安斎利洋の日記全体に公開

2006年11月02日
21:55
 いじめという言語ゲーム
いじめ自殺の報道で、学校管理職の醜態を毎日のように見せられているけれど、一方で校長を追い詰めていく報道や、それを見て怒っている僕らの気分に、いじめに似た空気を感じてしまう。

もちろん、いじめられっこは弱者で、校長は強者。いじめられっこに非はなく、校長には非がある。しかし、非とは何か?

いじめは、心の問題でも教育の問題でもなく、「是」の共同体を生産するために、「非」の基準点を生産する言語ゲームだ。「非」に根拠があろうとなかろうと関係なく、相対的な「是」を作るために「非」の生産は繰り広げられる。同形のゲームは、職場にも政治にも家庭にもある。

いじめは人間の本能だからなくならない、とか、いじめをなくすためには監視と管理を強化するしかない、という意見があるけれど、それは違うと思う。いじめゲームを対象化するような上位のゲームを作れば、いじめゲームは絶対ではなくなる。

茨城県筑西市立下館中学校で、10年前から生徒会が有志を募り、いじめをしないさせない許さない「君を守り隊」をつくり、いじめゼロを実現した、という話がある。
『君を守りたい―いじめゼロを実現した公立中学校の秘密』
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4022502215

この話が本当なのか、いじめは観測できないだけじゃないのか、などいろいろ疑問はあるし、これが管理強化の成果であるという筆者の視点にも納得できないが、おそらくこの話を解く鍵は、いじめのメタゲームを作る、ということじゃないだろうか。
 

コメント    

2006年11月02日
22:48
MATANGO
>いじめは人間の本能だからなくならない

本能というより「言語ゲーム」だというのは「ほんとにそうだな」と思いました。

「是」「非」にわけるのは、「本能」よりはもうちーと、いはば「理性」でやってることだろう。

それでできた「鋳型」に、「怒り」やら「キモイ」...などなどの「感情」を注ぎ込む...それでけっきょく出来あがりは「本能」であるかのように見えるんだろうと...。

「リアル」は、もっと「あいまい」なものだろう...。

ところが「あいまい」を許さない「近代」というようなものがはさまって、「白黒はっきりさせる」のが「リアル」に迫る唯一の正しい手段であるかのように思う時代が、実に長く続いた...。

いまだに、「白黒はっきり」が「最上」であると信じている人は、案外多いんではないでしょうか?

実際、「白黒はっきり」に偏執狂的にこだわるワカモノが異様に多いような気がして...ほんと困ることがあるのです...。
2006年11月02日
22:53
いじめっこをいじめるゲームと本質的に等価なんですね
2006年11月02日
23:08
安斎利洋
>「鋳型」に、「怒り」やら「キモイ」...などなどの「感情」を注ぎ込む...
>出来あがりは「本能」であるかのように見える

心はあとからついてくるんでしょうね。
嫌いな子をいじめるわけじゃなく、いじめるから嫌いになる。
2006年11月02日
23:38
MATANGO
「いじめはあった...とはいいきれない」とい言いはっていた校長先生は...ある面「科学・理性」に準じていた(殉じていた)面があるのではないでしょうか?

厳密なる失笑精神....あれま、打ち間違い...実証精神からいうならば、「あった...とはいいきれない」....それはたしかに「正しい」....。
2006年11月03日
00:01
みまぞう
最近の疑問:

いじめ問題、単位不足問題における「校長たたき」はもうひとつのいじめではないのか?(尻馬にのっている「たたき」やたたいているふりをしないと自分がいじめられるという構図はあるような気がする。)

ボーダフォンへの苦情の嵐は「いじめではない」といえるだろうか?

マスコミ自身が気をつけないと、巨大ないじめ機構となりうるものであり、いまや、まさにそうなっているのに、気づいていないのではないだろうか?

うむ。すくなくともそういうことに関するメタな議論はあまりなされていないのはなぜだろう。
2006年11月03日
00:05
安斎利洋
>マスコミ自身が気をつけないと、巨大ないじめ機構となりうる

僕もそう感じます。
いじめる側の内部にいると、いじめは正義の発動に思えてしまうからじゃないでしょうか。
2006年11月03日
00:41
みまぞう
「いじめは正義の発動」

いじめっ子は、いじめを自分の意識から除外するわけですね。「いじめ」の基本は「いじめてなんかいないもん」であるところに基本的な構造があるのかな。

朝のニュース番組の某司会者なんかは、まさに「いじめはいかん」といって「いじめてる」ようなきがする。
2006年11月03日
00:51
安斎利洋
いじめる側は、いじめの形をテレビの中から学習しているんじゃないでしょうか。バラエティもドラマもニュースもいじめの文法に満ちているから、日常的なことだと感じているんじゃないか。

いじめ報道では、肝心の「いじめている側」の顔が出てきませんね。まあ仕方ないんだけど。でも、匿名でモザイクかけて声を変調してでいいから、いじめっこの言い分を聞いてみたいですね。いじめている意識があるのかどうか。いじめる方法は独創なのか真似なのか。
2006年11月03日
00:55
MERC
>いじめる側の内部にいると、いじめは正義の発動に思えてしまうからじゃないでしょうか。

激しく共感

しかし、マスコミ報道と、いじめを含む集団の中で起こっている事が同等の物だとは思いません。
少なくともマスコミ側には、(正義の使者面した)偽善者の記者がいるように思えてなりません。

いじめっ子の心理としては、安斎さんの指摘通り>「嫌いな子をいじめるわけじゃなく、いじめるから嫌いになる。」
でしょうが、それを報道するマスコミによるバッシング(いじめ)は、いじめてやろうと思うから、(世論が)いじめやすいような記事を書くといった、確信犯的な物がありますね。

2006年11月03日
01:06
安斎利洋
>マスコミ報道と、いじめを含む集団の中で起こっている事が同等の物だとは思いません。

MERC説も、その通りですね。マスコミといっても、テレビの報道局とワイドショーは別ものなんでしょうけど、だんだん区別がなくなってきました。ワイドショーは怒りの対象を見つけるゲームで、怒ることのできるドラマさえあれば、相手がなんでもかまわない、みたいなところがある。
2006年11月03日
01:06
この問題で一番気になるのは、でも『死ぬのは絶対ダメ』ということを強く子供に伝えていないのではないかということです。

