとりをした。「触ること」と「見ること」の非対称な循環について、深く考えさせられる。

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At 21:42 98/11/17 +0900, 光島 貴之 wrote:
> 視覚的に
> いろんなおっぱいを見てきた人には、さりげない話題かも
> しれないけど、僕にはこれまで触ってきたおっぱいの歴史
> というわけで、サラっとはしゃべれない。猫のおっぱい・
> ブロンズ・女性も含めても数少ない中から思い起こすには
> 匿名性がなくて、生々しすぎるのです。

光島さんにこの話題を振った直後に、このことが触るということの本質と
深くかかわる話題だということに、気づきました。

見るという行為は、匿名でありうる。しかし触るという行為に匿名性は
ありえない。
見るということは、見る者も見られる者も匿名でありうるけれど、触ると
いうことは、かならず対象にかかわることなんですね。

触れること触られること、この密約関係は常に表裏一体で離れることが
ないけれど、見ることと見られることは一対一とは限らない、多対多の
複雑で、なおかつ希薄な関係です。

大岡信の詩に、「さわる」というのがあります。はじめの節だけ引用すると、
「さわる。/木目の汁にさわる。/女のはるかな曲線にさわる。/
ビルディングの砂に住む乾きにさわる。/色情的な音楽ののどもとにさわる。/
さわる。/さわることは見ることか おとこよ。/」

おっぱいに限らず、見るということは、いつも触ることを目指しているの
だと、最近強く思います。

安斎
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コメント    

2005年07月28日
00:00
男性と女性が感じる神秘性の相違という点に関して、この感覚は面白い議論になるかもしれませんね。
2005年07月28日
00:15
miyako/玉簾
どんなに怒っていても、土を掘ったり、はっぱに触っていると、その事に夢中になります。さわってて気持ちがいいからなんでしょうね。土の匂いもいいです。特に、掘っている時や触れている時の土の匂いがいい。鎮静作用があるのかも。
2005年07月28日
01:08
やすこ/C
PCで、画面の中の「触れない」ものを引っ張ったりこすったりしているとすごく疲れます。
きっと、自分の力の入れ具合と画面の中の動きの強さがリンクしていないからなんだろうなあ。
そういうとき、ぬかみそに手を突っ込むと目を瞑って「はああ」とため息が出ます。ひんやりしていて気持ち好い、だけじゃない何かです。
2005年07月28日
01:19
安斎利洋
土もぬかも、触っているというより、触られているんでしょうね。
「マチスましーん」でやっていることを、すべて電子的に置き換えられないか、というふうに考えるんですが、それは違うのかもね。紙を触っていないとダメなのかもね。
2005年07月28日
02:41
この日記自体の感想を書き忘れました。

「見る」という観察者のフィルターを通したとき、そこに引っ掛ったものは考察の対象となり、スルリと通り抜けたものは快感、もしくは触覚として感じるのではないか。

「マチスましーん」では、フィルターに引っ掛ったものを、スルリと抜け出す対象に変換するイメージ作りをしているのかも知れません。

こう考えると、「マチスましーん」で実践していることは、
「見るということは、いつも触ることを目指している」
とは、少し違う概念なのかもしれません。

という感覚が、私のフィルターに引っ掛りました。
2005年07月28日
03:27
安斎利洋
>引っ掛ったものは考察の対象となり、スルリと通り抜けたものは快感、もしくは触覚として感じる

僕はむしろ、触覚として感じられるものしか引っかからない、触ろうと思うものしか見えないんじゃないか、と思います。

星座作用から得たのは、「描こうと思うようにしか見えない」ということで、きっとこれも同じことのように思う。
2005年07月28日
07:20
HAL_♪I'm the one.
光島さんのおはなし、とても興味深いです。

五感のうち能動的なものは「触る」「味わう」
受動的な物は「見る」「聞く」
中動的な「嗅ぐ」
デジタル情報が今つたえられる物は受動的な物だけなのですね。

そう言うところから考えると「マチスましーん」は一歩踏み出したと言えるのでは。私には具体的にどうなっているのか良くわかりませんが興味深い事です。
2005年07月28日
10:58
miyako/玉簾
ある病院で見た光景。
5才位の全盲の男の子が親といた。
そこに3〜4才の子供が現れた。
全盲の子は一緒に遊びたくて仕方ない様子で、
走り回る子たちの気配を気をつけて追っかけていた。
そして、「さわってもいいですか?」と言った。
その子たちに触れていた。
『ああ、この子はこんなふうにしてこれからいろいろな物に触れて理解を深めて行くんだな、たいへんだなあ。』と思ったよ。でも「さわってもいいですか?」という質問、ずーっと耳に残っています。
2005年07月28日
12:11
中村理恵子
>でも「さわってもいいですか?」という質問、ずーっと耳に残っています。

