安斎利洋の日記全体に公開

2006年10月29日
03:55
 履修漏れとダブルバインド
ある高校の政治経済の授業は、ゲーム理論から入るそうだ。筋として、悪くないと思う。

履修漏れの話にはレトリックがあって、歴史教育を軽視するのは愚かだ、受験偏重は愚かだ、という受け入れやすい論調に乗ると、謹製カリキュラムを侵しがたく絶対化する罠が待っている。つまり履修漏れ問題には、ダブルバインドが隠されている。その点を、なんでマスコミがつつかないのかが不思議。ゲーム理論から入る政経の授業なんて、完全にルール違反っていうことになるわけだ。

必修なんて無視して、教育が受験をベースにして組み立てられるほうがそれよりずっと良くて、何を学べばよいかを決めるのが過去問なら、少なくともそこにはボトムアップの可能性がある。教育のフレームは、入試問題の作り手たちの創意と責任で作られることになる。

入試問題の豊かな国は、教育も豊かだ、ということになるんじゃないか。
 

コメント    

2006年10月29日
04:56
小林龍生
時間とともに記憶が希薄になりつつあるのだけれど、高校時代、ぼくが接した日本史の教師と世界史の教師とは、少し色合いに違いがあったように思う。乱暴に敷衍するとリベラルとコンサーヴァティヴ。
日本史が必修になっていて、同じ状況が発覚したら、事態はどうなっただろう。
2006年10月29日
06:18
Hiro
同感です。
簡潔に言ってもらって、すっきりしました。

「こどもの教育」コミュで、この話をしているので、
この文章を、ちょっと紹介させてもらいたいと思い
ます。
よろしく。
2006年10月29日
07:43
TODO
高校の時の担任が東大卒の日本史教師で世界史は教育大の現役講師だった。この世界史の先生の専門は東洋史でなかでも朝鮮半島史。

当時は半島が騒がしい時代だったのでこの先生も忙しく結局半分も授業がなかった。それでも印象は強烈で今でも半島に関心があるのはそのせいかと思う。

子供のためによかれと思ったと学校側は言うがそうだろうか。
2006年10月29日
10:26
今池荘
だから、授業には出なくても良かったのか。ぼくたちは正しかった^^
2006年10月29日
11:11
godzi2
世界の中で「世界史」という分野を持つのは日本だけという話もある。ほんとかどうか知らんけど。
2006年10月29日
13:03
たんぎー
 「世界史」は80年代にアメリカの高校教育で重視されるようになったみたいですね。現在は科目化されてる。89年に日本の高校で必修化されたのはその影響かも。

 文科省としては「『世界史必修』の見直し」になっても「必修化の徹底」になっても構わない。権力の強化につながるわけだから。つまりこれは権力闘争です。

 でもそれをクローズアップして「文科省VS学校」の構図で報道するのはおかしい。その構図は内紛にすぎないんですから。もちろん各校の校長は「本社」にも「客」にも嘘をついたんだから全員クビが正しい。

 でも今回の事態は文科省への権力集中が招いた混乱だとはっきりさせなくてはなりません。
2006年10月29日
15:06
WAKU
>入試問題の豊かな国は、教育も豊かだ
豊かでも脆い国になるかも。

入試問題って専門分野に関する試験しか無いところも多いですよね。教育にも専門分野に進むための「攻め」の学習と、知らないと損する「守り」の学習、「おまけ」の教養があって、バランスの取れた授業をするのが一般高校の役割だと思うのですが。

で、切ってよい「教養」とやらなきゃいけない「守り」の線引きを誰が決めるのかは、みんな勝手に決めてるわけですね。生徒も教師も学校も国も、ひいては国の中でも公務員の採用試験の線引きはまた違う。そのなかで学校と文部科学省は権限が被っているから権力争いになる。でも線引きの明確化のための材料は、本当は外にあるんでしょうね。その点では合意。
2006年10月29日
19:10
安斎利洋
>日本史が必修になっていて、同じ状況が発覚したら、事態はどうなっただろう

アメリカのある州では、進化論を教えるかどうかがイデオロギーの問題と交差しているらしいけれど、教育はある特定のイデオロギーに偏ることに慎重になるより、科学ですら、ひとつのイデオロギーに過ぎない、と教える超然とした立場に立ってほしい。
なんかこの話、このまえ矢野さんのところで話したことにも通じますね。