ゲームから逃れるには辞めてしまうということも選択肢にある。
2006年11月03日
01:11
安斎利洋
むしろこれだけ騒ぐと、死ねば復讐になる、という舞台装置になってしまう。
2006年11月03日
01:18
MERC
高校の未履修問題で、わが命を添えて、一筆献上と言って自殺された校長の御霊が、日本の教育界の呪縛霊として、荒ぶる崇り神として、長く恐れられんことを。
このような人身御供はもう勘弁してほしい。
2006年11月03日
01:23
たんぎー
 学校の「いじめ」には「〜すればいじめが終わる」という解答がありません。死ぬまで終わらない。ゲームとしては残酷です。「校長へのいじめ」は引責(辞職でもいい)でエンドです。逃れることは可能です。民間出身の校長のなかにはトラブルが起きるとさっさと辞めた人がいました。これはルールどおりです。

 今回の騒動でも「辞職したら家のローンが」とか「子供たちへの申し訳がたたないままの辞職は出来ない」というのは頭が悪すぎる。例えば自殺した校長も解答方法を誤解していたんだと思いますね。
2006年11月03日
01:27
安斎利洋
>死ぬまで終わらない

僕はそうは思いません。いじめる側は、救いがたい悪人なのだろうか。きっと、メタ認知ができない「頭の悪い」やつなんだと思う。頭をよくする、つまりいじめをメタ認知するプログラムを考えるべきなんじゃないかな。
2006年11月03日
05:47
あおいきく
>メタ認知ができない

同感です。
たとえばニコラス・ハンフリーの「自分が傷つけた相手に、それゆえに敵意や嫌悪を抱く」のような心理学的視点から、自分たちの行為について、ちょっと頭を冷やして考えさせる方法もあるのではな
いか。
PTAまっただ中に突入中なので、全く人ごとではありません。
2006年11月03日
06:40
あおいきく
福岡の事件は、いじめていた少年が自殺した後、同じグループがさらに別の子をいじめていたようです。
http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2666272/detail
次々に生け贄を求める荒ぶる魂。
2006年11月03日
12:27
安斎利洋
こういうのを読むと、ぶん殴りたくなりますが。

ナチさんが、星の王子様に出てくる呑兵衛星人のことを書いています。
「恥ずかしさを忘れるために飲んでる」
「何が恥ずかしいの?」
「酒をこんなにのんでるのが恥ずかしい」
どうしても誰かをいじめていないといられないという、パチンコから抜けられない、万引きから抜けられない、というのと同じような悪循環がいじめの正体かもしれない。このループを、どう外化するかですね。
2006年11月03日
14:21
H.耕馬
>でも『死ぬのは絶対ダメ』ということを強く子供に伝えていないのではないかということです。

昔もいじめはあったと思うのです。しかし、こんなに多くは自殺に至らなかったのは何故?
もしくは、関心が無かったから報道されなかったダケ?
2006年11月03日
20:07
報道されなかったというのもあるし、
いじめられても子供が多かったから大抵はクラス替えすればそこで終わったのだと思う。逆境に耐える心が強かったのか。。

虐められっ子になったことがありますが(横浜から愛知に引っ越した時。言葉づかいが気取ってるとかそんなことから)3、4、5と次第に酷くいじめられて(特に男子から)
最後の5年生の時は、先生も一緒になって学級裁判のようなものでつるしあげをくらいました。それでも仲良くしてくれる子はいたりしたのは救いだったし、自分が間違ったことをしていないという信念があったので、学校に行くのが嫌になるということはなかったのです。タマタマ引っ越しでその学校を転校して次のところでは友人が沢山できたけど。中学で、いじめた子達とまた同じ学区になったけど、12学級もあるようなマンモス校だったし、何人か一緒のクラスになった元いじめっ子軍団の下っ端よりも勉強が断然できたので良かったのです。いじめっ子やいわゆる不良といわれるような子をちゃんと叱ったりするようなところじゃなくなっているのかも>学校。

でも学校は必ずしも行かなくてもいいし、学校の中なんてすごく小さな世界なんだし、広い世界がキミを待っているんだよと、自殺寸前の子に伝えてあげたい。。
2006年11月04日
00:50
安斎利洋
>こんなに多くは自殺に至らなかったのは何故?

あくまで仮説ですが、自殺という解決が、自殺をめぐる回路に組み込まれてしまった、ということじゃないでしょうか。

自殺する子どもの書く遺書は、ひろく読まれることを、ひょっとすると報道されることを自覚しているふしがあります。いじめる側も、自殺者が多いことを知りながら死ねというメッセージを送っている場合がある。

死に追い込む意図のあるいじめは、殺人と同罪で、ちゃんと断罪すべきです。それから自殺した子どもの安易さを、叱咤するような論調があってもいいんじゃないか。
2006年11月04日
01:12
H.耕馬
一般論ですが、純粋培養したせいで、心が極端に弱いんじゃ無いかなぁ。

昔は、床に落ちたお菓子を拾って食べても、友達からイジメられたりしなかったケド、今なら絶対ダメだよね、そんなハズレた事したら。ともかく、「ハズレル」という行動なり状態を、イジメる側もイジメラレル側も極端に嫌うんだよね。

別にガッコに友達1人も居なくとも、別に死ぬこたあ無いと思うのはダメ?イジメル側だって、1人でやったらハズレている事になるっしょ?それは絶対にやらない。

群れていないと不安なんじゃ無い?
2006年11月04日
01:57
安斎利洋
今の子はダメで昔の子は良かった、という話は常に出てくるんですね。なぜなら、子どもの文化は常に新しいゲームを作り出そうとするからです。なんで女子高校生はいつも大人にとって不愉快な文化を創るかというと、彼女たちは大人と絶縁したコードを作ろうとしているからで、絶対に大人が喜ぶ文化を作らない。小学校5年生くらいから、子どもはそういう閉域を作る動物になるのだと考えたほうがいいと思う。いじめも、いろいろな文法を彼らの閉域の中で創出していくから、大人は絶縁越しに何をするか考えないといけない。
2006年11月04日
02:11
にしの
いろいろ考えていたのですが、
関連でこんなイヤナニュースを見つけてしまいました。
http://www.hokkaido-np.co.jp/Php/kiji.php3?&d=20061022&j=0022&k=200610220665
「通夜の席では、笑いながら…」