わたしは、よく光島さんに「みてみて。」とかいうと、
「どれどれ。」と光島さんが触ってました。

彼にとって、「みる」、とは、触ること+α(においや気配など)。

わたしも、彫塑なんかやってて、どうしても網膜的に「みる」ことに限界感じると、モデルさんにお願いして触らせてもらって「みる」ことを続行します。

わたしと、光島さんにとって「みる」=「つくる」であるということ。
つくりのために、どのセンスを使うか?
視覚的にみるのか?触覚的にみるのか?
はたまた、その間の2.5次元でみるのか?
とてもそのへんの塩梅が、曖昧であることわかりました。

視覚世界と、触覚世界の違いというのか?そこに思い至ったことが、お互いに愉快でしようがなかった。
なにも遠方の言葉や国の違う人々と連画するばかりが連画じゃないな。
こんな身近に、違う文化に生きる人がいると深く深く感動した出会いでした。
2005年07月28日
14:45
>>引っ掛ったものは考察の対象となり、スルリと通り抜けたものは快感、もしくは触覚として感じる

>僕はむしろ、触覚として感じられるものしか引っかからない、触ろうと思うものしか見えないんじゃないか、と思います

画用紙から切り取ったものか、もしくは、切り取られて残ったものを「見る」のか。
どちらも「触ってみる」ことに変わりなく、まさに鏡面像かもしれませんよ。
2005年07月28日
15:01
なさ 飛鳥井
安斎さんの言葉はいつも刺激的ですね。
みなさんのご意見も興味深かったです。

リニアな思考ができない人間なので、気がついたことをぱらぱらと。
(長くて申し訳ないです)

視覚の受動性と触覚の能動性。
触覚の能動性に関しては、触られることの「受動触」と触ることの「能動触」の違いの研究があり、受動触は感覚的な側面、能動色は対象の知覚的側面があると
言われています。
しかし、触られることは触ることであり、触ることは触られることであり、受動触と能動触は不可分だとも言えます。

視覚の受動性に関しては、ちょっと疑問に感じていました。
確かに、見られることは見ることではないし、見ることは見られることではありません。
しかし、人間のように視線の検出能力が進化した動物にとっては、視覚も能動的な要素が強いと思います。
つまり、見ることは外界を認識する受動的な行為だけでなく、視線によって相手に影響を与える能動的な行為とも捉えることができると思います。
人間の白目と黒目がはっきりと分かれているのは、視線の検出が容易にできるように進化したからだと言われています。
また、視線を親密さの非言語コミュニケーションとして用いるのは、人間を含めて僅かの動物しかいないそうです。
一部の人間もそうですが、サルとかの動物においては、視線は攻撃の非言語コミュニケーションだと捉えられています。
つまり、見られることは攻撃される可能性が高いということです。

視覚が触覚よりも匿名性が高いという指摘は興味深いですね。
これは社会的動物に関して言えることではないでしょうか。
社会的動物は、個体距離と社会距離という二つの距離を持っています。
個体距離はそれ以上近付かれたくないパーソナルスペースの距離、社会距離はそれ以上離れると相手との繋がりが失われる距離です。
社会的動物は、この個体距離と社会距離の間で生活しています。
この距離の知覚は視覚が中心だと言えそうです。
ただし、交配のための異性との接触などは、個体距離よりも近接した触覚による非言語コミュニケーションとなります。
このときには、相手を同定する必要があり、匿名性が失われるのは確かです。
一方、社会的動物のような非接触性動物ではなく、ヤマアラシみたいな接触性動物にとっては、触覚にも匿名性があるのではないかと思います。
2005年07月28日
21:26
安斎利洋
現代人は、生身の人間を対象にするよりポルノグラフィに欲情するチャンスのほうが多いんじゃないだろうか。

一方で、満員電車で通勤する人たちは、匿名の身体にもまれるチャンスのほうが、インティメイトな接触よりも多い。

こういう逆転した視覚触覚環境のなかで生きていると、人類はだんだん変質していくでしょうね。1万年後の人類は、白眼がなくなったりして。

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