>「こどもの教育」コミュ

あとで検索してみます。

>東洋史でなかでも朝鮮半島史

自分の専門に強烈に偏った先生って、あとまで印象深いですよね。

>だから、授業には出なくても良かったのか。ぼくたちは正しかった^^

僕らに卒業証書を出した高校ってさ、いわば公文書偽造だと思うよ。

>世界の中で「世界史」という分野を持つのは日本だけ

>「世界史」は80年代にアメリカの高校教育で重視されるようになった

「世界史」というのは主軸は西洋史ですよね。世界史における網野史学みたいなのって、あるんでしょうか。

>その構図は内紛にすぎないんですから

なーるほど、そういうことですね。

>豊かでも脆い国になるかも。

たぶん、誰がコントロールしても教育には脆さがつきまとうと思うけれど、少なくとも大学の教員が自分達の出題が教育を作っている、という意識をもつことによってなにかが変わるような気がする。ある作家のテキストが現国に出ると、その作家の本が売れる、みたいなことはあるわけです。だから、どこかの大学が現代史の知識を必要とする問題をひとつ出すだけで、現代史をおさえておかねば、という予備校や高校が増える。
2006年10月29日
19:15
Hiro
あ、URLを書いておけばよかったですね。
すみません。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=11858025&comm_id=12801
2006年10月29日
20:37
うさだ♪うさこ
>世界史における網野史学

ちょっと違うけど、阿部謹也さんとか、面白いですよね。
ハーメルンの笛吹き男。
ア、話がずれたかも。

2006年10月29日
21:24
小林龍生
ぼく自身は読んでいないけれど、フランスのアナール学派(代表作は、ブローデルの『地中海』(藤原書店))が近いかも。
網野史学と阿部史学には、ぼくも同質のものを感じます。要は、「神は細部にやどる」でもって徹底的に実証研究を突き詰めて、その先に懐の深い歴史観が見えてくる、といった。
網野善彦の圧巻は、ふすまの下張りから商家の取り引き記録を見つけ出し、その調査を梃子にして、《百姓≠農民≠貧困》といった従来のステロティピカルな歴史認識をひっくり返すところにあると思うのだけれど、阿部謹也の『ハーメルンの笛吹き男』も、ドイツの図書館で見つけた古文書が根底にあるそうな。
ぼく的には、『中世を旅する人々』に出てくる、オカリナとライエルにギルドがなかったという話と、シューベルトの『冬の旅』最終局の辻音楽師との符合にものすごくショックを受けたことがある。以後、冬の旅の聴き方が一変した。
ところで、こんなことをいくら知っていても、入試の役には立たないよなあ。
2006年10月29日
23:08
うさだ♪うさこ
阿部謹也さんは、私が高校生くらいのころ、「ハーメルンの笛吹き男」で大変影響を受けました。
網野さんは、私が大学で日本史学専攻だったころじゃないかと思うけど、「無縁・公界・楽」が出たんじゃなかったかなあ、あいまいな記憶ですけど。
どちらの先生も、なぜか中世史なんですよね。そして、民俗学的な研究方法を取り入れていて。
あと、宮田登さんという、いまでいう都市民俗学のはしりみたいな方も、そのころ話題でした。

で、高校で必修の履修漏れがあったって話でしたよね。

これ、なぜいまのタイミングでいきなり問題にされるのだろうか、というのがまず一番疑問。小学校での英語必修化をいきなり白紙に戻そうという話とともに、たいへん疑問です (英語必修化がよいと思っているわけでもないのですが、いずれにしても、中央官庁とか政党とか、そういう現場とかかわりのない「お上」の都合が変わったってこと、あからさまに示されているのに、それに対してはまったく突込みがないってところが気に入らない)。
どちらも、現場や生徒にはすごく迷惑な話だと思います。
2006年10月30日
00:51
たんぎー
 「世界史」はどの国でもあくまで教育現場での科目でしかないみたいですね。アメリカの高校では「アメリカ以外の世界にも歴史がある」として説明されるようです。フランスの高校では「世界史」というものはなく、フランスとの関わりだけが教えられるそうな。ただ、乏しい情報から判断するとアメリカでは日本より生活史を重視しているらしい。

 フランスのアナール学派が重視したのがヨーロッパ中世です。網野善彦らはアナール学派の影響を大きく受けて日本史にその手法を応用したとされます。また、職能集団やアジール研究などへの注目はまんまアナール学派と重なります。
2006年10月30日
01:25
godzi2
すみません、質問!

>アメリカの高校では「アメリカ以外の世界にも歴史がある」として説明される

ってのは、私ら考えると当たり前のことなんですけど、あちらの高校生はそういうことわざわざ習わないと分からないほどバカなんでしょうか?
それと、そんなこと教えるためにわざわざ科目が必要なんでしょうか?

いずれにしても「歴史」の捉え方が、いろんな国で異なってるんだろうな、ということは分かりました。
押忍!
2006年10月30日
01:43
安斎利洋
>あちらの高校生はそういうことわざわざ習わないと分からないほどバカなんでしょうか?