本当ならなにか壊れてますね。部外者が考えてどうこうという問題で無い気がしてきました。
2006年11月04日
10:35
中学生ぐらいの頃って、自殺願望はなくても、
『死』というイベントを強く意識するころなのだと思います。
自分が死んだら、誰が悲しんでくれるのだろうと想像し出す。

小学校低学年までは死なんて向こう側のあまり意識できないことで、高学年から、祖父母の死に直面したりと、死というものを相対化しだすのだと思います。でもあくまでもファンタジーで、実際死ぬとどうなるのかなんてまだわからない。

高校生の頃、すっごいナルシストの嫌なヤツがいて、
「僕の夢は好きな人と雪の中で死ぬコトなんだ〜」なんて口にしたり、行動も幼児的で、嫌ってる子達もいたけど本人はいじめられてるとか自覚はなかった。自分はスターだと思っていました。
しかし、それからの彼の人生は壮絶なものがありました。
陸上の代表でもあった彼の足に骨肉腫ができ、
初めは膝の骨をけずり、膝から下を切断、腿から下も切断、
最後は肺に転移して亡くなったのだけど、病と戦っている様子や、ポジティブさは尊敬に値するものがあったし、お葬式での母親の半狂乱ぶりを見て、絶対に親より先も死んではダメだと思った。
そうやって彼は自分の身を呈して我らに多くのコトを教えてくれた。

「死」のイメージが希薄になっているというのはあると思う。
テレビゲームなどもあるだろうけど、
探偵少年コナンなどのアニメも、毎週人が死んで、その殺人事件をクールに淡々と解決する。謎解きの面白さはあるし、出来は悪くないアニメーションだけど。。もう10年ぐらいずっとやってるってどうなの?と思います。 それに被害者として死ぬ人の背景よりも、殺人者のいいわけのほうが前面に描かれている。
人の死をあんなに軽やかに扱ってはいけないのじゃないかと思う。
昔は力石の葬式が行われたくらい、キャラクターであっても死は重いものとして受け止められていたのではないだろうか。
もちろん何か一つのものの所為ではないし、糾弾すべきではないと思うけど。。
2006年11月04日
10:56
H.耕馬
アニメと死の話をすると、何年か前にunxiさんと話した「ドラゴンボール」がいかんよね。
死んだ後も、アッチ行ったりコッチ来たりするし。
2006年11月04日
11:15
MATANGO
>自分が傷つけた相手に、それゆえに敵意や嫌悪を抱く
よくいっしょに仕事をするちょっと年下のものがいて、やりすぎたりやらなすぎたり、どうもピントの狂ったことをするので、そんな時、すぐにそれとわかる皮肉を言っていじめています。

...ところが、皮肉を言われているとわかっているはずなのに、また同じようなことを繰り返す。
「おまえごときが、なにプライドもってんだよう!強情なやつ...」ということで、また猛烈にいじめたくなるのですが、そこはまあオトナなのでグッとこらえて...。

本人がいないでサケをのんだりするときは、よくそいつの悪口大会になって、そこで思いのたけをブチまけています...。

また、仕事以外ならごく面白いやつなので、普段は冗談をいいあって楽しくすごしています。
仕事さえしてくれなければ....。

...こう考えてみると、「いじめたくなるけれど、どこかで寸止めする」、「別の面でそいつのいいところを認め、つきあう」というのは、なかなかに高等ワザで、じつにオトナにとってもむずかしい...。

中学生くらいなら、たとえ偽善でも「差別はいけないと思います!」という方向で固めたほうがいいのではないかと...。
2006年11月04日
13:38
安斎利洋
僕は、いまの子どもが死を軽視している、というような問題じゃないと思いますよ。

人間は、自分の属する集合にいない人間が死ぬことに、死のリアリティを感じないでしょう。だから、明日ブッシュが死ぬことを想像してみたとき、ちょっとうれしいかもしれないし、嫌いな上司が死んでも悲しくない。暴走族が目の前を走り去るとき、あのバイクが事故ってあいつら死なないかな、と期待したりする。彼らの顔に自分の息子の顔が重なった瞬間にはじめて、死は想像を絶する悲劇に転調するんです。

人間は羊をわが子のように可愛がることも、食うこともできる。同じように、人間は人間をわが子のように可愛がることも、殺すこともできるわけです。ほんの最近まで、障害者の身内を殺害した家族の罪は軽かったし、部落民の殺害を黙認する風潮さえあった。だから、生死観の問題はまったく関係なくて、問題はなぜ特定の人間を心の理論の外に配置できるか、ということ。

自分がいじめる集団の中にいることを想像して、その内部から観測した風景や感情を仮想体験することからはじめてみると、いじめの対象が人間として取るに足りない悪であるという虚構は、自分もはまりうる罠として想像範囲内にあるんじゃないでしょうか。その異常性をメタ認知するプログラムを考えるべきです。

仕事の仲間や上司や為政者など、避けがたく自分の生活にリンクした相手への嫌悪は、これは別の問題。いじめは、ネコが不必要にねずみを殺すように、自分の方から嫌悪し「いじる」対象にリンクをつないで、離さないこと。その心理の仕組に、メスを入れるべきじゃないか。
2006年11月04日
16:05
あ っ こ
>自分の方から嫌悪し「いじる」対象にリンクをつないで、離さないこと。その心理の仕組に、メスを入れるべきじゃないか。

自分のほうから好意を抱き「愛情をそそぐ」対象にリンクをつないで離さないこと。

ってのも成立する??よね

仮説として思うに・・
人の心理って脳みその中ですごく似ている信号を受信するときは実は同じコードを走らせて処理しているのかも・・・・

問題は同じ仕掛けにはまると正反対の現象が発現しているのに制御が難しい・・現象として「正」なら分析できるのに「負」だと分析する方法すら失うとか・・・それは文化的にってことだけど・

正反対の信号も同じ領野で受け取っている例は結構あるでしょう。微細なノイズによってわずかにないかのスイッチが入る・・・とか

わかんね〜こと言ってます すみません

2006年11月04日
17:38
「『今』の子供が」
ととりたてて言うのはたしかに何ら問題の解決にならないわけですが、社会なのか、子供なのか何かの変質が起きていることは確かなのだと思う。私がいいたかったことは子供というものは不安定だということです。一面、それはあっこさんの言うように、ちょっとしたきっかけで良い方向へ転換させることもできると思う。


現実的にはいじめが起きた時にそのことに対処する
(逃れる、あるいは対抗する、いじめを辞める)
ことをどうするかということだと思いますが、
予測とか、もし、したらこうなるとか、
そういう「状況」を想像する鍛錬は欠けているのかもしれない。

見本を示すとそれを踏襲することはウマいのかもしれない。
2006年11月04日
23:10
安斎利洋
>自分のほうから好意を抱き「愛情をそそぐ」対象にリンクをつないで離さないこと。

それは愛情とストーカーは同じ、って話ですね。自分がだんだんストーカーになっちゃうラブソングを歌ってる女優がいまして、爆笑もんで、そしてちょっと悲しいんですが、名前を忘れた。

エゴと献身は紙一重で(紙なら一枚だ)、だからエゴを個でなく遺伝子に求めようよいうのがニコラス・ハンフリーなどの立場だと思うんですが、自分の共感できない人たちを理解するためにも、心理を進化的にとらえるのは有効だと思う。なんのためにいじめが発生するのかを考えると、なにか発見できるんじゃないか。

あくまで僕の仮説ですが、いじめの原型はなにか進化の要請があるんじゃないか。集団を結束させるために血祭りにあげる生贄を、集団は必要としたんじゃないか。

たとえばチンピラは、生まれついて悪い人間が集まって社会を作っているわけじゃなくて、ごく普通の人がチンピラ社会に属し続けるために悪事を続けなくてはならない。

陰湿ないじめも、陰湿なやつがやっているわけじゃなくて、陰湿な所属集団を維持するためにやってるんじゃないか。それ以外に結束の理由がないし、結束が始まると、いじめられる側に回らないためにマジョリティに属しようとする。

たいていの社会はそうやって無根拠に組織化しているだけだから、ある確率でいじめられる人間や、悪人が出るような法を作ろうとするのではないか。

あくまで仮説です。
2006年11月04日
23:29
MATANGO
>リンクをつないで、離さないこと
ああ、そうかもしれません。
いじめる自分は、いじめるアイツをどうしても必要としている...。

それを動物にまでさかのぼるとどうなのかは、よくわからないのですが、とりあえず中学生はどうなのか、ちょっとダイブしてみました...。

...う〜ん、薄暗くてよく見えないんですが、やっぱり「いじめ」ってのは、「自分は何か」というのを確認したい感情・行動じゃないのか...。

...「ダセー」「キモイ」「トロくせー」などなど、「自分であってはならないこと」をハッキリさせて、自分から切り離そうとしてる...。
薄暗い底にいるかつてもわしも、必死にもがいている...。
あれ?いっちょうまえにオシャレなんかもしはじめてる...。

「自分が何か」といっても、これは自分が将来どういう進路に進むとか、どんな職業につくかてなことじゃない。
そんなことなら、ひな型はどこにでもあるし、「とりあえずサラリーマンかなあ」とか、そんなことを思っておけばすむ。

そんなことよりもっと根源的な根本的な.....なんというか、言葉にならないんですが...。
...ああ、よく見えなくなってしまった...。

...わしもよう思い出せませんし、人によっても違うでしょうが、それはもっと小さい頃のように「自分とほか」というような漠然としたものではなくて、「自分と社会」というような広がりを持ってたような気がする。

「世の中なにが正しくて、なにが悪いのか?」、ま、「なにがカッコよくて、なにがカッコ悪いのか」でもあるんですが...それをハッキリさせたい。

...というより、世の中か実際どうなのか、まだよく知らないので、とりあえず、自分がどこまで通用するのか、わけわからないながらやってみていた...ってところかな?

いじめた中学生は、いじめ殺した生徒の棺桶をのぞいて、「笑っていた」ということですが、わしもその立場なら、もしかしてやっていたかもしれない。

それがいいのか悪いのか、そんなことは知ったことではない(...というか、実際知らないんですが...)。
自分は自分のすなおな気持にしたがったまで。
それが悪いといって殺すんなら殺してみろ!....そのくらいの、わけのわからない反逆心を持ってたような気がしています...。

ま、薄暗くてよく見えないんではありますが....。
2006年11月05日
01:04
たんぎー
 私は疑っているのですが…。学校はそもそも「メタ認知」を助長するのには気乗りしないんじゃないでしょうか。

 例えば世界史というのは日本史をメタ認知するための道具でもあったはずですが、今回の騒動で必修化は見直される可能性がある。それなら学校側も大歓迎でしょう。

 また、自殺を招いた学級の担任は自らいじめシステムを導入していた。そうなったらそれをメタ認知することは反体制的な行為です。教師の責任は問われていますが、生徒が反抗するべきだったとは誰もいいませんよね。
2006年11月05日
02:58
安斎利洋
>学校はそもそも「メタ認知」を助長するのには気乗りしないんじゃないでしょうか。

教育基本法改正案に正義を重んじる人間を育てる、のような項目がありましたが、正義とはなにかを考える懐疑的な人間を育てる、という項目はないでしょうね。なんでも鵜呑みにする、純真で疑いのない子が好まれるようです。
2006年11月05日
04:28
あ っ こ
>あくまで僕の仮説ですが、いじめの原型はなにか進化の要請があるんじゃないか。集団を結束させるために血祭りにあげる生贄を、集団は必要としたんじゃないか。

集団を維持するための一種のエネルギーのような役割をはたすのが「価値感(正義という項目もあります)」であるというさらなる仮定をたててみる。
とすれば、「価値感」的なものを与えることはイジメの解決の処方箋にはならずむしろ長期的には火に油を注ぐ結果にもなりかねないということではないでしょうか?
価値感は多様であっるからよいもので(正義にもじつは種類がある)、その特質から学校などの現場で教えること自体が不可能なもののように思えます。
ものを見る目(分析力や批判力)を養うなかで自ら編み出すものが価値感なはずで、突然与えられるものではなく。
現在議論になっている教育改革も改悪の匂いがする。