あちらの大統領はそういうことわざわざ習わないと分からないほどバカです。
2006年10月30日
02:21
eiko
> 入試問題の豊かな国は、教育も豊かだ、ということになるんじゃないか。

多様が共存する社会であれちゅうことですね。それがとても高度で難しいことを世界史が教えてくれるような気がします。

ふと。国家とは何かをなんと教わったか思い出せない。生徒の記憶力はこんなものだよー。何を必修にしても :-)
2006年10月30日
07:53
Hiro
>>あちらの高校生はそういうことわざわざ習わないと分から
>>ないほどバカなんでしょうか?
>
>あちらの大統領はそういうことわざわざ習わないと分から
>ないほどバカです。

大笑いさせて頂きました。

でも、アメリカの一般大衆は、ヨーロッパとか
日本の歴史の重さにコンプレックスを持ってる
んだなと、話していて感じることもありますよ
ね。
2006年10月30日
21:45
中村理恵子
あーん長くなりそう。

小林さんの↓
>網野善彦の圧巻は、ふすまの下張りから商家の取り引き記録を見つけ出し、その調査を梃子にして、《百姓≠農民≠貧困》といった従来のステロティピカルな歴史認識をひっくり返すところにあると思うのだけれど、


うん。
中央に残っている公文書だけに帰依してきたそれまでの自分を含めた歴史観がガラガラと崩れ去る圧巻シーンですよね!
その頃の網野さんは、ぶつくさいいながら先輩が集めまくった資料や地方の旧家から借りまくった資料を、なぜか返却させられる旅にでた。ぶつくさぶつくさ,,,腐りながらね。
(食えねぇし、マルクスの思想やその運動にもついていけない閉塞した時期だったようですね。)

「なんで俺がこんなドサまわりよ。」って気分じゃなかったのかな?想像だけど。

しかし、自分の足で日本の多くの海岸線;漁村を歩いてみれば、なんと発見の多いことよ。
直接学術的大発見な歩数は稼げないけど、資料を返しついでに新たな資料をみせてもらったり、話を聞いたり、まず日本の歴史の行間を認識したんじゃないかな。

公文書の高価な紙(和紙)と墨を使って、難しい文言を連ねる作業の中身は、主に税の徴収と、その頭数の把握だとあらためて認識しただろうし。

これから抜け落ちた膨大な資料を丹念に掬い上げて、それを消化したり棚上げしたまま持ちこたえる知的な体力をおおいに養ったんだと思いますよ。

そして必然的な偶然を引き寄せる運もね。
これが、金沢?いや能登かなの、廻船業を大きく営んでいた旧家のした張り発見につながったんでしたよね。
網野さんは歴史学者だから、本来は、文献や資料をどれだけ深く読み解くか?その積み上げの才と能力が問われる分野なんでしょ?

しかし、民俗学者や民族学者(あ、文化人類学者が新しい言い方ですか)は、なにしろ物や、事や人といった”ブツ”取りを嬉々としてやるっていう印象。

民俗学の宮本常一なんてひとは、本当に足で稼ぎまくった人。
それを嬉々として当然のごとく。

しかしきっと歴史を丁寧にやるんだとすれば、文献読み解き、事実を足で探り当てという作業が拮抗するのが一番いいのだと思う、と網野さんも宮本さんも痛烈に思っていて、とてもじゃないけど一人じゃ身がもたないでしょ。パーマン2号、3号がほしぃーって。

歴史って、確かに今わたしたちが立ってる同じ地面で起こったことなのに、こんなにくたくたになるくらい正確なところを露にするのが大変。
すぐチリやホコリが覆うからさ。

あれ?なんの話だったっけ。

2006年10月30日
21:57
中村理恵子
短く、結論。

いずれにしても、彼らのような大変な知性がなぜ歴史や過去の時の流れの中にこんな惹きこまれたか?

わたしの想像は、こうです。

足を揃えて、前になるべく大きく跳ぼうとしても思うようにいかない。
しかし、軸足を仕切り線に置いて片方の足を少し後ろにひいてから「そーれ!」とやると大きな一歩が得られる。

歴史民俗人類学をやるってのは、後ろに引いて「そーれ!」から踏み出す未来への一歩につながるから彼らは、面白くて面白くてしようがなかったんじゃないないかな。

その事実を、14歳とか16歳の人にも必須だ、教えないで未来に大きく羽ばたけというのは、「失速して死ね。」といってるのと同じだとわれわれ含めた大人が認識するかしないか?
かな。
2006年10月30日
22:30
安斎利洋
僕は(同級生の今池荘もそうだけど)、高校で歴史も数学も物理も勉強した覚えがない。みんな、卒業してから友人や古書店や映画をきっかけで見つけた「襖の下張り」から得た知識。

四畳半襖の下張、ってのもありましたね、みんなで回し読みしたものです。

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