>>エゴと献身は紙一重で(紙なら一枚だ)、だからエゴを個でなく遺伝子に求めようよいうのがニコラス・ハンフリーなどの立場だと思うんですが、自分の共感できない人たちを理解するためにも、心理を進化的にとらえるのは有効だと思う。なんのためにいじめが発生するのかを考えると、なにか発見できるんじゃないか。

心理を進化的に捉えようとする場合、環境要因をまず考えますが、この場合おそらくそれは現在までの経済システムの「進化」や「発展」もその一因と考えてよいのではないかと思います。
一例としては、価値感は多様化したにもかかわらず、実際に多様な価値感を享受しうる人数はさほど多くない現実など、いわば社会を取り巻く外側と内側の激しい温度差などです。
(景気が回復したと報道はありますが実際の消費性行は決して伸びていません。)

いわば激酸の海に投げ込まれた人類はどう進化するのか?とい見方もでき、すごい生き物になっちゃうのかも・・・(生き延びるためにイジメつづける生き物?)

いやしかし獲得した結果なのか喪失した結果なのかわかりません。
2006年11月05日
08:42
H.耕馬
>ものを見る目(分析力や批判力)を養うなかで自ら編み出すものが価値感なはずで

学生さんと話していて感じるのは、YESでもNOでも無い質問を出すと固まってしまう者が多い事。なんか必死に2値に帰着させよとするみたい。

>「価値感」的なものを与えることはイジメの解決の処方箋にはならずむしろ長期的には火に油を注ぐ結果にもなりかねないということではないでしょうか?

って言うか、今までも、今でも、教育は価値観を押し付け続けているんでは無いでしょうか?
安斎みたいな精神的な不良が、「それってちょっと変なんじゃ無い」ってのを封じ込めた方が、教えやすいし教師は楽だもの。

>「世の中なにが正しくて、なにが悪いのか?」、ま、「なにがカッコよくて、なにがカッコ悪いのか」でもあるんですが...それをハッキリさせたい。

中高生位の年頃って、正義感が醸成される時期だと思うのですが、実際の世間は正義と悪はそれほどキチンと分離していない。むしろ正義が悪と表裏一体(別の見方をすれば「正義」も「悪」に)だったり、正義にも段階とかレベルがあったりする。

イジメってひょっとして
「正義感のロールプレイング」じゃ無いんでしょうか?

みんなでよってたかって、「アイツは悪だ」と決める。その理由は何でも良いのですが、「自分たちとは行動規範が違う」という要素がある。
つまり、自分たちは「善」であり「正義」だから、自分たちの行動は正しいハズである。それと合わない変な行動を取るヤツは「正義では無い→悪である」。自分たちは社会正義を実行するために、悪を駆逐しなくてはならない。手段はどうでも良いから、悪を自分たちの周りから駆逐するために実力行使に出よう。
何をするか?ヤツは悪だから、ここから出て行きたくなるようなイヤガラセをすれば良い。無視をして口をきかなければ孤立して出て行くのでは無いか?もしも追い詰められて死んだらどうするか?それは我々の結束と行動の勝利である。

かれらはイジメを行っている時に、悪を無くし善を広めるための「正しい行動をしている」と考えているかも知れない。社会を善だけで満たすという正義感のために。
2006年11月05日
09:02
H.耕馬
昔は、今は、って話をすると、また安斎さんから「そりゃ別問題」って言われそうだけど、、、
昔の世の中って、もっと余裕があった、ってかいい加減さが許されていたと思うんですね。

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=260126596&owner_id=191536
マイミクさんの日記ですが、嫌煙運動は昔からあったわけですが、昔はこんなに盛り上がっていなかったと思うのです。でも今は、「喫煙は社会悪」という事にされて、公園で吸っていても煙が喫煙者に流れるだけでクレームを入れられる。これはやりすぎだよね。

今は喫煙者がある程度多いから何とかなっていますが、これが全体の10%を切ったらイジメにならないと言い切れません。イジメる側は、(曖昧な)医学的な根拠というやつを振りかざして、社会正義を行使するわけです。

何か正と負を区別したいってか、○○○○教原理主義みたいな空気が蔓延しているんじゃ無いでしょうか?
2006年11月05日
09:49
MATANGO
13歳ころ、ニンゲンの自我は一応の完成をみるのではないか...という心理療法家の話を聞いたことがあります。

なにが完成なのか客観的な基準があるわけではないけれど、いかにも「完成した」というカンジがするという。

...「自分は自分である」というのが固まって、そこからまわりが見られるようになる。
周囲の出来事に対して、自分の立場から判断するようになる。
そこで、オトナもひっくりかえってしまうような、異様にスルドイ洞察力を示したりする...。

「すべてわかった」という気になることもあるらしい...。

その後、「この世はままならない」ということにぶつかって、迷いがはじまるわけでですが...。

...してみると、中学生というのは、われわれオトナより、ずっとラジカルにメタ認知しているかもしれない。

自殺した中学生は、もしかして「見切って」いたのかもしれない。
これから先生きていても、どうせ「以下同様」だろうというようなことを...。
2006年11月05日
12:09
安斎利洋
嫌煙運動がややヒステリックであることは認めるけれど、いじめとは違うんじゃないかな。

喫煙・嫌煙の対立は、あらかじめ二手に分かれていて、しかも同じ空気を共有する制約からはどちらも逃げられない。相手を認めるか認めないかということですが、いじめはマジョリティの一致団結のために、血祭りにあげる対象を作り出すわけで、リンクする必要がないのにいじめ側が執拗にリンクする。一段病根が深い。

いじめは、多様な価値観を共有しよう、なんてことじゃ絶対に解決しないでしょう。そういうことに気づけるくらいなら、はなからいじめに組しないと思うよ。

嫌煙が過剰ヒートしているという室井さんの言い分はわかるけれど、でもなー、うちから100mのところに城北公園があって、一歩一歩近づくごとに空気がおいしくなる感じがするんだけれど、公園に入ったとたんに煙草のにおいが流れてくると、がっかりする。公園でこそ、吸ってほしくないですね。分煙の飲み屋や禁煙のタクシーは、本当に快適。これは、思い込みの問題じゃないよ。
2006年11月05日
12:42
安斎利洋
>イジメってひょっとして
>「正義感のロールプレイング」じゃ無いんでしょうか?

これを読んでピンときたんだけれど、いじめをなくすには、ゲーム盤をなくせばいいんだ。学級をなくせばいいんじゃない?

というより、大学のように授業ごとにクラスを作って、ロールを複合的に使い分けないと生きていけないようにする。

極論だけれど、思考の出発点として、どうでしょう。
2006年11月05日
13:45
あ っ こ
>嫌煙運動がややヒステリックであることは認めるけれど、いじめとは違うんじゃないかな。

論理的には同じですね。問題をややこしくしているのは喫煙は煙を出すだめに明らかに公害的な見え方をするからで・
アメリカ的なイジメ構造の一つの現象だといういいかたができるとおもいます。
健康維持に関心のない人間はエグゼクティブにはなれない!またはエグゼクティブになる資格として禁煙は必須!といった価値で人を排除することは簡単な社会はある。受ける締め付けという次元ではイジメと同じで仮想集団とも言える「ステイタス」の標しになっているのです。全てが多様に屁変化しているのだと思います。日本も少し先へふへばこのように「集団」自体のありようも変わるでしょう。そのかぎりで多様な価値感を視野に入れてることができる環境をどこかでてにいてる必要があるのかとおもうのです。

なぜこう考えるかというと、「イジメはいけない」といってもはじまらないから。

集団が土地や空間を離れてもありうる時代はすでに来ていると言う言い方もできますよね。
今では小学生もネットにアクセスするし。
学校の問題としてだけイジメを考えるとゲーム盤(集団の場)をなくせば解決することは多いかもしれませんが人間のもつ「イジメ」の仕組みに手がとどく議論になるようには思えない。

2006年11月05日
13:47
あ っ こ
別な次元でですが義務教育からクラスが消えるとすごく活性化すると思う。小学生でも勉強好きな人はいるから、そう人には楽しい学校になるね。
2006年11月05日
13:55
MATANGO
「わたしたち(オレら?)」がなんなのかをハッキリさせようとするとき、「そうでないもの」をまずハッキリさせて、それを取り除いていこう...というのが「いじめ」の基本形だとすると、これは、心理をのみこみ遺伝子・進化ものみこんで、生命のもともとのはじまり...というようなことになってくるのかも、と思いました(大風呂敷広げすぎですが...)。

「自分でないものを排除する」...そうしたいと思う...または、そうするというバイアスがいつもかかっている...のは、生命ならではだろう...。

いじめの対象は、じつは誰でもいい。「いじめる要素」がまったくなくてもいいそうですが、これは、「自分でないものを排除する」という強力なバイアスがまずあって、べつに必要がなくても、それが働いてしまうということだろう...。

これが単なるアナロジーなのか、実際の出来事をあらわしてるのかわかりませんが、とりあえず「生命」というので考えてみると...

生命は、「自分とそうでないもの」が分かれていないと成り立たないけれど、でも完全にパッキリ分かれてしまうと、これはかえって生きていけない。

排除するばかりでなくて、ほかのものをとりこむ、環境によって変化していく...というようなことで、「自分とほか」というのを絶えずゆり動かしていかないと死んでしまう。
どこかで「あいまい」にしていかないといけない。

これは、「ひとつの生き物」だけでなく、「生き物の集団」になってもたぶんおなじで、「自分たちではないもの」というのを排除しているだけではなくて、とりこんだり、とりこまれたり、またバラバラになってみたり...ゆらいでいかないといっせいに死滅というようなことが起こる。

...「あいまいでなくなっている」...これがひとつのキーワードかもしれません。

「よくいじめられるヤツ」...これは、うまいこといくならトリックスターの役割をするものだろう。アホだけど面白いやつというような「あいまいさ」を持っていて、そのおかげで集団がうまく動いていったりする...。

中学校というような集団も、「あいまい」なうちはいい。
「勉強の場」なのか「遊びの場」なのか、「スポーツする場」なのか「文化祭やる場」なのか、「いかない場」というようなもの含めて、そのどれでもあるというような...。

中学生というのは、「自分とそうでないもの」を分けるバイアスが、おそろしくかかってる時期なんじゃないか。
「あいまいさ」を認めず、ぴっちり整合性のある「自分の世界」を、放っておけばつくりあげてしまう時期なんじゃないか。

どこでゆらがせるか、というのがきっと必要なんだろうと...。
ながながと失礼しました...。
2006年11月05日
14:35
安斎利洋
>論理的には同じですね。問題をややこしくしているのは喫煙は煙を出すだめに
>明らかに公害的な見え方をするからで

いやそうじゃなくて、論理的には違うんです。あっこさんが言うように、「いじめる」という情動は、きっとほかの脳内活動と同じ領域で起こっていて、「嫌煙」の興奮パターンと「いじめ」の興奮パターンは同じかもしれない。でも論理は違います。

つまり、路上で車と人は平等じゃないから、酔っ払い運転はバツだけれど、酔っ払い歩行者はOKでしょ。喫煙者と嫌煙者も同じように非対称で、喫煙者は生理的物理的には加害者でしかありえない。吸う権利というのは、車で人を轢く権利と同じことになる。

記号的な問題としては似ているけれど、いじめられる側は加害者ではない。加害者に仕立て上げられるんです。「あいつの存在が自分達を不愉快にする」というように、いじめられる側は、作られた加害者として攻撃されはじめる。
2006年11月05日
14:55
たしかに大学に入って楽に感じたけど、
大学の場合は構成人員が多いからなー。

アメリカのハイスクールなどは、選択制のクラスでしょうけど、
それでも映画にいじめの様子などは出てくるし
「キャリー」

ゲーム盤をなくすことにはならないのだと思います。
ロールプレイングゲームで逆の立場をやらせていじめを減らすということは実際行われてもいるようだし、
CAPPという子供を性暴力や誘拐などから守るプログラムと、
そのデモンストレーションをやる団体がありますが、
あのような感じのプログラムを組んで実行するのもありかもしれない。。

「いじめ」という手段が何か生物的な需要をはらんでいるのだとしたら、「いじめ」の欲求なくならないのでしょう。むしろどこかで発散させないかぎり、他のところにフラストレーションのはけ口がゆくのではないのでしょうか?

しかし、「いじめ」でフラストレーションを解消してきた人は、
きっと大人になっても同じことをしていそう。私がどちらかといえば、虐められっ子の側にまわることが多かったのは、集団に組することが嫌いだったというのがあります。いじめをする人の多くは、仲間を多く作ることによって、自分の「人気」のようなものを証明したがる人に多いと思う。。
2006年11月05日
19:03
あ っ こ
>いやそうじゃなくて、論理的には違うんです。

あえて論理的にと表現したのがやや紛らわしかったかもしれません。すみません。
いいたかったことは「権利」論争の裏にももう一つのワナがあるかもということです。

極限的な切り口をもちだすと、公害で企業を糾弾しても解決を見ない場合が多いけど、同じことなのに個人が煙を吐いて歩行などすれば簡単に断罪できる「しくみ」に問題点を感じます。
もっと言えば吐き出した廃棄物に責任が持てない以上個人の行為としても問題点が軽減されるわけでないことは明白(これについては安斎さんのおっしゃるとおり)。しかし丸腰であるゆえに、人間の「イジメ」的欲求の抜け道(はけぐち?)になっている可能性があると思うのです。
問題はタバコをすっている個人を見たときに「すみません、あ煙い!とっても迷惑★」って言う程度を超えたありったけの「嫌悪」を向けることを可能にしている「仕組み」もまた「イジメ」をとりまく構造ににてはいないかという疑問です。(または、その仕組みに旨く乗じて「イジメ」をすることが可能ということもある。)

その限りで加害者か被害者かの区別すら現代社会においては明確になりにくいということも自覚しておかないと悲しい。人間は構想のいれこの中で営みをしているものだからあえて複雑な要素を疑問点としておいて置こうと思いました。

振り返り私にとって魅力的に思うのはやはり個々の価値基準の育て方で、
付和雷同的な行動様式の群れのなかから「一抜けたができる個人をつくることはできないのか?」という点です。

>記号的な問題としては似ているけれど、いじめられる側は加害者ではない。加害者に仕立て上げられるんです。「あいつの存在が自分達を不愉快にする」というように、いじめられる側は、作られた加害者として攻撃されはじめる。

シンプルにこの問題定義にもどると

「あいつの存在が自分たちを不愉快にする」というのはスイッチではないか。

話によれば、貴族社会ではことのほか「イジメの花」が豪華に咲いたとか。
命を養うために狩に出て、耕して、暮らすためのことは自分でやってという階層でないのでやることといえば「恋愛」と「イジメ」だったのではといううがった見方あります。
「イジメ」とは人が置かれた状況に(環境)に影響されて出現する行動なのでしょうか?

だとすれば、生きるために多忙になればいいのか??

2006年11月06日
03:11
安斎利洋
室井尚さんの喫煙擁護論については、いつかまた別にやりましょう。面白いから。

僕は煙草に関しては特殊な体験をしていて、ちゃんとその善悪についてメタ認知できてないかもしれません。無意識に、喫煙家を睨んだりしてるかもね。

でも、いじめとのバランスで考えるなら、たとえば「あなたの体臭が嫌いだから、ここにいないでください」という例をあげるべきでしょう。逃れられない罠です。喫煙者が感じる疎外感なんて、それに比べれば取るに足らない話だよ、という感覚はぬぐえないな。

ちなみに特殊な体験というのは、肺がんで亡くなった親父の、摘出されたての右側の肺を外科医に見せてもらったんだけれど、要するに数十年間継続して燻製にされた肉なわけ。僕は自分で燻製を作ったりしますが、10分スモークするだけで、魚なんか表面が茶色になります。仮に親父の喫煙暦を40年、一日一箱、一本が10分として、40×365×20=29万2000倍のしっかり燻製なわけ。肺の燻製というより、燻製そのものに肺という前歴がついているような代物。

そのショッキングなビジュアルによって、僕は煙草やめました。
2006年11月06日
03:35
安斎利洋
miyoriさんがいじめられた、というのは、なんかわかる。わかってどうする、と怒られそうだけれど。

昔アルバイトで塾教師をやっていたときに、仲の良かった生徒にYくんというのがいて、彼は学校ではいじめられっこだった。いじめている連中も塾にきていたんだけれど、いじめる奴らのタイプってのもあって、ごく普通の学力で、教師にゴマすったりする退屈な連中だった。逆にYくんは、突出して面白かった。普通だったら連立方程式を使うことを前提にした数学の問題を、四谷大塚のような彼独自のような不思議な解法で解いちゃう。だから学校じゃうまくいかない。Yくんは異端だったけれど、人が良いので、いじめにもよく反応してしまう。だから、どんどんいじられる。

たいてい、いじめる人間は平凡で退屈。いじめられる人間は才能や反応が過剰だったりするものです。

>だとすれば、生きるために多忙になればいいのか??

それは、その通りかもしれない。
2006年11月06日
03:53
安斎利洋
あおい菊さんが引用していたニコラス・ハンフリーの本から、一部OCRでテキストにしました。

「なぜ人々は他の人間を嫌うのか。私たちは自分に害をなしたあるいはなすかもしれない他人を嫌うからというのが明らかな答えだと、あなたは思うかもしれない。しかし、驚くほど異なった答えが名乗り出てくる。私たちは、他の人々を、彼らが何かしたからではなく、私たちが彼らに何をしたかのゆえに嫌う傾向がある。言い換えると、敵意や嫌悪は自己充足的なのである。私たちは、自らの行動の結果として、敵対的な態度を発展させるのであり、おこなうことによって学ぶのである。

 もし私がほかの誰かを傷つければ、その人に対してやさしくする気持ちになるだろうと、あなたは考えるかもしれない。しかし研究、とりわけ子供についての研究は、まるっきり逆のことを示している。ほかの人間を傷つけた子供は、たとえ事故であった場合でさえ、犠牲者の悪いところを考え、要するに、その子がそういう報いを受けるのは当然なのだという理由を考えだす。そして大人は一般にもっと手の込んだ感情をもつが、同じことがいえる。それはまるで、人々が事件の後で、自分自身のおこないを合理化する必要があるかのようである。そして、私たちがいかにしてほかの誰かに危害を及ぼしたかを説明する唯一の方法は、何らかの方法で、彼らはそうなって当然だったのだと自らを説得することである。

 私たちはそれを、盗みに入った家の持ち主を軽蔑する泥棒に見る。私たちはそれを、ヴェトナムにおいて、戦懐をもって見た。そこでは、アメリカ軍兵士がますます多くの農民を殺し、障害者をつくりだすにつれて、彼らに対するますます大きな嫌悪を募らせていったのだ。そしてそれは、国家全体の行動にもまったく同じようにあてはまる。ナチスは、ユダヤ人をその手で苦しめたがゆえにユダヤ人を毛嫌いし、イスラエル人は、パレスチナ人が弱くて貧しいがゆえに憎んでいる。」

(ニコラス・ハンフリー『喪失と獲得』より)
2006年11月06日
09:43
MATANGO
「あいつはキモイ...なぜならキモイから」
...こういう同義反復がおこるとき、ニンゲン、ループにはまって(これも同義反復...)いってしまうのかもしれません。

「あいつはキモイ...なぜならクサイから」
...これだと話が終わってしまう。

...とすると「理由がないほど繰り返す」ことになる。

...「理由なく相手を攻撃した」というようなことが起こったとき、それを合理化して適当な理由を考えつく。
ところが、イラクで典型的なように、適当な理由は適当なだけにどんどん消えていってしまう。
そうすると、「攻撃するから攻撃する」という同義反復のカタチだけが残る。
...こうなると、もうやめられない...。

「なぜいじめるの?」
「だってキモイから」
「どうしてキモイの?」
「だってキモイからキモイからキモイからキモイから....」

...こういう「回転しはじめたコマ」みたいなものを止めるにはどうすればいいのか?
2006年11月06日
14:51
>いじめられた、というのは、なんかわかる。
つっこみどころ満載の子供でしたからね、ランドセルも紺だし。
先生にとってもあまりかわいくない子供でした。

>「回転しはじめたコマ」みたいなものを止めるにはどうすればいい

キモクナイカラキモクナイカラという回路をあげるか、回転しはじめる前に、「なぜいじめるの?」 の「何故」にちゃんと冷静な答えをみつけさせるような仕組みづくりをする。

子供のための暴力を防ぐ、プログラムを実行してるボランティア組織CAP
http://www.cap-j.net/
のプログラムは、どういう場合に暴力に会いやすいか、その場合を想定して、逃げるためのロールプレイングをするというものですが、「いじめ」についてそれを考える場合、
どういう場合、あるいはどのようなプロセスで「いじめ」は発生し、どのように行われるか?を考え、そして、どのように「いじめられる」きっかけがはじまるか?それを回避する方法はあるか。
いじめられている場合に、どうしたら、いじめから遠ざかれるのか? 誰にどういう形で相談するといいか? まわりの先生や大人はどのように対処すれば最も良いか? など幾つも問題点がありますね。。でも少し見えてきた気がします。
細かいところは心理学や教育学のセンセにお任せしないとわからないけど、

週末にニュースショーなどで、タレントで自分も酷いいじめに遭ったという人の話を聞くと大体小学校5年生から苛めの状態が悪化しはじめたと言っていた、私の経験もそうだった。それが生物学的な欲求から来るものだとすると、それくらいの年頃に徒党を組みたくなる年齢なのでしょう。今はもう少し子供の発達が早いので、4年生ぐらいからはじまるのかもしれません。大人を信用しなくなる年齢が以前は中学生ぐらいだったのが、今は小学校へと下がって来ているともいいます。独立欲求が出てくる。反抗心も強くなる。

だとしたら、自分たちが今そういう欲求下にあるのは、一時的なモノなんだという自覚を持たせることなのじゃないかな。

徒党熱は皆でする楽しいコト協力と信頼がないとできないゲームや遊びのプログラムで昇華させる。

一方、虐められっ子や不登校になってしまいそうな子のために、
自信を持たせ、自尊心を回復させ、決して自殺をさせないためのプログラムも作る。

そんな感じですかね。

しかし、これを教育現場ですぐ実行するには、今の先生は
忙しすぎる、そのこともいじめの要因づくりの一つとなってるのかもしれない。joeさんが教員をやっていた間に一年間の休みが年末年始の3日しかとれなかったという話だし、
専門委員と言うと教育委員会の二の舞になってしまいそう。
CAPのような組織ができるといいのかもしれない。
そしてPTAと連携をする。

サイトかなにかで、選択式にしてゲームのような形にするというのもありかも、サブリミナルな感じに、いじめっこやいじめられっこを再教育できるようなそんな仕掛け、何かできないものでしょうか。
2006年11月06日
18:56
それと、いじめる、いじめられるの人だけじゃなく
傍観者は、いじめられている人にとっては、いじめっ子本人に対してより残酷に感じる場合もあるかもしれない。
いじめに耐えている間は案外我慢をしてられるものなのだけど、
本来味方についてくれるはずの人に知らん顔された時に一番絶望感を感じてしまうものかも。

いじめられっ子を抜け出せた人の話を聞くと、
環境が変わったか、本人が何か皆に一目おかれるような存在になったか、何も言えない人だった人ははっきり嫌なものは嫌と口にできるようになったかというのもある。

いじめっ子を抜け出すのは、いじめられっこを抜け出すのより難しいかも。
2006年11月08日
00:14
安斎利洋
小学校5年生(10歳くらい)は、僕の経験からも、ある特異な年齢だと思います。
自分の息子が、抱きついてこなくなったのはこの頃。
自分自身を思い返してみても、小学校5年生のまえとあとでは、記憶の質が違う。
この頃、マスターベーションを覚える。
「子どもは絵の天才」といえるのは、やはり10歳まで。
カンブリアンワークショップをやると、10歳を超えると絵を描かずに文字を書き始める。
2006年11月08日
00:15
安斎利洋
自殺予告の封筒を文科省が緊急公表しましたが、これは難しい賭けですね。

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